歴史の世界

中国文明:二里頭文化① 洛陽・中原につながる黄河・淮河・長江

この記事から中国における二里頭文化すなわち最初の国家の誕生について書く。

この記事では、誕生の地である洛陽盆地と黄河淮河・長江の関係について書いていく。

「中原」については文中で書く。

中国本土に張り巡らされた河川

中国の大河は大小の支流が多く持ち、それら支流も支流をもっている場合も多い。そのようにして河川は中国本土に張り巡らされている(歴史の本に載っている地図では中小の支流は描かれていない。淮河すら描かれない地図も多い)。

現代中国でも上のような状況は変わらないが、これは歴代の為政者たちが治水を行った結果だ。先史時代は治水技術が知られていない、あるいは きわめて原始的な方法しか知られていないから、中国本土の東半分の平原は「水浸し」の状態だった。

ここで2つ引用しよう。

現在よりも温暖であった完新世前期のころ、華北平原には湖沼や湿地帯が稠密に分布して、華北の西部と東部との恒常的な交流を妨げる状況が生じていたと考えられる。そのころ黄河中・上流側の黄土地帯と、黄河下流側の山東半島を中心としたいったのそれぞれに、仰韶文化と大汶口文化という独自の新石器文化が生成したことには、そうした地理的背景があったと思われる。

出典:世界歴史体系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003/p7(西江清高氏の筆)

完新世前期のころの状況は長江下流域も同じだったようで、そのせいで農地が広がらなかったと考えられている。

では、もう一つの引用。

古くは黄河下流は、開封市の北方で多くの細流にわかれて、北は北京市から南は徐州市にいたる河北省、山東省の平原に網の目のごとくひろがっていた。これを九河という。そしてこうした多数の分流の形成するデルタを九州と呼んだ。この黄河デルタの南辺は、淮河デルタに重なり、淮河デルタの南辺は長江デルタ(江西省の九江市以東)に重なる。

というわけで、黄河淮河、長江の下流の多くの分流や、それらが形成する多くの湖沼の複雑にからみあった水路を上手に利用すれば、北はいまの河北省、山東省、河南省の平原から、南は江蘇省安徽省、そして浙江省江西省にいたるまで、いいかえれば、黄河杭州湾のあいだの内陸部を小舟によって航行することができるのである。こうした水路に人口の手を加えて運河とすることは、秦の始皇帝の統一とともに行なわれ、隋の再統一ののち煬帝によって営まれた大運河の開通は、そうした水路を体系化したものであった。

出典:岡田英弘中国文明の歴史/講談社現代新書/2004/p30-31

華北は馬、華中・華南は舟、つまり南船北馬。南北で河川または湖沼・湿地帯への考え方が変わる。

いずれにしても、地図に載っていない中小の河川が人々の生活を支えていたことに注意を払わなければいけない。

洛陽盆地

さて、本題に入ろう。

洛陽盆地は、後期新石器時代の文化の区分で言えば、中原龍山文化の中にあった。

「中原」というのは戦国時代における東周の都・洛陽を中心とした一帯のことで現代の河南省一帯を指していた(中原 - Wikipedia )。

中原の中心の洛陽は現代の洛陽市のことで、最初の国家と言われている二里頭遺跡は洛陽市内の東部、偃師市にある。

ここでは洛陽市がある洛陽盆地について書いていこう。

世界史などの地図では洛陽は黄河中流の南岸にあるように描かれているが、実際は黄河と洛陽の間に邙山(ぼうざん)という低い山がある。さらに東に虎牢関、西に函谷関、南に伏牛山と囲まれて盆地になっている。

邙山のおかげで黄河の破壊的な氾濫の被害に遭わなくて済む。邙山は洛陽の北を黄河沿いに走って鄭州あたりまで伸びている。

さて、古来より交通の要衝と言われている。ここで洛陽(盆地)と黄河淮河・長江の関係について書いていこう。

洛陽と黄河

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図1 黄河流域水系略図
出典/駱承政・楽嘉祥主編 『中国大洪水―災害性洪水述要』(中国書店 1996)

出典:ガイダンス - 実施報告 龍と亀 日本の治水術と中国の治水史:里川文化塾│ミツカン 水の文化センター

この地図で重要なのは洛阳(=洛陽)の南にある2つの河川、洛河・伊河だ。洛河・伊河は洛陽盆地内を走る。この合流点の内側に二里頭遺跡がある(洛河・伊河を描いている地図は少ない)。

洛陽が交通の要衝だと書いたが、黄河に関しては以下のようなことが言える。

洛陽盆地よりも西では、その両岸の険しさと急流とで、交通の障碍になるし、また洛陽盆地の東方では、年々の氾濫と水路の変化によって、これまた交通の障碍になる。ただ洛陽から東方、開封にいたる約200キロメートルのあいだだけは、流速は緩く、両岸は低く、水路は安定して、南から北へ、北から南への渡河は容易である。

出典:岡田氏/p32

西方に行きたいのであれば黄河の支流である渭河に沿って黄河の上流に出ることができる。

洛陽と淮河

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出典:宮本一夫/中国の歴史01 神話から歴史へ(神話時代・夏王朝)/講談社/2005年/p138

+後期新石器時代龍山文化期)も同様に東から淮河を通って影響を受けている。

淮河から潁河(えいが)を遡ると周口辺りで3つの分岐するが真ん中が潁河、北に流れるのが賈魯河(かろが)、西に流れるのが沙河で平頂山の手前で北に伸びる支流は北汝河という。

洛陽から淮河に行くためには潁河を下ればいい。

洛陽と長江

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黄河(Yellow)と長江(Yangtze)と漢水(Han)と淮河(Huai)ほか*1

洛陽盆地を南下すると漢水の支流唐河に突き当たる。唐河は白河に接続し、白河が長江に接続する。

つまりこのルートをたどれば長江に出ることができる。

洛陽は交通の要衝

以上のように洛陽からは川筋に沿って、あるいは渡河して四方に行くルートがあり、人々はこのルートを使って往来した。

以上のことについては上で引用した岡田英弘氏の『中国文明の歴史』の第1章の1~3に書いてある。