歴史の世界

先史:ナトゥーフ文化~「定住革命」

先史の最大のイベントは農耕の誕生(農業革命)なので、その手前にある「定住の始まり」というイベントにはスルーされがちだ。近年の発掘と研究の結果、定住型の狩猟採集民の生活が分かるようになってきた。

「定住→農耕の誕生」

以前の歴史の教科書では、狩猟採集から農耕へと移るにしたがって、定住化が起きたとされていたが、すでにその順番は逆転している。

NHKスペシャル取材班/ヒューマン なぜヒトは人間になれたのか/角川文庫/2014/p279-280

「以前」というのがどのくらい前かは分からないが、私は最近まで上のように「農耕の誕生→定住化」と思っていた。考古学的な証拠が少ない時代に考え出された仮説が何時の日にか定説になって、それに反する証拠が出てきても容易に定説化した仮説を打ち砕くことはできなかったようだ。その提唱者はどうやらゴードン・チャイルド(1892-1957)という考古学者らしいのだが、彼の主張がどのようなものだったのか著作を読んでいないのでよく分からない。

しかし、現在は科学技術の進展のために考古学者は遺跡・遺物の年代をある程度特定できるようになり、仮説の精度は20世紀中盤あたりとは比較にならないほど上がっている。放射性炭素年代測定法などの科学技術が世界中の学者に認められ、その上で議論されて研究結果が積み上げられている。

そして近年、先史の本が数多く出版されているので、「定住→農耕の誕生」は一般人レベルで認識されている、かもしれない。そもそも「農耕の誕生→定住化」という誤った知識をインプットされていない人も多いかもしれないが。

定住しなかった人類

人類史のなかの定住革命 (講談社学術文庫)

人類史のなかの定住革命 (講談社学術文庫)

原初的な人類は、チンパンジーのように、小動物を狩り、昆虫を捕らえていたとしても、果実や種子、若芽などの植物の重要性が、現在の狩猟採集民よりもさらに大きかった時代を経過してきたにちがいない。狩猟採集民以前に予想されるこのような人びとは採集民と呼ぶべきものであろう。[中略]

採集民的な生活は、年間を通じてじゅうぶんな植物食料の得られる熱帯森林においてこそ有効であろう。そして、人類が狩猟具や堀棒をもち、採集狩猟民になったとき、人類は熱帯の森林にもサバンナにも半砂漠にも生活できる高い潜在能力をもったということであろう。

およそ50万年前に絶滅したギガントピテクスは、サバンナに進出した唯一の大型類人猿として知られている。彼らは、乾燥地帯の植物を咬み砕く巨大な歯をもっていた。人類以外の生物一般の適応進化がすべてそうであるように、彼らは体を環境に適応させることによってサバンナへと進出したと理解されている。

これにたいして初期人類は、狩をし、地下の植物資源を利用し始めても、大きな犬歯や長い爪を発達させたわけではない。狩猟採集民の出現はいうまでもなく文化的な現象である。そして、文化というもののもっとも重要な性質は、新しい獲得された行動様式が、遺伝子をベースにした行動よりもはるかに速く同種個体間に拡散することであろう。

出典:西田正規/人類史のなかの定住革命/講談社学術文庫/2007(1986年に出版された書籍の文庫版)/p73-74

以前、ホモ・サピエンスは文化の力でネアンデルタール人との生存競争に打ち勝ったことを書いたが、上の説明では、初期人類も、身体の進化ではなく、文化の力によって、採集民から狩猟採集民になった、という。何時、最初の狩猟採集民が誕生したのかは分からないが、その最初の人類はホモ・エレクトゥスらしい(Homo erectus<wikipedia英語版参照)。火の使用も彼らが最初だそうだ。

狩猟採集民になった化石人類の話を続ける。

低緯度の熱帯森林を出た人類たちは数百万年間低緯度から出なかったが、50万年に中緯度に進出する。つまり出アフリカを達成した。彼らはホモ・エレクトス北京原人ジャワ原人など)で、もちろん狩猟採集民だ。

低緯度と中緯度の環境は低緯度より年間の気温差が激しく冬は可食植物を探すことが困難になる。中緯度に進出した人類は狩猟の技術を高めて克服した。その技術はマンモスのような大型動物まで狩ることができた。

そして、その技術の完成が、後期旧石器時代になって、人類がさらに高緯度にまで分布を広げるための基盤を用意したのである。

文明以前の長い人類において狩猟のもつ意味は大きかったのにたいして、蓄える戦略の採用はずっと遅れて現れる。中緯度以北において、計画的な蓄えの対象となる食料は、おもに秋に落ちる木の実や、サケなどの遡河性魚類であるが、木の実を大量に調理するのに必要な石臼や土器、魚を穫る道具、あるいは貯蔵の施設が現れるのは、後期旧石器時代の終末から新石器時代にかけてのことである。

出典:西田氏/p81-82

そして著者は、人類の蓄える戦略に対する傾斜が定住へと導いたと結論づける。そしてそれまでの遊動(非定住)生活者を「自然の呼吸のままに生きてきた人類」とし定住者と対立させた*1。定住革命は人類と自然との距離を開けたということなのだろう。

定住のデメリット

上の書籍『人類史のなかの定住革命』で「遊動することの動機」をリスト化している。

(1) 安全性・快適性の維持
 a 風雨や洪水、寒冷、酷暑を避けるため。
 b ゴミや排泄物の蓄積から逃れるため。
(2) 経済的側面
 a 食料、水、原材料を得るため。
 b 交易をするため。
 c 協同狩猟のため。
(3) 社会的側面
 a キャンプ成員間の不和の解消。
 b 他の集団との緊張から逃れるため。
 c 儀礼、行事をおこなうため。  d 情報の交換。
(4) 生理的側面
 a 肉体的、心理的能力に適度の負荷をかける。
(5) 観念的側面
 a 死あるいは死体からの逃避。
 b 災いからの逃避。

こうしてみると、遊動生活において移動することのはたしている機能は、生活のすべての側面に深くかかわっていることが明らかである。そうであるなら、当然のこととして、遊動生活者が定住するとなれば、遊動することがはたしていたこれらの機能を、遊動に頼らないで満たすことのできる、新たな手法を持たなくてはならないのである。定住生活が出現するためには、それらの条件が揃っていなくてはならない。

出典:西田氏/p22-24

人類は定住化した後も「遊動することがはたしていたこれらの機能を、遊動に頼らないで満たす」ことはすべてはできなかった。条件を満たせない点は文化の変更して対応していった。

このようなデメリットがあるのにどうして定住をしたのかは前回の記事「先史:定住型文化の誕生~ナトゥーフ文化」の「ナトゥーフ文化の誕生の原因についての仮説」の見出しのところで書いた(3つの仮説を貼り付けてるだけだが)。

定住と環境の変化

定住生活が、中緯度地域の温暖化による森林化を背景に出現したと説明したが、こうした気候と植生の変化は、人類が中緯度に進出してから何度も起こったことである。ではなぜ、定住生活が、最後の氷河期のあとにしか出現しなかったのか、このことについて説明しておかねばならない。

定住化現象の以上の理解からすれば、それ以前の温暖期には、定置猟具による漁撈や、デンプン質ナッツの大量調理・大量貯蔵を発達させる技術的・経済的な前提条件を欠いていたと考えざるをえない。定住生活は、一面において、自然環境の大変化に応じた適応形態として出現するのであるが、同時に、それを可能にした人類史的前提のあることに注意を向けなければならないわけである。[中略]

定住生活者が採用した生計戦略の性質を見れば、自然や労働、あるいは時間に対する認識の仕方にも、大きな変化の生じたことが予想できる。定置漁具の制作に多くの労力と時間を費やし、1、2ヶ月の間、激しい労働の連続に耐えることなどは、その日の食料だけを考える遊動狩猟採集民の行動原則とは、大きく異なるものである。

遊動狩猟採集民が、明日の食料について心配しないのは、自然の恵みを確信しているからであり、食料を蓄える行為は、いわば、自然に対するまったき信頼を放棄することにほかならない。自然のなかで、自然に頼って生きるブッシュマンの自然観とは、おのずと異なる自然観である。漁網を編み、ナッツを大量に拾い、加工するなど、単純な作業の反復を重ねて、自然が制御されるのである。定住生活者に予想しうる自然や労働に対するこうした認識のあり方は、森を拓き、土を掘り、水の流れを変える農耕民のそれと大きく共通するところがあるだろう。

自然に対する認識の変化と同時に、定住生活者とその周囲の植生との生態学的関係が、遊動生活者のそれと、大きく異なることに注意しなくてはならない。[中略]

遊動生活者といえども、環境に対して何ほどかの影響を与え、それを改変するだろう。だが、狩や採集によって環境が変われば、すなわち、食料や薪が減少すれば、キャンプを移動させる。彼らの立ち去った後のキャンプ地は、自然の回復力に委ねられ、やがてもとの自然にもどる。彼らが環境に与える影響の大きさは、チンパンジーが果実を食べてその種子を分散させ、肉食がシカの生息密度に関係している程度とほとんど変わらない。遊動狩猟採集民は、自然が生産する資源に「寄生」して生きている人びとといえる。

ところが、人間が定住すれば、村の近くの森は、薪や建築材のための伐採によって破壊され続け、そこには、開けた明るい場所を好む陽性植物が繁茂して、もとの森とは異なる植生へと変化する。定住者は、自然としての環境ではなく、人間の影響によって改変された環境に取り囲まれることになるのである。

日本の縄文時代の村には、こうして生じた二次植生中に、彼らの主要な食料であったクリやクルミがはえていたし、ヨーロッパの中石器時代にはハシバミが増加し、西アジアの森林植生中には、コムギやオオムギ、ハシバミ、アーモンドが増加する。これらの植物は、いずれも、伐採後の明るい場所に好んではえる陽性植物であり、しかも、食料として高い価値をもっている。人間の影響下に生長してきた植物を、人間が利用するのである。生態学的な表現をすれば、これは明らかに共生関係であり、人文学的にいえば、栽培や農耕にほかならない。食料生産の出現は、火を使う人間が、定住したことによって、ほぼ自動的に派生した、意外で、しかも人類史上、きわめて重要な現象であった。

出典:西田氏/p48-52

「食料生産の出現は、火を使う人間が、定住したことによって、ほぼ自動的に派生した」というのは大げさだと思うが(縄文時代は食料生産の出現は無かった)、定住によって周囲の環境が変わっていく様子は定住者によって観察されたことだろう。彼らの中にはその様子をただ見ているだけではなくて、故意に変えていこうとした人たちがいた。これらの「実験」の中で成功したものが食料生産の出現につながったのだろう。



次回はナトゥーフ文化後期=ヤンガードリアス期をやる。

*1:p82