前回は「早期石器時代」について書いた。その続き。
この記事でいうところの「前期新石器時代」は「前7000-前5000年」(9000-7000年前)。宮本一夫氏(2005)*1の時代区分を採用している(前回の記事参照)。
この時期に、食料の割合において栽培穀物の比重が高くなり、文化の跡が詳しく分かる遺跡が各地に見られるようになる*2。
各地に文化圏が形成される
前6000年頃になると、以下のように文化圏が揃ってくる。
前6000年文化圏分布*3
上の地図の他に長江下流に跨湖橋文化という文化があるそうだが、よく分からない。さらにこの文化の前に上山文化というものがあり「中国最古級の文化」だとする記事もあるのだが情報が少ない*4。
黄河流域および遼河流域の遺跡は、基本的に山麓・扇状地・微高地などに形成されている。その理由をまず2つだけ書いておく。
- 2つの河川が黄土を含み氾濫を起こしやすい川で、平地に住居を構えることができなかった。
- この時期は略奪農法(おそらく焼畑農法)*5が主流だったと思われる。ただし、参考文献にはこのような説明は書いていなかった。
加藤瑛二氏は下の論文のまとめで以下のように書かれている。
広域的な黄河流域及び華北平野の山麓部にに位置する古代遺跡には、多くの地域で貝殻が出土しており、遺跡は丘陵地か微高地を選定して立地した傾向にある。このことは、古代遺跡の立地点が内陸立地であり、河川の水系の変化に関連しない高地に立地したことが確認された。特に仰韶期から商代(約7000年~3000年B.C.)の古代遺跡の立地点は現在よりも水位が高く、極めて湖水環境に富んだ環境下に立地したことを示唆している。
時代が下るにつれ水位が下がり、それに伴って住居も下に移った。
裴李崗文化と磁山文化は、多くの共通点が認められ、磁山=裴李崗文化、または裴李崗=磁山文化とも称される*6。その西にある老官台文化も共通性が高い。以上3つの文化の地域は、後代に仰韶文化と呼ばれる一つの文化圏となる。
遼河西部の興隆窪文化は、おそらく黄河流域からの農耕の拡散を受容して農耕は始まっていたのだが、なお狩猟採集が生業としての比重が高かった。*7
これに対し、長江流域にある彭頭山文化の集落は、「平原縁辺部の狭い範囲から始まってしだいに低平地に広がり、やがて広大な洞庭湖を取り巻くネットワークをもつようになったと考えられている」*8。
長江は黄河に比べて氾濫が起きにくかった。湿地帯に散播する散播農法で栽培していたようだ(長江文明 - Wikipedia )。この頃は遺跡では、まだ灌漑農法は発見されていない。
まとめ
小澤正人氏(1999)は前6000-5000年の特質を以下のようにまとめている*9。
華北ではアワを中心とした農耕が行われ、これにブタ・イヌ・ウシといった家畜の飼育、そして狩猟・採集・漁撈などを組み合わせた生業体系が成立している。このような生業体系に伴い石斧、石鍬、石・貝包丁、石鎌といった生産工具の組み合わせが成立する。さらに食物加工具として磨盤・磨棒が広く使われる。
華中では稲作農耕が成立している。牧畜や狩猟・採集などについては資料がなく詳細は不明である。農耕具は石斧と局部打製石器のみで、前期前半の状況と大きな変化はない。ただし木・竹製農具の存在を想定する必要があるかもしれない。
興隆窪(こうりゅうわ)遺跡や彭頭山文化の八十垱遺跡が最古級の環濠集落と言われている。野獣から人間と家畜を守るために造られた。これらの遺跡が長期に亘る住居だということは明らかだ。
またこのような土木作業を行うにはリーダーが必要になるが、この時代の社会は まだ平等社会で首長や上層の特権などは見られない。
そして南北を問わず、住居配置や整然とした集団墓地の存在から一定の規律があったようだ。土器は技術水準が高くないことから集落内の成員が作っていたと考えられている(専業化されていない)。(同上/p57-58)
*1:宮本一夫/中国の歴史01 神話から歴史へ(神話時代・夏王朝)/講談社/2005年/p107-108
*2:宮本氏/p107-108
*3:「Eastern China blank relief map - File:Eastern China blank relief map.svg - Wikimedia Commons」の地図を使用、改変。
wikipediaの諸文化のページを参考にした。
「私見!中国人(漢民族)の歴史 ( 歴史 ) - とりとめなき飲み屋 - Yahoo!ブログ」というブログ記事も参考になった。
*4:参考ページ:浙江省の竜游で青碓新石器時代早期遺跡を発見 | 中国通信社
*5:前回の記事参照
*7:宮本氏/p182-183、劉煒・趙春青・秦文生/図説 中国文明史 1 先史 文明の胎動/創元社/2006(原著は2001年出版)/p72