歴史の世界

中国文明:先史⑦ 新石器時代 その5 中期新石器時代 後編

前回からの続き。

集落の特質

黄河・長江両流域

黄河・長江両流域においての集落の特徴。

集落は環壕(環濠)*1に囲まれていた。主に野獣から集落の成員と家畜を守るためだ。

集落内は一定の規制が守られていた。諸問題はリーダー及び長老などにより決定されていたと思われるが、彼らと一般成員の間に峻別されるほどの差は無い、つまり階層社会というよりも平等社会だった。

階層の兆候が見られるようになるのは中期新石器時代の末期からである。

遼河流域西部:紅山文化

遼河流域西部の紅山文化では上の流域より先に階層分化の兆候が現れる。

まずこの地域固有の墓として積石塚(つみいしづか)がある。この墓は明確な階層分化を表すとされている。またこの地域に属する牛河梁遺跡では玉器を副葬されている積石塚が多く発見されている。玉器は宗教的な意味合いが込められているとのこと。被葬者が(経済的な優位性を示すと言うよりは宗教的権威者であったことを示している*2

さらに紅山文化では集落内の階層化だけではなく、集落間の階層もあったようだ。

牛河梁遺跡群では、積石塚が分布する範囲の北部中央付近の山の斜面から「女神廟」と呼ばれる祭祀用建造物が発見されている。ここでは細長い土坑の中に、壁体と共に動物や人物像の塑像が発見されている。とくに大きな女性の塑像は、この祭祀用建物を「女神廟」と呼ばせた理由にもなっている。「女神廟」と複数の積石塚がセットとなって牛河梁遺跡群が、紅山文化社会の中心的な集落群となっているのである。

すなわち宗教的な裏付けをもって社会的に突出した個人が排出しただけでなく、集落構造においても中心的な存在が出現しているのである。宗教的権威者の墓葬と「女神廟」に見られるような祭祀センター的な存在として牛河梁遺跡が存在し、しかも他集落との集落間格差が出現しているのである。

しかし、その段階の社会構造は、決して世襲による首長制社会に達していたわけではなく、宗教的な行為における個人的な権威者が社会を束ねていたのではないだろうか。

出典:宮本一夫/中国の歴史01 神話から歴史へ(神話時代・夏王朝)/講談社/2005年/p189

「女神廟」に見られるような祭祀センター的な存在とはギョベクリ・テペを想起させる興味深い話だ。

この地域で集落間格差が明確に確立する時期は、二里頭文化が栄える時期である夏家店下層文化になってからとのこと。(p189)

紅山文化をネット検索すると「紅山文化と中国北方文明の起源について(pdf)」*3という論文(?)があるのだが、この論文の筆者の徐子峰氏によれば、玉器の組み合わせや巨大な女神廟・積石塚・祭壇の出現は原始崇拝から原始宗教の段階の移行を示し、さらにこれらの建造の労働力の総量を考えれば、「個別の氏族や集落を超えた上位の社会組織や何らかの文化共同体」があった、もしくは、「事実上、国家的な職能が作用していた」としている。

また、稲端耕一郎氏(2017)は、これらの現象は長城以北の勢力が草原を通って西アジアの文化文明を伝達した証ではないかとしている*4

さらにwikipediaから牛河梁遺跡に関する興味深い仮説を引用しておこう。

2015年1月に合衆国科学アカデミー紀要に発表された中国科学院のXiaoping Yang、合衆国ニューメキシコ大学のLouis A. Scuderiと彼らの共同研究者による内モンゴル自治区東部の渾善達克砂丘地帯の堆積物の検討によれば、従来は過去100万年にわたって砂漠であったと考えられていた同地帯は12,000年前頃から4000年前頃までは豊かな水資源に恵まれており、深い湖沼群や森林が存在したが、約4,200年前頃から始まった気候変動により砂漠化した[10]。このために約4,000年前頃から紅山文化の人々が南方へ移住し、のちの中国文化へと発達した可能性が指摘されている[11]。

[10] Groundwater sapping as the cause of irreversible desertification of Hunshandake Sandy Lands, Inner Mongolia, northern China 合衆国科学アカデミー紀要
[11]New Thoughts on the Impact of Climate Change in Neolithic China Archaeology誌解説記事

出典:紅山文化#遼河文明 - Wikipedia

紅山文化#玉石と精神文化、牛河梁遺跡 - Wikipedia」によれば、牛河梁遺跡を中心とする一帯を「首長国」「王国」と呼ぶ研究者がいるようだ。

また、wikipediaに「遼河文明」というページがあるのだが、上のような事象をもって文明としているようだ。

ただし、「紅山文化 - Wikipedia」の冒頭には、紅山文化は前2900年に終わるとしている。他のネットのサイトでも終わりの時期は前2900年になっている。

西江*5によれば、紅山文化は前3000年に終わり、後継の小河沿文化は紅山文化の特殊な建造物などは継承されなかったという。

また、宮本氏*6によれば、小河沿文化は家畜・牧畜の比重を高めた「牧畜型農耕社会」に変容したとしている。

農業と社会の変遷

ここで宮本一夫氏が下の本で何度も繰り返して書いていることを引用しよう。

すでに述べたように、農耕の開始期とは決して生産性においては高いものが期待できる段階ではなく、あるいは農耕が始まったからといって、すぐに安定した食糧生産が可能になったわけでもない。まさしく農耕の発生とは、更新世から完新世への移行期における、一定の環境域の周縁部における新たな人類の環境適応でしか無かったのである。

出典:宮本一夫/中国の歴史01 神話から歴史へ(神話時代・夏王朝)/講談社/2005年/p173

農耕の開始期には、森林で狩猟採集だけで満腹になれた集落もあれば、森林と草原の境界で両方の食料資源を享受できた集落もある。上の「一定の環境域の周縁部」では、狩猟採集だけでは腹を満たすことができないので苦肉の策として植物栽培を始めた。最初は家庭菜園か内職に近い感覚だったのかもしれない。

少し話がそれるが、「一定の環境域の周縁部」で新しいことが起こるというのは、「人類の誕生」の時もそうだし*7、近代ヨーロッパの誕生もそうだった*8

抽象的な意味では「歴史は繰り返される」と言えなくもない。

さて、話を戻そう。農業と社会の変遷のはなし。

おそらく、初期の農耕に従事した人たちは女性である。これはもともと野生穀物の収穫が女性の主たる仕事であったことの延長であり、栽培化の過程にも女性ならではの細やかさと忍耐強さが必要であったに違いない。

そしてまた、種籾を翌年に遺さないといけないという食料の保存は、すでにそれだけでリスクをもった社会であり、そうしたリスクを集団内で治めまとめる組織的なまとまりが必要であったのである。なにしろ気候不順に際して、種籾を残しながら飢饉の飢えをしのぐのは大変困難であり、集団として統制がとれていなければ、簡単に消費され、さらに集団が瓦解し死滅してしまうからである。

出典:宮本氏/p173

狩猟採集が生業の主力だった時代は種籾の重要性に無理解な人々が多かったに違いない。そのような環境の中では種籾が食われてしまうようなことが多くあったことだろう。

しかし気候変動が起き環境が温暖湿潤化した前6000年以降*9は上のようなリスクは大幅に軽減されたことだろう。栽培植物は飢饉によって途絶されるリスクも軽減され、順調に人類の望む方向に進化した(つまり改良された)だろう。

こうした中で栽培植物の増産と安定的な生産量を背景に、いよいよ本格的な農耕が始められることになった。すなわち「土木作業や狩猟を得意とする男性も、農耕という生産活動に共同して組織的に労働を投下していく段階に」入ってきた*10

黄河流域の畑作(アワ・キビ)農耕では男性は土起こしやその他土木作業を行い*11、長江下流域でも男性が力仕事である犂耕を行ったと思われる*12

こうして、粗放農業から集約農業へ移行が始まって さらに農業が発展していった。

農業の発展は生産高の増加を意味するのだが、増加の幅は各人、各集落において一様ではなく、ここに格差が生じる。この格差は社会階層と集落間の階層を生むことになる。ただし、明確に階層化されるのは後期新石器時代に入ってからのことになる。



*1:黄河は環壕、長江は環濠。水堀をめぐらせた場合に環濠と書き、空堀をめぐらせた場合に環壕と書いて区別することがある。

*2:宮本一夫/中国の歴史01 神話から歴史へ(神話時代・夏王朝)/講談社/2005年/p187-188

*3:2006年に書かれたものの邦訳らしい

*4:出土遺物から見た中国の文明/潮新書/p22-23

*5:世界歴史体系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003/p33、39(西江清高氏の筆)

*6:中国の歴史01 神話から歴史へ(神話時代・夏王朝)/講談社/2005年/第七章 牧畜型農耕社会の出現

*7:人類最古の祖先は疎林から別の疎林へ地面を歩くために二足歩行を始めた。定説ではないかもしれない。

*8:アジアに清・ムガールオスマン帝国という強大な国がある端にヨーロッパがあったのだが、大陸ではなく海に出て大航海時代を経て、アメリカ大陸で金・銀と肥沃な農地を「発見」し、そこから搾り取ったカネをうまく利用した英仏が中心となって近代ヨーロッパを築いた。

*9:前回の記事参照

*10:宮本氏/p174

*11:石鏟(せきさん、スコップのようなもの)が墓に副葬されている(宮本氏/p117)

*12:崧沢文化(前3900-前3200年)の三期(おそらく晩期か末期)に石犂(せきり)が出現する(宮本氏/p147-148)