歴史の世界

アーリア人について その1(インド=ヨーロッパ語族との関係/人種差別とナチス・ドイツ)

前回の話と関連する「アーリア人」の話。

今回はインド=ヨーロッパ語族の研究の歴史と「アーリア人」という用語の登場について書く。次回に現在の学術的用語としての「アーリア人」について書く。

インド=ヨーロッパ語族の研究と「アーリア人」という用語

(以下は《アーリアン学説 - Wikipedia 》を参照)

インド=ヨーロッパ語族の研究の端緒を開いたのは、イギリスの言語学者ウィリアム・ジョーンズ

18世紀後半の当時、インドはイギリスの支配下にあった。ジョーンズはカルカッタの判事として赴任し、その傍らでサンスクリット語の研究をした。そしてこの言語とヨーロッパの諸言語が類似していることを見出し、ヨーロッパ、インド、ペルシャ(イラン)の諸言語が《「ある共通の源」から派生したという学説を立てた》。そしてのちに博学者トマス・ヤングによってこれらに共通するものを「インド=ヨーロッパ語族」と名付けた。この時点では専ら言語学の範囲内の共通性しか議論されていない。

文化や人種へ共通性の流れを作った人物はドイツ人(のちにイギリスに帰化)の言語学者宗教学者のマックス・ミュラーで、「アーリア人」という用語を造ったのも、のちに「アーリアン学説」といわれるものを造ったのも彼だ。

ヒンドゥー教聖典リグ・ヴェーダ』を翻訳したドイツ人のマックス・ミュラーが、この潮流に大きな役割を果たした。ミュラーは、インドに侵入したサンスクリット語を話す人々を、彼らが自身を「アーリア」と呼んでいたという理由で、「アーリア人」と呼ぶべきであるとした。インド・ヨーロッパ諸語の原型となる言葉を話していた住民は共通した民族意識を持ち、彼らがインドからヨーロッパにまたがる広い範囲を征服して自らの言語を広めた結果としてインド・ヨーロッパ諸語が成立したとする仮説を唱えた。ミュラーは、アーリア人はインドから北西に移住していき、その過程で様々な文明や宗教を生み出したと主張した。

19世紀には、「アーリア人」は、上記のような想定された祖民族という趣から進んで、「インド・ヨーロッパ語族を使用する民族」と同じ意味に使われ、ヨーロッパ、ペルシャ、インドの各民族の共通の人種的、民族的な祖先であると主張された。通常、「アーリアン学説」と呼ばれるのはこの時代の理論である。ミュラーは晩年、自身の学説が根拠に乏しいことを認めているが、「諸文明の祖」であるアーリア人という魅力的なイメージは、多くの研究者や思想家によって広まっていった。(同上)

言語の広がりと、その言語を話す民族・文化の広がりを同一視できないことは、ミュラー自身も理解していたようだが、「アーリアン学説」は彼の手から離れ、のちに人種差別的な色を帯びるようになる。

人種差別と結びつく「アーリアン学説」

「アーリアン学説」と人種差別を結びつけた代表的な人物がアルテュール・ド・ゴビノーだった。

『人種不平等論』(1853-55年)で、人類を黒色人種・黄色人種・白色人種に大きく分け、黒色人種は知能が低く動物的で、黄色人種は無感動で功利的、白色人種は高い知性と名誉心を持ち、アーリア人は白色人種の代表的存在で、主要な文明はすべて彼らが作ったと主張した。(同上)

この主張は根拠のないトンデモ説で当初は見向きもされなかったのだが、時を置いて注目されるようになり、かつ、いくつかの根拠なき主張が付け加わって19世紀末から20世紀に初頭にかけて流行した。そしてこれを相手にしていなかった言語学や人類学にまで影響を及ぼした。 *1

ナチス・ドイツの政治利用

これをドイツ国民の優越意識の高揚とユダヤ人差別に利用したのが、ナチス・ドイツだ。

ナチス・ドイツはインド=ヨーロッパ語族を話す人々全体を「アーリア人種」として、その中で北方からドイツに住む「アーリア人種」を特に「北方人種(ノルディッシュ)」とする説を採用した(ただしこのトンデモ説を考えだしたのは彼らではない → 《北方人種 - Wikipedia》 参照)。

「北方人種」の特徴は「金髪・碧眼・長身・細面」という形質的なもので言語とは全く関係がなかった。そもそも、百歩譲ってゲルマン民族をインド=ヨーロッパ語族を話し人々だということは事実だとしても、彼らの遠い祖先はインド=ヨーロッパ語族の「原郷」 (前回の記事 参照) から前2000年前後に北欧や北ドイツへ移住して原住民と混血して形成された民族だ。 *2

アドルフ・ヒトラー総統はさらに「優秀なるアーリア民族が世界を征服して支配種族(ヘレンラッセ)を形成すべきだ」と説き、極端な人種イデオロギーを主張した。こうして、ナチス・ドイツ第三帝国は「アーリア人」と鉤十字(アーリア人の伝統的なシンボル)の旗印の下に他国を侵略し、「劣等種族(と定義された人々)」の大量虐殺を重ねたのである。

出典:青木健/アーリア人講談社選書メチエ/2009/p12

ナチス・ドイツの極悪非道の所業のせいで「アーリア人」という用語がタブー視されるようになったのだが、この言葉自体はナチス・ドイツや人種差別とは関係なく存在するもので、むしろ被害者なのだ。

次回は、現在使用されている「アーリア人」という用語について書く。



インド=ヨーロッパ語族の起源/クルガン仮説

前回まで遊牧の起源について書いたが、「インド=ヨーロッパ語族」を話す人々はこれと密接な関係がある。

今回はインド=ヨーロッパ語族の起源について。

インド=ヨーロッパ語族について

まずは、インド=ヨーロッパ語族の説明から。

インド・ヨーロッパ語族(インド・ヨーロッパごぞく)は、インドからヨーロッパにかけた地域に由来する語族である[1][2][3]。英語、スペイン語、ロシア語などヨーロッパに由来する多くの言語[注 1]と、ペルシア語やヒンディー語などの西アジアから中央アジア、南アジアに由来する言語を含む。一部のヨーロッパの言語が世界的に拡散することで、現代においては世界的に用いられている。

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出典:インド・ヨーロッパ語族 - Wikipedia *1

上の地図のようにインドとヨーロッパ(ロシアを含む)以外にイランと中央アジアでも話されている(中央アジアではチュルク語族のほうが主流らしい)。

原郷/クルガン仮説

これだけの広がりを見せる言語の祖語は今は残っていないが、その祖語がどこであるのかが論争の的になっている(祖語があった場所を原郷homelandと呼んでいる)。

ここでは最も有力な仮説であるクルガン仮説を紹介する。

この仮説は1956年にアメリカの考古学者マリヤ・ギンブタスによって提唱された。

クルガンとは墳丘墓のことで、日本の古墳に近いものだ(画像は 「クルガン - Wikipedia」や 「Kurgan - Wikipedia」 を参照) 。これらは中央アジア西部からヨーロッパにかけて見られる。

ギンブタスは、明確な墳丘「クルガン」を伴う墳墓を持った「文化」を仮に「クルガン文化」と呼び、クルガン型の墳丘墓がヨーロッパへ伝播していったことをつきとめた。

出典:クルガン仮説 - Wikipedia

そしてギンブタス氏はこの文化の原郷=インド=ヨーロッパ語族の原郷と主張し、その場所は黒海カスピ海の北の草原であるポントス・カスピ海ステップ(ユーラシアステップの西端)に置いた。これは前回書いた草原の遊牧の起源と同じである。

拡散

クルガン仮説は最も有力と書いたが、彼女の仮説すべてが支持されているわけではなく、あらゆる研究によって修正の提案が為されている。

日本で有名なのは『馬・車輪・言語 文明はどこで誕生したのか』(原題:The Horse, the Wheel, and Language: How Bronze-Age Riders from the Eurasian Steppes Shaped the Modern World)という本を書いたアメリカの人類学者デイヴィッド・W・アンソニー氏。前回参考にした中川氏も彼の本を参考文献の一つとしている。

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アンソニーが提唱するインド・ヨーロッパ語族の拡散(図にいくつかミスがあるので注意。①TohariansとWusunは逆②AfanasevoとSintashtaのスペル)

出典:馬・車輪・言語 - Wikipedia

この本は2007年に出版されたが(邦訳は2018年)、この後も研究と議論(または論争)は続けられている。

拡散の要因

『馬・車輪・言語 文明はどこで誕生したのか』は、インド=ヨーロッパ語族の言語がどのように拡散したのかが主題だが、馬と車輪がタイトルについているのは何故か。

それはウマと車輪がこの言語を拡散した要因だからだ。

この本は基礎知識のない素人が読める代物ではないらしいので私は読んでないのだが、馬・車輪が要因というのは、簡単に行ってしまえば、遊牧民が言語を拡散したということだろう。

拡散の担い手たち(=遊牧民)は、各地方の原住民を武力征服・支配したのかも知れないし、文化・文明的優位性を以って支配層の交代が起こったのかも知れないが、遊牧民=野蛮人というイメージは改めるべきだろう(そう思っている人がどれほどいるか知らないが)。

拡散した頃は文明が発達した地域は西アジアとエジプトを除けば無かった時代だ。一方で、当時の遊牧民西アジアの文明の利器と技術をいくらか所持していた(西アジアの文化を受容していた)。

ひとつ、書き留めておきたいことは、乗馬についてだ。

乗馬自体は原郷ですでに為されていたが、いわゆる騎馬民族が歴史に登場するのはかなり後のことだ。ここでの「乗馬」と「騎馬」の違いは、「騎馬」が戦闘目的で「乗馬」して闘うという意味を含んでいる。「乗馬」は戦闘云々を含まない。

 


*1:画像は、Hayden120 による

遊牧の起源 その2

前回からの続き。

ユーラシア・ステップにおける遊牧の起源

遊牧民と言えば「草原の民」をイメージする。彼らの主な生活空間はユーラシア・ステップと言われる広範な草原地帯だ。

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出典:ユーラシア・ステップ - Wikipedia

ここでは、以下の中川洋一郎氏の説明に頼ることにする。(ただし、この説明では、上記の西アジアにおける遊牧の始まりに言及しつつも、これと草原における遊牧の始まりの関係については触れていない。)

草原における遊牧は、ユーラシア・ステップの西南端に位置するポントス・カスピ海ステップ(黒海の北)に前4500年に始まった。

始めたのは、スレドニ・ストグ文化(前4500-前3500年)の人々。彼らの祖先は狩猟採集民だったが、農耕牧畜民と接触してその技術を獲得し、牧畜技術の延長として草原で遊牧を始めた。

ただし、彼ら全員が遊牧民になったのではなく、遊牧以外に牧畜・農耕も営んでいる人々もいた。少なくとも遊牧という生活様式が始まって初期の頃は、どこの民族も「遊牧専門」とはならなかっただろう(スキタイもそう)。

彼らの遊牧の特徴としては、ウシ中心の遊牧で、河川から離れることがない比較的小規模なものだった。

この文化を継承したのが、ヤムナ文化(前3500-前2300年)。

中川氏によれば、前3500年前後に遊牧における重要な進展が見られた。ここでは詳細は書かないが(リンク先参照)、ここでは重要な点の中からいくつか書き残す。

一つ目は「乗馬」。馬に乗ってコントロールすることを始めたのがこの頃ということ。初期の乗馬の目的は、家畜の群れの管理だった。以下の引用では乗馬を騎馬と同じ意味で書いている(騎馬戦術が登場するのはずっと後の時代)。

騎馬によって,群居性草食動物 (ヒツジ,ウシ,ウマなど) の大群を管理できるようになったという技術革新が特筆される.例えば,騎乗の効果としては,イヌ1頭の助力を前提に,徒歩ではヒツジ200頭しか管理できないが,騎乗すると,イヌ1 頭の助力で,500頭のヒツジ群を管理できる (ANTHONY2007:222).そもそも,ヒツジやヤギならば,イヌの助けがあれば徒歩でも飼育可能であろうが,しかし,ウマの遊牧飼育は,騎乗なしには不可能であろう.

騎乗については西アジアで既にウシやオナジャー(オナガー。ロバの一種)で行われていたが、騎馬は彼らが初めてだということだ。また、牧羊犬については、彼らが初めてのように書かれていると思うのだが、これについては他地域(イラン?)に起源があるようだ。

2つ目。ワゴン(幌車)≒車行。

車(車輪)の発明はメソポタミアで前3500年に起こった。だからヤムナ文化の人々は時を置かずに車行の技術を獲得したことになる。このころの車輪はスポークのものではなく、木を輪切りにしたようなものだったので、重く、ウシに牽かせていたようだ。

3つ目。遊牧民の組織化。

遊牧自体は少人数でできるので核家族で経営できそうだが、ここで問題になるのが防衛だ。核家族が無法な草原地帯で集団に襲われたらひとたまりもない。そこで、あらゆる人的ネットワークが必要になる。

遊牧民として,彼らは意識的・意図的・積極的な同盟関係を構築する必要があり,氏族から部族へと組織を編成し,拡大を目指した.この際に有効な方法が,もちろん,第一に疑似親族原理による同盟であったが,しかし,それと同時に,第二に,Patron-Client Relationship(主人・従者関係) によるよそ者同士の同盟関係が構築された.

以上のような人的ネットワークを画期的のように書かれているが、これは狩猟採集民が世界各地で行なってきたことだと思うのだが、私には違いがよくわからない。

いずれにしろ、以上を含む諸技術を獲得した結果、ヤムナ文化の人々は川沿いを離れて大草原に進出し、大規模な群れを管理できることができた(ヤムナ文化でも遊牧のほかに牧畜・農耕をする定住民はいた)。



遊牧の起源 その1

遊牧の起源のお勉強。

遊牧の起源についての2つの説

遊牧の起源についてネットで調べると、大きく分けて2つの説が出てくる。

一つは「狩猟→遊牧→牧畜」という順番で起こったという説。この説の代表的なものは今西錦司『遊牧論そのほか』と梅棹忠夫『狩猟と遊牧の世界 自然社会の進化』。2021年に出版されている松原正毅『遊牧の人類史: 構造とその起源』もこの系統だ。

もう一つは「農耕(定住)→牧畜→遊牧」の順で起こったという説。考古学の成果から言えば、こちらの説のほうが有力とのこと(林俊雄『興亡の世界史 スキタイと匈奴 遊牧の文明』 *1 )。

このブログでは、後者の「農耕(定住)→牧畜→遊牧」の説を採用する。

牧畜(家畜化)の起源

牧畜の起源すなわち家畜化の起源は、1万年前(紀元前8000年)前後でヒツジとヤギが最初らしいが、あまり離れない時期にウシとブタも家畜化された。ヒツジとヤギは西アジアが起源だが、ウシ・ブタは起源地が複数あるようだ。

ただ、ここらへんの起源の話は、最近では遺伝子情報(ゲノム?)を使った研究が進んで10年以上前の本の情報は古いらしい。そして私は、遺伝子情報の話はちんぷんかんぷんなので、「1万年前」という情報も自信が無い。

次にウマの家畜化について。こちらも遺伝子情報の研究の結果、家畜ウマの起源は4700年から4200年前のロシア南部のボルガ・ドン運河がある地域に特定された。ただし、これ以上前に家畜ウマは各地に存在していたが、この系統のウマが各地に拡散してほかの系統のウマを淘汰してしまったという話だ。これは人間による有益なウマを作るための交配の結果だという。

こうして作られた遺伝子地図から、約5000年前の家畜ウマは多様性に富んでいたことが分かった。だが、人間が病気に強く、従順で、人を背に乗せられることを重視して交配するようになった。こうして多様性は失われ、私たちがよく知るウマが誕生した。

出典:謎だった家畜ウマの起源、ついに特定:日経ビジネス電子版

さらに重要なことは、家畜ウマが普及し始めたのが前2000年以降のことだということだ。単発的な「ウマの家畜化」は各地に起こったようだが、「家畜ウマの普及の起源」は前2000年だということだ。よって遊牧という生活様式が各地に拡大するのはこの時期以降になる。

遊牧の起源

上述の『スキタイと匈奴』では、遊牧の起源を前5500年頃のレヴァントとしている。この頃のこの地域は気候の乾燥化が進み、農地が縮小し、人間が生き残るために遊牧を発明した、とのこと。

この頃はすでに放牧などの技術が有ったため、定住的牧畜から非定住的牧畜すなわち遊牧に転換できた。ただし、初期の頃はテントは無く、《キャンプ周辺で調達できる建築材料で簡易的な住居を作っていたと思われる》(p56)。ただこの頃の遊牧民の移動の範囲は西アジアの荒野で、草原地帯ではなかった。

この遊牧民は家畜の世話以外に、交易商としても活躍した。農耕定住民との関わりは大草原の遊牧民(後述)と比べてかなり関係が深かった。言い換えれば、農耕定住地域に依存する生活様式だった。

次回は草原に進出した遊牧民について書く。



*1:2017/講談社学術文庫(2007年より文庫化)/p44

【読書ノート】君塚直隆『立憲君主制の現在 日本人は「象徴天皇」を維持できるか』 その8

前回からの続き。

第二次大戦中の国王:ジョージ6世

前回はジョージ5世について書いたが、その後はエドワード8世、ジョージ6世、エリザベス2世と続く。第二次世界大戦時の国王はジョージ6世だったが、本書ではその当時のことについてほとんど書いていない。

この記事ではエリザベス2世を中心に書くが、その前に大戦中のジョージ6世の話から。

ジョージ6世と同妃エリザベスは、ロンドンがドイツ空軍による大空襲に晒されても、ロンドンに留まることを選択した。[中略][1940年]9月13日にはドイツ空軍機が投下した2発の爆弾がバッキンガム宮殿の中庭に着弾し、宮殿で執務中だった国王夫妻が九死に一生を得たこともあった。王妃エリザベスが「爆撃された事に感謝しましょう。これでイーストエンドに顔向け出来ます (I'm glad we've been bombed. It makes me feel I can look the East End in the face. ) 」という有名な言葉を言い放ったのはこのときである。

国王一家は、戦時中のイギリス国民と等しく危険と耐乏を分かち合った。国民と同じく配給物資の制限を受け、フランクリン・ルーズベルト大統領夫人エレノアも、イギリス訪問中のバッキンガム宮殿滞在時に食事に配給物資が出されたこと、入浴する際に浴槽の湯量が制限されていたこと、暖房が入っていなかったこと、ドイツ空軍の空襲の被害を受けて壊れた窓に板が打ち付けられていたことなどを証言している。 [中略]

第二次世界大戦の間中、ジョージ6世とエリザベスは爆撃を受けた場所、軍需工場などイギリスとその影響下にある各地を訪問し、国民の士気を鼓舞し続けた。さらにジョージ6世は、イギリス本国を離れて外国へ遠征している部隊も慰問した。1939年12月にフランス、1943年6月に北アフリカとマルタ、1944年6月にノルマンディー、1944年7月に南イタリア、1944年10月にネーデルラント地域を、それぞれ訪れている。1942年8月には弟のケント公ジョージが、軍務中に薨去した。

国王夫妻は国民から高い敬意を受け、その不屈の姿勢とともに、「国を挙げた戦争遂行の象徴たる存在」となっていった。1945年5月にドイツが降伏したヨーロッパ戦勝記念日のお祭り騒ぎの中、バッキンガム宮殿前に集った国民が「王よ、お姿を! (We want the King!)」と叫んだ。

出典:ジョージ6世 (イギリス王) - Wikipedia)

立憲君主としての職務を忠実に果たした。

ジョージ6世は身体が丈夫でなかったようで、戦後数年経った1952年に亡くなった。

戦後の国王:エリザベス2世

現在の国王であるエリザベス2世に話を移す。エリザベス2世が王位に就いた時には、すでに立憲君主制は確立されており実権及びその責任は内閣が保持していた。政治家による政治が機能しているかぎり、国王の権限は形式的・儀礼的なものとなった(形式的・儀礼的なものだからといって軽々しいものだということではないが)。

そして現在の国王のあり方は立憲君主制の定義がそのまま当てはまる。他の立憲君主国がイギリス国王をお手本としているのだから当然だが。

コモンウェルスの長」として

他の立憲君主国とイギリス国王の違いの一つ。

他の立憲君主とは違い、イギリス国王は「コモンウェルスの長」という称号を持つ。

まずは手短にコモンウェルスの意味から。

正式には「Commonwealth of Nations」だが、基本的には「コモンウェルス」あるいは「イギリス連邦」で通用するようだ。

イギリス連邦
British Commonwealth of Nations
イギリスの国王(または女王)を統合の象徴とし,イギリスを中心に結びついた独立諸国家および諸属領の連合体。
第一次世界大戦自治領は戦争遂行に協力し,また工業化が進んだ結果,自立的傾向が強まった。国際的にも講和条約に調印し,国際連盟に加入するなど,独立国同様の地位を得た。このため,イギリス帝国(British Empire)の名称は不適当になり,1926年の帝国会議でイギリス連邦British Commonwealth of Nations)の名が用いられることになり,31年のウェストミンスター憲章で成文化された。このとき,「王冠に対する共通の忠誠」が規定され,構成はイギリス本国・カナダ・オーストラリア・ニュージーランド南アフリカ連邦アイルランドニューファンドランドであった。第二次世界大戦後の1949年,インドを連邦内にとどめるため,連邦会議で「王冠に対する共通の忠誠」を不要とし,名称も単に連邦(Commonwealth of Nations)と改めた。1995年現在,構成国は51か国。

出典:イギリス連邦とは - コトバンク/旺文社世界史事典 三訂版

コモンウェルスの長」は各国の「国家元首」という意味ではない。コモンウェルス儀礼的なトップを意味し、イギリス国王が就くことになっている。

エリザベス2世は祖父ジョージ5世に倣ってコモンウェルス各国の首脳と友好関係を維持することに務めた。

本書では《コモンウェルスこそは、……女王や王室がいまだに大きな影響力を残す舞台である》(p101)と書いてある。その重要な一例として「アパルトヘイト廃止」を挙げている。

南アフリカへの経済制裁を渋るサッチャー首相を尻目に、女王は世界各国の首脳らとも裏で連携し、アパルトヘイト反対の闘士ネルソン・マンデラ(1918-2013)をついに釈放させることに成功を収める(1990年)。この直後に、アパルトヘイトそれ自体もなし崩し的に崩壊していったことは周知の事実である。コモンウェルスの首脳たちと長年にわたる友好関係を保ち続け、世界中に知己を持つ女王でなければなしえない偉業であった。(p104)

エリザベス2世は、「長年にわたる友好関係」と経験だけではなく、(元首相のジョン・メイジャーによれば)「百科事典的な知識」をも持ち合わせている(同ページ)。

ここで前回書いたジョージ5世が遺した「君主の極意」を再掲する。

君主は諸政党から離れており、それゆえ彼の助言がきちんと受け入れられるだけの構成な立場を保証してくれている。彼はこの国で政治的な経験を長く保てる唯一の政治家なのである。(p84)

女王はこれを忠実に実践した手本の一人である。

現在の立憲君主の役割(イギリス)

p115に《イギリス王室がホームページ等を通じて毎年6月に公表する『年次報告書(Annual Report and Accounts)』によれば、現在のエリザベス女王の役割は大きく2つに分けられる》とある。

この2つとは「国家元首(Head of State)」と「国民の首長(Head of Nation)」。

国家元首としての役割は「議会の開会」や「首相の任命」など、基本的に形式的・儀礼的なものだ。政治家(内閣・議会)が機能不全になった場合、国王が機能回復までの任務を担うはずだが、それが明文化されているかどうかは私にはわからない。

国民の首長としての役割に関しては4つ。

  • 国民統合の象徴
  • 連続性と安定性の象徴
  • 国民の功績の顕彰
  • 社会奉仕への援助

これらの役割はバジョット『イギリス憲政論』(日本では福沢諭吉『帝室論』)に沿ったものと言えるだろう。議会・内閣にはできない政治的役割で、共和政の政治との大きな違いの一つである。

立憲君主制は、イギリスの歴史の中で積み上げられた伝統と慣習をもって成立・確立・定着し、時代の流れの中で微調整されることもあるが、今現在もちゃんと機能している。



【読書ノート】君塚直隆『立憲君主制の現在 日本人は「象徴天皇」を維持できるか』 その7

前回からの続き。

ジョージ5世

激動のイギリス政治の中で国王エドワード7世が亡くなり(1910)、ジョージ5世が即位した。

彼は即位早々に議会法の成立のために働いたがその成立の直後に、さらに困難な時代に巻き込まれていく。第一次世界大戦が始まる(1914-)。

この大戦で国王はどのような働きをしたのか?戦費が膨張する中で質素倹約に勤める一方で、論功行賞に金銭を使った。

それまでの報奨は、一部の英雄や将軍・提督たちにしか与えられていなかったが、ジョージは一兵卒や勤労動員の女性など、すべての国民を対象とする「ブリティッシュ・エンパイア勲章」を創設した(1917年)。創設からわずか2年の間で25000人の人々が受章し、その一人一人に国王自らが勲章を授与したのである。喜びの受賞者のなかには労働組合員やそれまで君主制に否定的だった人物たちも数多く含まれていた。歴史家のフランク・プロハスカは言う。「この勲章は人々に恭順という観念を染み込ませ、共和主義をくじく手段として絶妙な効果をあげた」。まさに王室は「栄誉の源泉」であった。(p87)

角度が違う方向から見れば、反王室派たちが抱いていた「王室が富と名誉を独占している」というイメージを逸らす効果もあっただろう。

さらに国王は病院への慰問と軍備製造工場への激励にそれぞれ数百回も訪問した。

このような行為はバジェットの書『イギリス憲政論』から学んだことだが、時代背景も関係している。

19世紀後半から徐々に進んでいた「貴族政治」から「大衆民主政治」への移行は、大伊地知世界大戦という「総力戦」によって最終的に決定づけられた。[中略]それまでは「貴族政治」に包まれるかたちで威厳を保っていた王室は、貴族たちが溶解してしまった現在となっては、直接国民と向かい合わなければならなくなっていた。(p89)

国王ジョージ5世はこのような時代に的確に行動し、「国父」と呼ばれる存在にまでなった。

労働党政権という画期

上記したように大戦後に「大衆民主政治」が成立してはいたが、それでも労働党が政権を獲ることはひとつの画期だった。

1923年12月の総選挙で、与党保守党は第1党となったものの過半数を獲得することはできず、選挙後の議会で保守党ボールドウィン内閣に対する不信任案が決議された。

これにより第2党の労働党の政権が誕生するわけだが(第3党の自由党は閣外協力)、この時、王室や貴族の間で大きな不安が駆け巡った。そしてこの時のジョージ5世の行動は以下の通り。

当時、貴族院を「人民を食い物にしている富裕階級の利益を守るだけの連中」と評し、その廃止を掲げてきた労働党が政権に就くことを、上層階級とその代表である国王が阻止するのではないかとの懸念もあった。[中略]ところが、ジョージ5世自身の腹はすでに決まっていた。国王は、きたるべき議会審議で保守党政権が敗北を喫したら、迷わずに労働党党首ラムゼイ・マクドナルドに首相の大命を降下するつもりであった。1924年1月22日それは現実となった。年齢がひとつ違いの国王とマクドナルドは人間的にも相性が良く、こののち「二人三脚」で国政にあたっていく。

……いざ政権を獲得してみると、議会の開会式や外国からの国賓を招いての宮中晩餐会など、わからない儀礼ばかりで困惑していた。こうしたときに彼らに救いの手を差し伸べてくれたのが、ほかならぬ国王ジョージ5世だったのである。(p90-91)

結局のところ、マクドナルドをはじめとする労働党議員たちは王室の必要性を認めた。

しかし、マクドナル政権に対して急進左派的な政権運営に警戒感を示した自由党は協力から反対に転じ、同政権は同年10月の総選挙で敗北して倒れた *1

自由党の没落、保守党と労働党の二大政党制の始まり

上記の10月の選挙は労働党政権の敗北と同時に自由党の大敗北の選挙だった。選挙前の159議席から40議席にまで減ってしまった。これにより、政権交代可能な政党は保守党と労働党の二大政党になって現在まで続く。

選挙に大勝した保守党は第2次ボールドウィン内閣を発足させるが、大戦後の不況から脱することができない中で金本位制復帰という大失敗(日本における金解禁と同じ失敗)をおかしてさらに不況を悪化させた。1926年にはゼネラル・ストライキが起こった。この混乱はおさまり、以降労使協調主義がイギリス社会に根付くことになるのだが、保守党は次の選挙で敗北して再び労働党政権が誕生する *2

しかし、1929年に発足した第2次マクドナル政権は世界恐慌に直面する。そんな中で労働党内は金本位制を維持して緊縮財政を進めるマクドナルド派と積極財政を求める(アーサー・)ヘンダーソン派に分裂。1931年に閣内不一致により総辞職した。

1931年、挙国一致政権(第3次マクドナルド内閣)

以上のような政治的混乱の時、国王ジョージ5世が動いた。

この二年前から始まった世界恐慌の波に飲み込まれていたイギリスの政治経済を再建できるのは、マクドナルドの指導力を除いては難しいと、ジョージ5世は判断した。そこでは国王は、すぐさま保守・自由両党の指導者層とも相談の上で、マクドナルドを首班とする挙国一致政権の樹立を進めさせたのである。

……国王は各正当が「君主の下で結束を固め、種々の政策の違いを超えて、挙国一致政権を築けるほどに国制が柔軟にできている」と彼らを讃えた。

……政権発足の二ヶ月後に行われた総選挙の結果は、挙国一致政権側が庶民院の全議席(615)の実に90%(554議席)を獲得し、国民から圧倒的な支持を集めるものだった。「わが国民は良識を備えており、適切な時に適切な判断が下せる。これは他の国々にとっても、お手本となるであろう」と、この選挙結果を受けて国王は偽らざる心情を吐露した。(92-93)

この時のマクドナルドは労働党の党首から引きずり降ろされ追い出されていた。そして挙国一致政権は実質保守党政権であった。

ともあれ、金本位制の停止やブロック経済政策が一定の成果を出して世界恐慌の波から生き抜くことができた。

ジョージ5世の「君主の極意」

ジョージ5世は国王になる前にバジョット『イギリス憲政論』を学んだのだが、その講義ノートには以下のような一文が書いてあった。

君主は諸政党から離れており、それゆえ彼の助言がきちんと受け入れられるだけの構成な立場を保証してくれている。彼はこの国で政治的な経験を長く保てる唯一の政治家なのである。(p84)

著者はこれを《「君主の極意」とでも言うべきであろうか》と書いている。

話は変わるが、第二次世界大戦の敗戦直後の日本において、明仁皇太子(現在の上皇)の教育係になった小泉信三はそのテキストの一つにハロルド・ニコルソン『ジョオジ五世伝』(当時未邦訳)を選んだ。

小泉が『ジョオジ五世伝』をテキストに選んだ理由は、……何よりまず主人公のジョージ5世が「義務に忠実な国王」だったからである。国王は天才でも英雄でもなく、その四半世紀にあまる治世において、人々の耳目を驚かすような行動もほとんどなかったかも知れない。しかしイギリス国民は、いつしか彼が王位にあることに堅固と安全を感じるようになっていた。(p43)

小泉は、上記の「極意」の通り公正中立で、無視聡明なジョージ5世を君主の手本とした。



*1:詳細は書かないが、キーワードは、ソ連承認、ジノヴィエフ書簡、キャンベル事件

*2:スタンリー・ボールドウィン - Wikipedia

【読書ノート】君塚直隆『立憲君主制の現在 日本人は「象徴天皇」を維持できるか』 その6

前回からの続き。

人民予算

20世紀に入っても庶民の政治参画への熱は治まらなかった。保守党・自由党の二大政党は様々な労働者向けの政策を打ち出したり政治キャンペーンを行なって彼らの支持を取り付けようとした。いっぽう、労働者たちは複数の労働組合をまとめる形で労働代表委員会を立ち上げた(1900年。1906年労働党に改称)。

20世紀初頭はドイツヴィルヘルム2世が「帝国主義政策」を推し進めて、イギリスはこれの対応を迫られて増税しなければならなかった。

1909年のアスキス政権における蔵相デビッド・ロイド=ジョージは、軍事費と社会保障の予算の捻出のために累進課税と土地課税制度導入、相続税の大幅増額を打ち出した。予算案は庶民院を通過したが、貴族院はこれを拒否。これに対してアスキス政権は人民予算の是非を問うために解散総選挙を打って出た。

与党自由党は第一党にはなったものの過半数を獲得することはできなかったが、一部野党の賛成を得て人民予算案を庶民院で通過。貴族院は国王エドワード7世の仲介もあって通過する。このとき指導者間の「密約」があったと著者は書いているが(p82)、その内容は書いていない。

議会法

ただし、選挙の前に貴族院が予算案を否決したことは名誉革命以来なかったことであり、貴族院への不満が高まった。これに対し、 自由党貴族院の権力の削減を目指した。それが「議会法」だ。

以下の二点がポイント。
 1)上院は予算案を否決、または修正することは出来ない。
 2)その他の法令も、下院が3会期引きつづき可決すれば、上院が否決しても法律として成立すること。
 これによって、貴族によって構成される上院の権限は制限され、国民が選挙で議員を選ぶ下院の優越を実現させた。

出典:議会法<世界史の窓

貴族院の反発は必至だった。この時、エドワード7世は亡くなっていたが、あとを継いだジョージ5世が間に入って調整し、貴族院でも法案が可決された。これによって貴族院の権力が一気に縮小した。