歴史の世界

メソポタミア文明:ウルクの大杯に学ぶ④(聖婚儀礼・王)

前回の記事「メソポタミア文明:ウルクの大杯に学ぶ③(神)」から引き続いて書く。

今回も前回同様に小林登志子著『シュメル――人類最古の文明』と前川和也編著『図説メソポタミア文明』に頼って書く。

前回に引き続き、今回も上段のシーンに焦点を当てながら「ウルクの大杯」全体の図像の意味について書く。

聖婚儀礼

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出典:図説メソポタミア文明/p9


「大杯」の図像をゆっくり眺めてきたが、それでは図像全体でなにを表しているのだろうか。[中略]

下段と中段に表された場面を踏まえると、上段は都市国家の王が豊穣を祈願あるいは感謝する場面であることは間違いないが、さらに踏み込んで王と女神官による「聖婚儀礼」が表されているとも解釈され、「大杯」の図像はその最古の例になると考えられる。

「聖婚儀礼」は男女の交合により、混沌から秩序を回復し、不毛を豊穣に変えることなどを意味する。シュメルだけの特異な儀礼ではなく、世界中で広く見られる。シュメルでは女神官と王が「聖婚儀礼」をおこない、豊穣がもたらされると考えられていた。

「聖婚儀礼」は元旦におこなわれていた。元日の持つ意味は現代日本では薄れてしまい、単に一年の最初の休日となってしまっているが、シュメルのみならず古代社会では元日は宇宙のはじまりに重ね合わされる日、つまり新しい生の循環が始まる日であった。

出典:シュメル/p75-76


ウルクの大杯」はなにを示しているのか。「聖婚」儀礼が描かれているとする研究者もいる。前三千年紀はじめには、イナンナ女神とドゥムジ神のあいだの「聖婚」儀礼が国家祭儀にまで高められていたらしい。当時の文献テキストによれば、ドゥムジの役割を演じる支配者がイナンナ神殿をおとずれて、カップルはおそらく性的合一をとげる。

前3000年頃のウルクにおいて、のちのテキストにみえるような「聖婚」儀礼がすでに成立していたかどうか、はっきりしない。けれども、「ウルクの大杯」に豊穣を祝う儀礼が描かれていることを、疑うことはできない。支配者は、耕地や牧地の生産物をイナンナに届け、イナンナはこれを祝福し、また次農業サイクルにおける支配者の役割を保護する。

古代メソポタミアとりわけ前二千年紀までの宗教イデオロギーでは、支配者は上によって選ばれる。彼は、この世を管理、支配するためのさまざまの手立てを、神から与えられる。そのことが、「ウルクの大杯」によって図像化されたのである。「ウルクの大杯」において、神の命令のもと、生産、消費体制を管理するために、王が生まれ、国家組織が確立されたことが、はじめてあざやかに語られた。

出典:図説メソポタミア文明/p10

「大杯」が表すものは諸説あるらしいが、「聖婚儀礼」だということで話をすすめる。

まず、豊穣を祈願あるいは感謝するために農作物を都市神イナンナに献上するという宗教的意味がある。

もう一つ、こちらのほうが重要だと思うが、女神官が都市神イナンナ、王がドゥムジ(牧神)の役割を果たして、神と王が一体であるというデモンストレーションをおこなうという政治的意味がある。

支配者・王

ウルクの大杯」がいつ制作されたかについては、『シュメル』と『図説メソポタミア文明』では意見が分かれる。

『図説メソポタミア文明』では、「考古学編年でいうジェムデト・ナスル期(紀元前3000年頃)に制作されたらしい。」としている。(p6)

『シュメル』では、ジェムデト・ナスル期の宝物庫から発見された「大杯」は「かつては大切に使用されていたらしく、補修の痕跡があったことから、前の時代であるウルク文化期(前3500-3100年頃)後期に作られたようだ」としている。(p54-55)

このブログで何度も紹介している参考図書の『都市の起源』*1では「ウルク後期に帰属する」としている(p145)。

ウルク期の支配層の形成については、別の記事「メソポタミア文明:文明誕生直後の神殿の役割」の節「文明誕生直後(ウルク期後期)の神殿の役割」で触れたが、簡単に言うと、支配化はウバイド期末期よりはじまり、初めは神殿の祭司あるいは神官に権力が集中したが、ウルク期後期になると、世俗の支配者が登場するようになった。

やがて、ウルク後期末には、ウルク遺跡の祭祀儀礼に関連した建物に、銅と銀の合金で鋳造された鏃(やじり)が奉納される。この合金鏃は威信財あるいは儀器(祭具)として特別に扱われている。おそらく、ウルク後期には軍事の職能を有する人物の社会的地位がもっとも高くなり、最終意思決定者としてコミュニティを支配するようになっていたのであろう。

出典:小泉龍人/都市の起源/講談社選書メチエ/2016/p177

言うまでもなく、この最終意思決定者が王だ。

ウルク期には、公益活動の活発化にともない、祭司とはことなる世俗的な立場の指導者が登場して、余剰財を集中管理するようになる。都市的な性格の強まるウルク後期までに、交易ネットワークにより集積していく富に支えられながら、世俗的な指導者はコミュニティを統治する合理的な仕組みを思いついた。施政者は、乾燥気候と洪水という厳しい環境で都市的集落を存続させるために、自然現象は神意によるものとして神を頂点に据えた秩序を創り出し、神殿を主役に見せかけて経済を動かすという着想を得た。

つまり、古代西アジアにおいて、ウルク後期ごろに、世俗的な指導者は神と人の間に厳然たる線を引いて、抗うことのできない新たな秩序をつくりあげることで、神の代理として君臨する「勝ち組」になったのである。おそらく施政者は、有り余る富で神に仕える祭司たちを上手く取り込んだり、もしくは自らが祭司の長を兼ねたりして、コミュニティの支配者になったと推測される。

出典:都市の起源/p178-179

  • 「都市的集落」とは都市的な性格を持つ一般集落と都市の中間的な集落のことを指している。著者の造語。



*1:小泉龍人/都市の起源/講談社選書メチエ/2016