歴史の世界

【読書ノート】君塚直隆『立憲君主制の現在 日本人は「象徴天皇」を維持できるか』 その5

権力の下方への拡散(続き)

選挙法改正

選挙法改正の話をする前に、そもそもイギリス(イングランド)の歴史の中の選挙とはどのようなものかを確認する必要がある。

貴族院の議員は非公選で終身制。よって選挙法といえば、もっぱら庶民院の話になる。

庶民院は、14世紀には37の州から2名ずつ選ばれる議員と、80の都市から2名ずつ選ばれる議員とに分けられた。1430年には「州選挙区(カウンティ)」における選挙権の規定も定められ、年間40シリング(当時王に仕える弓兵が受け取る80日分の賃金に相当)以上の収入をうむ、土地または地代を持つ自由土地保有者とされた。この規定はなんと400年も変えられなかった。(p61)

そして400年後の1832年に第一次選挙法改正が実現するわけだ。

この頃はフランス革命(1789-1815)の煽りがドーバー海峡を渡って庶民の政治参画運動として現れた頃だった。革命による動乱を避けるべく議論のすえに選挙法改正が成された。

背景と経緯 [中略]1830年にグレイ内閣は初めて選挙法改正を議会に提出した。その法案は、ブルジョワ階級を含む中流階級にまで選挙権を拡大することによって、進行する工業化社会に対応することめざしたが、同時に従来の地主階級の政治支配は維持・強化しようとするものであった。法案は下院を通過したものの、上院(貴族院)で否決されてしまった。
盛り上がる運動 これに対して、ブルジョワ階級は銀行家や産業資本家が結成したバーミンガム政治同盟を中心に運動を展開し、さらに労働者階級にも呼びかけた。労働者も普通選挙権と秘密投票を要求して立ち上がり、上院が法案を否決した事に対し、ブリストルノッティンガム、ダービーなどで暴動を起こした。
上院を黙らせる この状況を前にしてグレイ内閣は、法案通過に必要な上院の過半数を獲得するため新貴族の創設を国王に要請し、国王もそれを認めたので上院もついに屈服した。つねに保守的な上院を黙らせるために、新貴族を創設するというやり方はこの後も続く。

出典:イギリス選挙法の改正/選挙法改正<世界史の窓

選挙法が改正される庶民院が抵抗するのではなく、貴族院がするところが興味深い。そして挙句の果てには彼らの特権が縮小している。さらには国王が既存の貴族を敵に回して選挙法に賛成した。

これにより選挙権は下層中産階級(小売店主層の男性世帯主)まで拡大されることになった。ただし、選挙権を得られなかった労働者階級はこれを受け入れるはずもなく、さらなる改正を要求することになる。(p75)

1830年代後半より労働者階級の政治参画運動(チャーチスト運動)が活発になる。この運動自体は貴族院だけではなく庶民院も反対して下火になるのだが、選挙法改正の動きは断続的に続く。

第二回改正(1867)では都市部の、第三回改正(1884)では地方の労働者階級にまで選挙権は拡大した(ただし男性のみ)。

二大政党制と政治家の変容

第二次選挙法改正が実現してから初めて行われた総選挙(1868年11月)では与党保守党が敗北し、首相のベンジャミン・ディズレーリ(1804-1881)は新しい議会を開かずに、女王の午前に赴いてじいを表明し、第一党となった自由党の党首ウィリアム・グラッドストン(1809-1898)を後継首班に推挙した。イギリスで総選挙の結果が、そのまま政権交代へと直接的に結びついた最初の事例であった。(p76)

庶民院に伝統的にあった派閥、トーリ党とホイッグ党はそれぞれ保守党と自由党となり、この2つが政権交代可能な二大政党制を確立させた。

さらに政治家たちは、庶民対力の請願に対して積極的に審議するようになった(本来、庶民院はそのような場であるのだが、審議で発言する議員は三分の一に満たなかった(p76) )。

そして議員・候補者たちは街頭演説するようになり、私たち現代人が知っているような政治家の姿にかなり近づいていった。

立憲君主制の確立

以上までは、ヴィクトリア女王(在位:1837-1901年)の治世までの話。

こうしてイギリスの立憲君主制は、ヴィクトリア時代が終焉を迎えるまでには完全に定着し、新しい世紀を迎えることとなる(p78)



【読書ノート】君塚直隆『立憲君主制の現在 日本人は「象徴天皇」を維持できるか』 その4

前回からの続き。

議会内閣制の歴史

本書では

内閣の歴史について本書71ページによれば、 「枢密院」(1530年代~)から「内閣評議会」(1630年代~)が切り離され、アン女王(在位1702-14年)の治世に「内閣」の原型が出来上がる、とある。

ただし、「枢密院」より前に「国王評議会」というものがあり、おそらくこれが起源だろう。

「国王評議会」は。英語で「king's court」、ラテン語で「Curia regis」。国王が政治・行政を行うための諮問機関だ。

これができる前は賢人会議で合議されていたらしいが、ノルマン・コンクエストの後に、賢人会議とは別に作られた。

国王評議会から枢密院に名前が変わった時に、実務の何が変わったのかは分からない。

「内閣評議会(Cabinet Council)」という名称を正式に使い始めるのはチャールズ1世(在位:1625–1649年)から。

この名称が使われ始める頃には、枢密院には各方面の専門の部会とその長である大臣という職位があった。部会の部屋が "cabinet"で「小部屋」に由来する。大臣は "minister"は「召使い」。

以上のように、内閣の起源は王の政務のための諮問機関に過ぎなかったが、時代を経て職務内容が肥大化していった(部会が官僚化していったのだろうがそこらへんは調べていない)。

肥大化した結果、王の諮問機関であったこの組織が王から独立する。

この画期となる時代の登場人物がジョージ1世とロバート・ウォルポールだ。

ステュワート朝最後の王アン女王は跡継ぎを残さずに亡くなり、イングランドはドイツ北部のハノーファー選帝侯のジョージ(1世)を迎えることになった(ジョージの母ゾフィーからステュワート朝の血を引く)。

しかしジョージ1世とその次代のジョージ2世はイギリスの国政に関心を持たずに、内閣に任せっきりにした。

この内閣を長期に渡って預かったのがウォルポール政権(1721-42)だ。

[これを機に、]議院内閣制(責任内閣制)が確立されるのである。

内閣を構成する大臣たちは、すべて貴族院庶民院の議員であり、政府の政策はもはや国王にではなく、議会に対して責任を負う時代となっていた。アン女王の時代までは、内閣を招集し、統轄するのも君主の役目であったのが、ウォルポールが国王と議会双方の信任を得ながら20年移譲にわたる長期政権を維持し、それをおえたたらりから、彼が就いていた第一大蔵卿が「首相(Prime Minister)」の役割を果たし、内閣を率いていくという慣習も生まれていったのである。(p73)

これにより政治権力はほぼ議会(=有力者)の手に移った。ただし「責任内閣制」とあるように、政治責任も負うことになる。逆に言えば君主(ここではイングランド国王)は政治責任を負わなくてよいことになる。

ちなみに、戦後直後の日本で敗戦結果を天皇に負わすような議論があったが、それは責任内閣制の基本を無視した議論でしかない(道義的責任を問うのならば、最初にそのように断らなければならない)。

さて、ジョージ2世を継いだジョージ3世(2世の孫)は先代・先々代とは違って積極的に政治に関与した。しかし、植民地であったアメリカの独立戦争を誘発するなどの失政を重ね、結局のところ即位10年後に失意の中で病気がちになってしまい、政治的主導権はウィリアム・ピット(小ピット)に引き渡されることになる。ジョージ3世は時代の流れを変えることはできなかった。

権力の下方への拡散

「ジェントリ」の台頭

前々回に二院制(貴族院庶民院)のことを書いた。

14世紀半ば(エドワード3世の治世)あたりになると二院制が確立する。
貴族院:聖俗諸侯が属する。請願や訴訟に採決を与える。
庶民院:騎士や市民が属する。請願や訴訟を代表する。
貴族院庶民院が公式名称になるのは16世紀に入ってから。(p60-61)

上にある「騎士」とは身分のひとつで、地主階級。貴族ではないが、「準貴族」的な扱いで、「貴族と平民のあいだの階級」などと書かれることもある。

ただしこの騎士という身分の名前はバラ戦争(1455-85)あたりで、新しくできた「ジェントリ」という階級(階層?)に吸収される。

ジェントリも地主階級なのだが、農民からなるものもいれば、貴族の次男以下がなる場合もあった。貴族階級からジェントリになる者もいるということで、その境界は曖昧だった。ちなみに本書では「地主貴族階級」に「ジェントルマン」とルビを振っている(p74)。

バラ戦争の結果、テューダー朝が興るのだが、テューダー朝を支えたのがジェントリだと言われる。

ジェントリは、地方では治安判事を国王から任命される。その職務は無給だが、地方の行政権と裁判権を持つ。いっぽう、中央の政治においては庶民院の議員を構成した。

バラ戦争の結果(貴族どうしの抗争の結果)、貴族層は没落して貴族院の力が弱まり、庶民院の力が増した(テューダー朝の国王が意図的にそうさせた面も少なからずある)。

テューダー朝の後になると、ジェントリがイングランドの政治の担い手となっていた。たとえば清教徒革命のクロムウェルも、責任内閣を形成したウォルポールも、ジェントリで庶民院だった。

市民(ブルジョワ)の台頭

庶民院にはジェントリ以外の構成員として市民がいた。この市民はいわゆる「ブルジョワ」の意味で現代で、巷でよく使われる「政治運動家」の意味ではない。

ブルジョワが市民でブルジョワジーが市民階級の意味。

ブルジョワジー(Bourgeoisie)の"Bourg"は城壁に囲まれた都市・街を表し、ブルジョワは「街の人≒商人」くらいの意味だったらしい。ちなみに「~ブルグ」「~ブール」「~ベルク」という都市名が多いのは、その地域が城壁に囲まれた都市・街だったからだ。

 「市民」は「貴族」や「領主」と対する一つの階級、つまり特権や大土地の所有者ではなく、商業や小土地所有によって自立できる財産を持ち、産業の発展に伴って資本を蓄えた有産階級である「ブルジョワジー」bourgeoisie(その単数形がブルジョワ bourgeois)という概念があてはまる。

出典:市民階級/有産市民層/ブルジョワ/ブルジョワジー<世界史の窓

ブルジョワジーブルジョアジー)を「資本家階級(有産階級)」というように階級のひとつという概念にしたのは元祖共産主義マルクスだ。ブルジョワブルジョワジーの定義はほかにもあるようだが、ここではマルクスの定義を採用していく。

イギリスだけでなく中世・近世ヨーロッパの政治において、貴族・ジェントリの次に影響力のある階層(または階級)。産業革命により、この階層の人々が力を増した。

イギリスにおける清教徒革命や名誉革命を「ブルジョワ(市民)革命」と呼んでいる人もいるが、これらの革命はジェントリが主体であるので市民革命というのは間違っている。

イギリスで市民革命が起きなかった理由の一部として、本書では数度の選挙法改正が挙げられている。

(続く)



【読書ノート】君塚直隆『立憲君主制の現在 日本人は「象徴天皇」を維持できるか』 その3

前回からの続き。

清教徒革命→共和政→王政復古》の流れ

17世紀半ばより始まった清教徒革命から共和政という大きな流れがあったが、結論を先に言えば、中心人物であるクロムウェルの死により、もとの王政の状態に戻った(王政復古)。

君主制の歴史において、注目したい点は、クロムウェルが王位に就かなかったことだ。

クロムウェルイングランド王の]チャールズを敢えて処刑することにより、過去にさかのぼる政治的権威から自由の身でいることを誇示した。強大な力を持ったクロムウェルの政治力を制限し、先例や法治にしばりつけるために、議会は彼に「王位」を提示したが、「王という称号は最高の権威を意味する官職名にすぎず、それ以上の何者でもない。ちょうど防止の羽飾りのようなものだ」とあっけなく拒絶された。(p68)

彼の言葉からも、クロムウェルのずば抜けた政治的才能と絶対的な権力を保持していたことが伺える。そのため、他の有力者たち(議会)は彼にブレーキをかけることができず、ただ彼の死を待つしかなかった。

この出来事で学ぶことができる教訓は、共和政の絶対権力者を生み出さないためにも、政治的に制限が課された王を戴いたほうが賢明だ、というものだ。まあ世界諸国において、お国柄や地域性があるので絶対的真理ではないが。

権利章典

次に重要なキーワードは「権利章典」(1689年)。

王政復古時に王位に就いたのはチャールズ2世。問題は後継者にしようとした王弟ジェームズ(のちのジェームズ2世)がカトリックだったことだ。当時のイギリスではカトリックが1%に過ぎず、議会はこの後継者問題に難色を示していた。これに対してジェームズはイングランド国教会スコットランド教会(カルヴァン派)を尊重するという約束し、議会は王位継承を認めることで、議会も彼の王位継承を認めた。

しかし、この問題の本質は宗教の問題ではなく、ジェームズ自身が議会に対して友好的ではなかったということだった。果たして、王位に就いたジェームズ2世はカトリックの面々を要職に就けて議会と対決姿勢をとった。

これに対して議会が立ち上がり、ジェームズ2世を追放する。これが名誉革命

名誉革命の後、議会はウィリアム(3世)を王位に就かせた(ウィリアムはジェームズ2世の甥で娘メアリ(2世)の婿) (ステュアート朝#系図 - Wikipedia 参照)。

[ウィリアム3世とメアリ2世夫妻]の戴冠式では、「イングランド諸王」により与えられた法と慣習を人民に与えることを確認する」というそれまでの文言が「議会の同意により制定された法と、同様に定められた慣習に基づき、人民を統治する」という宣誓文に改められた。これは君主が法の創造者であるという考えを放棄した象徴的な出来事であった。

こののちに定められた「権利章典」でも、「議会の合意のない法律の停止は違法である」との条項が盛り込まれ、ここに正式にイングランドは「王権と議会」によって統治されることが明示されたわけである。さらに1689年以降は、議会は毎年開かれることが定例化し、「議会はもはや行事ではなく制度」になった。(p70)

権利章典では王が議会の許可無く徴税できないことが盛り込まれ、また、王領の収入についても議会に束縛を受けた。(p70)



【読書ノート】君塚直隆『立憲君主制の現在 日本人は「象徴天皇」を維持できるか』 その2

前回からの続き。

立憲君主制の起源はイギリスに有り

第2~4章までイギリス立憲君主制の歴史について書いてある。

第二章 イギリス立憲君主制の成立
第三章 イギリス立憲君主制の定着
第四章 現代のイギリス王室

立憲君主制を生み出したのはイギリスで、現在も立憲君主国の手本となっていて、それは「ウェストミンスター・モデル」と呼ばれている。日本もこれを採用している。

今回から本書に従ってイギリス王室の歴史を見ながら立憲君主制の成立を見ていく。

いちおう断っておくが、18世紀より前のイギリスとは基本的にイングランド王国の歴史を指す。1707年に「合同法」により、スコットランド王国イングランド王国に事実上吸収合併されてグレートブリテン王国になる。その後にいろいろあって今のUKになるのだが、ここらへんの話はまた別の機会に。

立憲君主制とはなにか」については前回書いたが、その根本的な意義は「もともと君主が持っていた国をコントロールする権限を政治家に移譲する」ことだ。だから立憲君主制の成立の歴史は君主(イギリス国王)から政治家(有力者)に権限が移譲されていく過程である。

賢人会議

統一イングランドの最初の王アゼルスタン(895年 - 939年)は賢人会議を開いた。「賢人」とは有力者のことを指し、高位聖職者や諸侯、地方長官、豪族など。会議はキリスト教の祝祭つまり復活祭(イースター)、降誕祭(クリスマス)、聖霊降臨祭(ペンテコステ)などに開催され、定例化された。アゼルスタンの後の歴代王たちもこれを継承した。

デーン人であるカヌートやノルマン人であるギョーム2世(ウィリアム1世)が王位に就いた時もこの伝統は継承される。

賢人会議では統一貨幣の鋳造や戦費調達のための徴税の件など重要なことが話された。専制政治ができなかった理由とした本書では、大陸に領土を持っていたことを第一に挙げているが、本来、海洋国家(ランドパワー)は中央集権化は難しい性質を持っている。このことは以下の記事に書いた(平間洋一氏の主張の紹介)。

大憲章(マグナカルタ

イングランドの王権はさらに制限されることになる。たびたび王位継承争いが起こり王権は弱体していくわけだが、その決定的なものは有名な「欠地王ジョン」(1166 - 1216年)の時代から違う形で起こった。ジョン王はフランスとの戦争で賢人会議で有力者たちにカネと兵隊を要求したが彼らはこれを拒否した。イングランドの有力者たちは大陸の領土に縁遠く、大陸の戦争のためのコストを自分たちが負うことを良しとしなかった。

しかしジョン王は彼らから重税をむしり取って戦争を行い、しかも大敗して大陸のほとんどの領土を失った。ジョン王は性懲りもなしに賢人会議を開いて有力者たちにコストの負担を要求したが、有力者たちは逆に王権の制限が書かれた契約書を突きつけた。これが「大憲章(マグナカルタ)」だ。

ジョン王はこれを一旦は受け入れるがその後に拒否して内乱になり、その内乱中に亡くなる。ヘンリー3世( 1207 - 1272年)が幼くして後を継ぎ、断続的に反乱が起こるものの(一旦は王と皇太子が捕虜となった)、王側が勝利した。ただし、ヘンリー3世は大憲章を了承し、会議を多く開くようになる。本書によれば1230年ころから「イギリス議会」が本格的に始まった(p59)。

イギリス議会は「パーラメントParliament」と呼ばれるが、この語源は賢人会議を指すフランス語「パルルマンparlement」だ。ノルマン朝より宮廷内ではフランス語が使用されていたが、ジョン王あたりから諸侯たちの日常語が英語に変わっていった(p58)。

二院制(貴族院庶民院

14世紀半ば(エドワード3世の治世)あたりになると二院制が確立する。

貴族院:聖俗諸侯が属する。請願や訴訟に採決を与える。

庶民院:騎士や市民が属する。請願や訴訟を代表する。

貴族院庶民院が公式名称になるのは16世紀に入ってから。(p60-61)



【読書ノート】君塚直隆『立憲君主制の現在 日本人は「象徴天皇」を維持できるか』 その1

出版社内容情報

日本の「象徴天皇制」をはじめ世界43ヵ国で採用されている君主制。もはや「時代遅れ」とみなされたこともあった「非合理な制度」が、今なぜ見直されているのか? 各国の立憲君主制の歴史から、君主制が民主主義の欠点を補完するメカニズムを解き明かし、日本の天皇制が「国民統合の象徴」であり続けるための条件を問う。

目次

はじめに
第Ⅰ部 立憲君主制はいかに創られたか
第一章 立憲君主制とは何か
君主制の種類/民主主義との調和/反君主制の系譜/「共和制危機」の時代/バジョットの『イギリス憲政論』/福澤諭吉の『帝室論』/小泉信三と『ジョオジ五世伝』/立憲君主制の「母国」イギリス
第二章 イギリス立憲君主制の成立
最後まで生き残る王様?/賢人会議のはじまり/「海峡をまたいだ王」の登場/マグナ・カルタと「議会」の形成/イングランド固有の制度?/弱小国イングランドの議会政治/首を斬られた国王――清教徒革命の余波/追い出された国王――名誉革命と議会主権の確立/議院内閣制の登場/貴族政治の黄金時代
第三章 イギリス立憲君主制の定着
「新世紀の開始、甚だ幸先悪し」/議会法をめぐる攻防/バジョットに学んだジョージ五世/いとこたちの戦争と貴族たちの黄昏/「おばあちゃまが生きていたら」/一九三一年の挙国一致政権/帝国の紐帯/魅惑の王子と「王冠をかけた恋」/エリザベス二世と国王大権の衰弱/コモンウェルスの女王陛下/アパルトヘイト廃止と女王の影響力/「ダイアナ事件」の教訓/イギリス立憲君主制の系譜
第II部 立憲君主制はいかに生き残ったか
第四章 現代のイギリス王室
二一世紀に君主制は存立できるのか/国王大権の現在――国家元首としての君主/単なる儀礼ではない首相との会見/栄誉と信仰の源泉/国民の首長としての役割/女王夫妻の公務/王室歳費の透明化/二〇一三年の王位継承法/オーストラリアの特殊性/現代民主政治の象徴として
第五章 北欧の王室――最先端をいく君主制
質実剛健な陛下たち/カルマル連合からそれぞれの道へ/デンマーク王政の変遷――絶対君主制から立憲君主制へ/女性参政権の実現と多党制のはじまり/大戦下の国王の存在/「女王」の誕生――女性への王位継承権/女王陛下の大権/「新興王国」ノルウェーの誕生/「抵抗の象徴」としての老国王/ノルウェー国王の大権/専制君主制から立憲君主制へ――スウェーデンの苦闘/象徴君主制への道/象徴君主の役割とは/男女同権の先駆者/「四〇〇万の護衛がついている!」
第六章 ベネルクスの王室――生前退位の範例として
国王による「一喝」/「ベネルクス三国」の歴史的背景/「立憲君主制」の形成と「女王」の誕生/女王と国民の団結――第二次世界大戦の記憶/三代の女王――生前退位の慣例化?/オランダ国王の大権/生前退位の始まり――マリー・アデライドの悲劇/女性大公と世界大戦――シャルロットの奮闘/小さな大国の立憲君主制国民主権に基づく君主制/「ベルギーは国だ。道ではない!」/第二次大戦と「国王問題」/政党政治の調整役――合意型政治の君主制/二一世紀の「生前退位
第七章 アジアの君主制のゆくえ
国王のジレンマ?/アジアに残る君主制/ネパール王国の悲劇/タイ立憲君主制の系譜/プーミポン大王の遺訓――タイ君主制の未来/東南アジア最後の絶対君主?――ブルネイ君主制のゆくえ/湾岸産油国の「王朝君主制」/「王朝君主制」のあやうさ/二一世紀のアジアの君主制
終章 日本人は象徴天皇制を維持できるか
「おことば」の衝撃/象徴天皇の責務/象徴天皇制の定着/「平成流」の公務――被災者訪問と慰霊の旅/「皇室外交」の意味/「開かれた皇室」?――さらなる広報の必要性/女性皇族のゆくえ――臣籍降下は妥当か?/「女帝」ではいけないのか?/象徴天皇制とはなにか
おわりに

出典:君塚直隆 『立憲君主制の現在―日本人は「象徴天皇」を維持できるか―』 | 新潮社

著者について

東京大学客員助教授、神奈川県立外語短期大学教授などを経て、関東学院大学国際文化学部教授。専攻はイギリス政治外交史、ヨーロッパ国際政治史。著書に『立憲君主制の現在』(2018年サントリー学芸賞受賞)、『ヴィクトリア女王』、『エリザベス女王』、『物語 イギリスの歴史』、『ヨーロッパ近代史』他多数。

出典:君塚直隆 | 著者プロフィール | 新潮社

立憲君主制とはなにか

この本の内容に入る前に立憲君主制とは何かについて書いておく。

君主とはなにか

まずは「君主」の定義から。

まず、ブリタニカから引用する。

君主
くんしゅ
monarch
伝統的には,国家において特定の1人が主権を保持する場合のその主権者をさす。世襲の独任機関で専制君主制下の君主がその典型である。しかし,立憲君主制の確立に伴いその権能は次第に制限され,一般的行政権,外交権,官吏任命権などを保持するにとどまるようになり,さらに進んで名目化,象徴化する傾向が顕著である。「君主は君臨すれども統治せず」という表現はこのような傾向を象徴するもので,イギリスの君主はその典型である。[以下略]

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典/君主とは - コトバンク

さて上の引用では「主権」という言葉が出てくる。主権とは国家をコントロール(支配)する権力のことを言う。たとえば「主権在民」という言葉の意味は「国民が主権を持っている」=「国民が国家を支配している、コントロールできる」という意味になる。また「国家は国民が所有している」ということもできる。

したがって君主というのは(伝統的には)国家の所有者で、国家を自由にコントロールできる人物のことを言う。

しかし、引用にあるように、「その権能は次第に制限され」ている。勝手にコントロールしていた君主は反乱やクーデタにより追放されたか殺されてしまった(サウジアラビアの王様は現在でもかなり勝手なことをやっているらしいが)。

現在において君主の種類はいくつかあるが、その中で生き残っている君主のひとつが立憲君主である。

立憲君主とはなにか

立憲君主を一言で言い表すとすれば、上記の引用にあるように「君臨すれども統治せず」である。

本書では今日的な意味の「立憲君主制」を「議会主義的君主制」と紹介しているがそれによれば、「君臨すれども統治せず」の意味は、君主は本来「統治権」を保持しているが、その権力を政治家に移譲して統治に当たらせることを言う(p24-25)。

ここで君主が保持しているものが「主権」ではなく「統治権」となっているがその違いを示さなければならないだろう。

「主権」については上述した。「統治権」は国家を「勝手気ままにコントロール」するのではなく「法に基づいてコントロール」する権限のことだ。

立憲君主が「本来において保持しているもの」は「主権」ではなく「統治権」であることを注意する必要がある。

これは、大日本帝国憲法第4条にある。

天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ

内容

「はじめに」、第1章

民主主義と君主制

本書は最初に反君主制(共和制)主義者の主張を紹介する。G・H・ウェルズ、トマス・ペイン、アンドリュー・カーネギーら著名人の言葉を紹介して、「君主は民主主義の敵である」という主張が盛り上がった時代を描いた。

1890年代のフランス革命の時も君主制の危機であったが、本書では1860~70年代の危機について書いている。反君主制の大きな波の中で1868年にスペイン革命で王政が倒れ、1870年のフランス第二帝政の崩壊が起こり、イギリスでは「共和制運動」が盛り上がっていた。

イギリスにおいてはアルバートエドワード皇太子(のちの国王エドワード7世)が重態となったことにより「反君主制」の動きは治まったのだが、著者はこの時がイギリスの君主制の転機の一つだと書いている。

1872年2月にロンドンで行われた皇太子恢復感謝礼拝の際に国民が盛り上がる様子を見て、ヴィクトリア女王自身も机上の仕事のみが君主の務めではなく、国民の前にもっと姿を現す「儀礼的な役割」を再認識していく。(P33)

君主制が語られる時に常に取り上げられる書であるウォルター・バジョット『イギリス憲政論』が書かれたのは1867年のことである。フランス革命の後に保守主義の名著であるエドマンド・バークフランス革命省察』が出されたように、君主制の危機のタイミングで君主制の名著が発表された。

ここで問われる問題は「民主主義と君主制は両立しない」ということの真偽だ。

この問いに対する答えは日本やヨーロッパ諸国の立憲君主国を見れば明らかだが、本書では以下のように書いている。

民主主義の理念と合致する国家形態は、君主制よりも共和制であると考えるのが普通であろう。共和制では、通常は男女普通選挙に基づいた国民投票により、自分たちの国家元首にして政府の首長たる「大統領」が選ばれるからだ。しかし、……君主制か共和制かという国家形態と、それが専制主義的か民主主義的かという統治形態とは、必ずしも合致はしないのである。[中略]

本書でこれから検討していくとおり、現代の社会では、王室が民主主義を助け、強化する場面が増えている。その嚆矢となったのも、近現代のイギリス王室であった。(p27-28)

そもそも君主制(国家形態)と民主主義(統治形態)は本来は次元が違うものであり、この2つが両立しても何らおかしくはないという話。上述のとおり、立憲君主制民主主義国が存在する一方で、共和制を採用しながら専制主義的(独裁的)な国家は数多くある。

イギリス王室はなぜ続いているのか

上記の引用の2段落目にあるように「[イギリス]王室が民主主義を助け、強化する場面が増えている」。王室の必要性が認められ存続している理由と言えるだろう。そしてその理由は上述のバジョットが19世紀後半に発表し、ジョージ5世がこれを読み実践して後世の王の手本となった。

本書では、存続した理由を5つの特徴として述べているが、ここではバジョットの言葉を孫引きする。

要するに君主制は、興味深い行動をするひとりの人間に、国民の注意を集中させる統治形態でる。これに対し共和制は、いつも面白くない行動をしている多数の人間に向かって、注意を分散させている統治形態である。ところで人間の感情は強く、理性は弱い。したがって、この事実が存続するかぎり、君主制はひろく多くの者の感情に訴えるために強固であり、共和制は理性に訴えるため弱体であるといえるであろう(p34)

君主制と共和制は「国家形態」であり「統治形態」ではないと書いていたが、ここでは「統治形態であると書いているので混乱するが、流すしか無い)

世襲された君主は国民の小さい頃から刷り込まれた結果、君主に対して得体の知れない畏敬の念や忠誠心が働く。バジョットはこれを「宗教的な力」と表現している。「権威」と言い換えられると思う。そのような力を、投票で選ばれたとはいえ、ぽっと出の人間が短時間で掌握できるはずがない。

「人間の感情は強く、理性は弱い」という部分は、私の勝手解釈によれば、「難しい政治の話を理解できる国民は本の一握りしかいない」。

ドラマなどで「難しい話はわからないが、〇〇さんが言うなら信じてみよう」みたいなセリフがあるが、立憲君主民主主義制においては、「〇〇さん」の部分が君主になるわけだ。投票で選ばれたばかりの弱体な国家の指導者(つまり内閣)を君主の「権威」により支えることで、国家に有害な政争を抑制することができる。

さらに君主は国民に国家の代表と見なされる。それは国際政治における国民の代表であるとともに、道徳面における国民の手本でもある。

本書の第1章には福沢諭吉が書いた『帝室論』の説明もあるのだが、これについては以下の記事で書いたのでここでは書かない。



ユダヤ教成立の歴史⑨ ヤハウェ信仰の危機と一神教の誕生

前回からの続き。

ユダ王国滅亡とヤハウェ信仰消滅の危機

ユダ王国が滅亡し、イスラエル民族は自分たちの国を失った。これは民族と彼らが信仰した神の消滅の危機でもあった。

古代オリエント世界においては、戦争とは国と国との戦いであると同時に神々同士の戦いでもあり、敗北とは自分の神(々)が敵国の神々に敗れたということを意味した。それは、自分の神の無力と敗北として解釈され得るものであった。

出典:山我哲雄/一神教の起源/筑摩書房/2013/p304

先に滅亡した(北)イスラエル王国民は強制移住などで散り々々になり「失われた十氏族」と言われるように民族としては消滅してしまった。"元"ユダ王国民の中でもヤハウェ信仰を捨ててしまった人々は少なくないだろう。

ヤハウェ信仰の指導者たちはイスラエル民族に対して信仰の維持を訴えるが、その中で受け入れられた(生き残った?)のが、ヨシヤの信仰改革を推し進めた人たちの思想継承者たちだった(彼らと違う信仰のあり方を説いたグループもいたようだ)。山我氏は彼らを申命記史家と呼んでいる。

彼ら申命記史家は自国の滅亡を(神の無力ではなく)神からの天罰とした。すなわち、イスラエルの民がヤハウェの言うことを聞かなかったために滅亡させた、と訴えた。

ここで山我氏は社会学マックス・ウェーバーの言う「苦難の神義論」を引き合いに出して説明する。

すなわち、人が大きな苦難に見舞われた場合、それが不条理であればあるほど、受け止めたり耐え忍ぶことが困難になる。しかし、その苦難の理由や意味が何とか納得でき、「腑に落ちる」ような場合には、それを耐え忍んだり克服することがより容易になるのである。それは同時に、破局と苦難の責任をすべてイスラエルの側に帰すことにより、ヤハウェを免罪しようとする弁神論でもある。その究極の目的は、言うまでもなく、前586年の破局ヤハウェの敗北や無力さを示すものと見る「誤解」を打ち砕き、ヤハウェのみへの信仰を保たせること、すなわち信仰の危機の克服である。(p334)

かなり苦しい論にみえるが、この論は前述の通りヨシヤの信仰改革の思想の路線にあるものだ。

兎にも角にもこの論が今現在のユダヤ教の根幹にある。

一神教の誕生

さて、以上のような論、以上のような状況の中で、ついに一神教の論が誕生する。

「わたしの前に神(エル)は造られず、わたしの後にも存在しない。
わたしこそ、わたしこそヤハウェである。わたしのほかに救う者はない。
わたしはあらかじめ告げ、そして救いを与え、知らせた。
あなたたちのもに、ほかにはいない(エン・ザール)ことを。
あなたたちはわたしの証人である、とヤハウェは言われる。
わたしが神(エル)である。」(イザ四三8-12)

この言葉は「イザヤ」が言ったことになっているが、実際は《前539年ペルシアによって新バビロニア王国が倒され、ユダ王国の捕囚民がバビロンからユダに帰還を許される時期》 *1 に活躍した無名の預言者たちの中の一人の言葉だ。彼らをまとめて「第二イザヤ」と呼ぶことになっている。

国が滅び、ヤハウェ信仰が消滅しようとしている危機に、「第二イザヤ」はバビロン捕囚に対して以上の言葉を投げかけた。

この言葉は彼らに信仰をつなぎとめるための「レトリック」だった(p355)。口からでまかせというのは言いすぎかもしれないが。

そして「レトリック」が一神教を産み出した。このレトリックが受け継がれて今日に至る土台はヨシヤの信仰改革の思想だ。

この思想によれば、イスラエル民族を罰するためにヤハウェアッシリアを動かすこともできる。つまりヤハウェは世界を動かすことができるとされている。

しかし山我氏は一神教の考えの誕生は「パラダイムの転換」または「突然変異」だったと書いている。

唯一神観という発想は]おそらく明確な形ではそれまで誰も考えたことのない種の突破、革命があることは明確である。[中略]

まさに捕囚における信仰の深刻な危機を克服させる、「環境適応力」のあるものであったと言えよう。(p354-355)

「バビロン捕囚」の時期には以上のような考えを宣教する人々とは違う考えを持った人々もいたようだが、それらの信仰は消滅したようだ。それらは、山我氏の言い回しを借りれば、淘汰されたということだ。そして一神教に「進化」したヤハウェ信仰はユダヤ教として現在に至る。

そしてヤハウェ神は"イスラエル民族だけ"の神ではなくなり、全世界の人々の神となり、その結果、キリスト教イスラム教が生まれた。



ユダヤ教成立の歴史⑧ 旧約聖書の歴史観で見る王国時代 その4 ヨシヤ王の宗教改革/ユダ王国の滅亡

前回からの続き。

イスラエル王国アッシリア帝国に滅ぼされ、ユダ王国は属国となった。

しかし、オリエント世界統一を果たしたのアッシリア王アッシュルバニパルが亡くなるとアッシリアは急速に滅亡の途をたどることになる。

そのような期間の中でユダ王国は独立して新しい国家のあり方を迫られる。

属国時代のユダ王国の政治と宗教

イスラエル王国の滅亡の時のユダ王国の王はアハズだったが、彼は属国の王としてアッシリアに積極的に近づき、アッシリアの祭壇と同じものをエルサレムで築き、ヤハウェのためのそれと取り替えた *1

アハズの次代ヒゼキアはエジプトを頼ってアッシリアに対して反乱を起こしたが大敗し、国内の町々を焼かれエルサレムを包囲された。そして莫大な賠償を支払ってなんとか滅亡は免れた。

次代マナセは再びアッシリアに忠実な属国王として振る舞った。その結果治世45年という長い年月の安定を保った。彼はバアルやアシタロテを信仰したと旧約聖書に書かれているが、山我氏によれば、旧約聖書の著者たち *2 は《すべての異教徒祭儀を画一的に「バアル」ないし「アシュトレト」の崇拝として描く傾向がある》として、マナセもアハズのようにアッシリアの祭壇を築いた可能性を書いている(p248)。

ヤハウェ(=旧約聖書の著者たちの一部)は預言者イザヤの口を借りて、これらの王を批判する(イザヤはアッシリアに反乱を起こしたヒゼキアでさえエジプトに頼ったことを批判した)。

山我氏は、後世の申命記史家(=旧約聖書の著者の一部)がマナセを王国滅亡の全責任を負わせる「スケープゴート」に仕立て上げたという(p325)。彼らの史観からみれば、マナセの大罪は後世のヨシア王がヤハウェ信仰に立ち返ったことで拭える事ができなかったほどのものだったという。イザヤがマナセによってのこぎりでひき殺されたというのもその一環かもしれない。

ヨシヤの宗教改革

アッシリアの衰退が決定的になり、ユダ王国は属国状態から独立した。そして当時の王ヨシヤはアッシリアの宗教をイスラエルから取り除き、さらに進めてヤハウェ信仰自体も改革を行った。そのやり方はかなり芝居がかっている。

彼〔=ヨシヤ〕の治世第18年(前622年)、エルサレム神域の修繕工事の際に、祭司ヒルキヤにより一つの「律法の書」の巻物が「発見」されたという(王下二三25)。書記官シャファンがこのことをヨシヤに報告し、その「書」を読み上げると、王は衝撃を受け、「我々の先祖がこの言葉に耳を傾けず、我々についてそこに示されたとおりにすべての事を行なわなかったために、我々に向かって燃え上がったヤハウェの怒りは激しい」と驚愕したという(王下二二13節)。[中略]
ヨシヤは、「発見」されたこの「律法の書」を国民の前で朗読し、ヤハウェのみに仕え、彼の律法を「心を尽くし、魂を尽くし」て実行するとの「契約」を結び(王下二三1-3)、直ちに大規模な宗教改革に取り組んだ。

出典:山我哲雄/一神教の起源/筑摩書房/2013/p249-250

この宗教改革の目的は、一つはアッシリアの宗教と(建国以前より根付いていた)バアル信仰などの多神教の除去、もう一つはエルサレム以外の聖所の廃止。後者は宗教の中央集権化に他ならない。

この改革の意図するところは、「ヤハウェのみ信仰」(拝一神教)だった。これはヨシヤ以前に預言者イザヤなどが訴えていたもので、彼らや彼らの後継者たちの考えをヨシヤが採用したのかもしれない。

この改革はヨシヤの戦死をもって途絶してしまった。ヨシヤの死後、ユダ王国はエジプトと新興国バビロニアのあいだで翻弄され、最後はバビロニアに滅ぼされ、王や国民はバビロニアの王都バビロンに強制移住させられた(バビロン捕囚)。



*1:列王記下第十六章10-16、山我哲雄/一神教の起源/筑摩書房/2013/p233

*2:正しくは「申命記史家」。ユダ王国滅亡後にイスラエルの王国時代の歴史の一部を書いた人々