前回は探検活動を書いたが、今回は交易 OR 侵略・虐殺・収奪の歴史。
トルデシリャス条約
トルデシリャス条約
コロンブスの新世界(新大陸)到達による新領土「発見」を受け,1494年にスペインとポルトガルが大西洋の管轄権を定める目的で結んだ条約。ヴェルデ岬諸島の西370レグア(1レグアは約5km)の子午線で線引きが行われ,スペインは境界線より西,ポルトガルは東の領域を獲得した。この条約により両国は当時の世界を二分し,新世界やアジアとの貿易を独占して繁栄した。
トルデシリャス条約(紫)とサラゴサ条約(緑)の境界線
紫の点線はローマ教皇アレクサンドル6世の教皇勅書によって定められた教皇子午線。この子午線はポルトガル側に不利だったので、改めて両国だけで交渉して紫の実線に決められた。これがトルデシリャス条約。
緑の実線はサラゴサ条約で上記と同様の趣旨のもの。1522年マゼラン艦隊の世界周航達成(スペインがパトロン)により、モルッカ諸島(現在はインドネシア所属)のスペインが領有を主張したため1529年に決められた。
2国以外はこんな取り決めを認めるはずはなく、勢力が整った国から2国が「発見」した地域にズカズカと侵入していった。
ポルトガルの活動
ポルトガルの15世紀の活動はほとんどがアフリカ。ギニア湾に面した西アフリカの海岸地方は「奴隷海岸」とか「黄金海岸」などと呼ばれた(のちに列強に奪われる) *1。 その他は、アフリカ南西部のコンゴ・アンゴラを奴隷貿易の中心地とし、南東部にもいくつかの拠点を築いた。ゴールドと奴隷が貿易が主な商売で、あとは象牙が有名。
南米ではブラジルを領有。1500年に航海者カブラルがブラジルに上陸し、トルデシリャス条約を根拠に領有を宣言した。初期は染料くらいしか生産できなかったが、16世紀中葉から砂糖、18世紀はゴールド、19世紀はコーヒーで大儲けした。現在のブラジル全土を領有したのではなく、海岸沿いが領地のメインだった(内地はゴールド産出のためか?)。
インドは、1509年のディウ沖の海戦が重要。それまでは(インドの西の)アラビア海はエジプトのマムルーク朝が権益を持っていた(この頃はまだオスマン帝国はエジプトは領有していなかった)。この戦いで権益を奪った。のちのイギリス帝国のように広域な植民地を領有することはできなかったが、いくつかの地に拠点を築いて香辛料を売買した。
東南アジアでも、広域な植民地は領有できなかった。マラッカ王国との戦い(1511年)で王宮占領までしたが滅ぼすことはできず、他の王国にも徹底抗戦された。それでもモルッカ諸島などを勢力下において香辛料貿易をした。
東アジアでは、マカオに拠点を置く。これは武力占領ではなく、清帝国に許可をもらった。日本とも南蛮貿易を行なっていたが、豊臣秀吉政権の治世にバテレン追放令(1587年)によって追放される。
より詳しくは「ポルトガル<世界史の窓」を参照。
*1:ギニア地方<世界史の窓 参照
