歴史の世界

中国文明:中国の地理④ 主要河川

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中国における7大水系の位置の概要

出典:中国における水環境の現状を踏まえた分散型排水処理技術の取組みと提言(2012年度 31巻3号)|国環研ニュース 31巻|国立環境研究所

松花江

東北地方(満洲)のさらに東北部に流れる河川。

東北平原の一角である三江平原(松花江黒龍江、ウスリー江三大河川の合流地帯)は中国を代表する穀倉地帯になっている。

遼河

東北地方の南部を流れる河川。

東北平原の一角である遼河平原を流れる。

遼河の西(遼西)は幾つもの新石器時代の遺跡があることが知られている。

海河

海河(かいが、簡体字: 海河, 拼音: Hǎi Hé)は、中華人民共和国を流れる大きな河川のひとつ。華北でも最大級の川で、北京市天津市の全域、河北省の大部分、河南省山東省・山西省内モンゴル自治区のそれぞれ一部を流域に含み、渤海へと流入する。

出典:海河 - Wikipedia

河南省に流れる5つの河川を天津で人工的に一つにまとめた川。

北京を通っていることもあり、運河としての役割がきわめて高い。

治水が難しいようで、「明朝が成立し北京に遷都した1368年から中華人民共和国が成立した1949年までに海河流域では387回の大規模な水害と407回の大規模な旱害が起きている」とある。「1963年以後大水害は起きていない」(海河 - Wikipedia参照)。

現在は水不足のほうが深刻だ。

黄河

幾つもの屈曲の後、華北平原に流れる河川。黄河文明中国文明)で有名。

記事《中国文明:二里頭文化① 洛陽・中原につながる黄河・淮河・長江》も参照。

淮河

黄河と長江の間を流れる河川。

秦嶺・淮河線は年間降水量1000mmの線とほぼ一致し、たとえば北は小麦中心の畑作農業地帯で、南はコメ中心の水田地帯となっている。また淮河の北は陸路中心の交通、南は河川交通中心で「南船北馬」ともいわれている。こうした農業生産物や交通の違いは政策の差や軍事行動に影響するため、中国が南北に分裂していた時代は淮河が境界線になったことが多かった。

出典:淮河 - Wikipedia

平坦な平原を流れるため、この川の治水も難儀したようだ。

記事《中国文明:二里頭文化① 洛陽・中原につながる黄河・淮河・長江》も参照。

長江

四川盆地・長江中下流平原を流れる河川。

下流平原は栽培イネの発祥の地と考えられている。

記事《中国文明:二里頭文化① 洛陽・中原につながる黄河・淮河・長江》も参照。

珠江

「珠江は西江、北江、東江という広州の前後で合流する三つの大河と、珠江デルタを形成するもろもろの分流の総称」(珠江 - Wikipedia)。

雲貴高原(雲南・貴州)・南嶺山脈珠江デルタなどを流れる。

水量が多く、水産資源が豊富、最大の平野である珠江デルタは亜熱帯に属し、二期作ができる。

さらに、珠江デルタは工業地帯・輸出のための集積地としても有名。



中国文明:中国の地理③ 現代中国の省を覚える

現代中国の省を覚えることは、中国史を詳しく学ぶための必須事項。

中国文明誕生は黄河と長江と遼河の流域だけ。必要な箇所だけでも覚えておこう。

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出典:Template:中華人民共和国の行政区分 imagemap - Wikipedia

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出典:鶴間和幸/中国の歴史03 ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国講談社/2004年/裏見返し(裏表紙をめくったページ)

省の名称の由来については「『中国各「省」の名付けの由来』中国の旅行記・ブログ by 西安新日国際旅行社担当さん【フォートラベル】」に載っている。

陝西省/漢中

陝西省の由来は、「陝原」の西。「陝原」については「中国に陝西省という省があります。陝原の西にある省だからというこ... - Yahoo!知恵袋」に詳しく書いてある。

陝西省の略称は秦、または三秦。三秦とは漢中とその南北(陝西省の南北)を表す。漢中は西安を中心とした渭水盆地の古名。

西安を通って潼関で黄河に合流する川は「渭水」という。

中原

中原(ちゅうげん)は中華文化の発祥地である黄河下流域にある平原のこと。狭義では春秋戦国時代に周の王都があった現在の河南省一帯を指していたが、後に漢民族の勢力拡大によって広く黄河下流域を指すようになり、河南省を中心として山東省の西部から、河北省・山西省の南部、陝西省の東部にわたる華北平原を指すようにもなった。

出典:中原 - Wikipedia

洛陽が山間部と平野部の境界。

巴蜀

巴蜀四川盆地の古名。巴が重慶、蜀が成都の古名。

珠江(しゅこう)

広東省を横切る川が珠江。河口にマカオと香港がある。



中国文明:中国の地理② 地形・気候

大まかな地形

中国の地形は「西高東低」である。西にチベット高原があり、東に平原があり、その中間の高さの山地・盆地・高地(高原)がある。

下の地図は3つの高さ(階梯)の説明。

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西部の第一階梯は、4000万年前に始まるインド・プレートの衝突によって上昇した標高4000メートル以上のチベット高原とその周囲の山脈郡から成る。中間の第二階梯は、チベット高原と周囲の平原部のあいだに位置し、標高2000から1000メートルへと降下する起伏に富んだ地形で、内蒙古高原、黄土高原、四川盆地、雲貴高原、タリム盆地などから成る。東部の第三階梯は、標高1000メートル以下の丘陵と標高200メートル以下の平原地帯で、東北平原、華北平原、長江中・下流平原、東南沿海部などから成る。

出典:世界歴史体系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003/p4(西江清高氏の筆)

「文化」を分ける南北に連なる3つ山系

山系とは「互いに近接した複数の山脈が全体で一つの系統をなしているもの」*1

上で引用した西江清高氏によれば(p3、p6)

  • 北緯40°以北にある天山ー陰山ー燕山山脈の山系
  • 北緯35-32°付近の秦嶺ー大別山脈の山系
  • 北緯25°付近の南嶺の各山系

天山ー陰山ー燕山山脈は、いわゆる長城地帯にあたり、農耕と遊牧地帯を分ける。歴史的に言えば、中国文明の内外を分けた。

秦嶺ー大別山脈は、北部の畑作地帯と南部の水田地帯を分ける。

ただし、「秦嶺ー大別」の線よりも「秦嶺ー淮河」の線の方が有名で(秦嶺・淮河線 - Wikipedia参照)、この線は「ちょうど年間降水量1000mmの等量線」になっている。

淮河は大別の北に並行して流れている。

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中国の農業地域
降水と低平な地域に恵まれた南東部以外の、黄土高原や沙漠周辺でも灌漑水路などの整備によって、工芸作物だけでなく穀物生産も。ただし、これが黄河など、河川の断流を生む一因ともいわれる。

出典:よくわかる地理―授業の理解から入試対策まで (MY BEST) /学研教育出版/2013/p131

さらに、「南船北馬」の文化的景観の境界もこの線だ。

さらにさらに、華北と華中の境界線の役割もある。ただし華北ー華中の境界線は、公式に規定されているわけではなく、学者・学派で色々なバリエーションがある。それでも「秦嶺ー淮河」の線は華北ー華中の境界線を決める重要な線であることは間違いない。

南嶺の各山系は、上の図の「華中」と「華南」を分ける。両方とも稲作地域だが、華中は温暖湿潤、華南は熱帯・亜熱帯的で高温多湿で二期作を行うところもある。

気候区分

以上のことを踏まえて、気候を見ていこう。

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出典:よくわかる地理/p120

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ケッペンの気候区分
月平均気温と降水量によって5つの気候帯に分け、さらに細かい気候区に区分する。

出典:よくわかる地理/p52

1つ目のアルファベットは「アフリカからヨーロッパにかけて気候帯の分布の順番」。

2つ目の文字は「その気候区を特徴づける景観のドイツ語の頭文字(ドイツ語では名詞は必ず大文字で始まる)」

S:ステップ(Steppe)
W:沙漠(Wüste)
T:ツンドラ(Tundra)
F:氷点下(Frost)

上の中国の気候区分図で「高山気候」という用語があったが、この用語はケッペンの気候区分には無い区分。

高山気候 - Wikipedia」によれば、中国の高山気候は「温帯高山気候」にあたるようだ。

低緯度地帯では標高による気温の低減率に従って気温が低下し、概ね標高 2000m 以上の高地はケッペンの気候区分では寒冷帯(E)の気候区分に属することになる。2000m以上のチベット高原はET、東西に挟まれた第二階梯(1000~2000mの地域)はCwとなっている。

中国の自然地理区分

下の図は地理区分の一例。上で書いたとおり、統一されていない。学者・学派によって様々だ。

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出典:小澤正人・谷豊信・西江清高/中国の考古学/同成社/1999/p5

中国本土(シナ)は大きく分けて、華北・華中・華南。ただし、この3つの中央には、上述の第一・第二階梯の境界線が東西に分けている。東西で気候が違う。



中国文明:中国の地理① 「シナ」という用語について

「シナ」は本来は、差別用語ではない…しかし

シナは後述するように本来は、地理的呼称であり差別用語ではない。差別用語ならインドシナという言葉も訂正されるべきなのに、されていない。

ただし、以下のような経緯がある。

日本人は近代において満州人と区別する意味で漢人を「支那人」と呼称していた。昭和に入り、日本人における中国人感情が悪くなると、支那人という言葉の中に侮蔑が混じったらしい。そんなこともあって、戦前から中国側の政府から中国をシナという言葉で呼称しないように要求されていて、現在ではその要求に沿った形で中国をシナ、中国人をシナ人と呼ぶことは避けられている。

このようなわけで、現代の、中国政府をシナ、中国人をシナ人と呼称することは積極的にはしない。

私は地理的呼称のシナについては使用するが、一般に通用している用語でないために「中国本土(シナ)」のような形で使っている。

宮脇淳子氏は「中国史」ではなく「シナ史」とするべきだ、と主張しているが、個人的にはそこまでやろうとは思っていない。

シナ=中国本土= China Proper

支那【しな】
中国の異称。現在の中国本土をさす。秦(しん)の音に由来するといわれる。従来,日本では中国を唐と称したが,仏典にみえる支那・至那・脂那などがヨーロッパでの呼称シナ,チーナなどに似ているため,新井白石蘭学者が使用し始めた。なお支那という言葉自体に蔑視の意味はないが,日中戦争などで侮蔑的に使用されたりした経緯から中国人の反発を受け,第2次大戦後はこの使用を避けることが多い。こうしたことから,中国では〈東支那海〉〈南支那海〉などの呼称は使用せず,それぞれ〈東海〉〈南海〉と呼んでいる。

出典:支那(シナ)/百科事典マイペディア/株式会社平凡社 - コトバンク

次に中国本土(China Proper)について。

中国本土(ちゅうごくほんど、英語: China Proper)は、漢民族が多数派民族である歴史的な中国の領土を、中国の他の地域と対比して指す表現。日本の人文科学で「シナ」(カタカナ表記)と呼ばれる歴史的領域の、現代の姿にほぼ一致する。かつては支那支那本部(しなほんぶ)と呼ばれていた。

歴史的に中国の内地・本土とは見なされない「外中国」地域には、新疆(東トルキスタン)、チベット満洲中国東北部)、内モンゴルが含まれる。中国本土の面積は、およそ390万km2とされている。中国本土は、北方の外中国の広大な領域とは、おおむね万里の長城によって区画されている。

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1944年のアメリカ合衆国プロパガンダ映画、ザ・バトル・オブ・チャイナにおける「中国」の地図。満州、モンゴル(ここでは外蒙古内蒙古、トゥヴァを含んでいる)、新疆、チベットは中国本土(China Proper)と明確に区別されている

出典:中国本土 - Wikipedia

  • 中国語では汉地(漢地)。

というわけで、シナ=中国本土= China Proper。



中国文明:「中国文明」を調べる際の注意点② 「多地域進化説」を唱える中国人学者

北京原人からホモ・サピエンス

人類の進化の一般的な見解は「アフリカ単一起源説」だ。つまり、現生人類(ホモ・サピエンス)はアフリカ大陸で誕生し、他の大陸に拡散したという説。

これに対して、ジャワ原人北京原人ネアンデルタール人などが各地域で現生人類(ホモ・サピエンス・サピエンス)に進化していったとする「多地域進化説」というものがある*1。ただし、「多地域進化説」はあまり(ほとんど?)支持されていない。

中国の先史について中国人学者のあいだでどのような議論が為されているのか知らないが、彼らの中には「多地域進化説」を支持する人がいるそうだ。

人類進化の研究(に限らず近代の学問が全般的にそうなのですが)が西洋の研究者の主導により進められたことは否定できず、そこでは、アジア東部よりもヨーロッパ・アフリカ・西アジアが重視されてきた傾向は否めません。そうした傾向は現在でも解消されたとは言い難く、東アジア、とくに中国の研究者たちは、それに強い不満を抱いているようです。

出典:中国での発見が書き換える人類史 雑記帳/ウェブリブログ 2016/07/15

上の記事によれば、これまでの考古学的発見から、「東アジアにおけるエレクトスから現代人までの継続的進化を示している、と中国を中心とした一部の研究者たちは主張しています」という。

また、「東アジアにおける人類進化の連続性を主張する見解の背景には中国のナショナリズムがある、との見解も提示されています。中国の研究者たちはそうした見解を否定しています」とも書いてある。

「中国産の類人猿からホモ・サピエンスへ」

香港で出版された先史の本が翻訳されている。

先史 文明への胎動

先史 文明への胎動

原著は2001年出版。翻訳本は2006年出版。

原著者の3人の中の一人は夏商周断代工程の参加者で、他の一人は河南省の発掘調査と研究の責任者(いずれも出版当時)。「多地域進化説」は中国共産党幹部が許容しているか、推している。

この本によれば、まず禄豊古猿(700-800万年前)と呼ばれるラマピテクス(類人猿の一種)からアウストラロピテクスが誕生し、アウストラロピテクスから元謀人(ホモ・エレクトスへの過渡期の化石人類)へと進化した(170万年前)。禄豊古猿と元謀人は両方とも雲南省で発見された(アウストラロピテクスの化石は発見されていないようだ)。(p13)

ご丁寧に、神話を扱う節では「雲南の楚雄のイ族の創世詩には、サルが石を道具として使うことを覚え、石を打ちあわせて火をおこし、食べ物を調理するようになり、最後に「サルがヒトになった」という一節があります」とある。(p7-8)

ちなみに、ラマピテクスが人類の直系の祖先だという説は ほぼ否定されている*2

元謀人についても、そんなに古くはなく、せいぜい50~60万年前ではないかとも言われている。

さらに、30~5万年前に「古代型ホモ・サピエンスの段階」へ入る。中国で発見されたこの段階に属する化石人類は中国産ホモ・エレクトス北京原人など)から進化した、とはっきりとは書いていないが、北京人(北京原人)と「古代型ホモ・サピエンス」と中国の現代人には連続性があるとしている。(p32-37)

おそらく、「古代型ホモ・サピエンス」は中国産ホモ・エレクトスがある程度進化した(脳の大容量化など)人類だろう。ただし独立した人種なるほどの進化ではなく、ホモ・エレクトスの中での進化ということになる、と思う。(p251 先史年表)

5万年~3万年前に「古代型ホモ・サピエンス」から「現代型ホモ・サピエンス」への移行期、とある(p251 先史年表)。

この「現代型ホモ・サピエンス」が我々と同じホモ・サピエンスだ。

ただ、この本によれば、禄豊古猿が「人類の直系の祖先」(p251 先史年表)とある。

さらに、p40では5万~1万年前までに、「現代型ホモ・サピエンス」が出現するのだが、それは「三代人種」(モンゴロイドコーカソイドネグロイド)が独立して誕生した、としている。つまり、モンゴロイドの祖先は禄豊古猿だということだ。日本人の祖先も禄豊古猿ということになる。

トンデモとしか思えない。

日本人学者2人の見解

「多地域進化説」について

中国人学者(の一部?)が「多地域進化説」を推している中で、日本人学者はどのような見解を示しているか。

私が読んでいる本の中では『宮本一夫/中国の歴史01 神話から歴史へ(神話時代・夏王朝)(講談社/2005年)』と『世界歴史体系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003)』の2冊がこれに言及してるが、両方とも「多地域進化説」に対してはほぼ否定している。

「古代型ホモ・サピエンス」「現代型ホモ・サピエンス」の呼称について

基本的にどの参考文献も(上の2冊以外も)「古代型ホモ・サピエンス」「現代型ホモ・サピエンス」の呼称を採用している。



中国文明:「中国文明」を調べる際の注意点① 言論の自由がない現代中国

現代中国では古代史を調べることに熱心だ。熱心なのはいいが、その背景には中国共産党がいるというのが注意すべき点だ。

言論の自由がない現代中国

周知のように中国には言論の自由がない。しかも中国人にとって歴史とは政治そのものであり、権力者は歴史を好きなように書き換えることができるものだなのだ*1

また、中央政府のご意向に従わないと学者は追放されるという*2

現代史でもそうなのだから、資料の少ない古代史が都合の良いように書き換えられる可能性は高いと考えるのが、まともな考え方だと思う。

しかし、中国の中央政府が古代史に熱心なおかげで、新しい発見が多くあることも確かだ。それら全てを価値の無いものだと切り捨てるのもまた学問的ではない、と思う。

私たちのような素人は「新発見」が本物なのか曲解なのか捏造なのか分からないので、日本人学者のコメントなどを読んで判断するしかない。

中国以外の国でも注意は必要だが、以上のような理由で、中国においては尚いっそうの注意が必要になる。

夏商周断代工程と中華文明探源工程

夏商周年表プロジェクトは、 夏商周年表を作成したプロジェクトを指し、具体的な年代が判明していなかった中国古代の三代について、具体的な年代を確定させた中華人民共和国の第九次五カ年計画のプロジェクトの1つである。

中国語では、夏商周断代工程と呼称された(工程とはプロジェクトの意味)。

出典:夏商周年表プロジェクト - Wikipedia

古代中国学者・落合淳思氏によれば、このプロジェクトは「『史記』の絶対化」のためのものであり、「共産主義が説得力を失ったので、誇大な歴史を捏造してナショナリズムを宣揚」するものでしかないと斬り捨てている*3

さらに夏商周より前の歴史を探るプロジェクト「中華文明探源プロジェクト(工程)」というものもある。同プロジェクトの担当者の一人、中国社会科学院考古研究所の王巍所長は「良渚や陶寺等の都、大型宮殿の跡地、大規模な墓が発見されていることから、一部の文化と社会が発達した地域では、夏王朝より前から国家が形成されており、文明史が始まっていたことが分かる」と主張している*4

(追記:良渚遺跡や陶寺遺跡を調べた後、少なくとも「文明」の段階に入っていると言っていいかと思うようになった。これを「国家」と呼んでいいかどうかは分からない。)



中国文明シリーズを書く

これから中国文明シリーズを書く。「中国文明」カテゴリーに保存する。

中国文明とは?

昔は「黄河文明」とされてきたが、近年では「中国文明」として学校で教えられているようだ。

メソポタミア文明エジプト文明はそれぞれ、チグリスユーフラテス川、ナイル川周辺で小さな村から発展していったのだが、中国文明甲賀周辺だけでなく、中国本土(シナ)全土で文化が同時代的に発展していった。

だれがどのような経緯で黄河文明から中国文明へ名を変えたのか走らないが、おそらく発展の状況を鑑みて名称を変更したのだろう。

このブログでの「中国文明」カテゴリー

このカテゴリーでは先史と夏・殷・周までをやって、その後の春秋戦国時代は別のカテゴリーを作ってやろうと思っている。

ただし「夏王朝があった」ということについては注意すべき問題だと思っている。カテゴリーの中で書いていくと思う。

このカテゴリーで書くこと

現代までの中国史を考えるとこの初期の時代は 黎明期というべき時代で、人間で言えば赤ん坊の時期。時代の変化によっては これからどのようにでもなる可能性がある、という時期。

中国の慣習がかなり固まったのは秦漢の時代から。人間で言えば、春秋戦国時代が青春時代で秦漢はある程度経験を重ねた青年くらいか。

そんなわけで、中国の生い立ちの最初の部分を書いていこうと思う。