歴史の世界

近世イングランド史⑨ 「大英帝国」の始まり

大英帝国」の「帝国」は「各地に広大な植民地を持つ」という意味での帝国。ローマ帝国のそれもそういう意味。

ちなみに「神聖ローマ帝国」は古代ローマ帝国を継承しているという意味でそう呼ばれるが、18世紀フランスの哲学者ヴォルテールが,「神聖でも,ローマ的でも,帝国でもない」と評したことは有名、だそうだ。 *1

大ピットの台頭。

イギリス史において「ウィリアム・ピット」は2人いて、大ピットと小ピットと区別される。小ピットはナポレオン戦争の時にでてくるが、ここで登場するのは大ピットのほう。

1708年に大地主の庶民院議員の息子として生まれる。オックスフォード大学トリニティ・カレッジやオランダ・ユトレヒト大学で学んだ後、1735年に庶民院議員選挙に当選して議会入りを果たした。

ホイッグ党に所属したが、当時はホイッグ党優越の時代であり、トーリー党が脅威でなかったため、ホイッグ党内で党派対立があり、ピットもロバート・ウォルポール首相の「軟弱外交」を批判する若手タカ派議員として活躍。やがて庶民院で大きな影響力を持つようになった。1746年にはヘンリー・ペラム首相の求めに応じて、陸軍支払長官に就任し、続く第1次ニューカッスル公爵内閣でも留任したが、処遇に不満を抱き、政権内から政権批判を行うようになったため、1755年に罷免された。

1756年に七年戦争が勃発し、その戦争指導の失敗でニューカッスル公爵内閣が総辞職すると、代わってデヴォンシャー公爵を名目上の首相(第一大蔵卿)、ピットを事実上の首相(南部担当国務大臣)とするデヴォンシャー公爵内閣が成立した。

出典:ウィリアム・ピット (初代チャタム伯爵) - Wikipedia)

名誉革命あたりからイングランド(→イギリス)は着々と国家としての土台を築いてきたが、大英帝国を完成させた男は大ピットである。

歯に衣着せぬ論調で周りとも王とも衝突しては辞職することを繰り返したが、そのたびに呼び出されて要職に就いた。

七年戦争大英帝国誕生のきっかけとなった戦争

七年戦争は、1756年から1763年まで行われた戦争[中略]。

ハプスブルク家オーストリア継承戦争で失ったシュレージエンをプロイセンから奪回しようとしたことが直接の原因であったが、そこに1754年以来の英仏間の植民地競争が加わり世界規模の戦争となった。イギリス・プロイセン側とその他の列強(フランスとオーストリアとロシア、スペイン、スウェーデン)に分かれて……当時の欧州列強が全て参戦しており、戦闘はヨーロッパ以外にも拡大した。

出典:七年戦争 - Wikipedia

この記事では、イギリスに関する部分のみ書くことにする。

この戦争を指導したのが大ピットだ。ピットは愛国者として有権者に大人気で、彼の演説で熱狂して喜んで戦費となる税金を支払った。

ピットの戦略は明確です。海洋重視です。……新大陸とインドこそ、イギリスが大英帝国として飛躍する天王山に定めたのです。 [中略]旧大陸への方針は明確でした。「カネだけ出して血は流さない」介入です。ヨーロッパで墺仏露の三大国そのほか連合軍を相手に孤軍奮闘するフリードリッヒ大王には、申し訳程度の陸軍を援軍として送ります。その代わり、戦争継続が可能なだけの大量の資金援助を決断します。

出典:倉山 満. 嘘だらけの日英近現代史 (SPA!BOOKS) (p.87). 株式会社 扶桑社. Kindle 版.

イギリスはヨーロッパの戦争にはプロイセンを金銭的に支援しただけでほとんど出兵せず、専ら植民地でのフランスのと戦いである北米大陸でのフレンチ=インディアン戦争、インドでのプラッシーの戦いと第三次カーナティック戦争に専念した。イギリスとフランス・スペイン間では同じく1763年2月10日にパリ条約を締結して講和が成立し、イギリスはフランスから広大な植民地を獲得した。

出典:七年戦争<世界史の窓

これでフランスの北米とインドの植民地をほぼ奪うことに成功し、大英帝国と呼ばれるようになった。

このあとに、産業革命アメリカ独立戦争の時代になるのだが、そこらへんは近代史のほうに回そう。近世史はここでおわり。