歴史の世界

中国人について④ 人間関係 その3 二重規範と共同体

中国人社会を説明するために「二重規範」という用語を使ったほうがいいと思い、書いてみた。

二重規範と共同体

二重規範ダブルスタンダードと解されることがあるが、違う。

ダブルスタンダードは二枚舌というネガティブな意味で使われるが、二重規範は中立な用語だ。

かつての古代のベドウィンの民。沙漠の流浪民なのだが、チャンスがあれば、隊商でも村落でも、ほしいままに略奪し、皆殺し・・・ ・・・。

こんなこと、古代ベドウィンの倫理・道徳では、少しも不倫でも非道でもない。全くもって、倫理的・道徳的な行いそのもの。

では、古代ベドウィンの倫理・道徳において不倫・非道とはどういうことなのか。

まず、卑怯未練であって、あるいは未熟であって、まともな戦闘ができないこと。戦う民たる古代ベドウィンにとってこれほど不倫・非道はない。

ここまでなら、日本人にもよくわかるあはず。日本武士にとって、「卑怯者」と呼ばれることは最大の屈辱であり、不倫・非道のうちの最大のものであるのだから。

が、古代ベドウィンの倫理・道徳は、そこには止まらない。

略奪、強姦、虐殺ができるのにそれをやらないこと。

これもまた、古代ベドウィンからすると、たいへんな不倫・非道徳。

なんて言ったら途端に反論が出てきそう。太古のベドウィンなんて、そんなとんでもない民族(people)を引き合いに出してきたって、それはあんまり意味がない、と。

とんでもない。

古代ベドウィンだけではない。太古だけではない。前近代社会においては、どこでもいつでも、こんなぐあいであった。あに古代ベドウィンのみならんや。

前近代社会においては、日本の倭寇だって誰だって、基本的にはこんなぐあいであった。

これは、一体全体、どういうことか。

倫理・道徳は自分たちの集団の中にだけ存在するのであって、集団の外には存在しない。いや、正確に言うと、倫理・道徳は、集団の内と外では、全くちがったものとなる。すなわち、二重規範(double norm)となるのだ。[中略]

二重規範が共同体(ゲマインデ)(Gemeinde, commune)の特徴であると、マックス・ウェーバーは言った。中国の帮(ほう)は、共同体を作っているのである。

出典:小室直樹著/小室直樹の中国原論/徳間書店/1996/p23-24

上にあるように、二重規範の内側が共同体。共同体と言えば普通は「コミュニティ=社会集団または地域社会」の意味だが、社会学だと前者の意味になる。

幇(帮)も共同体だが、宗族も共同体。

世界トップクラスの安全性を保っている現代日本社会に住んでいると共同体の有り難みが薄れるが、中央政府すら信じることのできない中国では共同体の内と外の違いは白と黒のようにはっきりとしている。

さて、今度は中国の人間関係の話。

日本の社会と比較した「グワンシ[人間関係の意味--引用者注]」のもうひとつの特徴は、個人と個人の関係が共同体のルールを超えることだ。

日本でも、会社のコネで手に入れたチケットを友人に回す、などという行為は一般に行なわれている。しかし機密情報の漏洩など、重大なルール違反にまで手を染めるひとはほとんどいない。だが中国では、「グワンシ」のあるひとから依頼されれば会社のルールはあっさり無視されてしまう。これが日本企業が、「中国人は勝手に情報を持ち出す」と不満を募らせる理由だ。

なぜこのようなことが起きるかというと、日本と中国では「安心」の構造が異なるからだ。

日本の場合、安心は組織(共同体)によって提供されるから、村八分にされると生きていけない。日本人の社会資本は会社に依存しており、不祥事などで会社をクビになれば誰も相手にしてくれなくなる。だからこそ、会社(組織)のルールを私的な関係よりも優先しなくてはならない。

それに対して中国では、安心は自己人の「グワンシ」によってもたらされる。このような社会では、たとえ会社をクビになったとしても「グワンシ」から新しい仕事が紹介されるから困ることはない。だが自己人(朋友)の依頼を断れば、「グワンシ」は切れてすべての社会資本を失い、生きていくことができなくなってしまうのだ。

出典:中国人はなぜ裏切るのか―― 裏切られることを前提とする社会 | デイリー新潮 2018(橘玲氏の筆)

  • 引用の中の「(共同体)」は社会学の用語ではなく、一般的な社会集団の意味。

上の引用は幇についての説明だが、宗族でも同じだ。同じ共同体の構成員にルールや法律以上のものを求めてくる。

中国の共同体と「事情変更の原則」

資本主義において契約は絶対である。契約が結ばれてしまえばそれまで。契約は必ず、文面通りに実行されなければならない。事情変更の原則は許されないというのが資本主義の大原則である。

事情が変わったから(いったん結んだ)契約を変更してくださいという「事情変更の抗弁」を許していたのでは、経済主体(消費者と企業)は目的合理的(消費、生産)計画を立てることや、商品、資本のスムーズな流通ができなくなるからである。そのために市場機構が自由に機能しなくなること、いや市場がそもそも成立しないことをおそれて、資本主義は事情変更の原則を拒否したのであった。(p86)


日本人が「中国人は信用できない」と言うときの大きなテーマの一つが、この「事情変更の原則」である。中国人はすぐ、約束したときと事情がこう変わりました、ああ変わりましたと、それを理由に約束を反故にしてしまって平気である。反故にまでしなくても、勝手に変更しておいて涼しい顔をしている。(p27)

出典:小室氏

中国人は何故このようなことを平気でするのか?その理由は共同体と二重規範にある。

共同体の内側の規範は絶対だが、外側はそうではない。内側では契約など無くとも口約束でもそれを破った構成員には人生を台無しにしかねない大きなペナルティが下されるが、それにくらべれば、事情変更による契約の不履行で起こるペナルティなど屁でもない。

さらに言えば、契約の不履行が珍しくない中国社会の中では もはや社会的ペナルティが発生しないかもしれない。そんな中で、日本人が「事情変更の原則が認められない」という資本主義の根本原則を求めてもどうにもならない。むしろ、いいカモにされるだけだ。

だいたい、「事情変更の原則」は地方行政ですらやっている。以前紹介したTwitterに埋め込まれている動画がその証拠だ。

https://twitter.com/sumerokiiyasaka/status/1019161698521894913

「事情変更の原則」は本当に事情が変わった時に為されることもあるかもしれないが、日本人が直面した場合はただ単に騙されたのだろう、と思わずにはいられない。

中国人は共同体の外のルールや法律を全く守らないと言っているわけではない。自分に有益なものについては守り、また、法律に守られる権利も主張する。しかしそうでない場合や共同体の内側の利益と相反する場合、外側のルールは軽視される(といっても外側のルール違反のペナルティが内側のペナルティより重ければ話は変わってくる)。



本文は以上。

故・小室直樹博士は、日本は資本主義社会ではない、または未熟だとずっと書いていた。
また、上で紹介した『中国原論』では、日本は会社を共同体化したと書いているが(p172-174)、その現象は20年以上続いたデフレのおかげで消滅した。
私は21世紀の現代日本は資本主義社会だと思っている。


かなり断言して書いてしまったが、以前にも言ったように、私は、中国人と知り合いになったことは一度もない。