歴史の世界

エジプト文明:中王国時代② 第11王朝の歴史/宗教史

再統一のことは前回書いたので、それを差し引いた第11王朝の歴史を追ってみよう。

政治・行政・軍事

第11王朝の政治・行政については ほとんど分からない。

エジプト再統一前の第11王朝の政治・行政については全く分からない。

再統一後は、ピーター・クレイトン氏の本*1では「各地でおしすすめられた土木事業は、国があまねく安定していたことを証明している」としか書いていない。

wikipediaでは以下の通り。

全土を統一したメンチュヘテプ2世の治世の後半は、長きにわたる戦乱で荒廃したエジプトの繁栄を取り戻すための事業に費やされた。上エジプト長官など古王国以来の官職を復活させるとともに、新たに下エジプト長官を置くなどして行政機構を整備していった。敵対的な州侯は廃し、メンチュヘテプ2世の息のかかった人物にすげ替えていった。一方で、戦いの過程でテーベ側に寝返ったヘルモポリス侯など、戦局に大きく影響した州侯に対してはそれまでと変わらぬ待遇を与えた。

出典:メンチュヘテプ2世 - Wikipedia

軍事については、再統一後は潤滑な交易を行えるようにするための軍事遠征の記録が残っている。第1急湍(アスワン)より南27kmのアビスコで釘で書きつけた碑文がある。同様のものがワディ・ハンママート(東部砂漠)にある。これらはメンチュヘテプ2世治世のもののようだ*2

メンチュヘテプ3世の治世にはソマリアのどこかにあったと考えられているプント国に遠征したという記録が家令ヘネヌーの碑文にある*3

このような交易を容易にするための軍事遠征の動機の何割かが宗教関連なわけだが、研究者たちはかなりの割合が宗教関連だと思っているようだ。

神殿・葬祭殿の建設事業

統一後の歴史はほとんど建設事業の話で埋まっている。これは歴史資料がこれら建造物の中にあるものにほとんど限られているということもあるだろうが、「神々の神殿を美しくすること」がエジプトの王の重要な責務のひとつなので*4、王たちは建築事業に多くの時間を割いたと考えられている。

アンテフ2世はテーベの対岸にカルナック神殿を創設した。第11王朝の神は戦闘の神メンチュ(メンチュヘテプのメンチュ)なのだが、彼の時代には地方の神であったアメン(アムン)がアメン・ラーとして崇められるようになる時期であった。アンテフ2世は「彼の父」アメン・ラーに捧げるとして神殿を創設したが、現在のカルナック神殿の中に彼の記録があるのは、粗く刻み込まれたヒエログリフ銘文がひとつの面に見られる八角柱がすべてだ*5

メンチュヘテプ2世は統一後にテーベの西にあるデル・エル・バハリに葬祭殿を建造した(ここに遺体を安置する玄室が設けられているが遺体は見つからなかった)。デル・エル・バハリはカルナック神殿の対岸に位置していた。

現在、葬祭殿の底部は遺っているが、建築部の部分は遺っておらず、幾つかの案が提示されている。ウィルキンソン氏によると(p118)、ピラミッドのような単純なものではなく、テーベの様式(サフ墓など)とメンフィスの建築要素を加えたものだということだ。思想・宗教的にどのような意味が込められていたのかは分からない。

副葬品としての模型

第1中間期の「葬祭の民主化」はエジプトの哲学と宗教に重大な変化を及ぼし、その変化は葬祭慣行にも影響を及ぼした。各種の模型の埋葬は中王国における私人の埋葬の特徴であり、生活に必要な物が死後においても準備されるのを確実にするためのものであった。このような模型は細やかな描写がされているおかげで、当時の技術や生活について多くの情報を提供している。

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中王国時代の畜牛頭数調査の様子を映した模型。メケトラーの墓から出土した。

出典:エジプト中王国 - Wikipedia

  • メケトラーはメンチュヘテプ2世の治世に宰相になった人物。

もう一つ。

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第11王朝時代のメセフティの墓で発見された2つの精密な木彫りの軍団像(アシュート出土)。前2000年ごろ埋葬されたもので、40人ほどのエジプト人槍部隊とヌビア人射手部隊である(カイロ博物館)。

出典:クレイトン氏/p94

これは当時の軍隊の様子がわかる。

コフィン・テキスト

ダギの石棺に書かれたコフィン・テキスト

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ダギは中王国時代第 11 王朝,メンチュヘテプ 2 世時代のテーベの市長であり,大臣であった人物。見たところ大きな石の箱であるが,中には素朴な絵とヒエログリフが記されている。片側が冥界の王オシリス神への供物,もう一方はミイラ作りの神であり,死者の守護神であるアヌピス神への供物が描かれている。

記されている文字は,古王国時代第 5 王朝にピラミッドの内部に書かれるようになった「ピラミッド・テキスト」を簡略化したり,付け加えたりした「コフィン・テキスト」である。古王国時代には,死後オシリス神になることができるのは王だけだと考えられていたが,中王国時代になると,地方豪族,官僚などの地位にある人物もオシリス神となって来世での永遠の命を得ることができると信じられるようになった。前 2000 年頃 石灰岩,彩色,高さ 110 cm,長さ 291 cm,幅 127 cm ルクソール西岸,シェイク・アブド・アル=クルナ → 松本 (1997)*6

出典:世界の文字

「葬祭の民主化」がここでも見られる。

ピラミッド・テキストについては「古王国時代⑤ ピラミッドと宗教 その3 太陽信仰とオシリス信仰」で書いた。

第11王朝の終焉

なんだか宗教史になってしまったが、情報がそのように偏っているので仕方がない。

さて、終焉。

メンチュヘテプ2世の50年に及ぶ治世の後、メンチュヘテプ3世が継いだ。高齢になっていた彼はそれでも十数年役目を全うし先代の意思を踏襲した。

その次のメンチュヘテプ4世が第11王朝の最後の王だ。この王についてはほとんど記録がない。彼の宰相がアメンエムハトという名で、この宰相がどうやら第12王朝の創設者らしいというくらいだ。もちろん交代劇の中身は分からない。

ただし、この交代劇による目立った戦争の跡も見つからないようで、第12王朝は先代の恩恵をまるまる受け取ることができたようだ。

*1:古代エジプトファラオ歴代誌/創元社/1999(原著は1994年出版)/p95

*2:クレイトン氏/p95

*3:History of Ancient Egypt_第11王朝

*4:トビー ウィルキンソン/図説 古代エジプト人物列伝/悠書館/2014(原著は2007年出版)/p109

*5:ウィルキンソン氏/p109

*6:松本弥/カイロ・エジプト博物館・ルクソール美術館への招待 (古代エジプトの遺宝) /弥呂久

エジプト文明:中王国時代① 第11王朝の「再統一戦争」

中王国時代はエジプト再統一から始まる。

統一したのは、第11王朝第4代メンチュヘテプ2世。

この記事では第11王朝の起源から再統一までを書いてみよう。

第11王朝とは?

エジプト第11王朝 - Wikipedia」によれば、エジプト第11王朝(前2134年頃 - 前1991年頃)は、上エジプト南部の都市テーベ(現在のルクソール)の州侯が自立して建てた政権を指す。

第10王朝の始まりが前2130年頃で前2040年頃まで続くので、2つの王朝は90年ほども両立することになる。

というか第11王朝の方が、第10王朝よりも速く成立しているじゃないか!これはおそらく第10王朝が第9王朝と、第11王朝が第12王朝と継続しているからなのだろう。

上で書いたように、第11王朝第4代メンチュヘテプ2世が前2040年頃に第10王朝を滅ぼし、上下エジプトを統一する。

テーベ州侯時代

王朝成立から少し遡ってみよう。

テーベ州侯は「アンテフ(インテフ)」という人物まで遡ることができる。「Eleventh Dynasty of Egypt - Wikipedia英語版」では、彼は「Intef the Elder」と書かれている。

Intef the Elder - Wikipedia英語版」によれば、この人物は、テーベだけではなく、南はアスワン(エジプトの南限)、北はコプトスのすぐ南まで支配していたという。

彼を世襲したのはメンチュヘテプ1世。「Mentuhotep I - Wikipedia英語版」によれば、彼は先代の支配領域もまるまる受け継いだ。

さてここで問題が起こる。

前々回に紹介したヒエラコンポリスの州侯アンクティフィだ。

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前22世紀末-前21世紀初頭頃のエジプト

出典:エジプト第11王朝 - Wikipedia

  • アンクティフィは第9王朝時代の人物だが、とりあえず上の勢力図と同じ状況だと仮定して話を進める。

テーベ勢力はアスワンからコプトスの北まで支配しているはずなのにこれはどういうことだろう?ココらへんの説明を探したのだが見当たらなかった。

というわけで、推測してみよう。

テーベ州侯時代の戦いの時系列

  • まず、テーベ州侯がアンテフ(Intef the Elder)だった頃は、彼はテーベ以南の上エジプトを支配していた。メンチュヘテプ1世はこれを世襲した。*1

  • テーベ勢力(おそらくメンチュヘテプ1世)がコプトスを攻撃する。この頃コプトスの知事はチャウティといい、ヘラクレオポリス王家の忠実なしもべであった。彼の代か次の代かは分からないが、コプトスはテーベ勢力下に組み込まれることになる。*2 *3

  • テーベ勢力がコプトスとの戦いに専念しているうちにアンクティフィがテーベの南に位置するヒエラコンポリスで自立した(反旗を翻したと言ってもいいかもしれない)。彼は隣州のエドフを併呑し、さらにエレファンティネ(エジプトの南端アスワンの付近の州)と同盟した。これはヒエラコンポリス以南を勢力下に置いたことを意味する。テーベ勢力はコプトスを勢力下に組み込むことに成功した後、ヒエラコンポリスとの戦いに専念しなければならなくなった。(アンクティフィがテーベ勢力に反旗を翻して独立した、とはどこにも書いていないが、アンテフ(Intef the Elder)がテーベ以南を支配していたのが事実ならば、アンクティフィは「反旗・独立」したことになる)

  • メンチュヘテプ1世の後継者アンテフ1世が王を名乗った。しかしこの頃はまだテーベとコプトスしか支配できていなかった。ただし彼の代でヒエラコンポリス勢力を攻め滅ぼし(おそらくアンクティフィの死後)、コプトス以南を支配下に置いた。(アンテフ1世 - Wikipedia

  • アンテフ1世の後継者アンテフ2世がアビュドス(アビドス、ティス)を併呑した。アンテフ2世は進撃をさらに進めて、中エジプトの第10県まで落とし、アシュートに迫った。しかしここで第10王朝側から巻き返され、結局テーベ勢力と第10王朝の境界はアビュドスの北に設定された。*4

  • アンテフ2世の後期の治世は第10王朝との和平が継続した。両者は互いに交流し、各々の問題に取り掛かることができた。アンテフ2世は、神々のために各地で建設事業を行った*5。後継者アンテフ3世の短い治世については あまり知られていない。

  • アンテフ3世の後継者メンチュヘテプ2世の治世14年にアビュドスで反乱が起こった。この事件がどのようなものかは知られていないが、これをきっかけに彼は第10王朝への攻撃を開始した。治世21年目(前2040年)頃にヘラクレオポリスを陥落させ、治世第39年(前2022年)頃には第10王朝最後の王を下し、エジプトを完全に統一することに成功した。*6

以上。

幾つかの文献で食い違いが発生しているが、上のシナリオが成立するために都合の良い説を採用した。わからないところは推測でカバーした。

図説 古代エジプト人物列伝

図説 古代エジプト人物列伝



*1:Intef the Elder - Wikipedia英語版Mentuhotep I - Wikipedia英語版 

*2:トビー ウィルキンソン/図説 古代エジプト人物列伝/悠書館/2014(原著は2007年出版/p99-100

*3:Mentuhotep I - Wikipedia英語版」ではメンチュヘテプ1世はコプトスと同盟したとしているが、これが事実だとしても支配下に組み込まれたことに変わりはない。

*4:エジプト第10王朝 - Wikipediaエジプト文明:第1中間期② 第9王朝、第10王朝 - 歴史の世界も参照

*5:図説 古代エジプト人物列伝/p109

*6:メンチュヘテプ2世 - Wikipedia

エジプト文明:第1中間期③ 文化の変容

古王国時代の崩壊とともに、それまでの文化も破壊された。

飢餓をも含む絶望的な状況から回復する中で、旧来の文化の復活とともに新しい文化も興った。

文学作品に現れる当時の悲惨な情景

前々回の記事「第1中間期① 第7王朝、第8王朝」で書いたように、古王国時代末期に気候変動が起こり、ナイル川の水位が低下し古代エジプトは数十年に及ぶ飢餓を経験した。このような中で、古王国時代の文化も破壊された。

その当時の情景を語る物語がwikipediaの記事で紹介されている。

当時の雰囲気を伝える文書として『イプエルの訓戒』と呼ばれる文学作品が知られている。

旧秩序の崩壊と社会の混乱を指摘し、現状の変革などを主張するこの文書には、同一の導入句を反復する形式に沿ってエジプトの混乱が描写されている。それによれば門番や職人や洗濯屋が自らの仕事をせず掠奪に出かけており、海上の支配権はクレタ人に奪われ、下エジプトには蛮族が侵入して「エジプト人となった」[注釈 6]。掠奪者は至るところに現れ、ナイルが氾濫しても土地を耕すものも無く、貴族たちは嘆き、貧乏人は喜びに満ちた。富も失われ、死者をミイラとするための材料も無く、上エジプトは内戦のために租税を納めなくなった。老人も若者も「死んでしまいたい」と言い、幼児は「産んでくれなければよかったのに」といい自殺者があふれた。呪文は民衆に知れ渡ったために効力を失い、王は民衆によって廃され、貴婦人は筏の上に住み貴族達は強制労働に従事していたという。

貧乏人による掠奪、貴族の没落、納税の停滞などを嘆くこの文書は、古い有力者の立場を代弁したものであると考えられるが、当時のエジプトを襲っていた厭世的な雰囲気をまざまざと知ることができる。また解釈を巡って議論のある文書ではあるが、『生活に疲れた者の魂との対話』と呼ばれる文書でも「善はいたるところで退けられ、地を歩む悪は止まるところがない。」と語られている。

  • [注釈 6]文書内では「人となった。」と表記されている。本当の「人」とはエジプト人のみであるとする伝統的な見解が存在した

出典:エジプト第1中間期 - Wikipedia

引用の中の『イプエルの訓戒』や『生活に疲れた者の魂との対話』は第1中間期より後世に作られたかもしれないが、これらの情景は「古王国時代⑪ 政治・行政の歴史 後編」で紹介した第9王朝時代(前2160年頃 - 前2130年頃)のヒエラコンポリス州侯アンクティフィの岩窟墓の壁面の文と合致する。

民主化

古王国時代において永遠の来世の観念は既に成立していたが、そのための手続きは王によって保証された。王は臣下の来世を保障するために臣下の墓に対しても供物を供給していた。しかし中央権力の瓦解とともに、王による来世の保障は説得力を持たなくなった。かつて王によって独占されていた葬祭儀礼は臣下の間にも広がり、各人は独自に葬祭儀礼を行って来世を保障する努力を行った。王の永生を保障するピラミッド・テキストに類似した呪文が臣下の墓にも記されるようになり、これはコフィン・テキスト(棺柩文)と呼ばれている。こうした動きはやがて一般民衆にまで及んだ。この過程は葬祭の「民主化」と呼ばれている。

出典:エジプト第1中間期 - Wikipedia

この引用文の後にオシリス信仰についても書いている。

オシリス神は冥界の王として知られ、第5王朝末には、王は死後に冥界の王オシリスと合一するということになっていた*1

これが第1中間期になると「人は死ねば誰もがオシリス神となり、復活して来世を迎える」という信仰になった。まさに終末思想だ。日本の平安時代末期の末法思想も同じだろう。

上の引用元によれば、「第11王朝によるエジプトの再統一を迎えると人々はこぞってアビュドスへの巡礼を行」ったとしているが、この顛末がちょっと面白い。

中王国時代に神官たちが、第1王朝のジェル王の墓を冥界の神オシリスの埋葬地と断定して以来、アビドスは聖地として重要な巡礼の中心地となった。年に1度、オシリスとその復活を祝う祭礼がおこなわれ、国中から巡礼者が訪れた。

出典:特集:古代エジプトの聖地 アビドス 2005年4月号 ナショナルジオグラフィック NATIONAL GEOGRAPHIC.JP

文学作品に見える「社会正義」

上述の「エジプト第1中間期 - Wikipedia」には『文学作品が伝えるエジプトの思想上の「革命」』というものがある。

さらにこの節の中で「社会正義」について書かれている。

社会正義とは何か?

孤児や寡婦に代表される社会的に弱い立場にある人たちを、強い立場にある人たちの搾取や抑圧から守り、弱い立場にある人たちの正義が蹂躙されたときには、その正義を回復すること

出典:中田一郎/メソポタミア文明入門/岩波ジュニア新書/2007/p106-108

上の引用はウル第三王朝のウルナンム法典についての記述だが、ウルナンム法典が およそ前2100年頃に作られた。ほぼ同時期に社会正義の論が起こったことになるが、なにか関係があるのかもしれない。

さて、エジプト側の社会正義はどのように現れたのだろうか?

第1中間期初頭の混乱は国家との結びつきの強い官吏や神官にも強い衝撃を与えた。彼らは文字を操ることのできる知識階級でもあり、創造神によって定められた宇宙の秩序(マート)の体現者たる王に仕えてマートの維持に貢献するならば、現世における成功が与えられるという理念を古くより持っていた。しかし第1中間期に入り、もはや旧来のような安定した地位の維持や俸給、供物の確保が不可能となり、また彼らが信奉した倫理、道徳的価値観も失われていく中で、彼らの価値観も変容を迫られた。上述の『イプエルの訓戒』においても批判の矛先は従来絶対的存在として扱われていた王やその上にいる神々にさえ向けられることもあった。

一方で、神々に対する崇拝はなお思想の根幹でありつづけ、神は正義の規定者であり続けた。神を正義とする前提のもと、秩序を維持する責任は人間にあるとして、神の定めた正義の下に秩序を確立する最高責任者としての王の役割を強調されるようになっていった。それを反映して従来神の化身であるとされた王のための「教訓」を述べる文学も成立した。第10王朝の王メリカラーに対する『メリカラー王への教訓』がそれである。

更に王はマートを維持する義務を負うが、王によって統治される人々の側にもマートの実現を要求する権利があり、むしろ自ら進んで要求しなければならないという主張も成立した。不当に財産を奪われた農夫が雄弁を振るってそれを取り返す『雄弁な農夫の物語』はまさにこうした考えを全面に出した作品である。

出典:エジプト第1中間期 - Wikipedia

『イプエルの訓戒』は王または神々に対して、眼の前の惨状を語りながら「あなた方は秩序(マート)を保つ義務がある。役目を果たしてください!」と訴えている。

『メリカラー王への教訓』では、王(メリカラー王)に「社会正義を遂行せよ」と繰り返し強調している。

古王国時代の認識では、王は神の化身であり死後も永生が保証されていたが、『メリカラー王への教訓』では死者の「最後の審判」(閻魔大王の裁きのようなもの)を受けるとされた*2

王は社会正義の遂行(すなわちマート(マアト)の保守)を全うしたかどうかが裁かれる。*3

『雄弁な農夫の物語』の内容は、主人公の農夫が貪欲な官吏に持ち物(財産)を不当に取り上げられてことを上官に「社会正義を果たせ」(持ち物を返せ)と訴えて、最終的に取り返す、というものだ。

以上、3つの物語に共通する社会正義は、古王国時代からある考え「マート(マアト)」の一部ではあるが、第1中間期からの新しい風潮は、王が社会正義の遂行を強調しているところであり、「王によって統治される人々の側にもマートの実現を要求する権利」がある、ということにある。

ところで、これらの物語の成立は第1中間期ではなく、中王国時代であったかもしれない。第1中間期であったとしても、おそらく末期で、やはり多くの読みては中王国時代の人々だったろう。

中王国時代は「第1中間期を通じて各地で勢力を延ばした州侯やその他の有力者達は、中王国の覇権を認めてはいても無視できない力を持っていた」*4という状況で、王朝の権威は他を圧倒するものではなかった。おそらく社会正義をまっとうしないような場合は、反乱の危険性は古王国時代の比では無かっただろう。

新王国時代になると、このような価値観は無くなったようだ。

エジプト神話集成 (ちくま学芸文庫)

エジプト神話集成 (ちくま学芸文庫)



*1:古王国時代⑤ ピラミッドと宗教 その3 太陽信仰とオシリス信仰」参照

*2:第1中間期にすでに「最後の審判」の観念が生まれていた

*3: 杉 勇 , 屋形 禎亮 (翻訳)/エジプト神話集成 /ちくま学芸文庫/2016(『筑摩世界文学大系 1 古代オリエント集』(1978年)の「エジプト」の章を文庫化したもの)/p632-638

*4:エジプト中王国 - Wikipedia 

エジプト文明:第1中間期② 第9王朝、第10王朝

第9王朝(前2160年頃 - 前2130年頃)

ラクレオポリスは上エジプト第20県(ナルト・ケンテト)の首都であり、ここに拠点を置く州侯は統一王朝の弱体化につれて自立勢力となった。ヘラクレオポリス侯だったケティ1世(メリイブラー・ケティ)は上下エジプト全域の支配権を手にして王を名乗った。上エジプトから僅かに発見されるケティ1世の遺物から、彼の権威が他の州侯達に認められていたことが窺われる。

マネトは第9王朝には19人の王がいたと伝えるが、彼が名前を記録している王はアクトエス1人だけである。これは第9王朝時代の王名ケティ、もしくはアクトイに対応すると考えられる。マネトによればアクトエスは以前の王達より残酷に振る舞い、全てのエジプト人に災難を齎した。そして最後は発狂し、ワニに殺されたという。このような伝承は、第9王朝の王が何人かの州侯を倒したことに対する反発から生まれたとする見解もあるが、史実性は不明である。一方でトリノ王名表では第9王朝に13人の王を当てている。また、いくつかの史料からネフェルカラー7世(またはカネフェルラー7世)という王の存在が知られている。

出典:エジプト第9王朝 - Wikipedia

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Copper container with Meryibre Khety's royal titulary. Paris, Louvre.

出典:Meryibre Khety - Wikipedia

  • ケティ1世の名のある銅製容器。

第9王朝が「上下エジプト全域の支配権」を手にしたと書いているが、おそらくこれは、本当に全域を支配できたわけではなく、第8王朝から王権を簒奪したことを意味しているのだろう。

エジプト学者の中には、この(古来からの王統を継承していた)第8王朝の滅亡を持って古王国時代の終わりとする向きもあるが、たぶん、少数派だ。

マネト(マネトー、マネトン)については「王朝時代の王名表/誰がエジプトを統一したのか?」で書いた。

アンクティフィの記録

第9王朝の記録を遺す遺物がほとんど無い中で、アンクティフィの墓の記録は重要だ。この墓の石碑に書いてある当時の社会的な惨状については「古王国時代⑪ 政治・行政の歴史 後編」で書いたが、彼が石碑に遺した「自伝」は貴重な記録となっている。

彼はヒエラコンポリスの州侯で、第9王朝第3代と考えられているネフェルカラー7世治世の人。

アンクティフィの頃にはすでにテーベ政権(第11王朝)が建てられていて、彼はこの勢力(メンチュヘテプ1世ら)と終始対峙していた。

第10王朝(前2130年頃 - 前2040年頃)

第10王朝は第9王朝の後継でヘラクレオポリスを拠点とする政権だが、両者の関係については不明。またどうして別れているのかも不明。

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前22世紀末-前21世紀初頭頃のエジプト

出典:エジプト第11王朝 - Wikipedia

上述のアンクティフィ亡き後、テーベ政権のアンテフ2世がヒエラコンポリス勢力を倒し、テーベ以南の上エジプトを呑み込んだ。さらにアンテフ2世は北上し勢力を広げた。

この時の第10王朝はケティ3世の治世だ。

第10王朝が比較的安定した時代を迎えるのはケティ3世の治世である。彼の時代に、第11王朝の王アンテフ2世による攻撃があり、一時は上エジプト第10県までが第11王朝の支配下に落ちた。しかしケティ3世はアシュート(古代エジプト語:サウティ[注釈 3])侯テフィーブの協力の下でこの攻撃を退け、逆に南下してアビュドスを占領することに成功した。この成功を背景に、第11王朝との間に元のアビュドス北の国境線で停戦するという合意を結ぶことに成功し、その後は友好関係の構築に尽力した。こうして南方国境を安定させると、下エジプト地方の統制回復に力を注ぐべく軍を北に向けた。

出典:エジプト第10王朝 - Wikipedia

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ノモスの位置。特に下エジプトについては未確定の要素が大きいことに注意。メンフィス(Memphis)の南が上エジプト、北が下エジプト。

出典:ノモス (エジプト) - Wikipedia

ケティ3世が王太子メリカラーに対して与えた教訓であると伝えられる文書がある。これは現在『メリカラー王への教訓』と呼ばれており、かなりの部分が現存している。この文書は当時の王の責務など、王権観に関する記述や、倫理、政治的な問題に関する記述が多くある他、第10王朝が置かれた状況下で取るべき政策について論ずる記述も含まれており、当時の歴史を知るための第一級の史料である。文書の形式としては『カゲムニへの教訓』などの文書と同じ形式に従っている。

この文書で、ケティ3世は下エジプトにおいて海岸に至るまでアジア人を撃退し、彼らによって破壊された土地は行政区に分け、都市を築いてアジア人を撃退するための兵士で満たしたと宣言する。その上でメリカラーに対し、「自分のやったこと以上のことをやれる者を見たいものだ。」と語り、アジア人に対する対策法をかなり具体的に教えている。また、それとは別に南方(通常第11王朝と解される)との間の友好を保つように述べ、それによって南部の建材は「妨害されることなく」メリカラーの下に届けられるだろうと述べている。

ケティ3世の没後にメリカラーが王位についた。彼は下エジプトに侵入していたアジア人に対抗するためにメンフィスに一万人の兵士と役人を駐留させた。さらにメリカラー自らが下エジプトの防備を強化するために建築事業を強力に推進した。また第10王朝の王達は、ヘラクレオポリスから統治していたとしても、古王国からの伝統ある聖域であるサッカラをはじめとしたメンフィスの近郊に自らの墓を構築したようである。

出典:エジプト第10王朝 - Wikipedia

以上の歴史の流れを見ると、エジプトはアンクティフィの頃のような絶望的な状況からは脱することができたのかもしれない。

メリカラーは先王の教訓を守って南方と争うことはしなかったが、南方から戦争をしかけられた。

戦争の原因としてティニス(=ティス、アビュドス)の反乱が上がっているが、よく分かっていないらしい。しかしこれをきっかけにテーベ勢力(第11王朝)のメンチュヘテプ2世が猛攻してきた。

複数の州侯の寝返りなどがあり、第10王朝の勢力圏は大幅に縮小した。そしてメリカラー王の死後数年後に滅亡した。



エジプト文明:第1中間期① 第7王朝、第8王朝

第1中間期は、古王国時代と中王国時代の間の混乱期を指す。文字資料も考古学的資料も かなり少ないので分かることだけ集めて、書いておこう。

もう一つ。古王国時代の崩壊の原因である気候変動について書く。この問題は第1中間期を覆う問題だ。

気候変動(寒冷化)

古王国時代の崩壊と気候変動(寒冷化)については前回紹介した。この寒冷化は崩壊後も続いたことも前回に書いた。

ここで、気候変動について少し詳しく書いておこう。

古王国時代の崩壊の原因の一つが気候変動であるという説は、近年に主張されたものだ。

この説のキーパーソンはフェクリ・ハッサン(Fekri Hassan)。彼の説を中心としたTV番組が少なくとも2つ制作されている。

一つは、前回書いた西村洋子氏のウェブページ*1で紹介されているディスカバリーチャンネルの番組「エジプト王朝滅亡の謎」。

もう一つは、BS朝日で放送されたBBCの番組「古代の黙示録:エジプト古王国の滅亡」。この番組の原題は「Ancient Apocalypse - Death on the Nile」で2001年に放送されたものだ。元の番組の方の紹介は「Mysterious Questions In The World」というブログの記事「エジプト第一中間期の不思議」でされている。

BS朝日のウェブページから一部引用しておこう。

今から4200年ほど前、古代エジプトの古王国が謎の崩壊を遂げる。崩壊の謎に挑み、驚くべき事実を発見したのがエジプト人考古学者フェクリ・ハッサン教授である。教授は、古王国が王ファラオの後継者争いで滅亡したとする通説に疑問を抱いた。そのきっかけとなったのが、1971年に発見された、古王国滅亡直後の州侯アンクティフィの碑文である。そこには、エジプト南部が壊滅的な飢饉に見舞われ、飢えた人々が我が子を食べるに至ったとの、ショッキングな記述があった。果たしてそれは真実なのか。ハッサン教授の30年に渡る検証が始まる。

1996年、エジプト北部のナイル・デルタで、古王国時代末期の9000体に及ぶ骸骨が発掘された。古王国崩壊には、自然環境が関係していると直感していたハッサン教授は、エジプトの恵みの源であるナイル川に注目する。毎年定期的に氾濫し、肥沃な土をもたらすと信じられていたナイル。教授は、実は数年に一度は氾濫時の水位が低く、不作を招いていたことを突き止めるが、それだけでは、150年は続いた古王国崩壊後の暗黒時代は説明できない。

出典:古代の黙示録:エジプト古王国の滅亡 - BS朝日/ BBC地球伝説

最終的にハッサン教授が辿り着いたのが気候変動だったというのがこの番組のキモだ。

この気候変動は、「4.2kイベント」と呼ばれるもので、「4.2 kiloyear event - Wikipedia英語版」によれば、寒冷化は前2200年から約100年間続いたとされている。これは地球規模の現象で、例えば隣の地域のメソポタミアではアッカド王国が滅亡したのもこの気候変動が原因だという説もある。

この気候変動でエジプトはどのように環境が変わったのか?箇条書きにしてみよう。

  • 寒冷化により、ナイル川上流の降水量が激減した。
  • ナイル川の水位が下がり、ナイル河谷やデルタの農地に水が行き渡らなくなる。
  • 旱魃が起こる。餓死者が大量発生(古代エジプトは農産物のほとんどをナイル川に頼っていた*2 )。
  • 古王国時代の崩壊。その後もエジプト全土を飢餓の危機が覆う時期が続いた。

この説の証拠を箇条書しよう(BS朝日の番組紹介文と西村氏のディスカバリーチャンネルの番組の記録より抜粋)。

  • 第9王朝(紀元前2160年頃 - 紀元前2130年頃)の第3ノモスの君主アンクティフィー(アンクティフィ)の墓の碑文に当時「壊滅的な飢饉に見舞われ、飢えた人々が我が子を食べるに至った」ことが記されている*3。(ハッサン氏はこの碑文を見て古王国時代の崩壊の原因は天災だったのではないかと思うようになった。また、この碑文は崩壊後も最悪の事態は続いていたことを物語っている)。

  • 「1996年、エジプト北部のナイル・デルタで、古王国時代末期の9000体に及ぶ骸骨が発掘された。」*4

  • 「エル・マンスーラはデルタに存在した古王国の大都市でしたが、古王国以降の土器が発見されていません。デルタの他の集落跡でも同様で、デルタには古王国には27も集落跡があったのに、古王国崩壊直後にはたったの4つに激減していました。古王国はデルタの農業、牧畜、漁業で支えられていました。もしナイル川の氾濫が無いと、それらの産業もピラミッド建設も出来ません。」*5

  • ハッサン氏がファイユーム地方のカルーン湖で数箇所ボーリング調査をしたところ、この湖が古王国時代崩壊の時期の数十年のあいだ干上がっていたことが分かった。「積もっていた古王国時代の堆積物は乾燥して、風で持ち去られてしまったのだ!」*6

第1中間期の様相は「古王国時代は天災により崩壊した。人々は飢餓に苦しみ、人口は激減した。しかし、残った人々によりエジプト文明は なんとか受け継がれて次の時代に受け渡された。」といったところだろう。

第7王朝、第8王朝(前2181年-前2160年)

第7王朝の資料は ほとんど無い、というか第7王朝の存在自体がフィクションではないかと言われている。

第8王朝に関しては、資料は極少ではあるものの遺っており、この王朝は第6王朝の後継者であるらしい。少なくとも王朝は そのように主張している。

第8王朝の有名な遺物はカカラー王のピラミッドとコプトスの勅令の石碑。

カカラー王のピラミッドは第1中間期の唯一のピラミッドだが、底辺の長さが31.5mとかなり小さい*7クフ王:230m、第6王朝歴代王:78m)。

これより重要な史料がコプトスの勅令の石碑だ。

コプトスの勅令の石碑についてwikipediaでは以下のように書いてある。

第6王朝のペピ1世の治世から第8王朝にかけてコプトスで公布された勅令を記した石碑。全部で18の石碑の断片から成り、そのうち12個が第8王朝の時代に公布された。同王朝の歴史を知る数少ない史料で、勅令の中身が王権が衰退していく様子を反映している。

出典:エジプト第8王朝 - Wikipedia

この石碑(石碑群?)によって、第8王朝が第6王朝の後継政権であることが分かる。

Coptos Decrees - Wikipedia英語版」によれば、その内容は、第6王朝の文がコプトスのミン神殿(の神官たち?)への税免除などで、第8王朝のものはシェマイというコプトス出身の高官(おそらくコプトスの州侯)とその家族に関する記述がある。

wikipediaのページから再び引用。

王朝後期に在位した4人の王については僅かながら情報があり、上エジプトのコプトス侯シェマイによる勅令が刻まれた石碑で言及されている。 [中略] シェマイという人物はカカラーの次の王ネフェルカウラーの治世中に上エジプトの長官を務めており、次のネフェルカウホル王の代には王の娘ネビエトと結婚して宰相の地位に就いたという。彼の代に出されたコプトスの勅令の内、八つはネフェルカウホルの治世中に公布されたことが石碑の記述から判明している。 上エジプト長官の地位は古王国時代から上エジプト諸州を統括する者として設けられており、第8王朝が第6王朝と同じように上エジプトの有力諸侯と姻戚関係を結ぶ政策を採っていた事が分かる。

出典:エジプト第8王朝 - Wikipedia

さて。第8王朝は上で書いた程度のことしか分からないのだが、エジプト全体としてはどのような状況だったのか?以下に引用。

中王国時代のパピルス文書は、王国として政治的にも全くの無秩序におちいった第1中間期の騒乱を記録している。

[中略]おそらくペピ2世の末裔である第8王朝の王(アビドス王名表にある約17人の王)がメンフィスに住んで、全土の覇権を主張していた。だが実際には、デルタ地方ではすでに東方からのいわゆる「アジア人」に侵略されており、またテーベはもはや上エジプトの第4ノモス(州)の首都ではなくなっていた。また、ヘラクレオポリス(現代のベニ・スエフ近辺)が中部エジプトの中心となり、第8王朝の国王は、メンフィス周辺の限られた地域しか掌握していなかった。

出典:ピーター・クレイトン/古代エジプトファラオ歴代誌/創元社/1999(原著は1994年出版)/p90

第8王朝の王が約17人とあるが、確実に実在したとされるのは4~5人だそうだ。

第8王朝の最後はヘラクレオポリス勢力(のちの第9王朝)によって打倒された。



*1:My Notebook-5_西村洋子の雑記帳 (5)」の2008年9月22日(月)の記事

*2:ナイル川と農産物の関係については「ナイル川下流域 -- エジプト文明の舞台」の節「ナイル川は生命線」で書いた。

*3:BS朝日の番組紹介文

*4:同上

*5:西村氏のページより引用

*6:上述のブログ「Mysterious Questions In The World」のBBCの番組の記録より

*7:Qakare Ibi - Wikipedia

エジプト文明:古王国時代⑪ 政治・行政の歴史 後編

第5王朝

この時代になると、官僚組織から王族が撤退するようになる。このことについては「太陽信仰とオシリス信仰」で書いた。

高宮氏は「第4王朝半ば頃のメンカウラーの治世から王族以外が宰相に任命されるようになり、官僚職の王族離れが始まった」(p172)としている。

王族でなければ誰が官僚になったのだろうか? ヘリオポリスの神官たちとしか考えられない。

エジプト第5王朝 - wikipedia」によれば、「[第5]王朝の祭儀や行政的な面ではラーを祭るヘリオポリス古代エジプト語名イウヌ)が重要性が増していた(クレイトン 1999, p.251*1 )」とある。

世界史的に前近代において、行政レベルの文書を扱えるのは役人か宗教徒の上層だけだ。

第5王朝からの祭祀儀礼や行政の複雑化・肥大化によって、ヘリオポリス出身の神官・官僚たちの数は膨れ上がった。それだけでなく、彼らが裕福さを享受していたことが官僚墓の副葬品や内部の壁画などにより、分かっている。

祭祀儀礼や行政の複雑化・肥大化は古王国時代の衰退の一因とされているが、第4王朝まで王族に独占されていた美術方面の文化が王族以外の神官・官僚たちにより下層に拡散されていった、とも言えるかもしれない。

地方行政もこの時期に行政の複雑化・肥大化が始まっている。第4王朝までとは違い、「官僚たちが担当地域に居住するようになっていたと推測される」(高宮氏/p177)(ただし上エジプトのみ)。

中央官僚の地方行政に対する関与がどの程度だったかは分からなかった。

第8代ジェドカラー王の治世にオシリス信仰の衰退が起き、オシリス信仰が中央まで及ぶようになった。このことについても「太陽信仰とオシリス信仰」で書いた。

下は西村洋子氏のウェブページからの引用。

王は太陽礼拝を放棄し、太陽神殿を建造しませんでした。そのため、ラー神の礼拝は重要性が減少し、オシリス神の礼拝が表立つようになりました。一方、アブシールでの諸王の葬祭礼拝の再編成を行いました。その結果、諸王の葬祭礼拝に関わる官職とその特権は今や下級官吏たちに与えられました。

出典:西 村 洋 子/History of Ancient Egypt_第5王朝/2006年9月16日

ただし、太陽信仰の勢力は抑えられたものの、官僚の肥大化は止められなかったか一時的なもので終わってしまったようだ。官僚の肥大化は古王国時代の衰亡の原因の一つとして挙げられている。

第6王朝

エジプト第6王朝(紀元前2345年頃 - 紀元前2185年頃)は、エジプト古王国時代古代エジプト王朝。エジプト古王国時代最後の王朝であり、その初期には活発な対外遠征を繰り返して周辺諸国を征服した。やがて第6王朝の中央権力の弱体化とともにエジプトの各地で州の長官たちが自立勢力となり、第1中間期と呼ばれる分裂の時代が訪れた。この王朝の崩壊を以ってエジプト古王国の終焉とされる場合が多い。

出典:エジプト第6王朝 - Wikipedia

官僚の肥大化の様子は初代テティ王の治世から窺える。

王のピラミッドを挟むように2人の宰相、メレルカとカゲムニのマスタバ(墓)があるが、これらはピラミッドに匹敵するほど巨大で、内部は見事な壁画で飾られている。この2つの墓は現在は観光スポットになっている。

f:id:rekisi2100:20180730161042p:plain

出典:カゲムニのマスタバ墳 - JTB 海外観光ガイド

世襲化したノモスの太守(州侯)の勢力も盛大で、上のwikipediaのページには「当時エジプトでは州侯(各州の太守)や上級官吏の勢力が増大しており、テティは婚姻によって有力官吏家との関係を強化することを志向した」とある。

第6王朝は古王国時代の最後の王朝なので、最初から衰退してゆくイメージを描く資料が幾つか見られる。官僚や地方勢力の肥大化によって王の権威が以前よりも落ちたことは事実だろう。

しかし、引用の前半を読むだけでも分かるように、この時期も繁栄した時期があることが窺えるし、リンク先を読めば単純に衰亡しているだけではないことが分かるだろう。

遠征・海外交流

この時代の遠征・海外交流の記録が幾つか遺っている。これらによると、王たちは四方に遠征隊を派遣し、多数の物品を輸入し、交易路を整備し、外敵に勝利した。

これらの内容は上述のwikipediaのページの他に、西村洋子氏のページ「History of Ancient Egypt_第6王朝」に ほどよい長さの文章で説明されている。

エジプトから海外への輸出品は穀物や東部砂漠から採れた金や鉱物だったと思われる。

衰亡への道

不可逆的な衰退は第5代ペピ2世の後半に現れる。

ペピ2世の長期に渡る統治の後半になると、王権の統制が地方へと及ばなくなりはじめた。元々第5王朝以来、行政機構の整備に伴って激増した官吏達の報酬の確保が困難となっていた。このため、元来葬祭儀礼等に関わるピラミッド都市などの管理職や領地を給与・恩賞として与える政策を採っていた。この政策は有効であり、第6王朝の長い安定と対外遠征の勝利はこうした処置によって得られた強力な官吏に支えられたものであった。そしてこうした役職や給与を下賜することによって王自体も官吏らに対する権威を保っていた。しかし、これは長期的には官吏の勢力を王の手の付けられない規模まで拡大する効果も齎した。既に第6王朝の初期から州侯職を世襲する有力家系が発生していた。上述のクウイ家もそうした家の1つである。ペピ2世の治世後半にはこれら州侯に対する中央政府の統制は緩んでいった。取り分け上エジプトの長官(ヘリー・テプ・アー)が、上エジプトの地方神殿の管理権を手中に収めるなど、上エジプトにおける第6王朝の影響力は大幅に減退した。

ペピ2世が死去する頃には中央集権国家としてのエジプト第6王朝は既に有名無実のものになっていた。彼の死後相次いで王位についたメルエンラー2世(メルエンラー・ネムティエムサク2世)とネチェルカラーは共に極めて短期間のうちに地位を失っている。

出典:エジプト第6王朝 - Wikipedia

衰退のもう一つ大きな原因として、馬場匡浩氏は環境の悪化を挙げている。

古王国時代後半は地球規模での寒冷期(4.2kイベント)であり、ナイル川の水位が低下した。それにより不作が続き、争いが絶えずおき、疫病が蔓延した。

出典:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p110

「4.2kイベント」とは、およそ前2200年(4200BP。「BP」については「BP (年代測定) - Wikipedia」参照)に起こったとされる寒冷期。メソポタミアアッカド王国もこの寒冷化が滅亡の原因だという説もある。

古王国時代の次の時代は「第1中間期」と言うが、この時代の中の第9王朝(紀元前2160年頃 - 紀元前2130年頃)の第3ノモスの君主アンクティフィー(アンクティフィ)の岩窟墓の壁面に以下のように書かれている。

私は飢えた人にパンを与え、裸の人に服を与えた。私のオオムギは、南は下ヌビア、北はアビドスまで運ばれた。上エジプトの人々は飢餓で死にそうで、子供を食べる人までいる。しかし私のノモスでは飢えで死ぬようなことはさせなかった。

出典:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p114

引用したページでは社会的混乱としているが、その社会的混乱の原因は寒冷化なのだろう。

古王国時代の崩壊についても西村氏のウェブサイトで紹介している(「My Notebook-5_西村洋子の雑記帳 (5)」の2008年9月22日(月)の記事)。




これで古王国時代はおわり。


*1:古代エジプトファラオ歴代誌』 吉村作治監修、藤沢邦子訳、創元社

エジプト文明:古王国時代⑩ 政治・行政の歴史 前編

政治史+行政史+経済史を語れば、普通はその地域の歴史としてほぼ十分なのだが、古王国時代は逆にピラミッドの歴史が9割超を占め、その他はおまけになってしまっている。

この記事では、政治・行政・経済の歴史中心としたの話を書こう。ただしほとんどの歴史(考古学)資料はピラミッド関連なので、結局ピラミッド関連の話に見えてしまうだろう。

なぜピラミッド史が古王国時代の歴史の9割超も占めているのか

古代エジプトの舞台については「ナイル川下流域 -- エジプト文明の舞台 - 歴史の世界」で書いたが、人々が生活していた場所は沖積地と呼ばれる場所だ。ここはナイル川が増水すると冠水するが、人々は微高地に住んでいる。

そしてこの場所は度重なる堆積作用や現在の家屋により遺跡の検出例は乏しい。

それではどこから遺物が検出されるかと言うと、低位砂漠という沖積地の外側の、増水の時も川水が及ばない地域から検出される。ここには墓地や神殿が造られていてその中から遺物がたくさん検出される。古王国時代の遺物のほとんどがピラミッド関連のものとなる。よって、古王国時代を語ることはピラミッド史を語ることと ほぼイコールになってしまう。

もうひとつの理由を挙げるならば、それはピラミッド関連情報に高い需要があるからだ。

古代エジプト史に不案内な人は「古代エジプトと言えばピラミッド」と連想するくらいだから、古代エジプト史を知る中でピラミッド関連の知識を吸収・消化することは不可欠である。

古王国時代の中のピラミッド史(始まり・ピーク・衰退)を語るとともに、ピラミッド関連情報を書けば、この時代の歴史のほぼすべての紙幅が埋まってしまう(逆に言えば、その他の歴史は資料がほとんど無いため長く書けない)。

  *   *   *

前置きが長くなってしまった。歴史の流れを書いていこう。

第3王朝

「ピラミッドの時代」 - 歴史の世界』で引用したものを再び引用する。

第3王朝時代に後世まで継続する官僚組織の体裁が整い始めたことは、少ないながらも、当時の官僚たちの称号や銘文資料からうかがい知ることができる。初期王朝時代の間、王家の需要に応じて随時設けられてきたさまざまな部署と役職を、ピラミッドの建造開始にともなって、国家規模に再組織化することが必要になったのである。ピラミッド建造は、建材の調達や職人や労働者の組織化に始まり、それを経済的に支えるための全国からの徴税組織、関連物資や人員を管理するための組織、さらには王の葬祭を維持するための組織などなどの発達を余儀なくした。そして大型ピラミッドが築かれた第4王朝時代には、さらに大規模な官僚組織が必要になっていった。

出典:高宮いづみ/古代エジプト文明社会の形成/京都大学学術出版会/2006/p171

第3王朝から始まる古王国時代はピラミッド建造のために、官僚・行政組織の増大・整理・効率化が始められた。この行政改革は成功し、古王国時代のピラミッド建造ラッシュの基礎を築いた。ただし、第4王朝までは官僚のほとんどが王族で占められていたようだ。

また第3王朝末から第4王朝初期までにノモス(地方行政単位)の組織が整えられ始めた*1

しかし、ノモスの行政は地元の人間の自治に任せていたようだ(干渉できなかったのかもしれない)。複数のノモスの行政官の称号を持つ官僚の墓が王都メンフィスに居住していた*2

第4王朝

この時代の注目するべき資料は「メレルの日誌」と「ピラミッド・タウン」だ。

「メレルの日誌」については「ギザの三大ピラミッド 前編 - 歴史の世界」で書いた。これにより、ピラミッド建造の物資の流れが分かる。

たとえば、シナイ半島の銅が紅海経由で運搬されていたことが書かれている。紅海とナイル川の間の地域「東部砂漠」は古くから鉱物が採れる場所として開拓され、東部砂漠横断ルートが整備されていたのだろう。ただしメソポタミアとの交流の件については書かれていないか、まだ未発表のようだ。

もうひとつ、「ピラミッド・タウン」については「ギザの三大ピラミッド 後編 - 歴史の世界」で書いた。

ギザの発掘チームの代表者であるマーク・レーナー氏は三大ピラミッドの南東の居住地を「ピラミッド・タウン」と呼んでいる。発見当初は建設労働者の居住地と思われていたが、発掘を進めていくと王宮がある可能性が高いと考えられるようになった。「ピラミッド・タウン」は首都であったということだ。

この件について、高宮いづみ氏は以下のように書いている。

首都メンフィスを単純に固定的な都と考えることはできないかもしれない。第1王朝から第6王朝までの間に、メンフィスはその位置を現在のアブ・シール村から南サッカラ付近までの約5キロメートルの範囲の中で、少しずつ変えていた可能性があることが指摘されており、R.シュタデルマン等は、古王国時代にはピラミッドが建設された場所の近くにそれぞれの王が居住していたと考えている。すなわち、王や官僚たちはピラミッドの造営地の近くに王宮と首都機能を移動させていたわけで、メンフィスに長期間の固定的な首都を設けていたわけではなかったらしい。

出典:高宮いづみ/古代エジプト文明社会の形成/京都大学学術出版会/2006/p189-190

もうひとつ、マーク・レーナー氏は「ピラミッド・タウン」と「メレルの日誌」の情報から、ピラミッドおよび「ピラミッド・タウン」まで水路が造られ、しかもそれだけではなく、港まで造られたと考えている。このことも「ギザの三大ピラミッド 後編 - 歴史の世界」に書いた。

古代エジプト文明社会の形成―諸文明の起源〈2〉 (学術選書)

古代エジプト文明社会の形成―諸文明の起源〈2〉 (学術選書)



続きは次回。


*1:高宮いづみ/古代エジプト文明社会の形成/京都大学学術出版会/2006/p176

*2:高宮氏/p176-177。王都メンフィス近辺にそれらの官僚の墓が検出されている