古代エジプト人は来世に強い関心を持っていることは以前に書いた(古代エジプト人の来世観 )。王だけでなく、古代エジプト人は来世で再生復活することを考えて、墓をどのような構造にするかを考えた。ピラミッドは当時の王の宗教的表現の1つと言える。
さて、ピラミッドの歴史を書いていこう。この記事では、第4王朝初代スネフェル王のところまで。
【先史】初期王朝時代の王墓と高官墓
初期王朝時代にピラミッドは無かった。
第1王朝初代ナルメル王の墓は比較的小規模なものだったが、第2代アハ王からは大規模化した。第1王朝8代の王たちの墓は見つかってはいるが、発見されているのは いずれも地下構造のみである*1。
地上建造物は残っていないが、第3代ジェル王からの基本的に同じ構造で、玄室(棺を納める部屋)を低いマウンドで覆い、それを日乾レンガで直方体にして覆い、さらにそれより大きなマウンドで覆った、とされている。このマウンドは「原初の丘」をイメージして造られた、と考えられている*2。原初の丘については「ピラミッドと太陽信仰」で書いた。
地下構造は玄室の他にいくつもの部屋があるが、生前の王宮環境を模したものとされている*3。これは墓を「来世の家」と考えていたことから想定される。
第1王朝でピラミッド建造に直接つながる建造上の発明(?)がある。
第5代デン王の墓から、外から玄室に続く階段が設けられるようになった。階段が設置されたことで、玄室を深い位置に造られるようになっただけでなく、墓の建造後に遺体を埋葬することが可能になった。この構造変化は、後のピラミッドや大型マスタバのように、墓主の生前から大型墓を築く伝統の出現と密接に関係するであろう。
ヘテプセケムウィ[第2王朝初代王]王墓の地下回廊施設(サッカラ)(Stadelmann 1985 : abb. 10)
玄室の他に、副葬品を納める複数の細かい部屋が多数設けられているが、これは第3代ジェル王からの伝統である。
「マスタバ」についてはすぐ後に書く。
マスタバ
第4王朝の頃までは高級官僚は ほとんど王族で占められていた。だから高官墓≒王族墓と考えていいかもしれない。
第1王朝では王墓はアビュドス(初代ナルメル王の出身地)に建造されたが、高官墓はサッカラ(王都メンフィスの墓地)に建造された。
高官墓は「マスタバ」と呼ばれている。マスタバはアラビア語でベンチを意味するが、現代エジプトにおける背もたれのないベンチと直方体の高官墓が似ていることからこの名がつけられた。高官墓は大型のもので40mを超えるものもある。
出典:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p81
第2王朝の王墓は全てマスタバである。
最古のピラミッド
最古のピラミッドは第3王朝初代ジェセル王の王墓だ。
これより前の王墓は ほぼ全て日乾レンガで造られていたが、この王墓は初めての大型石造建造物だった。これには単に墓ではなく、永久に存在し続けるモニュメントとして王墓を作ろうとした意図があるのかもしれない*4。
立案者は宰相イムホテプで、彼は太陽信仰の総本山ヘリオポリスの神官だった。彼は王家と太陽信仰を強く結びつけた一人であったろう。
ジェセル王の王墓は当初、石造のマスタバとして建造されたが数回の増改築の末にピラミッドになった。
「階段ピラミッド」と呼ばれるように、形は私たちがイメージする正四角錐ではないが、ピラミッドの歴史はここから始まった。
出典:馬場氏/p91
階段ピラミッドは周りを周壁で囲まれている。ピラミッド以外に複数の施設が設けられ、「ピラミッド・コンプレックス(複合施設)」という用語はこれら周壁内の全てを表す。
この施設が当時どのように使われていたかはよくわからないのだが、高宮氏によれば*5「階段ピラミッド・コンプレックスは、今生と同じく来世においても、王が宇宙の秩序を維持する祭儀を継続するべく構成されていた」。簡単に言い換えると、周壁内は来世の王が現世と同じような活動ができる空間になっている、ということ。
地方に築かれたピラミッド
第3王朝末から第4王朝初期に年代づけられる小さなピラミッドがエジプトの各地に少数だが発見されている(通常一辺18-25m)。これらは埋葬施設ではない。どのような目的で建造されたのか通説があるのかは分からないが、高宮氏は以下の主張を紹介している。
近年エレファンティネのピラミッドと周辺遺構を考察した S. ザイデルマイヤーは、新たに小型ピラミッドの性格について論じている(Seidlmayer 1996a)。それによれば、王墓をもした小型ピラミッドは地方における王の崇拝の拠点であり、基本的にノモスの行政中心地に配置されていた可能性があると言う。言い換えれば、地方においての威信を示し、国家の求心力を高めるための装置が、ピラミッドという埋葬施設の縮小版であったわけである。ピラミッドが古王国時代のエジプトの国家に果たした役割の大きさを、地方行政の観点からも認識できるであろう。
出典:高宮氏/p159
日本における国分寺と似ているが、建造の意図は違う(同じ可能性はあるかもしれない。証拠は全く無いが)。
試行錯誤の期間
第4王朝初代のスネフェル王はいくつものピラミッドを建造した。それらの各々のピラミッドについては書かないが、これらの試行錯誤が後世に与えた影響について引用しよう。
後のピラミッド・コンプレックスにおいて、ピラミッドの東側に設けられた葬祭殿、そこからナイル河方向に向かって伸びる長い参道、その先端に築かれる河岸神殿、ピラミッドの近くに位置する衛生ピラミッド、ピラミッド本体とピラミッドに接する葬祭殿を取り囲む周壁などが重要な構成要素になるが、それらのほとんどはスネフェル王のピラミッドにおいて初原的な形で現れている。またピラミッド建造方法についても、核に大型の石材を、表層石にトゥラ産の良質石灰岩を用い、内部に持送り式の天井を持つ部屋を構築するなど、後世のピラミッドの先駆をなした。
出典:高宮氏/p147-148
スネフェルの試行錯誤により、上記の階段ピラミッド・コンプレックスとは違ったピラミッド・コンプレックスを造り上げた。以下は第4王朝以降の基本形である。
河岸神殿はもともと港湾施設であり、参道は物資を運ぶ傾斜路であった。これら構成要素はそれぞれ役割を持っていた。まず河岸神殿は「現世から来世への境界」であり、そこから参道で結ばれる葬祭殿は「王の彫像への供物奉納と、王の再生復活を祈る場」であった。そしてその背後に鎮座するピラミッドは「王が再生復活を果たし、昇天する場」であった。
出典:馬場氏/p219-220
- ペピ2世は第6王朝第5代王。
もうひとつ、表層を覆った石灰岩について。上の引用にある「トゥラ産の良質石灰岩」とはカイロ東部・ナイル川東岸にあったトゥーラの白く輝く石灰岩のこと。化粧石とも呼ばれる。現在では多くのものが剥がされてしまっている。
ギザの三大ピラミッドの真ん中のカフラーのピラミッドは頂部だけ色が違い、富士山の冠雪のようになっているが、この部分が化粧石。
ただし、スネフェル王以降の全てのピラミッドがトゥラ産の石灰岩で全て覆われていたわけではない。
ピラミッドを造り続けられた理由
一つのピラミッドの大きさでは、クフ王のピラミッドが最大だが、スネフェル王は大型ピラミッドを3つも建造したのでクフ王を遥かに凌ぐ建造事業を行ったと言える。
クフ王、スネフェルに限らず、ピラミッド建造事業は古王国時代に ほとんど間を置くことなく為されていたが、これを可能にしたのは官僚・行政組織が確立したためと、(同時代のメソポタミアと比べて)安全保障上のコストが極端に少なかったことが挙げられるだろう(古王国時代全体を通して国外からの侵略に脅かされたという話は見当たらない)。