歴史の世界

先史:2万年前~(ケバラ文化/マドレーヌ文化)

2万年前は最終氷期の最中だが、ホモ・サピエンスはその寒さを克服しながら文化を創出した。

2万年前

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出典:ヴォルフガング・ベーリンガー/気候の文化史 ~氷期から地球温暖化まで~/丸善プラネット/2014(原著は2010年にドイツで出版)/p60

  • 氷期末亜間氷期」と書いてある期間がベーリング/アレレード期に相当する。スティーブン・ミズン氏*1はこれを「後期亜間氷期」としている。
  • ベーリング/アレレード期」はヨーロッパにおける気候による時代区分で、これが地球のどの地域まで通用するか分からない。
  • 本当はベーリング期とアレレード期という二つの亜間氷期で、あいだにオールダードリアス期という亜氷期があるのだが、ヨーロッパ以外の地域ではこの亜氷期は識別することができないようだ。*2
  • 「最終氷期寒冷期(LGM)」は最終氷期最盛期(Last Glacial Maximum)のこと。

2万年前(18000BC)は最終氷期最盛期だが、この頃ようやくヨーロッパ大陸の氷床が後退し始める*3

氷河期以後 (上) -紀元前二万年からはじまる人類史-

氷河期以後 (上) -紀元前二万年からはじまる人類史-

氷河期以後 (下) ?紀元前二万年からはじまる人類史?

氷河期以後 (下) ?紀元前二万年からはじまる人類史?

古代文明と気候大変動 -人類の運命を変えた二万年史

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オハロII遺跡

レヴァントでは栽培化にいたるまでの考古学的変化は、最終氷期のピークである紀元前1万9000年前後からトレースできる。その頃ガリラヤ湖岸のオハローII遺跡(Ohalo II)に住んでいた人々は、野生のエンマーコムギ、オオムギ、ピスタチオ、ブドウ、オリーブを求めて周囲をさがしまわっていた。ガリラヤ湖はリサン湖という更新世のおおきな湖の北の一部である。リサン湖はヨルダン渓谷を常時220キロメートルにもわたって水を満たすほどのおおきな湖であった。オハローIIのキャンプは1500平方キロメートルという、この時期の遺跡としては驚異的におおきいものであった。オハローIIの住民は、柱に草ぶきをした楕円形の小屋をすくなくとも三つ建てて食料を穴に保存していた。死者をおおきな石で囲い込んだ浅い穴に屈曲姿勢で埋葬し、上部旧石器時代的な石刃と玄武岩の石臼と石杵のセットを使っていた。考古学データによると、このとき西南アジアの人口密度は非常に低く、多くの地域は多年生灌木植生の寒冷な気候であったと考えられる。オハローIIはおそらくかなり一過的な「シェルター」というべき環境のなかにあり、穀類はこのような暖かいシェルター地域をはなれては穀類は繁茂しなかったのであろう。

出典:ピーター・ベルウッド/農耕起源の人類史/京都大学学術出版会/2008(原著は2004年に出版)/p74-76

  • 上部旧石器時代は後期旧石器時代と言い換えることができる。西アジアの考古学では「上部」のほうが好まれているのかもしれない。英語ではEpipaleolithic。
  • 『氷河期以後』*4によれば、この年代は19400年前だという。
  • 『氷河期以後』*5によれば、細石器を使用していた。
  • 西アジアの考古学』によれば*6、この遺跡で繊維質のロープの断片が発掘された。網漁の可能性を示している。魚骨も大量に見つかっている。

オハロ遺跡は住居群が火災に見舞われて放棄された後にガリラヤ湖の水面上昇により水没したのだが、その結果 有機物が消失を免れて遺り考古学者が驚嘆するような発見が多く見られた*7

場所の確認↓

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Sea of Galilee in relation to the Dead Sea
出典:Sea of Galilee<wikipedia英語版*8

埋葬や石臼があることからこの遺跡は定住を証明するものだと思ったがどうもそうではないらしい。

彼らが狩猟採集民ではなく農民だったとしたら、火災によって焼失したのは、粗朶を編んだ小屋だけではなかったことだろう。木材を使って建てた住居、家畜の小屋と柵、貯蔵しておいた穀物を火災のせいで失ってしまう確率がきわめて高いばかりか、家畜の群れが逃げ出したり、焼け死んでしまう恐れもあるからだ。農民たちは、焼け跡を放置することなくその場にとどまり、再建を図らなければならない。周囲の土地に、林地を開梱したり、柵を設けたり、穀草を栽培するといった労力を投入しているからである。

出典:ミズン氏/上巻/p50

  • 住居は粗朶を使って建てられていた。

しかし住人は遊動(非定住)性の狩猟採集民なので彼らは修理できるもののみを持って、この場を立ち去った、とミズン氏は推測する。

ケバラ文化(ケバラン kebaran)とその後

ケバラ文化

およそ前18000年あたりから西アジアでケバラ文化が起こる。上記のオハロIIもケバラ文化だ(『氷河期以後』上巻p60)。西アジアはケバラ文化からepipaleolithic(亜旧石器時代、終末期旧石器時代、続旧石器時代。≒中石器時代)に入る。

細石器*9の多用を特徴とする文化。『西アジアの考古学』(p50)によれば、急角度の二次加工を施すことも特徴の一つだ。

「kebaran<wikipedia英語版」には、弓矢の使用とイヌの家畜化に触れている。イヌの家畜化についてはパット・シップマン著『ヒトとイヌがネアンデルタール人を絶滅させた」*10によれば、すでにイヌの家畜化は36000年前に始まっていた(p193)。弓矢に関しては、『氷河期以後』(上巻p60)によれば、オハロIIの時にすでに使用されていた。

『氷河期以後』(同ページ)には、「[細石器は]アシの矢柄に埋め込んで鏃(やじり)として、骨の柄に埋め込んで小刀として用いられる」と書いてある。

『氷河期以後』(p59)では細石器の制作過程で発生した石の破片の散乱した場面を描写している。これは人類が定住化した後の清潔さとの対比を意図しているのかもしれない。

石臼や網漁の道具など持ち運びにくい道具が使用されている。しかしこの文化は上で書いたように未だ遊動型の狩猟採集民の文化だ。定住するのはこの文化の後なので、ケバラ文化は定住までの移行期または前段階と言っていいのではないか。

「kebaran<wikipedia英語版」では季節によって移住する様子が書かれている。

The Kebaran people are believed to have practiced dispersal to upland environments in the summer, and aggregation in caves and rockshelters near lowland lakes in the winter.

出典:kebaran<wikipedia英語版

(拙訳:ケバラ文化の人々は夏には高地にバラバラに住み、冬には湖に近い洞窟や岩陰に集合体を作って住む習性を持っていたと信じられている。)

  • 上のような習性はおそらく遊牧民に受け継がれていると思う。

その後

その後[およそ二万年前(前18000年)から]4500年にわたって、この地域〔西アジア〕では植物がされに密生し、居住地の密度もしだいに高くなっていた。かつては不毛な沙漠だったアズラクの西の地域も、紀元前14000までには草本、灌木、花々によって被われていた。かつては一望の下に見渡すことができたステップにも樹木が広がっていた。

そうした環境の変化の直接的な証拠物件は、フラ盆地のコア(地層資料)であり、それは、紀元前15000年頃から林地がオーク、ピスタチオ、アーモンド、ナシなどの木々によって彩りを豊かにしていったことを示している。温暖と湿潤がその度合を増していったこの時期は、紀元前12500年、つまり、後期亜間氷期においてその頂点を迎えた。

出典:スティーブン・ミズン/氷河期以前 上/p62

  • アズラク(azraq)は死海ヨルダン川の西方、内陸に位置し、二万年前は寒冷乾燥の地だった。

紀元前15000年より後には、幾何学ケバラン(幾何学という名称は細石器の形態的な特徴からきている)という名でしられる文化が南レヴァントに発達した。幾何学ケバラン文化の人々は、最大で1000平方メートルくらい、多くは300平方メートル以下のちいさなキャンプサイトや洞窟に住んでいた。彼らは季節によって移動したと考えられており、おそらく冬には渓谷の低地に、夏には標高の高いところに住んでいた。彼もまた石臼と石杵をもちい、ガリラヤ湖にちかいエン・ゲヴIII遺跡(Ein Gev III)では礎石をもった円形小屋をもっていた。エン・ゲヴIIIの人々はその先駆であるオハローと同様に野生穀類を収穫していたと考えられているが、つづくナトゥーフの人々とはちがい、石刃による鎌刃をまだもっていなかった。

出典:ベルウッド氏/p76

  • ケバラン(ケバラ文化)と幾何学ケバランの違いはあまり大差ないようだが、形態的な特徴以外はよく分からない。
  • ナトゥーフ文化は幾何学ケバランの後継文化。

マドレーヌ文化

マドレーヌ文化は後期旧石器時代。ヨーロッパが中石器時代に入るのはまだ先のこと。

[マドレーヌ文化は]BC18000年~10000年にかけて、北スペインからマドレーヌ文化の名の元になった発見地ラ・マドレーヌがあるドルドーニュ地方と中央ヨーロッパを越え、ロシアに達した。この文化の有名な洞窟画の80%以上は15000~12000年前に描かれている。例えばラスコー、ペシュメルル(ドルドーニュ)、アルタミラ(スペイン北部)などの洞窟画である。マドレーヌの狩猟民は半遊牧の生活をしていたが、動物の家畜化も始めていたかもしれない。

フランスでは人口が最寒期の三倍の6000~9000人に増加したとはいえ、人口密度はまだ非常に低かった。彼らは現在の遊牧民のように20~70人程度の一族で暮らしていたと想像できる。そのほうが争いの程度も大きくなりすぎないからだ。このグループは組織化され、500~800人ほどのより大きなグループ、あるいは部族になっていたかもしれない。[中略]骨格には物理的な欠損と損傷の後がはっきり見て取れる。おそらくすでに社会的階級、つまり階層はあったのであろう。なぜなら、ロシアとイタリアにある墓からは、象牙や動物の歯から作られたおびただしい数の玉が発見されており、それは被葬者の衣服を装飾していたものに違いないからである。子供に豪華な装飾品が見られるケースでは、子ども自身の功労によるものではなく、単に相続順位によるとみて差し支えない。旧石器時代の間にすでに原始時代の平等社会は終わり、ステータスシンボルの役割はますます重要になっていた。

出典:ベーリンガー氏/p53-54

  • BC◯◯年と◯◯年前が混じっているので注意。
  • 「遊牧」「遊牧民」という言葉があるがこれは遊動(非定住)性狩猟採集(民)の訳し間違いだろう。



*1:同氏/氷河期以後(上)/青土社/2015(原著は2003年にイギリスで出版/p36

*2:ミズン氏/同著/p37

*3:Last Glacial Maximum<wikipedia英語版

*4:上巻p579

*5:上巻p60

*6:大津忠彦・常木晃・西秋良宏/西アジアの考古学/同成社/1997/p51

*7:ミズン氏/上巻/p49

*8:ダウンロード先はhttps://en.wikipedia.org/wiki/Sea_of_Galilee#/media/File:JordanRiver_en.svg

*9:「細石器<wikipedia」参照

*10:原書房/2015(原著も2015年に出版)