ヤンガードリアス期とナトゥーフ文化後期
ヤンガードリアス期とは亜氷期(亜氷期については「氷河期/氷期/間氷期/氷河時代」参照)のこと。寒冷な時代。地球規模の現象だが主に北半球に大きな影響を与えた。
出典:ヴォルフガング・ベーリンガー/気候の文化史 ~氷期から地球温暖化まで~/丸善プラネット/2014(原著は2010年にドイツで出版)/p60
- 「氷期末亜間氷期」と書いてある期間がベーリング/アレレード期に相当する。スティーブン・ミズン氏*1はこれを「後期亜間氷期」としている。
- 「ベーリング/アレレード期」はヨーロッパにおける気候による時代区分で、これが地球のどの地域まで通用するか分からない。
- 本当はベーリング期とアレレード期という二つの亜間氷期で、あいだにオールダードリアス期という亜氷期があるのだが、ヨーロッパ以外の地域ではこの亜氷期は識別することができないようだ。*2
- 「最終氷期寒冷期(LGM)」は最終氷期最盛期(Last Glacial Maximum)のこと。
上の図のように温暖な時代から急激に寒冷な時代に移行した。西アジアではこの時期はナトゥーフ文化後期と言われているが、この文化もこれに影響を受けた。というか寒冷なヤンガードリアス期に突入したから「後期」に突入したといえるかもしれない。
ナトゥーフ文化の前期は「先史:定住型文化の誕生~ナトゥーフ文化」で書いた。それまで定住をしたことがなかった人びとが、有り余るほどの食料資源に囲まれて定住生活と文化を築きあげた。
それが突然の寒冷時代の到来で壊滅状態になるのがナトゥーフ後期である。
長期に渡って詳細な記録が得られるアブ・フレイラ遺跡(Tell Abu Hureyra)ではこの時期には寒冷または変わりやすい気候の影響で、毎年現れたガゼルの群れが来なくなり、森林から採集できる食料資源も少なくなる一方だった*3。ナトゥーフ文化前期の代表格であるアイン・マラッハも同様に食料資源に囲まれた環境は跡形もなく、住居の中は壁すら崩れ落ち、生活廃棄物が積み上がっていた*4。
環境の変化は人間の身体にも及んだ。
ナトゥフ文化期の人々の健康状態、とりわけ、子どもたちのそれは悪化していった。これは彼らの歯から明らかにすることができる。ハ・ヨニームに埋葬されていた後期ナトゥフ文化期の人々の歯は、前期ナトゥフ文化期の先祖のそれと比較して、形成不全の状態を示している頻度がはるかに高い。彼らが死んだときに残されていた歯の本数もさらに少なくなっており、その歯も虫歯が多く、これは、いずれも健康状態が悪かったことを示している。
上の書籍の同ベージによれば、アイン・マラッハでは身体の成長不良が見え、男性の体格が女性のそれとほとんど差がなくなっていた。
文化崩壊により迫られる3つの選択肢
多くのナトゥーフ人がアブ・フレイラと同じような状況に陥り、彼らは以下の3つの選択肢から将来の生活を選ぶように迫られた。
- 故郷を捨て、遊動(非定住)狩猟採集民になる。
- 故郷を捨て、他の定住先に引っ越す。
- 故郷に居続け、あらゆる手段を使いまたは手段を創出して生き残る。
ナトゥーフ文化以外の地域は定住と無縁であったことを思えば、「1」を選ぶことはそれほど無理な選択では無かっただろう。
「2」の移住先は、ムレイベト(Mureybet)やレヴァント渓谷などが候補地になった。移住先になった地域は新石器時代まで途絶することなく続いた。
A map of the Levant with Natufian regions across present-day Israel, Palestine, and a long arm extending into Lebanon and Syria
出典:Natufian culture<wikipedia英語版*5
- 上記の「Hayomin」は「Hayonim」の誤記。
「3」に関して「Tell Abu Hureyra<wikipedia」ではアブ・フレイラは少数の集団が居続けたと書いてあるが、『氷河期以後』*6では「廃墟」とあり、『農耕起源の人類史』*7では「2000年の明白な居住放棄期間」とある。他の村も同じような環境だったのかもしれない。
どの選択肢を採るにしても、人びとは生きるためにあらゆる手段を模索した。アブ・フレイラに残った人びとは食用にあまり適さないが乾燥に強いクローバーやウマゴヤシに手を出した*8。さらに彼らは食物栽培あるいはそれに似た行動を行っていた。当時の遺跡から植物栽培化されたライムギの種子が発見されている(ただし この努力は実らずに村は廃れてしまった)*9。
また獣肉に頼る人びとは個体数の少なくなった獲物を高確率で仕留めるために「ハリーフ尖頭器」なるものを開発した。それだけではなく、前期では食肉はガゼルのみでも賄われていたが、後期はそうもいかず数多くの小型の動物も食べるようになった*10。
最近の論文
ネット検索によりナトゥーフ文化後期に関する論文を見つけた
その1:Hunted gazelles evidence cooling, but not drying, during the Younger Dryas in the southern Levant
2016年の2月に公表された。この論文のautherには有名なOfer Bar-Yosef氏の名前もある。要旨は以下の通り。
・レヴァント南部と他地域の環境の差は、比較的温暖で安定した気候を保った(レバント南部にある)ヨルダン渓谷(北のガリラヤ湖と南の死海とそのあいだのヨルダン川で構成される渓谷)に移民が集中を促し、後の穀物の生産つまり農耕の誕生に影響を及ぼした。
この論文では研究材料としてHayonimの狩られたガゼルの歯を用いている。この論文が正しいとすると、上で引用した『氷河期以後』の文章「ハ・ヨニームに埋葬されていた後期ナトゥフ文化期の人々の歯は、前期ナトゥフ文化期の先祖のそれと比較して、形成不全の状態を示している頻度がはるかに高い」をどう解釈すべきなのだろう。ちなみにこの著者ミズン氏のソースは1991年のSmith氏の論文。
その2:Nahal Ein Gev II, a Late Natufian Community at the Sea of Galilee
2016年1月に出版された。こちらにもOfer Bar-Yosef氏の名前がある。要旨は以下の通り。
・エン・ゲヴ遺跡からはナトゥーフ文化と新石器時代をつなぐ橋渡し的な段階も見出すことができる。
この論文は「その1」の論文と合致する。エン・ゲヴ遺跡はヨルダン渓谷にある村だ。
* * *
ナトゥーフ期・続旧石器時代、PPNA期、PPNB期における遺跡の分布(Hour et al.1994など多数の文献にもとづく)。この地図はヒルマンによる。ヤンガードリアス乾燥寒冷期のはじめ(紀元前11,000年頃)の野生穀類の自生地分布もしめしている。出典:ピーター・ベルウッド/農耕起源の人類史/京都大学学術出版会/2008(原著は2004に出版)/p71(図3-1)
上の2つの論文が正しければ、ナトゥーフ文化前期に拡大した範囲が、後期になって縮小して「核地域」の範囲に戻った、と言えるかもしれない。
まとめ
寒冷化・乾燥化の影響でヨルダン渓谷などに人口が集中して、そのストレスが農耕社会への移行を促したという説がある。上の論文もそのような説を前提としていると思われる。
これが正しいのかどうかは分からないが、ヤンガードリアス期が終わって安定した温暖期(完新世)になったから農耕社会が劇的に繁栄したといえるだろう。もしも寒冷のままでいたら、農耕という技術は狩猟採集社会を補完するだけのものとして存在し続けたかもしれない。
ヨルダン渓谷は、ケバラン文化、ナトゥーフ文化の最重要地域だった。おそらく新石器時代や文明開化以降も重要な地域であったと思う。これから順々に調べよう。
以上の論文は2つともAbstractしか読んでいない。補足のために関連のニュース記事は読んだが。研究方法の妥当性など(アイソトープとかエナメル質とか)分かるわけがないし、そもそも英語を読むことが苦痛だ。
*1:同氏/氷河期以後(上)/青土社/2015(原著は2003年にイギリスで出版/p36
*2:ミズン氏/同著/p37
*4:ステォーヴン・ミズン/『氷河期以後』/青土社/2015(原著は2003年出版)/上巻p96
*5:著作者:Crates、ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/Natufian_culture#/media/File:NatufianSpread.svg
*6:上巻p101
*7:ピーター・ベルウッド/京都大学学術出版/2008(原著は2005年出版)/p78
*8:ブライアン・フェイガン/古代文明と気候大変動/河出書房新社/2005(原著は2004年出版)/p136
*9:氷河期以後/上巻p109
*10:氷河期以後/上巻p108-109