前回からの続き。
アメンエムハト3世
王の治世が中王国時代の最盛期とされる。先代までの貯金を着実に増やした結果と言えるだろう。
内政としてはファイユーム開拓が挙げられる。アメンエムハト2世の治世に始まった開拓事業がアメンエムハト3世の治世でも継続されたことが確認されている。
この時期にファイユームの地方神であるワニ神セベクに献じた大神殿がキマン・ファリスに建立された。
遠征は先王の南方から一転して、北方のシナイ半島に継続的に行われた。目的はトルコ石鉱山の開発。
「Amenemhat III - Wikipedia英語版」によれば、ワディ・ハンママートで採石を行い、(アスワンの南東の東部砂漠内にある)Wadi el-Hudi でアメシスト(紫水晶)*1を採掘した記録がある。プント国にも高官が赴いた。軍事遠征の記録はほとんど無い。
碑文の90%以上が国外で発見されることは奇妙ではあるが、シリアからナイル第3急湍までの多数の建造物や碑文から、アメンエムハト3世が偉大な王であると考えられている。
(ピーター・クレイトン/古代エジプトファラオ歴代誌/創元社/1999(原著は1994年出版)/p111-113)
王はピラミッドを2つ建造したが、そのうちのダハシュールの方のピラミッドの頂点に置くキャップストーン(ピラミディオン、ベンベン石)がカイロ博物館にある。
エジプト第12王朝のアメンエムハト3世のピラミッドのキャップストーン。カイロのエジプト考古学博物館所蔵
碑文の内容 「話される言葉 : 彼が天空を渡るとき彼が地平線の支配者を見るために、上・下エジプト王、両国の支配者、ニーマートラーの視界を開け!彼が太陽神ラーの息子、アメンエムハトを神、永遠の支配者、沈まないものとして現れさせますように。」
上の碑文の説明は西村洋子氏の「ちょっとだけ碑文解読(1)」参照。
アメンエムハト4世
最後から2人目の王。
王に関する記録は少ないが、その記録によれば、王の治世は先王の事業を受け継いで安定していた。
シナイ半島、ヌビア、Wadi el-Hudi などに記録が残っており、プント国やレバントのビブロスと交流があった。
トリノ王名表では、アメンエムハト4世の治世は9年3ヶ月と4日続いたと記録されている。歴代王と比べると短い。数年のあいだ先王との共同統治をしていた。
セベクネフェル
セベクネフェルについて書かれた記録は殆どなく、統治の実態はよく分かっていない。しかし、女性が王となるという事態は当時としてはかなり特異なことであり、後継者を巡る何らかの問題があったことを示唆している。実際、彼女の死をもって第12王朝は終焉を迎え、新たに第13王朝が創始された。王朝の交代は大きな混乱を伴うことなくスムーズに行われたらしく、第12王朝が確立した国家制度は第13王朝に受け継がれている。
女王セベクネフェルで第12王朝が終わる。
王朝交代
昔は王朝交代の時期に内乱があったと考えられていたが、近年ではそれは否定されているらしい。有能であったかどうかは分からないが、最後の2人の王の治世は安定していた、ということだ。
「セベクヘテプ1世 - Wikipedia」によれば、この王は「RyholtやDarrell Bakerらによって、第13王朝の最初の王でアメンエムハト4世の息子と見做されている」とある。
これが正しいのなら何故王朝を分けたのだろうか?私には分からない。
*1:「アメシスト - Wikipedia」参照