記事「メソポタミア文明:初期王朝時代⑦ 第ⅢB期(その3)初期王朝時代末の画期」からの続き。
初期王朝時代はアッカド王サルゴンがウンマ王(ウルク王)ルガルザゲシを倒してシュメールを統一する時に終わる。ルガルザゲシが活躍した数十年間は目まぐるしく情勢が変わったようだが、詳細な情報はなく断片的で、いろいろな説がある。(サルゴンについては別の記事で書く。)
ルガルザゲシ、ラガシュを滅ぼす
ルガルザゲシがラガシュを滅ぼした史実は、滅ぼされた側のラガシュの王碑文に残されている。
ウンマの人はラガシュ市を破壊してしまい、ニンギルス神に対して罪を犯した。その勝利に呪いあれ。罪はギルスのルガル(=王)、ウルイニムギナにはない。ウンマ市のエンシ(=王)、ルガルザゲシ、彼の(個人)神ニサバ女神はまさにその罪を彼女の首にかけるように。
「ウルクの王」
ルガルザゲシはウンマの王だったが、シュメール王名表にはウルク第3王朝の唯一の王として載っている。アッカド王サルゴンの碑文にも「ウルクの王」として語られているから間違いないだろう。
支配領域について
王朝表〔王名表。引用者注〕は、ルガルザゲシはウルクの王であり、25年治世したと述べている。彼はウンマの支配者として出発して、のちウルクやウル、ラルサなどを征服したのである。彼の碑文には、全土の神たるエンリルの神の委任によって広大な領域を支配するというイデオロギーが明確に表現されている。ウルク王であり、「国土の王」であるルガルザゲシは、「下の海(=ペルシア湾)から、ティグリス・ユーフラテス河(にそって)上の海(=地中海)までの交通ネットワーク」を保護した。彼に全土の王権を与えた「エンリル神は、太陽が昇るところ(=東)から沈むところ(=西)まで彼に敵を許さなかった。彼のもとで国土(の人びと)は(安心して)やわらかい(?)草のうえで休んだ」。
王名表にはルガルザゲシは25年(または34年)治世したことと、アッカド王(サルゴン)に王権を奪われたことしか書いていない*1。
ルガルザゲシの碑文から彼が「下の海から上の海まで平定した」と主張する学者がいるが(前川氏もその一人)、これは「エンリル神は東から西まで与えた」と同様にお告げの一部で事実ではないだろう。
「国土の王」は「全土の神たるエンリルの神の委任によって広大な領域を」与えられた、という意味が込められている。ちなみにこの称号を最初に使用したのはウルク王エンシャクシュアンナである(記事「メソポタミア文明:初期王朝時代⑦ 第ⅢB期(その3)初期王朝時代末の画期<「キシュの王」と「国土の王」<国土の王」参照)。
「Lugal-zage-si<wikipedia英語版」には、キシュもルガルザゲシに滅ぼされたとなっているが、ソースは書いていなかった。
前田徹氏の論文『ROYAL INSCRIPTIONS OF LUGALZAGESI AND SARGON』(PDF)では、ルガルザゲシの支配領域は、ウンマの周辺(Umma,Zabala,Kian)とウルクの周辺(Uruk,Ur,Larsa)を中心とする属国の寄せ集め(patchwork)に近い、としている(上にある6都市は碑文に名がある)。
ルガルザゲシは「シュメールを統一した」とか「下の海から上の海まで平定した」とか言われているが、その主張の根拠がどこにあるのか知りたい。
サルゴンに滅ぼされる
サルゴンがニップル市の神殿に残した碑文にルガルザゲシの敗北が書いてある。
シュメル統一を目指し、ウンマ市の王にあきたりずウルク市の王位を得ていたルガルザゲシ王をサルゴン王は急襲して捕虜とし、彼に代わってシュメル統一の覇業を成し遂げたことを次のように書いている。
サルゴンはウルク市を征服し、その城壁を破壊した。彼は戦闘でウルク市に勝利した。ウルク市の王ルガルザゲシを戦闘で捕らえ、軛(くびき)にかけエンリル神の門まで連行した。
さらにウル市、ラガシュ市そしてウンマ市に勝利し、その城壁を破壊したと書き、次のように続ける。
国土の王サルゴンにエンリル神は敵対者を与えない。エンリル神はサルゴンに上の海(=地中海)から下の海(=ペルシア湾)まで与えた。[以下略]
ルガルザゲシを倒したサルゴン王はシュメールを統一するわけだが、これより先はアッカド王朝時代に入る。別の記事で書こう。