歴史の世界

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先史:文化の衰退~PPNB後期と土器新石器時代

PPNB期に「新石器革命」、すなわち農業を基本とする生活様式が確立した。この人類の(狩猟採集から食料生産への)生活様式の転換は生活の安定をもたらし、人口は急激に増え、文化も育った。

しかし数百年に及ぶ繁栄した文化を支え続けてきた森林がついに枯渇し始め、さらに気候変動による乾燥化が進み、西アジアの文化は衰退の局面に入った。

PPNB後期からの衰退

PPNB期の人口増加とその人口を支えうるほどの経済の複雑化は、もっともなことであるが下降期をむかえた。レヴァントの紀元前7000~6000年頃の様子にはこのことがはっきりとみてとれる。レヴァントの大型遺跡のうち、つづく土器新石器時代まで継続的に居住されたものはほとんどない。土器がひろく普及した紀元前7000年期頃には、遺跡の多くは放棄されるか縮小した(ボクラス、イェリコ、ベイダ、アブ・フレイラではこの傾向はとくに著しい)。この状況の背景についてはヨルダン渓谷のアイン・ガザル遺跡で詳細な研究がおこなわれた。紀元前6500年頃には、脆弱な生態系にひきずられた文化退行の証拠がみられるが、これはおそらく乾燥化によるものと思われる。アイン・ガザル遺跡は、PPNB期のあいだに5ヘクタールから10ヘクタールへと成長し、紀元前6750年頃のPPNC期(先土器新石器時代C期)には13ヘクタールの大きさに達した。しかし巨大化のピークは、この地域のほかの遺跡の放棄に同調しておきていた(アイン・ガザル自体は土器新石器時代のヤルムーク期においてもきょじゅうされている)。それは今日の多くの都市にみられるような、周辺地域で巨大な人口を養えなくなったことによる都市への急激な人口流入だったようである。

出典:ピーター・ベルウッド/農耕起源の人類史/京都大学学術出版会/2008(原著は2004に出版)/p96

・上の「紀元前7000年頃」は「紀元前7000年頃」の誤りだろう。

簡単に要約すると前7000年紀に人間活動による生態系の消耗と気候変動による乾燥化によって多くの集落で維持が不可能になり、集落廃棄を余儀なくされた。この後、アイン・ガザルでも衰退期が訪れた。

西アジアでは全体的に同じような減少が起こった。まず農耕経済が破綻した。長年の農耕地利用で生産力が無くなったようだ。人びとは牧畜経済へ移行したがこれに伴い人口は減少した。そして文化退行となる(PPNB期後期に家畜が一般化するが、これは農耕地の消耗と関係があるのかもしれない)。

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中東地域における考古年表。紀元前15,000~5000年の遺跡と文化、おおきな気候変化をしめす(cauvin 2000を中心に修正をくわえた)。実線はPPNB文化の範囲である。コヴァンによると、PPNB文化は中部レヴァントあるいはユーフラテス川中流域を起源として、この範囲に拡散したという。太字は時期あるいは文化名を示す。

出典:ベルウッド氏/p75

上の年表で、数千年のあいだ西アジアの文化を支え続けたヨルダン渓谷が「(牧畜民)」とだけ書かれているところは注目点の一つだろう。単なる憶測だが、気候変動による乾燥化のみの影響だけならヨルダン渓谷は文化の継続を維持したかもしれない。

西アジアにおける土器の出現

西アジアの土器の出現の時期についてはよく分からない。上の年表によれば前6000年頃と言えるが、ネット検索によると前7000年頃とするページもある。とりあえず前7000~6000年頃として先に進もう。

上で示した年代と比べると東アジアの時の出現は一万数千年前とかなり早い。この年数の開きの原因の一つに調理の違いがあった。東アジアの土器の代表的な利用法はドングリ類のアク抜きだ。土器の出現によってドングリやトチノミは基幹的食料となって革新的な影響を与えた。土器は煮炊きの調理に活躍した。

これに対し、西アジアではドングリ類はまず粉に挽き割ってこれを水にさらして食用にした。煮炊きは石器を使ったようだ。時代が下り、コムギ・オオムギを生産するようになっても状況は変わらなかった。

西アジアで土器が出現した当時、つまり土器新石器時代の初期の利用法は貯蔵のためだった。そして土器の出現によって西アジアの情勢はほとんど変わらなかったという*1

実は、時の観察以外にもこのように推察される根拠がある。というのも、西アジアでは時の発明以前から他の素材による容器が盛んに作られ、それらは明らかに煮炊き用ではなく貯蔵や運搬を目的としてものであった。そして時の発明にはそれらの容器が大きな影響を与えたと思われるのである。土器以前の容器には石製容器や木製容器、またバスケットや皮袋といったものがあるが、土器との関連で何といっても興味深いのはプラスター容器であろう。

プラスター容器とは、石灰岩や石膏を焼いて粉にし、それを水でこねてさまざまな容器に形づくったもので、白色容器と呼ばれることもある。この容器は本格的な土器が登場する以前のPPNB中期に出現し、同後期に盛期を迎え、土器新石器時代に入って時が一般的になってしばらくたつと姿を消してしまう。その制作に焼成の工程を経ることや混和剤を混ぜたり、器面を調整したり、可塑性のある素材を利用することなど、土器との共通点が非常に多い。いわば土器作りへのノウハウを、プラスター容器作りで人々が学んでいたということができよう。

出典:大津忠彦・常木晃・西秋良宏/西アジアの考古学/同成社/1997/p75-76

プラスター容器と土器の作成燃料(つまり木材)の消費の違いが気になるところだが、分からない。

文化の低迷が続く土器新石器時代が示すもの

土器新石器時代の期間も上に書いた土器の出現と同様によく分からない。輝かしい先土器新石器時代とは対象的に文化退行期の土器新石器時代は魅力的ではないのだろう。

ここではネット検索の結果、やっとひとつ見つかった文章を貼り付けておく。結論だけ貼り付ける。

・・・以上のことから、土器新石器時代における集落規模の縮小、公共的建築物の消失、威信財の減少という姿が明確となった。高度に複雑化した先土器新石器時代の社会システムが、その後期あるいは末期に崩壊してしまったと考えることができ、これまでも「新石器時代の崩壊」と呼ばれていた現象が確かにこの時期に認められることを具体的な資料に基づいて明らかにすることができたと言える。

しかし、土器新石器時代を単に社会システム崩壊後の混乱期あるいは停滞期と捉えるだけでは十分ではないと思われる。これまで西アジア新石器時代は、チャイルド(G.Childe)の主張に従って、農耕牧畜という食糧生産の開始によって定義されてきた。しかし、動植物資料の実証的研究が進んだことにより、今では農耕牧畜が確立されたのは先土器新石器時代の後半(PPNB 中期から後期)であったと考えられるようになっている。先土器新石器時代の複雑な社会を生み出し、それを支えたものが必ずしも農耕牧畜という生業ではなかったことになり、むしろ農耕牧畜が確立された段階で「新石器時代の崩壊」が起こっているようにさえみえる。実際、サラット・ジャーミー・ヤヌ遺跡における調査おいても、出土した動物骨の分析からヤギ、ヒツジ、ウシ、ブタがすでに飼育されていた ことが確認されており、その割合は出土した動物骨の95%近くにもなる。また、植物遺存体の分析からは、コムギ、オオムギやマメ類なども栽培されていたことが明らかになっている。土器新石器時代は、農耕と牧畜に基盤を置いた社会であったことは間違いない。農耕牧畜という新しい生業の確立が、社会システムの面ではむしろマイナスに働いたようにみえるこうした現象は、農耕・牧畜が果たした役割を過度に強調する傾向にあったこれまでの考え方に、厳しく見直しを迫っていると言えるだろう。

出典:三宅 裕(研究代表者:筑波大学・大学院人文社会科学研究科・准教授)/西アジア新石器時代における社会システムの崩壊と その再編/2011/リンク先:(PDF



「先史」のカテゴリーでは長々と西アジアの先史を扱ってきたが、土器新石器時代の後の歴史については、新しく「メソポタミア文明」というカテゴリーを作って書いていこうと思う。

*1:大津忠彦・常木晃・西秋良宏/西アジアの考古学/同成社/1997/p74