歴史の世界

メソポタミア文明:先史① 土器新石器時代(アムーク文化とハッスーナ文化/ハラフ文化とサマッラ文化)

西アジアの先史については「先史」カテゴリーにいくつか書いた。

先史:2万年前~(ケバラ文化/マドレーヌ文化)
先史:定住型文化の誕生~ナトゥーフ文化
先史:ナトゥーフ文化~「定住革命」
先史:ナトゥーフ文化後期(ヤンガードリアス期)
先史:農業の誕生(新石器革命)と西アジアの新石器時代初期
先史:文化の衰退~PPNB後期と土器新石器時代

土器新石器時代の最後に引用したものを再掲する。

・・・以上のことから、土器新石器時代における集落規模の縮小、公共的建築物の消失、威信財の減少という姿が明確となった。高度に複雑化した先土器新石器時代の社会システムが、その後期あるいは末期に崩壊してしまったと考えることができ、これまでも「新石器時代の崩壊」と呼ばれていた現象が確かにこの時期に認められることを具体的な資料に基づいて明らかにすることができたと言える。

しかし、土器新石器時代を単に社会システム崩壊後の混乱期あるいは停滞期と捉えるだけでは十分ではないと思われる。これまで西アジア新石器時代は、チャイルド(G.Childe)の主張に従って、農耕牧畜という食糧生産の開始によって定義されてきた。しかし、動植物資料の実証的研究が進んだことにより、今では農耕牧畜が確立されたのは先土器新石器時代の後半(PPNB 中期から後期)であったと考えられるようになっている。先土器新石器時代の複雑な社会を生み出し、それを支えたものが必ずしも農耕牧畜という生業ではなかったことになり、むしろ農耕牧畜が確立された段階で「新石器時代の崩壊」が起こっているようにさえみえる。実際、サラット・ジャーミー・ヤヌ遺跡における調査おいても、出土した動物骨の分析からヤギ、ヒツジ、ウシ、ブタがすでに飼育されていたことが確認されており、その割合は出土した動物骨の95%近くにもなる。また、植物遺存体の分析からは、コムギ、オオムギやマメ類なども栽培されていたことが明らかになっている。土器新石器時代は、農耕と牧畜に基盤を置いた社会であったことは間違いない。農耕牧畜という新しい生業の確立が、社会システムの面ではむしろマイナスに働いたようにみえるこうした現象は、農耕・牧畜が果たした役割を過度に強調する傾向にあったこれまでの考え方に、厳しく見直しを迫っていると言えるだろう。

出典:三宅 裕(研究代表者:筑波大学・大学院人文社会科学研究科・准教授)/西アジア新石器時代における社会システムの崩壊と その再編/2011/リンク先:(PDF

繁栄したPPNB期の後の土器新石器時代より数千年間、西アジアの文化の発展は低調だったようだ。上にあるようにこの低調な時代も農耕牧畜社会つまり農業社会であることは間違いなく、「農業が人類の文化を発展させた」というチャイルド以来の通説は正しいとはいえない、ということだ。

低調な時代は遺跡の数が少ないためか目を惹く発展が無いためか分からないが参考になる書籍もネット記事もほとんど見当たらない。

西アジアの考古学』*1には紙幅を割いて書いてはいるが、大半が土器についてだ。

以下は文化の中身について書かれているところを抜粋する。

アムーク文化とハッスーナ文化

西アジアの考古学』では西アジアにおける土器新石器時代の文化の中でアムーク文化とハッスーナ文化の2つを採り上げている(ほかにも文化はあるがよく分からない)。紀元前6千年紀の文化だ。

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出典:大津忠彦・常木晃・西秋良宏/西アジアの考古学/同成社/1997/p78

アムーク文化

エル・ルージュ盆地ではPPNB後期に定住的なテル型集落が築き始められる。この時期は分地内に中規模の2遺跡が散財しているが、次の土器新石器時代、つまりアムークA、B期になると、かつて存在した盆地中央部の湖を挟むように盆地の北部と南部の扇状地末端に10haを優に越えるような超大型の集落が形成され、それぞれに小型集落が数遺跡ずつ付随する階層的な集落間構造のパターンが認識されるという。盆地南北の超大型集落の試掘調査で、所有権の表示や物流に関連して用いられたと想定されるスタンプ印章や、遠隔地から運ばれたトルコ石製のビーズなども出土している。テル・アル・ジュダイダなど他のアムーク文化に帰属する遺跡からもスタンプ印章は出土しており、なかにはラス・シャムラのようにアムークA期層ばかりでなくその下層のPPNB後期層からもスタンプ印章を出土する遺跡がある(常木1983)。こうしたことを考え合わせるならば、アムーク文化は、階層差と、遠隔地交易を内包した相当に複雑な社会構造を有した社会であった可能性が高いのである。

出典:西アジアの考古学/p81-82

三宅氏の引用と合致しないようだが一応貼り付けておく(ちなみに三宅氏らが調査したサラット・ジャーミー・ヤヌ遺跡は2haの規模)。

ハッスーナ文化

ハッスーナ文化は、『西アジアの考古学』では、プレ・ハッスーナ期と狭義のハッスーナ期に分けられる。プレ・ハッスーナ期の遺跡の住居は、粘土を乾燥させて作ったレンガではなく、ピセと呼ばれる粘土の塊そのものを積み重ねて作ったものである。PPNB期に見られるような計画性のある住居配置は見られない*2 (狭義のハッスーナ期の住居や文化がどのようなものかは書いていなかった)。

続いて狭義のハッスーナ期の土器についての話。

プレ・ハッスーナ段階に続く狭義のハッスーナ文化の段階で特筆すべき点は、焼成の良好な彩文土器が多数生産されるようになることである。ヤルム・テペIからはこうした土器を焼成したと考えられる2室構造の垂直焔式土器焼成窯が複数発見されている。これは現在のところ世界最古の土器焼成窯であり、西アジアでは土器を本格的に作り始めてからわずか数百年後には、土器を専用に焼くための窯をつくりだしたのであった。1万年近く継続した縄文土器がその全期間を通じて野焼きされていたことを考えると、その違いは驚愕に値する。というのも、民族例などを見ても、土器焼成窯をもっていて専業的な土器生産をおこなっていない例を筆者は寡聞にして知らず、土器作りに専用の窯を用いることは、土器生産の専業化がかなり進んでいたことを意味すると思われるからである(常木1997)。同じヤリム・テペIからは銅冶金をしたのではなかと想定される資料も出てきており、ハッスーナ文化のパイロテクノロジーは相当進んだ段階に達していた可能性が高い。

出典:西アジアの考古学/p86

ハラフ文化とサマッラ文化

西アジアの考古学』では、アムーク文化とハッスーナ文化は500年ほど継続して その後にハラフ文化とサマッラ文化が登場する(年代が重なる部分がある)。

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出典:samarra culture<wikipedia英語版*3

ハラフ文化

「ハラフ文化の年代は紀元前5300年頃から同4500年頃まで」(p89)で「ホームランドは北シリアから北メソポタミアの平原地帯であり、その遺跡分布は、現在の天水農耕の可能な最低降雨量である年間250mmラインを南限として、東西に広く広がっている」(p92)と書いてある。特徴は以下の通り。

集落間の階層性は乏しく、集落の規模も一般的に小さい。各集落では、簡便なトロス型住居が散財して建てられ、集落全体が周壁や溝に囲われていることもない。生業から見ると基本的には草原の天水農耕民であり、マージナルな地域での不安定な食料生産を補うために、土器生産と交易システムの整備に強い関心を抱いていた。

出典:西アジアの考古学/p93

もしかしたら牧畜がメインで農耕の方が補完的な生業だったかもしれない。「降雨量が十分でない年には満足な収穫が得られずに、どこかへ移動していくか、何かと交換するかなどして食料を得るしかなかった」(p92)とあるのは遊牧民的である。階層を保っていたアムーク文化がこのようなハラフ文化に移行したのは、PPNB期末期のような乾燥化が再び起こったのかもしれない。

サマッラ文化

サマッラ文化の人びとはハラフ文化が現れる直前から「中部メソポタミア沖積地の開発に取り組んでいた」(p93)。特徴は以下の通り。

サマッラ文化の担い手は、北メソポタミアでハッスーナ文化が盛行していた頃中部メソポタミア沖積平野を開発し始めた農耕民で、その後北方にハラフ文化が興ってきてからも中部メソポタミアを中心に暫くの間独自の文化的伝統を守って生活していた。彼らは農耕に人工的な灌漑を本格的に導入した最初の人々であったが、そこでは規則性の著しい定型的な建物がつくられていた。集落の建設はかなりの計画性をもっておこなわれ、共同体規模での協業的な作業も存在した。こうしたサマッラ文化の特質の多くは、続くウバイド文化に取り込まれ、ウバイド文化の基本的要素となっていく。

出典:西アジアの考古学/p99

この本で紹介されているチョガ・マミ遺跡はギネスに「First irrigation canals」として登録されているらしい。年代はおよそ前5500年と書いてある。

灌漑農業は水路を掘らなければいけないので、土木の知識を持っているインテリ層・支配層が存在していただろう。彼らによって計画・規則が決定され、集落の民はこれに従ったのだろう。

上記2つの文化とメソポタミアの風土

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出典:中田一郎/メソポタミア文明入門/岩波ジュニア新書/2007/p3

2つの文化の位置と上の説明と メソポタミアの風土の地図を重ねると、ハラフ文化が上ジャジーラにあたり、サマッラ文化は中部メソポタミア沖積平野にあたる。

ジャジーラと沖積平野の説明。

ジャジーラはアラビア語で「島」という意味。ティグリス川とユーフラテス川の上・中流のあいだの地域。北から南に緩やかに傾斜している高原。標高は500~200メートル。

ジャジーラはアブド・エル=アジズ山とシンジャル山を境に、北の上ジャジーラと南の下ジャジーラに分かれます。上ジャジーラは標高が比較的高かく、年間降水量は、200~600ミリメートルです。上ジャジーラでは、麦類の種まきの時期に当たる雨季の初めと、実りの時期に相当する雨季の終わりに比較的集中して雨が降るばかりではなく、なだらかな傾斜地で水はけがよいため、昔から豊かな穀倉地帯となっています。また、上ジャジーラは、夏の乾季になると、冬の間、下ジャジーラの河谷で放牧していた遊牧者が牧草を求めてヒツジや山羊をつれて移動してくるところでもあります。

これに対し、下ジャジーラのほとんどは、年間降水量が200ミリメートル以下なので、雨に依存する天水農業は不可能です。そのため人々は、高度な技術がなくとも灌漑可能なユーフラテスやハブル川の河谷に集まってきて集落や町をつくりました。河谷の外は荒地で、農業はもちろん羊や山羊の放牧にも不向きです。

出典:メソポタミア文明入門/p4-5

  • ハブル川はトゥール・アブディン山地からの流水が合流してできた川で、ジャジーラを通りユールラテス川の中流に合流する。

上の説明は現代の風土。『西アジアの考古学』のハラフ文化の描写のほうが気候条件が悪いとすれば、やはり当時は乾燥していたのかもしれない。

続いて沖積平野の説明。

河川が平野部に入り流速が落ちると河水により運搬された土砂が平野部に沈殿堆積する。これを堆積作用という。この作用により形成される平野を沖積平野という。

ティグリス川もユーフラテス川も氾濫を繰り返し、平野部に上流から来た土砂を撒き散らしたので平野部は肥沃な大地となった。これが後のメソポタミア文明の食料資源を支える要素の一つとなる。ただし中部メソポタミアから南部にかけて年間降水量が200mmを下回るため、灌漑農耕の技術・インフラは不可欠だった。

ティグリス川はサマッラの辺りで、またユーフラテス川はヒトの辺りで河谷を出て、幅200メートル近くもある低くて起伏の乏しい沖積平野に入ります。ここでは、両川は、周辺の土地より高いところを流れるいわゆる天井川となり、蛇行しながらペルシア湾に向かいます。

ふだん、川は、過去の氾濫の結果できあがった自然堤防の間を流れていますが、例年になく増水した時は、自然堤防を越えて氾濫しました。また、半連で川の流れが大きく変わることもありましたが、流路が変われば旧流路沿いの町では灌漑ができなくなり、人々は町を捨てて離散したため廃墟となることもありました。[中略]

古代の沖積平野での灌漑農業は、主としてユーフラテス川とその支流を利用したものでした。

他方、ティグリス川は水流が多く、春に急激に増水・氾濫することもあり、灌漑に利用するには不向きでした。したがって古代では、沖積平野を流れるティグリス川に沿って大きな街が発達することもありませんでした。

出典:メソポタミア文明入門/p6-7

サマッラ文化は沖積平野の北部で開始された。なぜ灌漑農耕のような面倒なことまでしてこの地に住み着いたのかは分からない。



*1:大津忠彦・常木晃・西秋良宏/西アジアの考古学/同成社/1997

*2:西アジアの考古学/p81-82

*3:ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/Samarra_culture#/media/File:Mesopotamia_Per%C3%ADodo_6.PNG