歴史の世界

宗教改革③ イングランドの宗教改革

イングランド(イギリス)の宗教改革はルターやカルヴァンの場合とは全く異なる。だから本当は「宗教改革」と呼ぶにふさわしくない。

宗教改革のきっかけ

きっかけになったのはヘンリー8世の離婚問題だ。この成り行きでローマ教会と喧嘩別れしたのが宗教改革と言われている。

ヘンリ8世は、本来はカトリック教会と協調しており、1517年にルターが『95カ条の論題』を発表するとそれに反論する論文を自ら公表した。このように彼は宗教改革には反対していたので、1521年にはローマ教皇レオ10世から「信仰の擁護者」の称号を受けている。ところが、1527年、王妃キャザリンの離婚をローマ教皇クレメンス7世に拒否されたことから対立が生じ、1533年に教皇から破門された。

出典:ヘンリ8世<世界史の窓

ヘンリー8世の"最初の王妃"キャサリンは結婚後、王子を産むことができなかった(王女メアリはのちに女王になる)。これに不満を持ったヘンリーはキャサリンの侍女アン・ブーリンに手を出そうとする。ヘンリーはアン・ブーリンに愛人になってもらうつもりだったが、アン・ブーリンは「王妃にしてくれないのだったら肉体関係を拒否する!」と宣言。これが離婚問題に発展する。(いちおう、ヘンリーが好色であったことを付け加えておく。梅毒も持っていた。男児を持ちたいという理由よりアン・ブーリンと肉体関係を持ちたいほうが大きな理由なのかもしれない。)

カソリックでは離婚は原則禁止であったが、ヘンリーは「そもそも婚約自体が無効だった」という主張を展開してローマ教会に認めさせようとした。しかしここでスペイン王神聖ローマ皇帝カール5世が横槍を入れてきた。カールはキャサリンの甥に当たる。カールは離婚を拒否するようにローマ教皇クレメンス7世に圧力をかけた。カールとヘンリーの国力の差を考えればローマ教会がカールを支持するのは当然だろう。

ヘンリーは我を通すことを選択する。

ヘンリ8世はキャサリンとの離婚を合法化するため、1529年11月に議会を招集した。その後断続的に36年まで続いた議会を「宗教改革議会」という。1530年代にヘンリ8世は次々とローマ教会からの独立をはかる施策を議会で承認される中、32年暮れにアン=ブーリンの懐妊が判明した。このままだとアンの子は私生児となってしまうので、まず翌33年1月に秘密結婚し、4月にカンタベリー大司教トマス=クランマーによりヘンリ8世とキャサリンの結婚は無効とされ、6月にアン=ブーリンが王妃として戴冠した。「9月には待望の赤ん坊が生まれたが、ヘンリの期待に添わず女の子(後のエリザベス1世)だった。それに対して翌年、ローマ教皇パウルス3世は、ヘンリ8世を破門とし、ローマ教会と決定的に決裂した。

出典:同上

国王至上法

Act of Supremacy 国王至上法
首長法とも訳す。1534年、イギリスのヘンリ8世が議会に提出して承認された。イギリスの教会は、国王を唯一最高の首長とすることを規定。これによってイギリスのキリスト教教会は、ローマ教会から分離独立することとなり、イギリス国教会が成立した。この法律は、教皇至上権を否定し、教会の人事、教会領の掌握などを国王が管理統制するという、統一国家形成には欠くことのできない改革であった。

出典:首長法/国王至上法<世界史の窓

こうしてルター派カルヴァン派などとは全く異なった理由で、ローマ教会の権威・権力から離脱することになった。上の引用にあるようにイングランド(イギリス)の政治史において重要な事件なのだがこの話については別の機会に。ちなみにイギリス国教会の教義についてはよくわからないが、ルターやカルヴァンのような厳格なものは無いようだ。ネット検索する限りでは曖昧で多種多様であるという印象だ。