歴史の世界

中国文明:先史⑧ 新石器時代 その6 後期新石器時代 その1 大汶口文化

後期新石器時代(前3000-2000年)は、東アジア最古の王朝の誕生の準備段階だ。誕生前夜。

また考古学から見れば、文明は、国家誕生の前に、この時期に始まっていたという主張もある。

この記事では大汶口文化ついて書いていく(ほとんど階層化の話)。

後期新石器時代の動向

前3000年紀に入ると、農耕社会の基盤が確率しつつあった華北や長江流域の諸地域では、地域的社会の規模がいっそう膨張するとともに、地域的社会内部の階層化が進行し、首長層が確立された。前4000年紀の紅山文化でいち早くみられたように、多くの場合かれら首長層はおおがかりな祭祀施設を造営して、固有の祭祀システムを整え、それを通じてしだいに地域の統合へと向かった。

一方、新石器時代後期の前3000年紀を中心に、種々の文化要素の共有からうかがわれる地域間の交流はさらに広がりをみせた。たとえば、長城地帯西部の内蒙古中南部と東部の遼西との相互関係、山東地区と長江中流域・下流域との相互関係、長江下流域の良渚文化の要素が華南にまで波及する中国大陸東南部の地域間関係などが生まれ、さらにそれらの関係圏をこえた、より広くゆるやかな交流も認められた。そうした地域間の交流は、一方では、地域間の緊張関係をも増幅していったと考えられる。

出典:世界歴史体系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003/p42(西江清高氏の筆)

階層化については紅山文化にみられるように、その起源は中期新石器時代にある。これが中国本土全体に広がるのが後期新石器時代である。

前回の記事「中国文明:先史⑦ 新石器時代 その5 中期新石器時代 後編」で触れたように、紅山文化が後世の中国の諸文化に影響を与えたかもしれない。つまり紅山文化で「いち早くみられた」階層化の文化が後の中国本土の階層化の起源であるかもしれないのだが、このことについて現在どのように議論されているかは私にはよく分からない。

分かっていることは、中国本土の階層化は大汶口文化に繋がっているということだ。すなわち、大汶口文化→龍山文化→二里頭文化→王朝誕生と言った具合。大汶口文化と紅山文化の階層化の関係は注目点の一つと言えるだろう。分かり次第追記しよう。ちなみに、この2つの文化は同時期に始まったようだ。

また、引用にあるように、以前よりも地域交流が盛んになって、その流れの中で階層化の流れも拡大していったようだ。

大汶口文化の時代区分

さて、大汶口文化について。ここでは宮本氏(2005)*1の説明に頼って書いていこう。

この文化の期間は前4200-2600年で、大きく3つに区分される。

  • 前期:前4200-3500年
  • 中期:前3500-3000年
  • 後期:前3000-2600年*2

墓葬構造と階層化

大汶口文化の墓地の分析より、階層化の変遷が認められる。

前期は等質的な社会から階層格差が小さいながらも広がりつつあることが伺える。前期後半になると特殊な墓葬構造が検出されるようになり、階層がより明瞭になる。(宮本氏/p134-136)

中期後半には、墓壙の大きさの区別が生まれてくる。さらに後期だと、墓壙の大きい墓群と小さい墓群とに場所が分かれるようになる(p136、p270)。墓の大きさは、墓穴を掘る労働力を考えればわかるように、被葬者の社会的身分の高さを表している。墓群の区別されていることは、「家系単位で、階層差が生前から決まっていた可能性がある」(p271)。

墓葬構造について引用。

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墓葬構造にこれまでの土壙墓といった地中に墓壙(ぼこう、墓穴)を掘って直接死体を埋めるものだけでなく、木棺に安置して埋める木棺墓が出現する。その上に、単なる土壙でなく地下に木質の部屋であるいわゆる木槨が作られ、その木槨の中に木棺が配置される木槨墓が出現するのである。大汶口文化後期の大汶口遺跡25号墓などがそれにあたる。木棺や木槨に不可分な二層台という墓葬構造は、すでに大汶口文化前期後半の大汶口遺跡2005号墓に認められる。

出典:宮本氏/p133-134(太字は引用者)

副葬品と階層化

次に副葬品について。

大汶口文化の墓に副葬される土器の器種は、一般に鼎、壺、豆(高坏)といった煮沸具、貯蔵具、供膳具といった日常生活に用いる土器の器種が基本となっている。こうした日用品に加えて、さらに盃、鬹、盉あるいは尊といった土器が加わる場合がある。鬹・盉は液体を注ぐ土器であり、杯は液体を飲む器である。

一般にこのような器種は酒器として考えられており、酒を飲む道具と考えられている。また、大型の尊は、酒を醸造したり酒を蓄える酒甕であると想像されている。

これらを酒器とした場合、これらの土器は特殊な土器であり、日常生活には必要とされないハレの場での儀式などに用いられるものである。いわば今日の正月に用意されるお屠蘇の道具のようなものである。

このような特殊な土器は副葬品としてはすべての墓に副葬されるわけではなく、むしろ階層上位者に伴う場合が多い。このことは、墓葬の大きさを労働投下量という意味から被葬者の階層的な高さを表すものとして見た場合、あるいは副葬品の多さ少なさが被葬者の階層の上下を示すものとして見た場合、図表125に示すように副葬土器の器種構成も階層差に応じて異なっているのである。

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鼎・壺・豆(高坏)は一般庶民墓の副葬土器であり、これらの器種に加えて更に杯が副葬土器に加わるものが、一般庶民よりさらに上位階層に位置づけられる。さらにこれらの器種に鬹あるいは盉といった酒器が加わる、最上位階層者に対応しているのである。

身分秩序と土器の器種構成が対応しており、それは単に副葬土器が多いという話ではなく、特殊な土器を身分秩序に応じて副葬することが可能であるという社会規範や社会秩序があることを示している。しかもその特殊な土器が酒器であることは、祭儀と関係する道具を特権階層のみが持つことを許されることを意味している。

まさにこうした身分秩序を祭儀道具から規制することこそが、儀礼というものが社会秩序を維持するための精神的規範として機能していたことを物語っているのである。

出典:宮本氏/p272-273

おそらく祭祀の後の宴会の時に酒を振る舞ったのだろう。副葬品の位置づけから想像されることは、祭祀儀礼と酒醸造はエリート層が独占したということ。

このようなことは古代エジプトの歴史でも同じ現象が起こっている(古代エジプト学者の馬場匡浩氏の主張。詳しくは記事「エジプト文明:先王朝時代④ ナカダ文化Ⅱ期後半(前3650-3300年)後編#ビールと支配」参照)。

また、大汶口文化で成立した階層秩序とそれに相関した副葬品構成は、続く山東龍山文化期においても維持される(多少の変化はある)(p274)。さらにこの構成は殷周社会で儀礼の要となった青銅彝器(いき)*3の基本的な器種構成をなしていることに注目しなければならない(p275-276)。

最後にもう一つ興味深い事項を。

上位階層の墓において酒甕である大口尊の口縁部付近に何らかの記号のようなものが刻まれていることがあるという。宮本氏は、首長と思われる墓のみに記されたこの記号を一集団を象徴するエンブレムのようなものではないかとと推測している(後の殷代の青銅器には、族記号と呼ばれる氏族の標識が見られる)。(p273-274)

  *   *   *

氏族の宗廟*4において首長が祭祀を行い、その後に酒と犠牲の肉を下位の者たちに振る舞って結束を深めた光景が思い浮かぶ。



*1:宮本一夫/中国の歴史01 神話から歴史へ(神話時代・夏王朝)/講談社/2005年/第五章(社会の組織と階層化)と第九章(犠牲と宗教祭祀)

*2:大モン口文化 - Wikipedia」では早期・中期・晩期

*3:宗廟に備える神聖な器を総称して彝器(いき)という。「中国の青銅器 - Wikipedia」参照。

*4:中国において、氏族が先祖に対する祭祀を行う廟のこと。宗廟 - Wikipedia