歴史の世界

エジプト文明:先史⑫ ナイル川流域がサハラ・サヘルより文化的に遅れていた

エジプト文明が誕生したのはナイル川河流域だが、北アフリカでこの地が常時文化的にリードしてきたわけではなかった。

最終的には、サハラ・サヘルから流入した遊牧中心の文化と西アジアからの農耕・牧畜=定住文化が統合されて文明が誕生することになる。

この記事で、文明誕生以前のナイル川流域の状況を中心に書いてみよう。

エジプト国内の新石器文化は、最初にナイル川西方のオアシスおよび低地において開花し、後にナイル川流域地方に伝播していったことだけは動かしがたい事実である。

現在までのところ、ナイル川流域の終末期旧石器文化の遺跡で、ナブタを除くと新石器分化段階への連続的な移行を示す遺跡は残念ながら発見されていない。

出典:近藤二郎/エジプトの考古学/同成社/1997/p43

サハラ・サヘルではウシの家畜化や土器の発明、穀物の集約的(集中的、選択的)採取など新石器化が進んだが、ナイル川流域が新石器化したのは農耕・牧畜の技術が西アジアから流入してきてからのことだ。

つまり、元々ナイル川流域に住んでいた人々の文化は停滞していた。言い方を変えれば、それまでの文化で安定した生活を遅れていたので変える必要はなかった。このような状況下での文化の発展は激動のサハラ・サヘルのそれに比べて遅れたのだろう。

最終氷期が終わり(12000年前)、湿潤化が始まった後でもサハラ・サヘルは比較的小さな乾燥期があって、その地域の人々はその天候の変化の対応に追われていたが、ナイル川流域の人々はあまり影響を受けなかったのだろう。

ナイル河畔の遺跡では、砂漠地帯よりももっと水産資源に依存した生活が営まれていた。たとえば、カルトゥーム中石器文化の遺跡ザッガイでは、動物遺存体が比較的よく残っており、そのなかでも魚類、ほ乳類および貝殻の骨が優勢で、鳥類とは虫類が少数含まれていたという。植物遺存体はほとんど残っていなかったが、人骨に含まれるストロンチウム含有量の分析と、植物食糧の処理に用いられたと思われる粉砕具の存在から、貝類と植物が重要な食糧であったことが推測されている。

ナイル河流域における豊富な水産資源は、終末期旧石器時代の狩猟・採集を基盤とする生業の人々にも、ある程度定住的な生活を可能にしたようである。ナイル河流域のザッガイ遺跡では、各季節ごとに利用できる資源が存在すること、遺跡の規模が大きいこと、用具が豊富であること、および埋葬の存在にもとづいて、安定した集落の存在が指摘されており、おそらくカルトゥーム遺跡においても定住的な生活が営まれていたであろう。

出典:高宮いづみ/エジプト文明の誕生/同成社/2003/p26

高宮氏によれば、終末期石器時代(湿潤期)のナイル川流域の遺跡は中流(現在のスーダン中部)に多数の遺跡が形成されていたが、下流は散発的にしか発見されていない(同著p26)。下流に遺跡が少ない理由は書かれていないが、デルタの沖積土の下に未発見の遺跡があるかもしれない、としている(p37)。

農耕・牧畜が始まらなかった理由

ナイル川河流域の農耕・牧畜の出現はファイユーム文化の前5500年以降である。そしてそれらは西アジアから流入してきた。農耕・牧畜は西アジアでは前8000年頃には開始されていた。

そもそもナイル川河流域は豊富な水と耕作地(沖積地)に恵まれ、潜在的に農耕・牧畜にきわめて適した場所であるが、なぜその導入が2,000年以上も遅れたのだろうか。これについて、K.A.バードが、いくつかの理由を指摘している。まず、後に栽培・家畜化されるようになる野生の植、動物がエジプトにはもともと存在しないこと。次に、エジプトと西アジアの接点であるレヴァントでも、農耕・牧畜の出現は紀元前6000年紀以降であり、また農耕に適さない乾燥地帯であるシナイ半島が自然の障壁となって、その流入を拒んだこと。そして、水と沖積地が豊かなナイル川下流域は、狩猟・採集民にとって恵まれた環境であったため、農耕・牧畜を取り入れる必要性に迫られなかったこと、などである。

出典:馬場匡浩/古代エジプトに学ぶ/六一書房/2017/p61