歴史の世界

秦代⑫:外征 後編(南方編)

前回に続いて、今回は南方の外征について書く。

史記』始皇本紀には、始皇33年(前214年、オルドス攻略の翌年)に嶺南(旧楚の領域の南)を占領して3つの郡を置いたと書いているのみだ。

しかし、下記に記すように、嶺南攻略には運河の建設も含まれるので、外征開始から占領まで1年の内で終わる話ではない。時系列は諸説ある。

嶺南の位置

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出典:鶴間和幸/人間・始皇帝岩波新書/2015/p96

南部の斜線が攻略地。南海(郡)、桂林(郡)の北には南嶺山脈五嶺山脈)があり、旧楚との境界となっていた。嶺南には現在のベトナムの北部も含まれる。

南方攻略の目的

目的は南方ルートの確保だ。

南方からは象牙や犀角、カワセミ羽、真珠、翡翠など秦帝国内には無い物産が輸入されていた。このルートを確保すれば、莫大な利益(の一部)が始皇帝の懐に入るというわけだ。

また、長江以南の領域は旧楚の領域も含め、人口が極めて少ない未開拓地であったので、ここに北方の人々を強制移住させて開拓しようと目論(もくろ)んだ。

攻略の経過

経過についての出典は『淮南子』人間訓に求められるようだ *1。 尉(軍司令官)屠睢率いる50万人の大軍を5隊に分けて南下させたという話はこれが出典だ。

下のリンク先に該当する文章と訳が書かれていた。

[mixi]『淮南子』人間訓 20 - 中国史 | mixiコミュニティ

これによると、秦軍は運河を建設して兵站を確保しながら順調に攻略していったが、越軍が山間部に逃れてゲリラ戦を展開し始めてから苦戦するようになった。そして ついに軍司令官の屠睢の戦死という事態に至った。

ちなみに、《三年不解甲弛弩(三年間甲冑を解かず、いしゆみの弦を緩めることはなかった》とあるので、これを信じれば、前214年の3年以上前には攻略が開始されていたことになる。

さて、南方攻略の話の続きをする前に、ここで運河建設の話をしておこう。

霊渠の建設

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出典:人間・始皇帝/p142

  • 小さくて分かりにくいが九疑山の左。

霊渠とは運河のこと。「渠」は溝の意味を持ち、運河を表す。「霊」は運河の北の地名「零陵」から取ったとされる。

この運河は湘江の上流と、漓江の上流を結ぶ。2つの川は五嶺山脈(南嶺山脈)を分水嶺として前者が北に、後者が南に流れる。湘江は長江に接続、漓江は西江に接続する。西江は珠江水系の一部であり現代の香港のある河口に至る。

つまり、この2つの川を運河でつなげれば、長江から船で兵站を運搬することが可能になる。戦後は商用ルートになっただろうが、現在では灌漑施設になっているそうだ (霊渠 - Wikipedia )。

この運河は現存し全長約33km。川には高度差があったが、川を堰き止めて水位を上昇させる技術は秦代以前に既に有った。

南方攻略とその後

さて、攻略に話を戻す。といっても攻略の話は少しだけ。

戦死した屠睢の代わりに新たに任囂を尉(司令官)に任命して進軍した。戦闘の詳細は分からないが秦軍の勝利となり、嶺南は秦帝国支配下に入った。そして『史記』に書いてある前214年に南海郡、桂林郡、象郡の3郡が設置されるという話になる。

史記』の該当部分は
《三十三年,發諸嘗逋亡人、贅婿、賈人略取陸梁地,為桂林、象郡、南海,以適遣戍。》 *2 この訳は
《始皇33年(前214年)、逃亡した罪人、困窮のために売られて婿入りした者、商人を動員して嶺南地方を占領し、桂林、象(しょう)、南海の三郡を置き、罪人に守らせる。》 *3 *4

上にあるように、本土のあぶれ者たちを集めて軍を編成し、嶺南を占拠したら彼らをそのままそこに住まわせた。嶺南は高温多湿で、北方の黄河流域の乾燥した地域に住んでいた本土の民は伝染病に罹る可能性が高かったので、進んで住みたいという漢人はいなかっただろう。

少し話は逸れるが、長江以南と南嶺山脈の間の地域も人口が少なかった。古代中国は黄河中流域に人口が集中していて、この地域の人口が増加するようになるのは東晋代(後317年)からだ *5。 湿潤な気候も北方の民にとっては住みにくい場所だったようだ。

また、同じように台湾も伝染病のために中国本土の歴代政権は台湾に植民しようとは思わなかった。台湾の伝染病の問題を解決したのは日本統治以降のことだ。

話を戻す。

占領後、任囂は留め置かれ、南海郡尉(郡の軍司令官)に任命されたのだが、前210年に始皇帝が旅先で死んでしまってから事態が変わってゆく。

紀元前210年、始皇帝が病没し、二世皇帝が帝位を継承したが、紀元前209年その暴政に対し陳勝呉広の乱が発生し秦国内は混乱、やがて劉邦項羽による楚漢の抗争となり、中国全土は混乱状態に陥った。このような状況下にあった紀元前208年、南海郡尉の任囂が重病となると、龍川県令の趙佗が郡尉の職務を代行することとなった。程なくして任囂が病没すると、南海郡尉に就任した趙佗は南海郡内の軍隊に対し中原の反乱軍隊が進入するのを阻止する命令を発し、同時に秦が南海郡に派遣していた官僚を粛清して、新たに自らの腹心を官僚に登用した。紀元前206年に秦が滅亡した後、紀元前203年には桂林郡と象郡を併合し、南越国を建国し、「南越武王」を自称した。

出典:南越国 - Wikipedia

趙佗は任囂の副将として派遣された人物だが、南海郡のひとつ竜川県の県令となった。その後は引用の通り。南越国前漢武帝の代まで続いた。

先住民、百越について

百越とは、いわゆる漢族とは文化や言語系統が異なる南方民族の総称。単に越人とも。百越と呼ばれる諸民族は上の統一秦地図にある斜線部(嶺南)とその北東に位置する旧楚の領地に点在していた。人口は少ない。これら越人の中には国あるいはそれに準じる組織体を持つ民族がいた。それが閩越と東甌だが、このことは以下の記事に書いた。

百越は日本人の先祖の一部「弥生人」と関係があるとされているが、私はよくわかっていないので、ここでは書かない。



*1:淮南子』は劉邦の孫の劉安が編纂させたと言われている

*2:史記/卷006 - Wikisource

*3:人間・始皇帝/p255 参照

*4:「以適遣戍」。「適」は「謫」すなわち流刑を受けた罪人のこと。「戍」は国境を守ること。

*5:《PDF》中 国 に お け る 文 化 中 心 の 遷 移 - J-Stage www.jstage.jst.go.jp › article › chirikagaku › _pdf › -char