遠征
四代目王ナラムシンは前三代を引き継いで頻繁に外征を行った。そして彼の時代にアッカド王朝の最大版図を築いた。北はスビル(スバルトゥ=アッシリア=北メソポタミア)、西はエブラ・杉森(=シリア)、東はバラフシ(スサよりの東方)、南はマガン(オマーン)までを影響下に置いた。これにより広域の交易ネットワークがナラムシン一人の影響下に置かれた。
東方は主に前三代が征服し、ナラムシンはユーフラテス川の上流の西方と南方を主に征服した。特にナラムシンは西方の征服を前人未到の快挙として碑文で誇っている。
ナラムシンは四方の征服を誇り、「四方世界の王」の王号を使用した。
(前田徹/初期メソポタミア史の研究/早稲田大学出版部/2017/p102-104)
反乱と統治
二代目王リムシュの即位直後にシュメール地方で反乱が起こったが、ナラムシンの即位直後にはキシュの王(lugal)を首謀者とする反乱が起こった。シュメール地方の都市国家もこれに呼応したというので、ナラムシンは国の大半を敵に回して戦わねばならなかった。
ナラムシンはこの反乱を鎮圧したが、統治方法は以前のものを継続したようだ。
ナラムシンの支配は、サルゴン以来の基本的な形態を変えることなく、領邦都市国家以来の文献的な都市国家的伝統を尊重して、アッカドの権威に従う在地勢力の有力者を支配者に据えて行われた。
出典:初期メソポタミア史の研究/p112
神になった王/神格化
ナラムシンは上述の反乱鎮圧の後、自らを神格化した。ウルクのイナンナ神を始めとする神々が、ナラムシンが神になることを要請した、と主張した。
しかしこの神格化は最高神エンリルと同等の地位でもパンテオンの大神と伍するものでもなく、「アッカド市の守護神」であった。これはアッカド市の都市神イラバ神の配下の将軍の地位にあたるらしい。
神格化と言っても控えめというか かなり中途半端な感じがするが、自らを神格化した王はメソポタミアではナラムシンが最初である。
(初期メソポタミア史の研究/p106-107)
王冠の授与
都市国家分立期からナラムシン治世より前までは王権の象徴と言えば王杖だったが、ナラムシン以後はこれが王冠になった。これ以降、王冠の授与=戴冠式が行われるようになる。(初期メソポタミア史の研究/p107)
「アッカド地方」の成立
南メソポタミアは北のアッカド地方と南のシュメール地方と区分できるが、アッカド地方と呼び習わされるのはナラムシン以降のことらしい。
サルゴンはアッカド市の王であったにも関わらず、前々回の記事で書いたように、「アッカド市の王」の王号は使用せず、代わりに「全土の王(LUGAL KIS)」の中に「キシュ市の王」の意味を込めていた。サルゴンの時代にはまだ北メソポタミアの中心はキシュであり、彼の後の2代もこれに倣った。
ナラムシンは「全土の王」は使用せず、「アッカドの王、四方世界の王」と連称することによってアッカドがシュメール文明圏の中心であるという統合理念を示した。これよりアッカド王朝はようやくキシュの伝統的権威から抜け出して、名実ともにアッカドがこの地域の中心となった。「アッカド地方」の成立である。
ちなみに「シュメールとアッカドの王」という王号が使用されたのはアッカド王朝滅亡後のことである。
(初期メソポタミア史の研究/p109-110)
『初期メソポタミア史の研究』で前田氏はナラムシンの治世より「統一国家形成期」が始まるとしているが、いまのところ納得できていない。国内の統治体制は上述のようにサルゴンの統治方法を踏襲しているし、広い地域を影響下に置いたと言っても次代のシャルカリシャリの治世でそれは崩れてしまう。ナラムシンの治世により時代が大きく変わったとは思えない。