歴史の世界

エジプト文明:古王国時代⑨ ピラミッド史の流れ その4 第5王朝~最後

第5王朝

第5王朝のピラミッド関連のことは「エジプト文明:古王国時代⑤ ピラミッドと宗教 その3 太陽信仰とオシリス信仰」でも書いた。

第5王朝初代ウセルカフ王から宗教上の様式が大きく変わり、王たちはピラミッドを壮麗にすることよりも、宗教儀礼に情熱を傾けるようになった。宗教儀礼の中身は、王の来世における復活再生させるための儀式だ。これは第5王朝末の「ピラミッドテキスト」により類推される(これも上記の記事に書いた)。

その結果、ピラミッドはかなり質の落ちたものになってしまった。

第5王朝になると、概してピラミッド本体は規模が小さくなり、使用される石材も小型になって、建造方法もそれ以前の時期に比べて遥かに手抜きになった。第5王朝以降のピラミッドは、たいてい内部構造の核壁の外側と表装石だけを堅固な石積みにしているが、使用された核石材は概して小型で粗略に整形が行われており、しばしばその隙間の部分には石のかけらや砂が用いられたいたのである。すなわち、ピラミッド本体の規模と建造技術の面においては、第4王朝前半のピークを過ぎるとピラミッドは衰退したのであった。

出典:高宮いづみ/古代エジプト文明社会の形成/京都大学学術出版会/2006/p153

その一例として、初代ウセルカフ王のピラミッドがこちら↓

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ジェゼル王のピラミッドの隣にあるウセルカフのピラミッド[右]

出典:ウセルカフのピラミッド - Wikipedia

右の瓦礫の山としか思えないものがそれ。第3王朝初代ジェゼル王のピラミッドに比べたら、時間の経過で劣化した結果でないことが分かるだろう。

大きさに関して言えば、第3代ネフェリルカラー王を除けば、本体自体の底辺が80m弱のもので定式化されていたらしい(馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p109)*1

第6王朝(最後の王朝)

この王朝のピラミッドや宗教儀礼その他慣例は先王朝のものを踏襲した。

現在においては、第5王朝のピラミッドと同じように、砂礫の中から上層部が突き出しているような姿だ。



*1:ネフェリルカラー王のものは100m超

エジプト文明:古王国時代⑧ ピラミッド史の流れ その3 ギザの三大ピラミッド 後編

前回からの続き

主に、ピラミッド建造の労働者について書いていこう。

スフィンクスについて

上の馬場氏の引用文の後に続けて以下のように書いている。

ちなみに、ギザ大地に鎮座するスフィンクスは、石灰岩の岩盤を彫り抜いて造られたものだが、その周囲の岩盤はピラミッドの石材を砕石したことで堀り下がったとされる。スフィンクスは高さ20mもあり、およそ5階建てのビルに相当する。この高さからも、ギザ台地の地形を変えるほどの大規模な採石活動が行われていたことが理解できるだろう。

出典:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p222

ということで、スフィンクスは建築物ではなく、石像or岩像だった。

ピラミッドの建設労働者たち

西村氏の『雑記帳』の違う記事から引用。

次の講演はマーク・レーナー氏(ハーバード大学及びシカゴ大学教授)による「ピラミッド建設労働者の仕事と暮らし」でした。[中略]

ピラミッド周辺には乗馬場とサッカー場が何十とあり、ブルドーザーで遺跡がどんどん破壊されている状態なので、彼の発掘は実際にはマラソン発掘という遺跡の救済発掘だったそうです。その結果ギザの台地を構成する二つの地層の間にある谷間に大規模な労働者村を発見したのだそうです。ネクロポリスとこの労働者村を隔てる厚さ13m、長さ200mの壁(カラスの壁)によって囲まれ、その中に細長い部屋がいくつもある建物(これが労働者たちの宿泊施設で、2000人を収容可能、二階建てならば4000人を収容可能なもの)、パン焼き場、魚を加工する施設、労働者村を横断するメインロード(労働者に必要な物資を運びこむための道路で、港に通じていた)があることが分かりました。また労働者たちの食糧にするための家畜も多数飼育されていたことが明らかになり、大きな穀物貯蔵施設も見つかっています。遺跡の年代は、ワイン壷の封印の日付けからメンカウラー時代のものと確認されています。さらに掘り進めば、クフやカフラー時代のものも発見される可能性があるそうです。

出典:My Notebook-1_西村洋子の雑記帳 (1)

レーナー氏が来日された時の講演を聴いた備忘録(?)。講演を聴けたなんてとても羨ましい。

以上の話は河江肖剰(ゆきのり)著『ピラミッド・タウンを発掘する』(新潮社/2015年)にも書いてある。ちなみに河江氏はレーナー氏に師事してレーナー隊の一人としてピラミッド関連の発掘調査を行っていた(行っている?)。

「マラソン発掘」については、アメリカの富豪との援助資金の話し合いの中で決められたものだった。それまでの「レーナー隊」は1年に3ヶ月以上の調査を行っていたが、その富豪は まるまる1年発掘をするように提案してきた。それではデータ管理が追いつかないので、「4年間で計21ヶ月の発掘調査を行うことで話がついた、という話。

さて、本題に入ろう。

ピラミッド建設労働者の住む地域は、マーク・レーナー氏により1988年に発見された。レーナー氏はこの地域を「ピラミッド・タウン」と名付けた。

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出典:河江肖剰/ピラミッド・タウンを発掘する/新潮社/2015年/p5

上の地図の復元図が下。

 

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レーナーによる大ピラミッド建造時の復元図。図の下中央の位置に、町があると推測した(町の作りは、後の新王国時代の労働者の町に似せている)。(Courtesy of Mark Lehner)

当時、ピラミッドに関する主な研究は、何百万個とも言われている石材の運搬方法や、あるいは宗教の発展についてだったが、レーナーはまったく違う視点でピラミッドを理解しようとしていた。彼はピラミッド建築を、人間が実際に行う「建造プロジェクト」として見ようとしていた。ピラミッドを造ることは、周囲の地形に途方もないスケールでの変化を引き起こしたはずであり、そのことを示す人為的な痕跡(特に傾斜路、石切場、港、居住地)がギザ台地のどこかに必ず残っているはずだと考えた。

この仮説を証明すべく、レーナーはギザ台地全体を改めて測量し直し、その得られた遺構と地形の情報からスフィンクスの南400メートルほどに位置する「鴉(からす)の壁」に注目した。自然石でできた長さ200メートルのこの壁の南側を発掘したところ、見事、ピラミッド時代の居住地である「ピラミッド・タウン」を発見したのである。

出典:河江肖剰/第2回 マーク・レーナー博士との出会い 2015年9月16日 | ナショナルジオグラフィック日本版サイト/2ページ目

しかし、長期に渡る発掘調査の中で、この地域が建設労働者の居住地とか「町」というレベルではなく、「都市」もしくは「王都」ではないかとレーナー氏らは考えるようになった。

長年にわたる発掘調査によって、ここは職人が仮住まいするような小さな村などではなく、庶民から貴族、そしておそらく王族までも住んでいた巨大な都市であることがわかってきた。さらに、ここには巨大な港湾があり、人や物が流通する要地として発展した都市でもあったと考えられている。

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[ここをクリックで拡大表示]
ピラミッド・タウンの地図。図の上部の青い線の部分が営舎。(写真:Courtesy of Ancient Egypt Research Associates, Inc.)

出典:河江肖剰/第12回 ピラミッド・タウンの船乗りたち 2016年8月30日 | ナショナルジオグラフィック日本版サイト/1ページ目

上の図の右下の大きな四角い部分は現在サッカー場になっている。

『ピラミッド・タウンを発掘する』によれば、数々のこのサッカー場の下に王宮があるかもしれないとレーナー氏らは考えている。

2004年、「ピラミッド・タウン」の発掘は新たな局面を迎えていた。チームは「ギャラリー」[上記の地図の青く囲まれている「営舎」のこと――引用者注]の調査を終えた後、南へと発掘を進めていった。するとそこから、これまで見たことがないような、石灰岩で作られた分厚い二重の壁と、その内側には10基の巨大な穀物庫の跡が発見されたのである。古王国時代には、こういった巨大な穀物庫は通常神殿か王宮にしか付属していない。そのため、街の一画で発見されたことを考えると、この場所はカフラー王メンカウラー王が住んでいた王宮の一部かもしれないとチームはざわめいた。

出典:ピラミッド・タウンを発掘する/p230

しかし、現状、交渉してもその場所を明け渡してもらえていないらしい。

前回も書いた通り、そして上記の復元図でも分かる通り、ピラミッド建設現場の近くに港があり、そしてその港は建設資材の運搬のための水路と言うだけでなく、国際貿易港の役割を果たしていた。

そして、「ピラミッド・タウン」は王都であったとマーク・レーナー氏は考えている。

「王都はメンフィスじゃないのか?」という疑問が湧くかもしれないが、ギザはメンフィスの一部である。

労働者は奴隷?

今から2500年ぐらい前の古代ギリシアの歴史家に、ヘロドトスという人がいました。彼は「クフ王のピラミッドは、10万人の奴隷が20年間働いてつくった」と本に書いて残しました。これが、世界中で通説になってしまったのです。 エジプトの灼熱の太陽の下で、何万人もの奴隷がムチで打たれながら大きな石を引っ張って運んでいる……。たしかにわかりやすいイメージです。ハリウッド映画で、そんな場面をご覧になったことのある方も多いと思います。

しかし、これはまったくの間違いなのです。実際は、ピラミッド建造には奴隷ではなく一般庶民が、それも自ら喜んで参加していました。なぜでしょうか? それはビールが飲めるから、だったんです。

現代の暦では、1週間は7日です。しかし古代のエジプトでは、1週間は10日でした。1か月は3週間、つまり30日。それが12か月で360日です。ちなみに円の1周360度というのはここから来ています。もちろん1年が365日というのは知ってました。では、残りの5日間はどうしたかというと、ざっくばらんにいえば、年末にみんなでドンチャン騒ぎをして過ごしていました。

要するに、なかったことにしてしまう。それは庶民も貴族も、みんな一緒になってやっていました。古代のエジプト社会は、そんなふうに大変おもしろい世界だったんです。

で、当時の農民や職人といった、いわゆる庶民といわれる人たちがビールを口にできるのは、ふつう1週間に1回でした。つまり10日に1回ですね。 ところが、ピラミッドづくりに参加すると、毎日ビールが飲めるんです。というのも、ピラミッドづくりに働いた人に対しては、その報酬としてビールが与えられていたんです。

by 吉村作治 早稲田大学名誉教授 エジプト考古学

出典:No.81 ピラミッドのために何万人も奴隷が働かされた、は大ウソ。庶民が建造に参加したのは、ビールが飲めるからだった│史学部│キリンビール大学|キリン

ビールだけではない。現在ではパン、ウシ・ヒツジ、魚、野菜などあらゆる食物が潤沢にあったことが確認されている。

さらに、労働者たちの墓地もあり、その骨を調べると骨折した箇所は綺麗に治療され、外科治療が行われた痕跡もある(馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p228)。

建造作業には、およそ2.5万人が従事したと見積もられており、監察官や熟練工人以外は農民をパートタイムで雇ったと考えられている(馬場氏/同ページ)。

ただし、労働者は上のような現世における利益だけのためにピラミッド建造に従事したのではない。古代エジプト人は現世・来世を通して秩序(当時の言葉で「マアト」。*1 )が維持されることを重要視していた。そしてこの秩序を維持するのが現世・来世を通して王の役目である。王の来世復活の役割を果たすピラミッドを作るのは古代エジプト人としては当たり前のことだった(これを拒否すれば来世に復活再生できないと考えられていた)、とされる。当時の官僚はこのような宗教観を使わないはずがない、と思う。世界各地、有史以来の王が宗教を手放さない理由はこんなところにある。先史時代の首長たちも同じだろう。

「ピラミッド建造=公共事業説」と国家の発展

「公共事業説」はもともと、「ドイツ生まれのイギリスの物理学者でエジプト考古学者のクルト・メンデルスゾーン(Kurt Mendelssohn、1906年 - 1980年)が1974年に著した"The Riddle of the Pyramids." のなかで唱えたピラミッド建造にかかわる仮説」(メンデルスゾーン仮説)*2から発した。

この仮説については、「「ピラミッドを作った王たちの墓の位置を巡る議論」」というウェブページに詳しく書いてある。

ただし、より広く唱えられた「公共事業説」は、簡単に言えば、現代における国家による経済対策の一つとしての公共事業、つまり雇用・失業対策だ(さすがに、当時の官僚が経済波及効果について知っていたとは思えない)。

この仮説は、有名な吉村作治氏によって日本に広められて通説に近い地位にあったが、現在では否定されているようだ。

結果的には公共事業的な効果はあったのではないか?

しかし私は、当時の王や官僚はピラミッド建造=公共事業だとは全く思っていなかっただろうが、結果的には、公共事業的な効果があったと思っている。

『ピラミッド・タウンを発掘する』(p110)によれば、イギリスの余命な考古学者であるバリー・ケンプ氏が『古代エジプト――文明の解剖学』で「公共事業的な巨大な労働集約型プロジェクトは、歴史上、国家が成長する原動力であったと述べている」。

著者の河江氏はこれを否定的に紹介しているが、私はケンプ氏の言う通りだと思う。

人口増加のスピードは農地の増加のそれを遥かに上回る(マルサスの人口原理)*3。開拓を行っても なお余剰人口がでてしまう。この人口を吸収したのがピラミッド建造だった、と想像する。ピラミッドタウンの労働者の住居は、雑魚寝する程度のスペースしかないので、家族で住めないし子作りもできない。

ピラミッド建造のおかげで国家レベルの飛躍的な(幾何級数的、ねずみ算的な)人口増加を抑制し、緩やかで国家の発展に適う程度の増加が実現されたのではないだろうか。

また「公共事業的」とは言えないが、ピラミッド建造によって、税制や行政が著しく整備されたことは以前に紹介した(エジプト文明:古王国時代② 「ピラミッドの時代」 )。

メンカウラー王のピラミッド

このピラミッドはギザの三大ピラミッドの最後のものとなる。

クフ王のピラミッドの底辺は230m、カフラー王は215.29mに対してメンカウラー王は105mとかなり小さい。後のピラミッド建造の歴史を見ればピラミッドの重厚長大趣味はカフラー王で終わった。

メンカウラー王のピラミッドの特色の一つは、下層の16段の化粧石に赤色花崗岩を使っていることだ。赤色花崗岩はギザから1000kmも離れていて、とても硬いため その加工に相当の労力を要する。

シェプスセスカフ王はピラミッドを建造しなかった

第4王朝最後の王シェプスセスカフはピラミッドを建造しなかった稀有の例だ。彼の王墓はマスタバで「ファラオのマスタバ」と呼ばれている。南サッカラに位置する。

ピラミッドにする予定だったが、王の治世が10年にも満たなかったため(6~9年)、マスタバに変更されたという説がある*4。先代が建造途中で亡くなった時は次代の王がその後を継ぐのが慣例だが、次代の王ウセルカフはやらなかった。



次回は第5王朝から滅亡までをやるつもり。


エジプト文明:古王国時代⑦ ピラミッド史の流れ その2 ギザの三大ピラミッド 前編

今回はギザの三大ピラミッドについて書く。

ギザの三大ピラミッド/「真性ピラミッド」

私たちがイメージするピラミッドは側面が平らかな正四角錐のものだ。その代表がギザの三大ピラミッドと呼ばれる3つのピラミッドだが、これらは「真性ピラミッド」と呼ばれる。これは単に正四角錐というだけでなく、傾斜角度が約52℃付近と決められている。

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出典:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p101

これらのピラミッドは第4王朝の間に建造された。古代エジプトの歴史を通して最大(クフ王のものが最大。高さ146.6m、底辺の長さは約230m*1 )。

前回に書いたように、第4王朝初代スネフェル王が試行錯誤したおかげで、巨大建築技術が飛躍的に向上した。

3つのピラミッドは、化粧石は後世に剥がされているものの、現在もその壮大な姿は良好な形で遺り、当時の建築技術の高さを伝えている。

ピラミッドの石材

ピラミッドに使われた石材は、主に周囲の採石場石灰岩(薄茶色)を切り出して使用した。石材の大きさはまちまちだが1個の重さは平均2.5トン*2。上層に積み上げられたモノは下のモノに比べて小さくなっている。

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クフ王ピラミッドの石材

出典:馬場氏/p217

外装の白い化粧石(これも石灰岩)は東岸のトゥーラ(トゥラ)から船を使って運ばせた。

クフ王の「王の間」と呼ばれる玄室に使用されている石材は花崗岩。これは1000kmも離れるアスワンから船で運ばれた。石灰岩よりも硬く重いので、よりコストがかかった。メンカウラーのピラミッドの下層は花崗岩が使用されている。

『メレルの日誌』について

10月3日(土)19:00〜19:45にEテレで「地球ドラマチック 大ピラミッド建設の秘密 4600年前の日誌は語る」が放送されました。丁度河江肖剰著『ピラミッド・タウンを発掘する』(新潮社、2015年)を読み始めたところで、タイムリーだったので、録画して見ました。

2013年3月に紅海沿岸のワディ・アル・ジャルフでヒエラティックで記された最古のパピルスが発見されました。何百にも及ぶ破片になっていますが、保存状態は良好です。パリ第四大学のピエール・タレ氏が解読したところ、4600年前にメレルという人物が書いた日誌であることが分かりました。彼は石の運搬を担当した労働者たちのリーダーで、パピルスにはギザの大ピラミッド建設に関わる出来事が記されていました。この日誌が貴重なのは、人々が大ピラミッド建設の現場でどのような仕事をしていたのか知ることが分かるという点です。

出典:MyNotebook-20_西村洋子の雑記帳(20)

上記は番組の備忘録(?)。

メレルは上記のトゥールの化粧石が船で運ばれていることが書かれていた。

さらに採石に必要なノミやツルハシを作る銅の運搬についても書かれている。銅はシナイ半島から運ばれていた。銅は青銅や鉄よりも「やわらかく」、耐久性が悪いので大量の銅が必要だった。

考古学者マーク・レーナー氏は『メレルの日誌』に書いてある「クフの港」が、長さ1kmにもなる大きな国際港であったと推測する。つまり、ピラミッドに必要な材料だけでなく、「東地中海沿岸」産のオリーブオイルなどが輸入されていたことが証拠だとする。

しかし、レーナー氏が目星をつけた場所は現在は住宅地で、発掘は不可能だとのこと。

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出典:ピラミッドはナイル川の力と大規模な土木工事によって造られたことが現場監督の日記に記録されていた - GIGAZINE

  • 上は海外の番組のキャプチャ画像。おそらくレーナー氏の主張をもとに作成されたものだろう。

港がピラミッド建造現場のすぐそばにある。

建造期間について

上の番組の他に、TBSの「世界ふしぎ発見!」 で『エジプト 大ピラミッド 最古の日誌が明かす建造の謎』(2018年5月5日)で同じような内容が放送されたそうだ。全く知らなかった!

メレルの日誌には、ピラミッドの建造期間も記されている。古代エジプトでは、2年に一度税金を決めるために牛を数えていた。メレルの日誌には13と牛の表記があり、13回牛を数えた後だと読み取ることができるという。つまり、26年目か27年目を示しているのだ。日誌によればこの時、ピラミッドの外側を覆う化粧板を運んでいる。化粧板の運搬は、建造において最後の工程なのでピラミッドは、およそ27年で完成したことになる。

出典:大ピラミッドの建造期間が判明!?巨石の運び方や労働者たちの暮らしまでわかっちゃった!? - 嘘か本当か分からない話 2018-05-07

  • 上のブログ記事ではソースが世界ふしぎ発見!と明記していないが、画像が同番組のものなので、上のネタも同番組のものだと思う。おそらくピエール・タレ氏が紹介したのだろう。

建造期間について、馬場匡浩氏は以下のように書いている。

例えば、クフ王のピラミッドでは1個平均2.5トンのブロックが、研究者によって異なるが、130万、230万または300万個使われたと計算される。仮に230万個としても、クフの在位期間は23年間なので、1年10万個、1日で約300個を積み上げなければ完成しないのだ。だがこの数は、ピラミッド内部が全てブロックで満たされていればの話であり、実際には実際には砂や瓦礫が充填されている箇所も確認されている。しかしそれでもなお、その数は途方も無く、我々の想像をはるかに超える作業で成し遂げられたのだ。

出典:馬場氏/p221-222

研究者によってかなり違う数字が提示されているようだが、ピラミッドが王位に就いた年から造り始めるということに関しては一致しているようだ。

馬場氏はクフ王の生存中に建造が完了したと考えているようだが、「ジェドエフラー - Wikipedia」によれば、完成させたのはクフ王の次代の王(息子)のジェドエフラーが完成させたとしている。そう考えると、「世界ふしぎ発見!」で紹介された説は妥当なような気がする。

ちなみに、カフラー王メンカウラー王の在位期間はそれぞれ、26年、28年。



つづく


エジプト文明:古王国時代⑥ ピラミッド史の流れ その1

古代エジプト人は来世に強い関心を持っていることは以前に書いた(古代エジプト人の来世観 )。王だけでなく、古代エジプト人は来世で再生復活することを考えて、墓をどのような構造にするかを考えた。ピラミッドは当時の王の宗教的表現の1つと言える。

さて、ピラミッドの歴史を書いていこう。この記事では、第4王朝初代スネフェル王のところまで。

【先史】初期王朝時代の王墓と高官墓

初期王朝時代にピラミッドは無かった。

第1王朝初代ナルメル王の墓は比較的小規模なものだったが、第2代アハ王からは大規模化した。第1王朝8代の王たちの墓は見つかってはいるが、発見されているのは いずれも地下構造のみである*1

地上建造物は残っていないが、第3代ジェル王からの基本的に同じ構造で、玄室(棺を納める部屋)を低いマウンドで覆い、それを日乾レンガで直方体にして覆い、さらにそれより大きなマウンドで覆った、とされている。このマウンドは「原初の丘」をイメージして造られた、と考えられている*2。原初の丘については「ピラミッドと太陽信仰」で書いた。

地下構造は玄室の他にいくつもの部屋があるが、生前の王宮環境を模したものとされている*3。これは墓を「来世の家」と考えていたことから想定される。

第1王朝でピラミッド建造に直接つながる建造上の発明(?)がある。

第5代デン王の墓から、外から玄室に続く階段が設けられるようになった。階段が設置されたことで、玄室を深い位置に造られるようになっただけでなく、墓の建造後に遺体を埋葬することが可能になった。この構造変化は、後のピラミッドや大型マスタバのように、墓主の生前から大型墓を築く伝統の出現と密接に関係するであろう。

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ヘテプセケムウィ[第2王朝初代王]王墓の地下回廊施設(サッカラ)(Stadelmann 1985 : abb. 10)

出典:高宮いづみ/古代エジプト文明社会の形成/京都大学学術出版会/2006/p138-139

玄室の他に、副葬品を納める複数の細かい部屋が多数設けられているが、これは第3代ジェル王からの伝統である。

「マスタバ」についてはすぐ後に書く。

マスタバ

第4王朝の頃までは高級官僚は ほとんど王族で占められていた。だから高官墓≒王族墓と考えていいかもしれない。

第1王朝では王墓はアビュドス(初代ナルメル王の出身地)に建造されたが、高官墓はサッカラ(王都メンフィスの墓地)に建造された。

高官墓は「マスタバ」と呼ばれている。マスタバはアラビア語でベンチを意味するが、現代エジプトにおける背もたれのないベンチと直方体の高官墓が似ていることからこの名がつけられた。高官墓は大型のもので40mを超えるものもある。

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出典:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p81

第2王朝の王墓は全てマスタバである。

最古のピラミッド

最古のピラミッドは第3王朝初代ジェセル王の王墓だ。

これより前の王墓は ほぼ全て日乾レンガで造られていたが、この王墓は初めての大型石造建造物だった。これには単に墓ではなく、永久に存在し続けるモニュメントとして王墓を作ろうとした意図があるのかもしれない*4

立案者は宰相イムホテプで、彼は太陽信仰の総本山ヘリオポリスの神官だった。彼は王家と太陽信仰を強く結びつけた一人であったろう。

ジェセル王の王墓は当初、石造のマスタバとして建造されたが数回の増改築の末にピラミッドになった。

「階段ピラミッド」と呼ばれるように、形は私たちがイメージする正四角錐ではないが、ピラミッドの歴史はここから始まった。

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出典:馬場氏/p91

階段ピラミッドは周りを周壁で囲まれている。ピラミッド以外に複数の施設が設けられ、「ピラミッド・コンプレックス(複合施設)」という用語はこれら周壁内の全てを表す。

この施設が当時どのように使われていたかはよくわからないのだが、高宮氏によれば*5「階段ピラミッド・コンプレックスは、今生と同じく来世においても、王が宇宙の秩序を維持する祭儀を継続するべく構成されていた」。簡単に言い換えると、周壁内は来世の王が現世と同じような活動ができる空間になっている、ということ。

地方に築かれたピラミッド

第3王朝末から第4王朝初期に年代づけられる小さなピラミッドがエジプトの各地に少数だが発見されている(通常一辺18-25m)。これらは埋葬施設ではない。どのような目的で建造されたのか通説があるのかは分からないが、高宮氏は以下の主張を紹介している。

近年エレファンティネのピラミッドと周辺遺構を考察した S. ザイデルマイヤーは、新たに小型ピラミッドの性格について論じている(Seidlmayer 1996a)。それによれば、王墓をもした小型ピラミッドは地方における王の崇拝の拠点であり、基本的にノモスの行政中心地に配置されていた可能性があると言う。言い換えれば、地方においての威信を示し、国家の求心力を高めるための装置が、ピラミッドという埋葬施設の縮小版であったわけである。ピラミッドが古王国時代のエジプトの国家に果たした役割の大きさを、地方行政の観点からも認識できるであろう。

出典:高宮氏/p159

日本における国分寺と似ているが、建造の意図は違う(同じ可能性はあるかもしれない。証拠は全く無いが)。

試行錯誤の期間

第4王朝初代のスネフェル王はいくつものピラミッドを建造した。それらの各々のピラミッドについては書かないが、これらの試行錯誤が後世に与えた影響について引用しよう。

後のピラミッド・コンプレックスにおいて、ピラミッドの東側に設けられた葬祭殿、そこからナイル河方向に向かって伸びる長い参道、その先端に築かれる河岸神殿、ピラミッドの近くに位置する衛生ピラミッド、ピラミッド本体とピラミッドに接する葬祭殿を取り囲む周壁などが重要な構成要素になるが、それらのほとんどはスネフェル王のピラミッドにおいて初原的な形で現れている。またピラミッド建造方法についても、核に大型の石材を、表層石にトゥラ産の良質石灰岩を用い、内部に持送り式の天井を持つ部屋を構築するなど、後世のピラミッドの先駆をなした。

出典:高宮氏/p147-148

スネフェルの試行錯誤により、上記の階段ピラミッド・コンプレックスとは違ったピラミッド・コンプレックスを造り上げた。以下は第4王朝以降の基本形である。

河岸神殿はもともと港湾施設であり、参道は物資を運ぶ傾斜路であった。これら構成要素はそれぞれ役割を持っていた。まず河岸神殿は「現世から来世への境界」であり、そこから参道で結ばれる葬祭殿は「王の彫像への供物奉納と、王の再生復活を祈る場」であった。そしてその背後に鎮座するピラミッドは「王が再生復活を果たし、昇天する場」であった。

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出典:馬場氏/p219-220

  • ペピ2世は第6王朝第5代王。

もうひとつ、表層を覆った石灰岩について。上の引用にある「トゥラ産の良質石灰岩」とはカイロ東部・ナイル川東岸にあったトゥーラの白く輝く石灰岩のこと。化粧石とも呼ばれる。現在では多くのものが剥がされてしまっている。

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出典:石灰岩 - Wikipedia

ギザの三大ピラミッドの真ん中のカフラーのピラミッドは頂部だけ色が違い、富士山の冠雪のようになっているが、この部分が化粧石。

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出典:カフラー王のピラミッド - Wikipedia*6

ただし、スネフェル王以降の全てのピラミッドがトゥラ産の石灰岩で全て覆われていたわけではない。

ピラミッドを造り続けられた理由

一つのピラミッドの大きさでは、クフ王のピラミッドが最大だが、スネフェル王は大型ピラミッドを3つも建造したのでクフ王を遥かに凌ぐ建造事業を行ったと言える。

クフ王、スネフェルに限らず、ピラミッド建造事業は古王国時代に ほとんど間を置くことなく為されていたが、これを可能にしたのは官僚・行政組織が確立したためと、(同時代のメソポタミアと比べて)安全保障上のコストが極端に少なかったことが挙げられるだろう(古王国時代全体を通して国外からの侵略に脅かされたという話は見当たらない)。



*1:高宮氏/p138-139

*2:高宮氏p138,馬場氏p83-84

*3:これと同じような墓は先王朝時代末のアビュドスの王墓(あるいはエリート墓)でも発見されている

*4:上述したように墓は来世の家と考えられていたが、来世に復活再生できたら永遠に生き続けられるとも考えられていた

*5:高宮氏/p144

*6:著作者:Mgiganteus1

エジプト文明:古王国時代⑤ ピラミッドと宗教 その3 太陽信仰とオシリス信仰

今回も建築技術云々は すっ飛ばして宗教の話をする。ただし政治の話が少なからず混じってしまった。

ギザの三大ピラミッド(第4王朝)

私たちがイメージするピラミッドはギザの3つピラミッドだろう。

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上空から見た三大ピラミッド[左から、クフ王、カフラー、メンカウラー]

出典:三大ピラミッド - Wikipedia

この中で一番古いのピラミッドは第4王朝2代目クフ王のものだ。

クフ王の先代スネフェルの王墓はダハシュールにあるが、クフ王がギザに王墓建造を決めた最重要の理由は「太陽神の総本山ヘリオポリスが拝めることであったと考えられる」。「ダハシュールからはナイル川東岸のモカッダムの丘が邪魔してヘリオポリスが望めないのである」*1

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出典:河江肖剰/ピラミッド・タウンを発掘する/新潮社/2015/p80の図の一部

強力な中央集権体制と巨大建築技術の飛躍的発展のもとで、ギザの三大ピラミッドはピラミッド建造のピークと言われている。

太陽神殿(第5王朝)

第5王朝で、太陽信仰はさらに隆盛したが、ピラミッドは小さくなった。

これは中央政府の権力が弱まったからではなく、宗教自体の変化ということらしい。

第5王朝初代ウセルカフ王はサッカラにピラミッドを建造した他にアブシールに太陽神殿を建造した。

太陽神殿は、ピラミッドの複合施設に似た造りになっているが、ピラミッドのあるべきところにオベリクスが鎮座する形になっている。オベリクスの頂部はベンベン石の形(四角錐)になっている。

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The sun temple of Nyserre Ini at Abusir

出典:Egyptian sun temple - Wikipedia英語版

オベリクスの前の祭壇では「パンやビールの他に、毎日1頭の雄牛が屠殺され、ラー神への供物として奉納された」(馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p107)。

ピラミッドの大きさは小さくなったものの(第2代サフラー王の王墓の底辺の面積はクフ王の1/8)、複合施設の葬祭殿は大きくなり、装飾も凝ったものになった。

以上、太陽神殿建造とピラミッドの小型化の2つで分かることは、第5王朝の人々はピラミッド自体よりも祭儀の場のほうを重要視するようになった、ということ。祭儀の場にはヘリオポリスの勢力(神官たち?)が進出してきたようだ(エジプト第5王朝 - Wikipedia )。ヘリオポリス(とその勢力)の重要性が一段と増したようである。

この時代における行政上の最も目立った発展は最高位の官職から王族が撤退したことでした。もう一つの注目すべき特徴は太陽神殿が国の経済システムに組み込まれた見事な方法でした。太陽神殿の神官職への任命はあるものは純粋に名目的で、そのような官職から得られる恩恵を受け取る権利を官職保有者に与えるためになされました。これらの恩恵は職権上賃貸された神殿領を含んだかもしれません。同じことはピラミッド施設の職員への任命にもあてはまりました。神々と死者の世界の要求と生者達の必要との間に紛れもない矛盾はありませんでした。国家の生産物の大部分は理論上故王たち、彼らの太陽神殿、地方神たちの諸神殿の必要のために指定されたけれども、実際にはエジプトの住民の大部分を養うために使われたシステムを思い浮かべることができるでしょう。

出典:西村洋子/History of Ancient Egypt_第5王朝/2006年9月16日

第4王朝までの官職の座は基本的に王族が埋めていたが、王族が撤退した後はおそらくヘリオポリスの勢力が埋めたのだろう。

この時期に宗教組織と官僚組織の複雑化・肥大化して官僚や神官の数が増えたと言う。さらに官僚たちの銘文や図像で装飾された多数の墓が建造された*2。このことからヘリオポリス勢力の増長がうかがえるだろう。

太陽信仰の後退とオシリス信仰

オシリス神は冥府の支配者であり、現世における死者に対して閻魔大王のようにさばきを下す神の一人だった。

冥界の支配者とみなされる前は穀物神だったらしく、「各地の神話において冬の植物の枯死と春の新たな芽生えを象徴」する神だった(オシリス - Wikipedia )。

河江肖剰氏によれば*3オシリス信仰は第4王朝に始まった。

第5王朝の王たちは太陽神ラーに寄進することに熱心だったが、前掲の西村氏によれば*4、他の地方の神々にも寄進していたという。一神教のように他の神を認めないのではなく、王たちは統合してまとめようとした。その結果が神話体系だ。

さて、第8代ジェドカラー王は太陽神殿を造らなかった。これは大事件だ。

王は太陽礼拝を放棄し、太陽神殿を建造しませんでした。そのため、ラー神の礼拝は重要性が減少し、オシリス神の礼拝が表立つようになりました。一方、アブシールでの諸王の葬祭礼拝の再編成を行いました。その結果、諸王の葬祭礼拝に関わる官職とその特権は今や下級官吏たちに与えられました。

出典:西村氏/同ページ

これはヘリオポリス勢力の既得権益にメスを入れたと考えていいだろう。肥大化した勢力が中央行政を弱らせるまでになったことに対する動きだ。そして太陽信仰が後退した隙間をオシリス信仰が埋めた形になっている。ジェドカラー王が故意にそうしたのかどうかは分からない。

ちなみに、オシリス信仰の聖地(中心地)と言われているアビドス(アビュドス)は、『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』によれば*5、「第5王朝には,オシリス神がアビドスと結びつき,まもなくアビドスはオシリス祭儀の中心地となった。」 

ピラミッド・テキスト

次の第9代ウナス王(第5王朝最後の王)は、別の意味で画期的な要素を誕生させた。ピラミッド・テキストである。

ピラミッド・テキストは一続きの文章ではなく、王の来世における再生と復活を保証するいくつもの呪文が並べられた呪文集であった。(p155)

古代エジプト人にとって、毎夕沈んでは毎朝再び昇る太陽は、再生復活の象徴であった。太陽は日没後に冥界を旅した後、夜明けに再び復活するが、その力を冥界においてオシリス神から受け取ると考えられていた。(p156)

また、王が「冥界の支配者」オシリス神と合一することも重要なテーマであった。(p157)

出典:高宮いづみ/古代エジプト文明社会の形成/京都大学学術出版会/2006

ピラミッド・テキストは中国王時代の「コフィン・テキスト」と新王国時代の「死者の書」という葬祭文書と並んで、古代エジプトの宗教観を見出す貴重な資料として重要だ。

宗教面では上の通りだが、政治面においては、ちゃっかり王を冥府の支配者に合一させているところがポイント。

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The Pyramid Texts inscribed on the walls of Unas' burial chamber

出典:Unas - Wikipedia

第6王朝

古王国時代最後の王朝である第6王朝では定式化された第5王朝の小型ピラミッドおよび複合施設とピラミッド・テキストを踏襲した。

第6王朝では、神官や官僚の肥大化が中央政権の弱体化を招いた原因の一つとして挙げられている。ジェドカラー王の「改革」は実を結ばなかったか、一時的なもので終わってしまったのかもしれない。



当初の思惑とは違って、政治関連のことを少なからず書くこととなった。

しかし、政教一体の古代エジプトでは、これを完全に分けることは不可能だろう。


*1:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p100

*2:高宮いづみ/古代エジプト文明社会の形成/京都大学学術出版会/2006/p58

*3:ピラミッド・タウンを発掘する/新潮社/2015/p118

*4:同ページ

*5:アビドスとは - コトバンク

エジプト文明:古王国時代④ ピラミッドと宗教 その2 ピラミッドと太陽信仰

この記事では、ピラミッドと太陽信仰について書いていく。

最古のピラミッドと太陽信仰

最古のピラミッドは、第3王朝初代のジェセル(ネチェリケト)王の王墓だった。

ジェセル王の王墓は階段ピラミッドと呼ばれ、私たちがイメージする綺麗な四角錐のものではなかったが、ピラミッドの起源として重要だ。

もう一つ重要なことはこのピラミッド建設の立案者についてだ。その人物とはジェセル王の宰相イムホテプ。彼は建築、神学、医学、天文学などあらゆる分野に造詣が深かったのだが、決定的に重要なのは彼が太陽信仰の総本山であるヘリオポリスの神官だったということだ。

イムホテプは国家神を太陽神に変えたきっかけを作った一人と言っていいだろう。

高宮いづみ氏は以下のように書いている。

古代エジプトの王は時期によってさまざまな神々と結びつけられ、初期王朝時代にはホルスの化身にもなれば、古王国時代には太陽神ラーの息子や新王国時代にはアメン神の息子にもなったが、常にこうした神話によって、巧みに宇宙と世界観のうちに特別な存在として位置づけられていたのである。

出典:高宮いづみ/古代エジプト文明社会の形成/京都大学学術出版会/2006/p116

有名な「ナルメルのパレット」にもあるように、初期王朝時代の国家神はホルス神であった。

そして古王国時代の間に太陽神ラーに代わる。ただし、ホルス神を捨てたわけではなく、ラーとホルスを同一視(習合)した。

「ラーの息子」とは「ホルス名」と同様、王名(称号)である。ホルス名と一緒に使われ続けた。

太陽信仰と四角錐

かつてナイル川は夏に増水した。20世紀初頭に、上流のアスワンにダムが建設されて以後、反乱することはなくなってしまったが、それ以前に撮られたモノクロの写真を見ると、広大な水面から、耕作地の一部や椰子の木がところどころ水草のように浮かんでいる。毎年繰り返されるこの景色は、すべての生命は広大な水から大地が盛り上がり始まるというイメージを古代エジプト人の心象に植え付けた。(p131)

19世紀後半に活躍したフランス人写真家ボンフィスが撮影したギザの写真は、古代の景色を彷彿させる。ナイルの氾濫がギザ大地の麓まで押し寄せ、鏡のようになった水面に大ピラミッドが映っている(図6-2)。

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(p133)

4500年前の氾濫時には、遠方から見る大ピラミッドは、さながら創世神話にでてくる海から盛り上がる原初の丘のようだったに違いない。(p134)

出典:ピラミッド・タウンを発掘する/河江肖剰(ゆきのり)/新潮社/2015

  • 当時の川の水位の上下は古代エジプト人の常識だったので、「氾濫」の箇所はすべて「増水」に変換して読むべき。

ここで創世神話と原初の丘について書いていこう。これが太陽神話につながる。

エジプトの創世神話は幾つかあり似通っているが、ここではピラミッドに直結するヘリオポリス創世神話を紹介する。ただしヘリオポリス創世神話には幾つかのバリエーションが有るようだが、以下はその中の一つ。

ヘリオポリス創世神話によれば、世界の最初には「ヌン(原初の海)」と呼ばれる混沌があった。その混沌の中からある時「原初の丘」が出現し、そこに太陽神アトゥムが現れた。アトゥムは自慰行為を行って、大気の男神シュウと湿気の女神テフネトという男女ペアの神々を生み出した。そのシュウとテフネトが次の世代として、大地の男神ゲブと天空の女神ヌトを生み、さらにその二柱の神々が、男神オシリスとセトおよび女神イシスとネフティスを生んだという。これらのうちオシリスとイシスが婚姻関係を結んで、その間に生まれたのが男神ホルスであり、王が化身とされたのはこのホルス神であった。

ヘリオポリス創世神話は、古代エジプト人にとって、宇宙の始まりとその構造とをよく説明したいた。[以下略]

出典:高宮氏/p216-217

引用文に登場するホルス神を除く神々はヘリオポリス九柱神と呼ばれる。ホルスの化身である王は彼らと交流できる唯一の人間であった。王は祭儀を行って、混沌からこの世の秩序(マアト)を護り維持することを義務とした。

前述したように、古王国時代の王は「太陽神ラーの息子」を名乗ったが、ホルスの化身であることはやめようとしなかった。

私たちが良く知っている「太陽神ラー」の名はヘリオポリス神学ではアトゥムと同一視される。

さて、話がそれてしまったので原初の丘の話に戻る。

アトゥム神はどのようにその静止した世界を動き出させたのだろう?「ピラミッド・テキスト」[エジプト最古の宗教文書。第5王朝末。引用者注]には、それは彼の「自慰行為」によってだったと書かれている。

アトゥムはヘリオポリスで勃起し自らを生じさせた。彼は陰茎を握り、射精し、そしてシュウとテフネトという双子が生まれた(P475)

この創造神アトゥムの精液が石化したものが、ピラミッドの原型である四角錐の聖なる石ベンベンだった。聖なる石ベンベンの名前は、生殖に関連するベン(〈勃起する〉や〈射精する〉)から派生した言葉である。この言葉は、元々、〈膨らむ〉や〈盛り上がる〉を意味する語根からきている。つまりベンベンとは、創世以前に存在した混沌の海から盛り上がった丘の具体的なイメージであり、さらに後には〈太陽が昇る〉を意味するウェベンという言葉を派生し、そこから太陽とも関連付けられた。

古代エジプト人は、創世を単に太古に起こった出来事として捉えていたのではなかった。その明確な現れはナイル川の氾濫である。毎年起こるこの現象は、創世時に迸(ほとば)った凄まじいエネルギーの余波によるものだと信じていた。

出典:河江氏/p133-134

聖なる石ベンベンはベンベン石と呼ばれることが普通のようだ。ベンベン石はつまりは原初の丘のイメージである。

初期王朝時代の神殿には、(ベンベンとは言われていなかっただろうが)「原初の丘」と呼ばれた四角錐が祀られていた(河江氏/p131)。これがヘリオポリスでは以上のような物語の中で語られたのだ。

そしてヘリオポリスの太陽信仰はこのベンベン石を太陽信仰の象徴とした。

そしてさらに一歩進んで重要なことは、最後の段落にあるように、「単に太古に起こった出来事」とは捉えていなかった。ナイル川の水位の上下はエジプト人に「滅亡と再生」のイメージを与えた。

つまり「原初の丘」=「ベンベン石」=「ピラミッド」は「創造の象徴」だけではなく、「再生復活の象徴」でもある。「ベンベン - Wikipedia」によれば、ベンベン石は「再生と復活をつかさどる精霊が宿る」とされている。

ということで、太陽信仰は、太陽を再生復活の象徴として崇める信仰だった。太陽信仰はヘリオポリスの土着の宗教だったろうから古代エジプトの来世観を共有していただろう。

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出典:ベンベン - Wikipedia*1

  • エジプト第12王朝のアメンエムハト3世のピラミッドのキャップストーンとして造られたベンベン石。

なぜピラミッドは建造されたのか(建造の目的)

強固な中央集権国家の確立は、古王国時代のピラミッドを取り巻く墓地にも顕著に現れている。官僚たちはできれば来世の支配者となる王の近くに立派な墓を築いて埋葬されることを望んだが、王墓に近接する官僚墓の位置は当時の王の裁量で決められた可能性が大いに高い。そのことは、第4王朝クフ王のピラミッドおよび第6王朝テティ王のピラミッドに近接する官僚たち墓地の様子からうかがい知ることができる。

出典:高宮氏/p239

ピラミッド建造の目的については諸説あるが、難しく考えなかれば以下のような結論になるだろう。

基本的にピラミッドは王墓だ。王以外の墓だったり墓ですらないピラミッドもあるが、基本的には王墓だ。官僚たちは墓をピラミッドにすることはタブーだったのだろう。上の引用は「官僚墓の位置=来世で再生復活した時の序列」ということだ。古代エジプトの来世観(前回参照)は新王国時代まで(あるいはそれ以降)続いた。

なぜ四角錐か。それはピラミッド=ベンベン石だから。太陽信仰を採用した王家の墓の形にふさわしいと思ったからだろう。

なぜあのように巨大にしたのか。それは王の威勢を示すためだろう。ただし、官僚たちの墓と比較して大型の墓にしたということで、各王の威勢に比例しているわけではない。

歴代の各王によって趣向が違うが、基本的には上のような説明でいいと思う。



*1:著作者:Jon Bodsworth

エジプト文明:古王国時代③ ピラミッドと宗教 その1 古代エジプト人の来世観

古王国時代の宗教観とピラミッドがどのように結びついているのかを書いていく。

この記事では、民間を含むエジプト全体の来世観・死生観・宗教を書いていく。

来世観と宗教

古代エジプト人は死への脅迫概念が強く、死をひどく恐れていた。その恐怖をできるだけ拭い去るための解決策として、彼らは死を理解可能なものにしたのだ。それが、「死後も、来世で永遠に生き続ける」という再生復活の死生観である。

出典:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p304

ただし、エジプトの来世観においては、現世で死んだら すぐに来世に行くというものではない。開口の儀式など様々な過程を必要とする。

エジプトの宗教は、来世で永遠に生き続けるために必要な知識と行動を指す。

古代エジプト人が来世をどのようにイメージしていたのか気になるところだが、高宮いづみ氏によれば*1、一通りではなく幾つものイメージがあるものの、「最も受け入れやすく、実際に普及していたイメージは、おそらくこの世と似たような世界であろう」としている。

来世で永遠に生き続けるために必要な知識と行動

「カー」と「バー」

私たち日本人は生死の話をする時に人間を肉体と霊魂に分けて話すことがある。古代エジプト人はこの霊魂に当たる部分を「カー」と「バー」に分けている*2

「カー」は「生命力」や「活力」、「バー」は「個性」「人格」と訳される。人間の死は肉体からカーとバーが分離することで起こる。

カーは単なるエネルギーではなく、死後も実体の無い個人として存続する。カーは活力を維持するために供物を必要とする。他の諸宗教における精神の概念に類似している。

バーは日本人がイメージする霊に近いかもしれない。バーは現世と冥界を往来することができるが、夜になると現世の肉体(ミイラ)に戻らなければいけないという制約はある。

3要素の再合一

まずカーとバーが合一して「アク」となる。アクは「祝福された死者」と呼ばれる。そして再生復活するためにはもう一つ、肉体が必要になる。このため、古代エジプト人は遺体が朽ち果てることを防ぐためにミイラ処理を行って丁重に棺に納めた。

開口の儀式

3要素の再合一を果たしても、来世における再生復活はできない。いくつかの過程を必要とする。

その中で最重要の儀式が現世における葬祭「開口の儀式」。

死者が再生復活を遂げるためには一連の儀式すなわち葬祭が必要であり、葬祭の中で最重要の儀式は「開口の儀式」であった。この儀式は、ナイフのような道具を使って葬祭神官が死者の口を開くまねをする儀式で、一旦は物を食べたり呼吸をしたりという生命活動を停止した死者が、ミイラの口を開くまねをする儀式を行うことによって、生命活動を再開することを呪術的に引き起こす目的をもって行われた。

出典:高宮いづみ/古代エジプト文明社会の形成/京都大学学術出版会/2006/p232

この儀式は王朝時代の葬祭の中心であったが、先王朝時代(ナカダⅠ期以降)にも行われていたという説もある(同氏/p233)。

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『フネフェルのパピルス』に描かれた開口の儀式。

出典:フネフェル - Wikipedia

ほかに、冥界における「最後の審判」と呼ばれるものがあるのだが、これは新王国時代の『死者の書』登場以降のものなので、ここでは書かない。「死者の書 最後の審判 オシリス」でネット検索すればいろいろ出てくるだろう。

まとめ

重要なのは来世観だ。人々は来世で復活できることを望んでいるということ。

そしてこの来世観はピラミッドの宗教つまり太陽神信仰よりも長く存続した。

と言うよりも、おそらく太陽神信仰は、来世に復活再生するための道具に過ぎなかったのではないか、とすら私は思っている。

ピラミッドと太陽神信仰については次回書いていく。



*1:高宮いづみ/古代エジプト文明社会の形成/京都大学学術出版会/2006/p232

*2:古代エジプト人の魂 - Wikipedia」によれば、これらの他に3つの要素があるとしているが、ここでは「カー」と「バー」のみを扱う