歴史の世界

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先史:定住型文化の誕生~ナトゥーフ文化

ナトゥーフ文化の期間は、「Natufian culture<wikipedia英語版」によれば、前12500-9500年だが、後期の千数百年間はヤンガードリアス期という亜氷期と重なるため、全く違う文化だと思う。この記事では前期の話のみを書く。

気候

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出典:ヴォルフガング・ベーリンガー/気候の文化史 ~氷期から地球温暖化まで~/丸善プラネット/2014(原著は2010年にドイツで出版)/p60

  • 氷期末亜間氷期」と書いてある期間がベーリング/アレレード期に相当する。スティーブン・ミズン氏*1はこれを「後期亜間氷期」としている。
  • ベーリング/アレレード期」はヨーロッパにおける気候による時代区分で、これが地球のどの地域まで通用するか分からない。
  • 本当はベーリング期とアレレード期という二つの亜間氷期で、あいだにオールダードリアス期という亜氷期があるのだが、ヨーロッパ以外の地域ではこの亜氷期は識別することができないようだ。*2
  • 「最終氷期寒冷期(LGM)」は最終氷期最盛期(Last Glacial Maximum)のこと。

前12700年(14700年前)に温暖期(ベーリング/アレレード期、亜間氷期)が始まり、急激に気温が上昇する。この頃が西アジアにおけるナトゥーフ文化期の前期にあたる。

ブライアン・フェイガン著『古代文明と気候大変動』*3によれば、「前13000年以降、2000年にわたって降雨量が増加した」と書いてある。

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A map of the Levant with Natufian regions across present-day Israel, Palestine, and a long arm extending into Lebanon and Syria
出典:Natufian culture<wikipedia英語版*4

ナトゥーフ文化の誕生の原因についての仮説

一つにまとめられない。3つもあるので書いておく。

その1:「人口集中によるストレス」説

ナトゥーフ文化領域とドングリ

ナトゥーフ式の新たな生活様式が生まれたのは、幾何学ケバラン期末期頃に始まった気候の乾燥化に起因するのではないかといわれている(Henry1989)。それによって、内陸乾燥地を含む広域に展開していた集落が、ヨルダン渓谷に沿った比較的湿潤な疎林地域に集中するようになった。ナトゥーフィアン前期の遺跡分布域は、かなり小さい。そのために生じた人口の集中と資源に対するストレス増が、定住や集約的な穀物利用という新しい生業・集中システムの発生につながったと考えられるのである。ナトゥーフ期に開花する各種の芸術様式も、上部旧石器時代後期にヨーロッパで流行した芸術と同様、近接する集団間の社会関係を円滑にするための表象ではなかったかといわれている(Bar-Yosef and Belfer-Cohen 1989)。定住性や資源の集約的利用、社会関係の保証など、新石器時代文化の基礎となる諸要素のすべてがここに準備されたものと考えられよう。

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出典:大津忠彦・常木晃・西秋良宏/西アジアの考古学/同成社/1997/p55-56

・この本は1997年出版のためデータが古い。

ナトゥーフ文化が起こった地域はヨルダン川と地中海沿岸に挟まれた「丘陵地帯」だ。このあたりは森林ステップ(forest steppe。森林とステップが入り交じる推移帯)になっていた。集落はこの森林ステップに隣接するオークの林地の内部に形成された。*5

その2:「前文化(幾何学ケバラ文化)からの継続的発展」説

私たちは、人々が人口の過剰によってそうした生活様式を強いられていたわけではなかったことをほぼ確信することができる。ナトゥフ文化期の遺跡は、それ以前の時代と同じようにけっしてその数は多くない。人口の過剰があったとしたら、それは、ケバーラ文化期に遺跡の数が劇的に増加し、細石器の形式の標準化に拍車が掛かった紀元前14500年の時点だった。その後2000年の歳月が流れて、最初のナトゥフ文化期の集落が出現したとき、人口の増加を示している痕跡は見つかっていない。そればかりか、ナトゥフ文化機の人々の骨は、彼らが適度に健康であり、食糧不足のせいで望ましくない生活様式を強いられていたような人々とはまるで異なっていたことを明らかにしている。[中略]

アイン・マッラーハを発掘したフランソア・ヴァラは、ナトゥフ文化期の集落がたんにケバーラ文化機の人々の特定の季節における集合から生まれたのだと考えている。ヴァラは、世紀の変わり目の頃、北極地方の狩猟採集民たちと生活をともにしたことがある文化人類学者マルセル・モースの著作を想起している。モースは、周期的な人々の集合が密度の濃い集団生活という特徴をもっており、そうした生活が、祝祭、宗教的な儀式、知的な議論、頻度の高い性行為をともなうことを認識していた。それとは対象的に、それぞれの人々が小さな集団を形づくって互いに遠く離れて暮らしている、一年のうちのそれ以外の期間は、いずれかといえば活気がない。

ヴァラは、ナトゥフ文化期以前の移動性の狩猟採集民たちの集合がそれと似通っていた可能性があり、ナトゥフ文化期の人々は、集合する期間を延長する機会を得たその結果として、一年を通してそうした状態を効果的に持続するようになったにすぎないと提唱している。事実、ナトゥフ文化期の集落のすべての基本的な要素、つまり、石組みの住居、石臼、ツノガイの数珠玉、遺体の埋葬、ガゼルの骨などは、ネヴェ・ダヴィッドにおいてすでに存在していた。気候がしだいにおんだんでしつじゅんになるにつれて、植物と動物がより多様でゆたかになっていたことから、人々は、冬期の集合場所により長時間滞在し、より速くそこに帰って来るようになり、一部の人々が年間を通してその地にとどまるようになっていったのである。

出典:スティーブン・ミズン/氷河期以後/p91-93

「その2」は「その1」とかなり違う。「その1」がストレスによる急な変化を主張するのに対し、「その2」はケバーラ文化からの連続性を示している。

さらに「その2」の「それ以前の時代と同じようにけっしてその数は多くない」に反する主張がある。

紀元前12500年までに、幾何学ケバランの細石器インダストリーはつづくナトゥーフ文化へと発展した。幾何学ケバラン文化とナトゥーフ文化のおおきなちがいとしては、遺跡の数と面積がナトゥーフ期に飛躍的に増加したことがあげられる。「近東考古遺跡地図帳」には、この時代の遺跡としてレヴァントに74地点、またアナトリアとザグロスでは同時期の非ナトゥーフ文化の遺跡として26地点の遺跡があげられている。しかし、数だけではなく遺跡の面積についてもナトゥーフ文化の全域をとおして、幾何学ケバランの平均的なおおきさよりも5倍もおおきくなったとみつもられている。このことはヤンガードリアス期(紀元前11000~9500年)の開始よりも前に、とくにナトゥーフ前期に人口が急速に増加していたことを示唆する。

出典:ピーター・ベルウッド/農耕起源の人類史/京都大学学術出版会/2008(原著は2004に出版)/p76-77

どちらが正しいのか、あるいはどちらも間違っているのか分からない。

その3:「どんぐり」説

以下の引用では、ケバラ人は植物性食物をほとんど食べなかったことを前提にして書いてある。

気温が上がるにつれ、ヨーロッパにいたクロマニョン人の子孫のように、ケバラ人も木の実と種子に関心を向けるようになった。水に恵まれたオークとピスタチオの森がある一帯では、そうした傾向はとくに顕著に見られた。そのころには森はユーフラテス川の流域のなかほどから、ダマスカス付近を抜け、ヨルダン川まで広がっていた。これらの高地にあるけばラジンの遺跡からは、収穫した種子や木の実を加工保存するための擦り石と擦り台が見つかった。降雨が季節的に偏り、周期的な干ばつに見舞われる地域では、食糧の保存は不可欠だ。前11000年になり、量が時代の大型動物のいなくなった世界にヨーロッパ人が適応していたころ、ケバラ人は植物性食物を重要な常食の一部にするようになっていた。

どんぐりがもたらした影響

オークとピスタチオのベルト地帯が、おそらく聖書にあるミルクと蜂蜜の流れる地の着想の源だろう。ここでは驚くほど多様な植物性食物が収穫できた。この地に住んだ人びとは、移行帯、つまり接し合う二つの生態学的領域の境界にある土地を好んでいた。ここなら、一年の別々の時期に、別々の食糧を採集しえたからだ。先人たちとは異なり、多くの集団はこのころには一年中、洞窟を利用するようになった。そこなら雨を防いで、植物性植物を乾いた場所に保管しうるだろう。このころには春と初夏には野草、秋にはどんぐりとピスタチオなど、植物性食物がきわめて豊富になったため、多くの集団は一時的な野営地ではなく、もっと大きな常設の共同体で暮らすようになった。そうした場所で、彼らはかなり広い草葦屋根の丸い住居を建てるようになった。[中略]

毎年、秋になると、ナトゥフ人は何百万個となく、どんぐりとピスタチオを収穫した。どちらの木の実も保存が容易で、昆虫やげっ歯類にやられないかぎり、二年以上はもつという利点があった。収穫方法は単純だった。枝をゆするか、木に登って熟した実を集めればいいのである。[中略]

収穫高に関するデータは、残念ながらなかなか手に入らないが、カリフォルニアのノースコースト一帯では、1ヘクタール当たり590キロから800キロという大収穫も珍しくない。かりにそれほどの生産量があれば、ヨーロッパと接している地域よりも、50倍は多くの人を養うことができただろう。どんぐりは栄養価に富み、炭水化物が70パーセントも含まれ、タンパク質は5パーセント、それに脂肪も4.5パーセントから18パーセント含有する。ただし、大きな難点が一つあった。加工に手間隙がかかったのだ。どんぐりの殻を割り、粉にするのは、野草の種を挽く以上に時間を要する。そうなってもまで、食べることはできない。どんぐりには苦いタンニン酸、つまり渋が含まれていて、時間をかけて水にさらしてからでなければ、調理できないのだ。

どんぐりとピスタチオが充分すぎるほどの余剰食糧を生み出したおかげで、ナトゥフ人の共同体は一箇所に長くとどまれるようになった。だが、その余剰分には犠牲がともなっていた。膨大な労働力が日々費やされたのだ。人類学者のウォルター・ゴールドシュミットがかつて観察したところによると、カリフォルニアでは一人の女性が3キロのどんぐりを砕いて粉にするのに、3時間かかったという。挽き割粉を流水に浸けてさらすのに、さらに4時間が必要だった。7時間の労働のあと残るのは2.6キロの食用の粉で、家族は数日間、それを食べて過ごせる。一方、狩人が鹿の皮をはいで肉をさばくのは、数分ですむ。狩りはどんぐり広いより時間がかかるかもしれないが、食事の用意をするのは簡単で、費用効率も高い。どんぐりが必需食品となると、共同体の生活は大きく変わった。

男も女も木の実を収穫したにちがいないが、それらを保存し加工する作業は全面的に女性の肩にかかってきた。それまでの何千年間も、男は狩りをし、女は野草などの植物性食物を採集して処理してきた。こうした処理も時間がかかったが、どんぐりに必要な作業とは比較にならない。毎日消費するためのどんぐりを挽き割り、さらすには、女性の仕事に大転換が必要であり、その結果、女たちは擦り台と擦り石だけでなく、貯蔵庫にも釘付けになった。何万年も自由に動きまわる生活をつづけてきたナトゥフ人は、この時代になるとどんぐりの収穫のせいで、長期のベースキャンプから離れられなくなった。しかし収穫はおおむね予測がついたし、適切な貯蔵庫があれば、こうしたほぼ恒久的な定住地も充分に存続可能だった。[中略]

貯蔵可能な食糧が豊富に得られるようになると、ナトゥフ人の共同体は急速に拡大した。イスラエルのフーラ川流域にあるマラハ遺跡は1000平方メートル以上にもおよび、初期の狩猟採集社会のどの野営地よりも広大だった。ここの住民は膨大な労力を費やして丘の斜面を壇上にならし、そこに家を建て、上等な漆喰を混ぜて壁を塗り、貯蔵用の穴蔵を掘った。マラハのような場所は、何世代にもわたって人びとが永住した村だった。

出典:ブライアン・フェイガン/古代文明と気候大変動/河出書房新社/2005(原著は2004年出版)/p121-126

ナトゥフ文化誕生の原因がすべてどんぐりが原因とまでは言わないが要素の一つくらいにはなっていると思う。ムギ類・マメ類などの穀物に話が集中して木の実が軽視されているように思われる。

道具/交易

道具類も多様化し、細石器が着柄された石鎌が登場し、骨角器は釣り針や編み棒、装飾具が発見され、その他 多彩な装飾具も見られるようになった。トルコ産の黒曜石が南レヴァントで発見されるなど、広範囲の交易は行われていることも示唆されている*6

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出典:sickle<wikipedia英語版*7

定住に適応した文化

ナトゥーフ文化は定住に適応するために開発された文化だ。人びとは有り余る過食植物と定期的に現れるガゼルの群れに囲まれてそれまでのどの文化よりも安定した生活を享受できた。

開発に成功した文化はその後2000年に渡って続き、世代交代は50回も繰り返した。*8



次回は定住の重要性について書く。

*1:氷河期以後(上)/青土社/2015(原著は2003年にイギリスで出版/p36

*2:ミズン氏/同著/p37

*3:河出書房新社/2005(原著は2004年出版)/p130

*4:著作者:Crates、ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/Natufian_culture#/media/File:NatufianSpread.svg

*5:スティーブン・ミズン/氷河期以後(上)/青土社/2015(原著は2003年にイギリスで出版)/p65

*6:西アジアの考古学/p54

*7:著作者:Wolfgang Sauber、ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/Sickle#/media/File:Museum_Quintana-Neolithische_Sichel.jpg

*8:スティーブン・ミズン氏/氷河期以後(上)/青土社/2015(原著は2003年に出版)/p96-97