歴史の世界

【読書ノート】君塚直隆『立憲君主制の現在 日本人は「象徴天皇」を維持できるか』 その8

前回からの続き。

第二次大戦中の国王:ジョージ6世

前回はジョージ5世について書いたが、その後はエドワード8世、ジョージ6世、エリザベス2世と続く。第二次世界大戦時の国王はジョージ6世だったが、本書ではその当時のことについてほとんど書いていない。

この記事ではエリザベス2世を中心に書くが、その前に大戦中のジョージ6世の話から。

ジョージ6世と同妃エリザベスは、ロンドンがドイツ空軍による大空襲に晒されても、ロンドンに留まることを選択した。[中略][1940年]9月13日にはドイツ空軍機が投下した2発の爆弾がバッキンガム宮殿の中庭に着弾し、宮殿で執務中だった国王夫妻が九死に一生を得たこともあった。王妃エリザベスが「爆撃された事に感謝しましょう。これでイーストエンドに顔向け出来ます (I'm glad we've been bombed. It makes me feel I can look the East End in the face. ) 」という有名な言葉を言い放ったのはこのときである。

国王一家は、戦時中のイギリス国民と等しく危険と耐乏を分かち合った。国民と同じく配給物資の制限を受け、フランクリン・ルーズベルト大統領夫人エレノアも、イギリス訪問中のバッキンガム宮殿滞在時に食事に配給物資が出されたこと、入浴する際に浴槽の湯量が制限されていたこと、暖房が入っていなかったこと、ドイツ空軍の空襲の被害を受けて壊れた窓に板が打ち付けられていたことなどを証言している。 [中略]

第二次世界大戦の間中、ジョージ6世とエリザベスは爆撃を受けた場所、軍需工場などイギリスとその影響下にある各地を訪問し、国民の士気を鼓舞し続けた。さらにジョージ6世は、イギリス本国を離れて外国へ遠征している部隊も慰問した。1939年12月にフランス、1943年6月に北アフリカとマルタ、1944年6月にノルマンディー、1944年7月に南イタリア、1944年10月にネーデルラント地域を、それぞれ訪れている。1942年8月には弟のケント公ジョージが、軍務中に薨去した。

国王夫妻は国民から高い敬意を受け、その不屈の姿勢とともに、「国を挙げた戦争遂行の象徴たる存在」となっていった。1945年5月にドイツが降伏したヨーロッパ戦勝記念日のお祭り騒ぎの中、バッキンガム宮殿前に集った国民が「王よ、お姿を! (We want the King!)」と叫んだ。

出典:ジョージ6世 (イギリス王) - Wikipedia)

立憲君主としての職務を忠実に果たした。

ジョージ6世は身体が丈夫でなかったようで、戦後数年経った1952年に亡くなった。

戦後の国王:エリザベス2世

現在の国王であるエリザベス2世に話を移す。エリザベス2世が王位に就いた時には、すでに立憲君主制は確立されており実権及びその責任は内閣が保持していた。政治家による政治が機能しているかぎり、国王の権限は形式的・儀礼的なものとなった(形式的・儀礼的なものだからといって軽々しいものだということではないが)。

そして現在の国王のあり方は立憲君主制の定義がそのまま当てはまる。他の立憲君主国がイギリス国王をお手本としているのだから当然だが。

コモンウェルスの長」として

他の立憲君主国とイギリス国王の違いの一つ。

他の立憲君主とは違い、イギリス国王は「コモンウェルスの長」という称号を持つ。

まずは手短にコモンウェルスの意味から。

正式には「Commonwealth of Nations」だが、基本的には「コモンウェルス」あるいは「イギリス連邦」で通用するようだ。

イギリス連邦
British Commonwealth of Nations
イギリスの国王(または女王)を統合の象徴とし,イギリスを中心に結びついた独立諸国家および諸属領の連合体。
第一次世界大戦自治領は戦争遂行に協力し,また工業化が進んだ結果,自立的傾向が強まった。国際的にも講和条約に調印し,国際連盟に加入するなど,独立国同様の地位を得た。このため,イギリス帝国(British Empire)の名称は不適当になり,1926年の帝国会議でイギリス連邦British Commonwealth of Nations)の名が用いられることになり,31年のウェストミンスター憲章で成文化された。このとき,「王冠に対する共通の忠誠」が規定され,構成はイギリス本国・カナダ・オーストラリア・ニュージーランド南アフリカ連邦アイルランドニューファンドランドであった。第二次世界大戦後の1949年,インドを連邦内にとどめるため,連邦会議で「王冠に対する共通の忠誠」を不要とし,名称も単に連邦(Commonwealth of Nations)と改めた。1995年現在,構成国は51か国。

出典:イギリス連邦とは - コトバンク/旺文社世界史事典 三訂版

コモンウェルスの長」は各国の「国家元首」という意味ではない。コモンウェルス儀礼的なトップを意味し、イギリス国王が就くことになっている。

エリザベス2世は祖父ジョージ5世に倣ってコモンウェルス各国の首脳と友好関係を維持することに務めた。

本書では《コモンウェルスこそは、……女王や王室がいまだに大きな影響力を残す舞台である》(p101)と書いてある。その重要な一例として「アパルトヘイト廃止」を挙げている。

南アフリカへの経済制裁を渋るサッチャー首相を尻目に、女王は世界各国の首脳らとも裏で連携し、アパルトヘイト反対の闘士ネルソン・マンデラ(1918-2013)をついに釈放させることに成功を収める(1990年)。この直後に、アパルトヘイトそれ自体もなし崩し的に崩壊していったことは周知の事実である。コモンウェルスの首脳たちと長年にわたる友好関係を保ち続け、世界中に知己を持つ女王でなければなしえない偉業であった。(p104)

エリザベス2世は、「長年にわたる友好関係」と経験だけではなく、(元首相のジョン・メイジャーによれば)「百科事典的な知識」をも持ち合わせている(同ページ)。

ここで前回書いたジョージ5世が遺した「君主の極意」を再掲する。

君主は諸政党から離れており、それゆえ彼の助言がきちんと受け入れられるだけの構成な立場を保証してくれている。彼はこの国で政治的な経験を長く保てる唯一の政治家なのである。(p84)

女王はこれを忠実に実践した手本の一人である。

現在の立憲君主の役割(イギリス)

p115に《イギリス王室がホームページ等を通じて毎年6月に公表する『年次報告書(Annual Report and Accounts)』によれば、現在のエリザベス女王の役割は大きく2つに分けられる》とある。

この2つとは「国家元首(Head of State)」と「国民の首長(Head of Nation)」。

国家元首としての役割は「議会の開会」や「首相の任命」など、基本的に形式的・儀礼的なものだ。政治家(内閣・議会)が機能不全になった場合、国王が機能回復までの任務を担うはずだが、それが明文化されているかどうかは私にはわからない。

国民の首長としての役割に関しては4つ。

  • 国民統合の象徴
  • 連続性と安定性の象徴
  • 国民の功績の顕彰
  • 社会奉仕への援助

これらの役割はバジョット『イギリス憲政論』(日本では福沢諭吉『帝室論』)に沿ったものと言えるだろう。議会・内閣にはできない政治的役割で、共和政の政治との大きな違いの一つである。

立憲君主制は、イギリスの歴史の中で積み上げられた伝統と慣習をもって成立・確立・定着し、時代の流れの中で微調整されることもあるが、今現在もちゃんと機能している。