灌漑
ナイル川については、「先史⑪ ナイル川下流域 -- エジプト文明の舞台」で書いた。人工灌漑の話をする前にリンク先の知識が必要だ。
詳しくは、リンク先で紹介しているが、ナイル川は1年の中で繰り返す水量の増減が、耕地に養分を与え、塩分や疫病を洗い流してくれる。古代エジプト人はこの自然灌漑というべき自然のサイクルを利用して農業をしていた。
そして、高宮いづみ氏によれば、本格的な人工の灌漑を行ったのは中王国時代に入ってから、というのが有力な説らしい。その灌漑は「貯留式灌漑」と呼ばれ、同じような方法が20世紀中葉まで続けられていた。
貯留死期灌漑は、沖積低地に運河と低い堤を建造することによって、増水時に沖積低地すなわち耕作地に流れ込む水を制御するシステムであった。運河を用いて、増水位が低いときにそのままでは冠水市内農地にも水を引き込み、砂漠縁辺部に近い低湿地から速やかに水を排出して耕地化することができた。堤は、低水位の際に引き込んだ水を長期間とどめておいたり、高水位の際に集落を防御するために役立った。つまり、可能な限り面積の広い沖積低地=耕作地を、増水時の適した期間冠水させて、ナイル川の自然灌漑の効果を増幅もしくは安定化させるシステムだったのである。
また第12王朝アメンエムハト2世の治世から(断続的に?)行われたファイユーム開拓事業でも灌漑が行われた。
書記(官吏)
官吏となるには古王国においては身分・家柄が第一の要件であったが、中王国においては、文字知識を備えていれば誰にでも門は開かれていた。もちろんヒエログリフの習得はきわめて難しく、多大な時間と金とを要したため、誰でもという訳にはいかなかったが、第1中間期に成長してきた都市の住民(手工業者など「中産階級」的な存在、「庶民」ともよばれる)の子弟が多数官吏への道をたどりはじめる。この意味で中王国の国家は「庶民国家」とよばれることがある。書記養成学校での教科書として、最初に編集されたのは「ケミイト」とよばれる教科書で、題の意味は「完全なもの」とも「総括」とも訳されている。後代のラーメス時代の多数のオストラコン[注:メモ程度の文が書いてある遺物*1]から、ポズネ―らの努力によって部分的に復原されているにすぎないが、官吏(書記)に必要なさまざまな知識を初学者に教えることを目的としており、内容は書簡の標準的な書式、慣用的な表現、教訓の抜粋(文字の知識とともに書記としての生活態度をも教えるためのもの)などを収めていた。
出典:杉勇・尾形禎亮(ていすけ)(訳・解説)/エジプト神話集成/ちくま学芸文庫/2016(『筑摩世界文学大系 1 古代オリエント集』(1978年)の「エジプト」の章を文庫化したもの)/p644
引用先によれば、第12王朝時代は書記養成学校というものが存在していた。
また、「古代エジプト文学 - Wikipedia」によれば、古代エジプトの歴史を通じ、「識字率は人口のわずか1%に過ぎなかったと考えられている」。
文学
中王国時代は多くの文学作品が作られた。
中王国時代の文学作品はしばしば政治的なプロパガンダ(宣伝)を目的とするものであったとされる。書記達は王と密接に結びついており、彼らを読者として想定した作品群は王の意向を色濃く滲ませたものとなったとされる。フランスのエジプト学者ポズネールは、第12王朝時代に成立した文学は王の利害と密接に結びつき、政治宣伝を目的としたものであると指摘している
リンク先には代表的な作品が紹介されている。
まとめというか補足・付け足しになってしまった。
ただし補完というには程遠い。