歴史の世界

楚漢戦争⑤ 項梁の死と楚国再編

今回は、項梁の突然の戦死とその後の楚国の再編について。

項梁の死後、項羽がスムーズに後を継いだわけではなかった。今回は項羽が権力を握る前までの話。

項梁、対秦戦に動く

項梁の動向については、前々回からの続きとなる。

(秦)二世2年(前208年)6月、陳王の死と張楚国滅亡を確認した後、項梁は新しい楚国を建国した。建国に関する諸々の取り決めを終えた後、いよいよ秦への攻撃に乗り出す。

7月、項梁は東阿(斉の西部)に司馬龍且(りょうしょ)を送り、斉の田栄を助ける。田栄については前回書いたが、魏での秦軍との戦いに敗れて東阿まで逃げていた。援軍を受けた田栄は追撃してきた秦軍を大破することができた。その直後に田栄は斉都に向かい、クーデタを起こした田仮たちを追放して実権を奪い返す。

項梁は東阿に到着した後、田栄に共に秦軍を攻めるように要求するが田栄はこれを拒否した(前回の記事参照)。

項梁の死

秦軍側の総大将あるいは総司令官である章邯は、東阿から退却した後、防戦にまわる。おそらく、都に増援を要請して、増援軍が到着したら攻勢に出る方針だった。

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出典:藤田勝久/項羽と劉邦の時代/講談社選書メチエ/2006/p98

一方、項梁は自ら動く前にまず項羽を動かした。項羽城陽を落としたが、濮陽・定陶を落とすことはできなかった。しかし、雍丘で秦軍を破り、三川郡守の李由(秦の丞相李斯の長男)を討ち取った。その後、項羽は外黃は降すことはできないまま陳留で戦った。

項梁は自ら行軍し、定陶を落とせなかった項羽を雍丘へ進ませた後に定陶を攻撃し、これを撃破した。そしてこの後に雍丘の戦勝を聞いて、項梁は慢心したという。

9月、秦中央は章邯に中央から大軍を与えて定陶を攻撃させ、その結果、楚軍は大敗し項梁は戦死した *1

史記項羽本紀では項梁の戦死は自身の慢心・傲慢さの結果だとしているが、兵力の差で圧倒されて大敗したというのが本当のところだろう。

楚国、国の再編を余儀なくされる

項梁の戦死を知った項羽は陳留の攻撃を止め、彭城に撤退した。

項梁の死は楚国にとって大問題だった。1個の軍だった時なら項羽が後を継ぐことでまとまれたが、国家となるとそうはいかない。項羽はまだ24歳か25歳の若年者で武力以外の能力は他人に認められる実績がなかった。

ここで傀儡の王のはずの懐王が権力を握ることとなる。おそらく彼の背後に項梁・項羽とソリの合わない人々が集まって知恵をつけたか操っていたのだろう。

懐王は都を長江下流の盱台(くい)から楚秦戦の最前線に近い彭城に遷し、新しい体制を作った。

まず呂臣を司徒(大臣)に、父の呂青を令尹(宰相)に任命した。呂臣の素性については詳しくは分からないが、元々は張楚国の陳王の配下で、陳王を殺害した御者(車夫)の荘賈を殺した後、自らは私兵を組織して秦軍と戦っていたが、楚軍が西に秦軍してきた際に英布軍に合流した。このような人物がいきなり国家の中枢の責任者になった理由については分からない(素人なりに考えれば、張楚国の残党を吸収するために、呂臣らが必要だったということか?)。

そして内政より大事な軍編成だが、上将軍を宋義、項羽を次将、范増を末将とした。その上で、別将(楚国に合流した小軍団)も上将軍に従属するように命じた。宋義が総大将(総司令官)になったということだ。

宋義は戦国楚で令尹の経験があるという人物だが、項梁の決起から共に行動したメンバーの一人だった。宋義は定陶で勝利して慢心していた項梁を諌めたが聞き入れられず、項梁が敗北することを予期した。これを聞いた懐王は宋義を呼び出してその先見を讃え、そして「面接」をした後、懐王は大いに悦び宋義を上将軍に任命した *2

さて、この軍編成で、次の決戦の場である鉅鹿の戦いに臨むわけわけだが、佐竹靖彦氏によれば、《宋義を総大将としたこの軍を項羽を除いては軍事には素人のものたちばかりが将軍になることになった》と評している *3。 佐竹氏によれば、范増が末将になったのも、懐王を王にしてくれた論功行賞だということだ。

この決定について項羽が抵抗したという記述は無い。ただし、鉅鹿に到着する手前で、宋義にブチ切れることとなる。



*1:項羽本紀《秦果悉起兵益章邯,秦果悉起兵益章邯,擊楚軍,大破之定陶,項梁死。》

*2:項羽本紀《王召宋義與計事而大說之,因置以為上將軍……》

*3:佐竹靖彦/項羽中央公論新社/2010/p150

楚漢戦争④ 各地の動き

前回は項梁の快進撃を書いたが、ここで一旦、張楚国滅亡後の各地の情勢を整理する。

各地の情勢(1月以降)

話を簡単にするために戦国時代末期の七国の地図を基(もと)に話を進める。

陳勝呉広の乱の勃発から項梁の台頭までの期間のことについては記事《楚漢戦争① 陳勝・呉広の乱》参照)

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出典:戦国七雄 - Wikipedia

秦の暦は10月を年始とすることに注意。このブログでは西暦もこれに連動させている。

張楚国が滅亡したのは二世2年(紀元前208年)12月で、項梁が懐王を戴いて楚国を建国したのが同年6月。

  1. 楚:北西部は、張楚国の滅亡後は秦軍の勢力圏に入っている。東部は1月以降、項梁の勢力に入る。6月に項梁が懐王を戴き楚国を建国する。南西部に関しては情報が無い。

  2. 燕:陳王の配下だった韓広が燕王となっている。二世3年10月に鉅鹿の戦いに将軍・臧荼を派遣するまで情報が無い。

  3. 韓:陳勝呉広の乱以降に「韓王」は存在しない。張楚国建国直後は張楚国の勢力圏に入っていたが、その後反撃されて秦軍の勢力圏に入る。

  4. 秦:一度は攻め込まれたものの押し返して函谷関を出て攻勢に回っている。張楚国滅亡後、韓の地域と楚の北西部を攻略し勢力圏に入れてさらに東に攻勢をかける。

  5. 斉:旧斉王田氏の後裔 田儋(でんたん)が王となっている。田儋が動くのは4月に入ってから。後述。

  6. 魏:旧魏王室の公子 魏咎(ぎきゅう)が王。1月から張楚国を滅ぼした秦軍の将軍・章邯に攻められる。その後については後述。

  7. 趙:張楚国建国後に陳王の配下の将軍だった武臣が王となったが、その後の内紛により武臣は殺され、1月に張耳・陳余(彼らも陳王の配下の将軍だった)が趙の公子であった趙歇を王として擁立した。その後 数カ月間に亘って国内での戦闘が続いてこれを平定した直後に秦軍が攻めてくる。

以上を踏まえ上で、その後の歴史を見ていこう。

魏での戦い

張楚国を制圧した秦軍は1月、北上して魏を攻める。魏王咎は臨済(旧魏の都・大梁の東南)で戦うが包囲される。

4月、臨済がいよいよ陥落に近づくと、魏王咎は宰相周市(しゅうし、しゅうふつ) *1 を派遣し、斉王儋(田儋)と楚の項梁に援軍を要請する。この時、斉から田巴(でんぱ)、楚から項它(こうた)が派遣され、一時的だが、秦軍の包囲を解いた。

6月に入ると、再び秦軍が臨済をほうすると、斉王儋が自ら臨済に進軍するが、秦軍の攻撃により魏・斉軍は撃破され、斉王儋と魏宰相・周市が戦死した。

これにより魏王咎は民の安全を条件にして降伏し、この約束が守られたことを確認した後、焼身自殺した。魏は秦軍により鎮圧された。

斉の政変

斉王儋の死後、弟の田栄は敗残兵を集めて斉の西部の東阿に逃げた。

しかし田栄のいない斉で田仮(戦国斉の最後の王である田建の弟)を王とするクーデタが起きた。斉王儋が戦死(または行方知れず)してしまったのでそうするしか無かったのかも知れないが、田栄としては承知できるはずがなかった。

田栄は東阿で楚の司馬龍且(りょうしょ)の援軍と合流して秦軍を退けて、楚軍と別れて斉の都に戻った。

田栄は、項梁が行った章邯への追撃には参加せず、斉で田仮が擁立されたことを怒り、すぐに兵を率いて帰還して、田仮を攻撃して追放した。田仮は楚に亡命し、田角・田閒兄弟は趙に行ったまま帰ってこなかった。

同年8月、田栄は田儋の子の田巿(でんし、でんふつ) *2 を擁立して王として、自身は田巿の相国となる。弟の田横は将軍となり、斉の地を平定した。

同年9月、章邯を追撃した項梁から、ますます兵力が増大していた章邯討伐を行うための援軍要請を受ける。田栄は、「楚が田仮を殺し、趙が田角・田閒を殺せば、援軍を出そう」と条件を出す。楚では懐王・項梁[6]ともに断り、斉と同様、項梁からの援軍要請を受けていた趙もまた、田角・田閒を殺して斉と交易をしようとはしなかった。

出典:田栄 - Wikipedia

この後、項梁は秦軍との戦いの中で戦死してしまう。項羽は田栄が援軍を出さなかったことを恨み続ける。

まとめ

項梁(楚)の勢力は6月までに快進撃を続けてきたが、一方で秦軍も攻勢を強めて反秦勢力に猛反撃している。

魏は秦軍の手に落ち、趙は別の秦軍が攻略中。斉は中立で燕は情報無し。

建国前に秦軍と楚軍は干戈を交えているが、項梁と秦将軍・章邯が激突するのは9月になってからだ。




以上の情報源はwikipediaの各人物の記事による。


*1:「し」と読む場合は「市場」の「市」で、「ふつ」と読む場合は「巾」に「一」で構成する「巿」という漢字。「市(いち)」とは別の漢字。つまり2説ある。

*2:この名前も上述の周市と同じく「市」「巿」の2説ある。 ── 引用者

楚漢戦争③ 雪だるま式に増える項梁勢力

前回からの続き。

項梁・項羽は精鋭8千兵を引き連れて、会稽郡を出て長江を渡って北上する。

反秦勢力を吸収

項梁は地元の会稽郡を平定し郡守(郡のトップ)となり、さらに(詐称だが)張楚国の上柱国(宰相)と称した。ただし、張楚国は既に秦軍に撃破されて崩壊していた。陳王(陳勝)は敗走して行方知れずになっていた(陳王が配下に殺されたという情報は他の地方の各勢力は長く確認できずにいた)。

下の地図で項梁らの行軍ルートが確認できる。

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出典:藤田勝久/項羽と劉邦の時代/講談社選書メチエ/2006/p83

二世二年(前208年)1月、項梁は八千の精鋭を引き連れて長江を北上し、広陵に入る。2月には更に北上して下邳を拠点とする。下邳は項梁の故郷の下相のすぐ北にある。

項梁軍は東陽県で陳嬰、行軍の途中で英布・蒲将軍の軍を新たに配下に加えることになり大軍となった。『史記項羽本紀によれば、このときの兵力は6~7万だという。項梁は秦軍と当たる西方ルートに進まず、地図にあるように東方を北上して反秦勢力を集結させることに努めた。

反秦勢力の代表格・秦嘉との対決

さて、秦嘉という人物もまた陳勝呉広の乱をきっかけにして決起した人物だ。

陳勝呉広の乱の直後、秦嘉は数人の仲間と決起し、東海郡(現・山東省臨沂市と江蘇省北部)の郯(たん。現山東省の郯城県)で囲んだ。この時 陳王は将軍を派遣して秦嘉をコントロールしようとしたが秦嘉はこの将軍を殺し、さらに大司馬(大将軍)を自称して陳王から事実上独立した。

1月、張楚国が崩壊した後、秦嘉は楚の公族で名門である景氏の後裔の景駒を王に擁立した(拠点は留、沛の近辺)。こうして張楚国に代わる楚国を再建して反秦勢力の吸収を図った。劉邦も一時期だけだが彼らの配下に入った。

さて、2月に入り反秦勢力のトップの座をかけて秦嘉と項梁が衝突することになる。しかし あっけなく項梁軍が秦嘉軍を撃破し、秦嘉は4月に反撃を試みるが戦死する。景駒も逃亡の途中で死んだ。

これにより秦嘉側の残党をも吸収し、項梁が陳王に代わる反秦勢力の最大勢力となった。

楚国建国

4月(または6月)、項梁はさらに北上して薛(せつ)に入る。薛は戦国時代の斉の孟嘗君の領地として有名な場所。

項梁はここで会盟を開く。反秦勢力の大同団結を呼びかけ、各地の諸勢力を集めた。この場所で陳王が死んだことを確認した上で集まった諸勢力は項梁を陳王に代わるトップと認めて、自らは配下となって秦に立ち向かうことを誓った。劉邦もこの会盟に加わって項梁の配下になった。

ここで楚漢戦争の中でも重大なイベントが起こる。それが楚国建国。キーマンは范増という人物。

范増は居巣(現在の安徽省巣湖市)の人、後に項羽の参謀となり項羽に亜父と呼ばれた人物だ。薛の会盟の時に駆けつけた一人でこの時すでに70歳に達していた。范増は項梁の前に出て以下のように献言する。

陳勝の敗北は当然のことです。秦が六国(魏・趙・韓・斉・楚・燕)を滅ぼした時、楚は最も罪が無かったのに、懐王は秦に入ったら帰してもらうことはありませんでした。楚の人は今でもこのことを憐れんでいます。だから、楚の南公[5][6]も『例え楚が三戸になろうとも、秦を滅ぼすのは必ず楚であろう』と言ったのです。陳勝は初めに決起しましたが、楚王の子孫を立てずに、自ら王となったため、勢いは長続きしませんでした。あなた(項梁)は江東で決起しています。楚で蜂起した将たちが争ってあなたに就くのは、あなたの家柄が代々の楚の将軍であるから、楚王の子孫を王に立てるであろうと考えているからです」 出典:范増 - Wikipedia (「南公」についてはよく分かっていないらしい)

項梁はこの献言に従った。『史記項羽本紀には「民の願いに従った(從民所望也)」ともある。どこの馬の骨か知れない陳王を庶民が王として戴く気にはなれないということか。でもそうなると劉邦はどうなのだろうか?

さて、項梁は旧楚の懐王の孫(または玄孫)で民間の羊飼いの心という人物を王として擁立した。これを懐王(のちの義帝)として、楚の王室を復活させて(張楚のような偽物ではなく)真の楚国の復活を演出した。

あたらしい楚国は東陽に近い盱台(くい)に首都を置き、陳嬰を上柱国として民政に当たらせてスタートした。

懐王が項梁の傀儡として演じ続けていれば問題なかったのだが、懐王は今後 王としての権力を行使するようになる。ここで二重権力が出来上がってしまい、これが後に項羽の足を引っ張る事態となる。



楚漢戦争② 項梁・項羽の決起

陳勝呉広の乱に呼応するように項梁・項羽が決起した。

秦を滅ぼして、いちおう天下統一を果たしたのは「西楚の覇王」と呼ばれた項羽だが、決起した時は叔父の項梁の副将だった。

項梁・項羽の決起は項梁を中心に話を進めよう。

項羽

項羽

項梁という人物

項梁は戦国末期の楚の大将軍項燕の末子。項氏は楚の名門の一族だった。

項燕は秦軍20万の侵略を撃破したが、翌年に60万で進軍してきた秦軍に敗れ、その翌年に再戦を挑んだが敗れて戦死した人物。『史記』によれば、陳勝呉広が乱を起こした時に「人民から人気のある扶蘇・項燕であると詐称した」とあるので、楚で英雄視されていたことが分かる。

項氏は項城(現・河南省)が本拠地であったが、項一族は戦国楚の滅亡により下相(現・江蘇省)に移った。しかし項梁は人殺しを犯して敵討ちを避けるために呉(現・浙江省)に移った。

呉に移った項梁は実力者たちから親分として立てられ、大事業や葬式などがあると項梁が元締めとなった。

郡守となる

さて、二世2年(前209年)9月に陳勝呉広の乱が起きて、各地の庶民が郡県の長が殺して決起する中で、会稽郡守(軍の長官)は項梁を将軍にして秦に対して決起しようとした。しかし項梁は項羽を呼んで郡守を殺させた。

項梁は郡守の首と印綬を持って郡の役人の前に立った。数十人が項梁に襲いかかったが、これを項羽が全て撃ち殺した。残りの役人は項梁を郡守と認めるよりほかなかった。この後、郡内の県に人を遣(や)って収めた上で8,000人の精鋭を集めた。豪傑たちを組分けしてそれぞれ校尉・軍侯・司馬を決めた。項羽は裨將(副将)とした。

楚の上柱国を詐称

二世2年(前209年)1月 *1 、郡を平定した項梁のもとに陳王の使者と称する人物が訪れた。この人物は陳王の命として項梁を上柱国(宰相)に任命すると言った。

しかしこれは全くの出鱈目だった。先月12月に既に陳勝は配下に殺害されている。この謎の人物は召平といい、広陵江蘇省)の人物。彼もまた陳勝らの乱に呼応して決起したのだが、広陵の人々を従わす事ができずにいた。そうしているうちに張楚国が陳王ものとも消滅してしまったので、召平は会稽郡を平定した項梁を頼ることにした。

召平は項梁に対して上柱国になれと言っただけでなく、加えて「江東(会稽郡)はもう平定したから、はやく西のかた秦を撃つように」と言った。しかし実際は北の広陵に進軍させた。『史記』にはたまにこういった謎めかしい人物が出てくるので面白い。史実なのかどうかは置いといて。

いずれにしろ、知ってか知らずか項梁は召平の言葉に従って上柱国を名乗り、広陵へと秦軍を始めた。

話は次回へ続く。

項羽について

ここで軽く項羽について書き留めておく。

項一族については項梁のところで書いた。項梁は叔父。

史記』によれば、項羽は文字を習っても覚えられず、剣術を習ってもあまり上達しなかった。項梁はそのことで項羽を怒ったが、項羽は「文字なぞ自分の名前が書ければ十分です。剣術のように一人を相手にするものはつまらない。私は万人を相手にする物がやりたい」と答えたので項梁は喜んで集団戦の極意である兵法を項羽に教えた。項羽は兵法の概略を理解すると、それ以上は学ぼうとしなかった。

項梁に従い、呉に移住した。成人すると、身長が8尺2寸(1尺が23-24cmとして約188-196cm)の大男となり、怪力を持っており、才気は人を抜きんでていたこともあって、呉中の子弟はすでに項羽には一目置いていた。

出典:項籍 - Wikipedia (名は籍、字が羽)

引用は『史記項羽本紀の通り。項羽劉邦の敵なので、上段のようなネガティブな書きぶりは前漢の時代では仕方がなかったようだ。下段が司馬遷にとってのせめてもの抵抗なのかもしれない。



*1:秦の暦は10月を年始としている。つまり10月に年が変わる

楚漢戦争① 陳勝・呉広の乱

楚漢戦争は「項羽と劉邦の戦い」とも呼ばれ、劉邦項羽に対して反旗を翻す前206年から始まるのだが、ここではその前段として最も重要な陳勝呉広の乱から話を始める。

陳勝呉広の乱

陳勝呉広の乱

秦の始皇帝の死後の前209年に起こった農民反乱。翌年鎮圧されたが、秦の滅亡をもたらした。

始皇帝の死の翌年の前209年7月、秦の支配に対して起こされた農民反乱。この後に中国で続く、農民反乱の最初のものとして重要。その首謀者陳勝呉広はいずれも貧農出身。かれらが反乱を起こすとたちまち中国全土で秦の圧政に対する不満が噴出して、各地で呼応する反乱が起こった。陳勝呉広の軍は内紛から瓦解し、鎮圧されたが、それに誘発された農民出身の劉邦の挙兵、また楚の王族であった項羽の挙兵などが一挙に秦を滅亡させることとなる。

陳勝 貧農出身の人物
陳勝は河南の貧農出身であったが軍隊に徴発され、任地に赴く途中、大雨に遭って入営に遅れ、そのままでは死刑になると考え、仲間の呉広とともに兵士に反乱を呼びかけた。前209年に蜂起し、引率の隊長を斬り、陳勝が将軍、呉広が都尉となって群衆を扇動した。そのときの言葉が「王侯将相いずくんぞ種あらんや」である。たちまち数万の大軍となると、陳勝は王位につき「張楚」という国号を称した。また各地で呼応する反乱が起こった。しかし、陳勝呉広は力を持つと昔の仲間を無視するような態度に出たため二人とも部下に殺され、反乱は内部から瓦解した。

出典:陳勝・呉広の乱

この反乱はわずか半年で終わったが、これに呼応した勢力が秦帝国を倒したことは引用の通り。

反乱決起から陳県入城まで

二世元年(紀元前209年)7月、陳勝呉広は辺境守備のため、半ば強制的に徴兵された農民900名と共に、漁陽へと向かっていた。しかしその道中、大沢郷(現在の安徽省宿州市の東南部)にさしかかったところで大雨に遭って道が水没し、期日までに漁陽へとたどり着く事が不可能になる。秦の法ではいかなる理由があろうとも期日までに到着しなければ斬首である。[中略]

彼らはまず大沢郷を占領、それから諸県を攻略し、陳を取るころには兵車600乗・騎兵1000余・兵卒数万の大勢力になっていた。陳を攻めた時、郡守・県令は既に逃亡しており、副官が抗戦したがあっという間に陥落した。陳に入城した陳勝はここを本拠とし、即位して王となり、国号を張楚と定めた。

出典:陳勝・呉広の乱 - Wikipedia

陳勝呉広の両者は貧農層の人だった。2人は官吏に命じられて人夫を護送する任務を負わされていた。上記のように、彼らは座して死罪を待つか反乱を起こすかの選択を迫られた時、引率の尉(下級将校)を殺して反乱することを選択した。

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出典:藤田勝久/項羽と劉邦の時代/講談社選書メチエ/2006/p83

彼らの行動は地図に示されている。

陳に入城する時の軍勢は郡ひとつ分に匹敵した。

ここで陳渉[渉は陳勝のあざ名 -- 引用者]たちは、陳郡の治所[政庁のある所]で、県令に代わって守丞が防衛していた城郭を占領した。

こうして陳県を占領するまでの過程をみると、陳渉たちは、一応は秦の郡県制のシステムにのっとりながら、その軍事系統を奪取していた。だからその蜂起は、漢代の賈誼(かぎ)が秦の滅亡を評した「過秦論」でいうように、必ずしも「木を伐って武器とし、竿を掲げて旗」としたり、「弓や戟(げき)の武器を持たず、スキやクワ、こん棒などを持って、食料を取って天下に横行した」というものではないとおもわれる。そして数日すると、県の三老と豪傑たちを招集して、ともに計略を練っている。

出典:藤田氏/p84

陳を落として拠点を作るという戦略を持てたということは、反乱から陳県入城への過程で将校クラスの人物が陳渉陣営にいたことになる。陳県入城の後も貧農の陳勝が受け入れられたことが信じられない出来事のように思うのだが、誰かお膳立てができる人物がいたのだろう。

張楚」建国

陳県の人々に受け入れられた後、陳勝は「張楚」を建国し、自らを陳王と名乗った。「張楚」は「大いなる楚」という意味 *1 だが、楚王ではなく陳王と名乗ったのは陳周辺しか支配できていないかららしい。

史記』秦始皇本紀によれば、この乱が起こった後に、各地で過酷な統治に苦しんでいた若者が呼応して郡県の長らを殺して反乱を起こしたとしているが、貧農が王になるという事態を見れば、反乱以前に秦帝国の統治能力は既にガタガタだったのではないかと想像する。

反乱の全国波及

以下に楚以外の地域への反乱の波及を書いていく(ただし韓の地域の言及は無かった)。

張楚国はわずか6ヶ月で潰されてしまうのだが、それでも陳勝(陳王)たちの活躍が目覚ましかったことは以下の記述で証明しているように思う。

ただし陳王はそれなりに戦略的に動こうとしていたが、彼の求心力はかなり弱かったようで、部下たちは勝手に動き回った。これに対して陳王は事後承認せざるを得なかった。

前209年8月、陳王は武臣 *2 を将軍として、邵騒を護軍に、張耳・陳余の2名を左右校尉にして、趙を攻撃させる。10城を攻略した後、説得工作により30城を戦わずして降伏させることに成功。武臣は邯鄲に入り趙王となった。陳王は激怒したがこれを処罰する力を持たず、しぶしぶ承認することにした。趙王は陳王からの秦への攻撃の命令を聞かずに自勢力の拡大を目指した。

8月、趙王は韓広 *3 に燕の地の攻略を指示した。

9月、旧燕国のかつての貴人や豪傑たちが韓広を燕王に押し立てる。趙王はこれを咎めるために燕に出兵したが返り討ちに遭い、燕王は独立した。

前208(二世2)年10月 ── 秦暦では10月で年が変わるので、10月から二世2年が始まる。当記事ではこれに従って、西暦の表記も変える ── 、狄の人、田儋(でんたん) *4 が狄県の県令を殺して斉王と名乗った。

田儋は陳王の軍勢と関係が全く無い状態で自立し、陳王が派遣した周巿(しゅうふつ) *5 は撃退された。

11月、魏王室の後裔である魏咎 *6 が魏王となる。10月に魏を平定していた周巿が陳王と交渉の末に成り立ったという経緯がある。周巿は魏の相となった。

江蘇省山東半島南部近辺

時期は不明だが、陳王が秦嘉 *7 らを数名を東方へ派遣する。彼らは東海郡守を郯(たん。現山東省の郯城県)で囲んだが、陳王はさらに武平君畔を将軍にしてここに派遣した。秦嘉は武平君に従うことを拒んで彼を殺し、大司馬(大将軍)を自称して陳王から事実上独立した(王とは自称しなかった)。

張楚国滅亡まで

ここでは、張楚国の対秦への戦いと同国の滅亡までを書く。

前209(二世元)年8月、呉広が仮王として、複数の将軍を与えて滎陽(けいよう。陳の北西)を攻撃する。滎陽は攻防の要地で李斯の息子李由が三川郡の長官として守っており、呉広らはこれを陥落させることができなかった。

周文が将軍として咸陽へと進軍する。函谷関(秦の畿内の東部との境界)を突破して9月には咸陽の近くの戯で秦軍と戦うが敗戦。11月まで戦闘を続けながら函谷関の東の澠池(べんち)まで敗走したがここで自刎する。

呉広の監督下にあった将軍・田臧は、周文の自刎の報を受け、呉広を陳王の命と偽って殺し、滎陽の軍を割いて秦軍を迎え撃ったが敗戦。田臧は戦死した。滎陽に残っていた軍も撃破された。

上記の軍勢を破った秦軍はさらなる張楚の軍勢を蹴散らして、いよいよ11月、本拠地の陳に攻め込んだ。12月に陥落。

陳王は王都・陳の西で対戦していたが、陳陥落後に転戦を続けている最中、自分の御者に殺された。これで張楚国は滅亡、陳勝呉広の乱は一応終わりとなる。

乱後の展開:鉅鹿の戦い

陳勝呉広の乱が鎮圧され、将軍・章邯を中心に秦軍は各地の残勢力の鎮圧を進めたが、この進軍が止まったのが鉅鹿の戦いだった。

少し手前から話を進める。

8月に武臣が趙王になったことは既に書いたが、11月に内紛により殺された。

趙王配下の校尉(武官)であった張耳・陳余はかつての趙の公子であった趙歇を王として擁立、信都を都とした。

話を秦軍に移す。章邯を中心とする秦軍は12月に張楚軍を滅ぼした後、新たな敵である項梁(項羽の叔父)らの軍勢と戦っていたが、前208(二世2)年9月、項梁を敗死させる。

章邯はこれを転機として、閏9月、今度は黄河を北上して趙の攻略へと向かう。

章邯は邯鄲で趙王・張耳・陳余に籠城されたら簡単には陥落できないと考え、先手を打って攻略し民を移して破壊した。やむなく趙王らは鉅鹿で籠城することにした。

秦軍は大軍をして鉅鹿を包囲して陥落寸前まで追い込んだが、援軍に駆けつけた項羽が秦軍を打ち破った(二世三(前207)年11月)。

この戦いが秦軍優勢と劣勢の転換点となるのだが、この続きは次回以降で書く。



*1:藤田氏/p84

*2:武臣 - Wikipedia

*3:韓広 - Wikipedia

*4:田タン - Wikipedia

*5:周フツ - Wikipediaによれば、巿(ふつ)は「一」と「巾」から成り、市(いち)は「亠」+「巾」から成る別の字である。

*6:魏咎 - Wikipedia

*7:秦嘉 (秦末) - Wikipedia

秦代⑭:秦代のまとめ

秦代あるいは秦朝は始皇帝による中華統一から滅亡までの期間を指す。前221年から前206年までのわずか15年間だが、始皇帝が築いた統治システムは次代の前漢に継承されてその後の王朝の統治システムの土台となっている。

政策

始皇帝が亡くなってすぐに秦は滅亡してしまったので、始皇帝の政策=秦の政策ということになる。

↓は始皇帝の主要な政策。後世にどのような影響を及ぼしたのかまで分かる。

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出典:浅野典夫/図解入門よくわかる高校世界史の基本と流れ/秀和システム/2005/p65

政策についての細かい話は前回までの複数の記事で書いた(「中国_秦代/楚漢戦争」カテゴリー参照)。

上の図解の「法家の採用」とは、浅野氏の説明によれば、戦国秦の商鞅からの内政改革を指しているとのことだが、基本的には成文法に基づく行政システムと解釈していいだろう。すでに戦国時代には確立していたものだが。

焚書坑儒」は思想統制政策で、丞相・李斯は学問の自由が体制批判につながると考えて全国の書物を焼却処分にした。戦国時代の諸子百家の論争華やぐ時代はここで断絶した。思想統制ような考え方は商鞅の改革を想起させる。現代の中共政権にまでつながるかもしれない。

先秦と秦代以降の違い

「先秦」という言葉があるように、秦代は中国史の中の大きな画期となっている。

どのような画期になっているのか、以下に3つ挙げる。

焚書政策

「先秦」という言葉がある。秦より前の時代すべてを指す言葉。

典故は『漢書』景十三王伝にあり、「(河間)献王の得るところの書はみな古文先秦の旧書」とあり、顔師古注には「先秦は猶お秦の先を言うがごとし。未だ書を焚せざる前を謂う」とある。

出典:典故は『漢書』景十三王伝にあり、「(河間)献王の得るところの書はみな古文先秦の旧書」とあり、顔師古注には「先秦は猶お秦の先を言うがごとし。未だ書を焚せざる前を謂う」とある。

上記のように、始皇帝と李斯による焚書政策のせいで、先秦の史料がごく少量しか遺っていないために、歴史の中で秦代が画期となっている *1

中華統一

春秋戦国時代(前770年-前221年)は長い分裂時代だった。これを始皇帝は統一する。始皇帝の死後すぐに再び分裂したが、劉邦が建国した漢により長く続く統一体としての中国が作られた。劉邦は秦の政策をほとんどそのまま流用したので、劉邦始皇帝の継承者だと言える。

夏殷周の三代について

中国の正史では、秦よりも前の時代に3つの統一体があったとされている。

ただし、日本の研究者の中には夏王朝の存在を否定する人が多く、加えて夏王朝の文字資料が皆無のために、王朝の話は殷から始まる(中国では夏王朝が存在することは政府の決定事項になっているらしい)。

殷周代は封建体制のため、秦代以降の皇帝による統治システムとは全く異なる。殷や周の王室の領地以外の地方は諸侯と呼ばれる人物が統治してほとんど独立していた。

よって始皇帝が作り上げた統治システムは、彼より前には存在しない *2

滅亡

始皇帝が亡くなるとすぐに帝国は滅亡への向かう。

皇帝を継承した二世皇帝の胡亥が宮中へ引きこもり、趙高に実権を丸投げしてしまった。趙高の本当の役目は宮中全体を管理する責任者程度であったが、二世皇帝と朝廷を取り次ぐという名目で政治を動かした。

趙高は始皇帝の政策を継続しようとしたが、臣下を動かす能力を含めて全国を統治する能力を欠いていた。

また図解にあるように、始皇帝の治世に急ピッチで進められた幾つもの大事業のために、臣民ともに疲弊していた。さらには、戦争に対する秦への恨みはまだ地方に残っていた。

これらのストレスは、有名な陳勝呉広の乱により爆発して各地で反乱が始まった。これらの反乱の中に項羽と劉邦がいる。

最後は帝国軍の主要な将軍が項羽軍に投降して、事実上 秦帝国は破綻した。三代目となる子嬰は、皇帝を名乗らず秦王として劉邦軍に投降した *3

本当にあっけない滅亡だったが、これによって始皇帝の有能さが証明されたといえるかもしれない。ただし、「二世、三世、万世と伝えていく」と言った割りには次代については考え無しだったようだ。



*1:ただし隠されて難を逃れた書物が近年に発掘された例が幾つかあるようだ

*2:ただし、始皇帝が行った政治の大部分は戦国時代に有ったものだ。郡県制も戦国後期には有る

*3:三代目を継ぐ頃には支配力は都の周辺にしか及ばなかった

秦代⑬:始皇帝の死から秦帝国滅亡へ

前210年、始皇帝は第5回の巡行の途中で死去する。これをきっかけに強大な新帝国は わずか3年で崩壊する。

この記事では、政権の内部崩壊のことを書く。項羽劉邦の反乱側については別の記事で書く。

二世皇帝・胡亥と権力者・趙高

皇太子がいない状態で皇帝が死んだので、当然のごとく後継者争いが起こった。長子・扶蘇と末子・胡亥の間で争われたが、胡亥の勝利に終わり、扶蘇は殺された。

胡亥が皇帝の座に就いた時の年齢は12歳と20歳と2つの説があるが、いずれにせよ胡亥は宮中に引きこもって政治のことは趙高に丸投げしてしまった。

趙高とはどういう人物か?長い間 宦官 *1 として始皇帝の側に仕えていた人物。中車府令に就いていたのだが、この役職は始皇帝が宮中を離れる時は常に車に同乗して仕えることが任務だった。この任務の他に趙高は胡亥の教育係も命じられていたので、始皇帝の信頼の厚さがうかがえる。

始皇帝亡き後、胡亥が頼れる人物は趙高しかいなかった。趙高は郎中令(宮中を職務いっさいを管理する役職)となって、引きこもった胡亥と李斯ら閣僚との間を取り次いだ。

こうして趙高が胡亥に代わって宮中から政治を行う体制が出来上がった。

年表

ここから年表を書いていく。わずか3年だが、ある程度詳しく分かっている。ソースは鶴間和幸『人間・始皇帝』の「始皇帝関係年表」。年度が10月から始まることに注意。

前210年後9月(閏9月) 始皇帝の喪を発表し、胡亥が皇帝に即位(二世皇帝)。
前209年10月 趙高が郎中令に就く。
同年10月 始皇帝の寝廟に備える犠牲と山川祭祀の礼の供え物を増やす。
同年春 二世皇帝、全国を巡行を実施。
同年春 二世皇帝、大臣の蒙毅を殺し、蒙恬を服毒自殺させ、さらに始皇帝の公子12人を咸陽の市場で殺し、10人の公主(始皇帝の娘)を杜県で身体を裂いて処刑する(李斯列伝)。秦始皇本紀では、6人の公子を杜県で殺したという。
同年4月 始皇帝陵の墳墓の土を盛る工事が終わったので、阿房宮の工事を再開させる。
同年7月 陳勝呉広の乱、起こる。民衆の支持を集めるために陳勝扶蘇呉広は項燕(旧楚の英雄)を名乗った。張楚を建国し、陳勝が国王となる。
同年9月 項梁と項羽劉邦がそれぞれ反乱を起こす。
前208年冬 陳勝軍が始皇帝稜の近くまで進軍する。この時の兵数は数十万人まで膨れ上がった。秦の将軍・章邯は始皇帝稜で働いていた囚人を群に編入して防戦した。ここでようやく秦軍が反転攻勢し、陳勝軍は後退し続けた。
同年12月 陳勝が殺され、張楚国は滅亡。だが、各地で反乱軍が次々と立ち上がり、秦軍は再び防戦を強いられた。
(12月から7月の間) 丞相李斯・馮去疾(秦の丞相は二人体制)と将軍馮劫が二世皇帝に阿房宮の工事を中止などを訴えたが、聞き入れられず。馮去疾・馮劫は諫言したことを罪とされて、自殺に追い込まれる。
前207年冬 李斯の長男で三川郡守の李由が生前楚軍と内通していたという罪(濡れ衣)で処刑される。趙高が丞相に就く。
同年1月 鉅鹿の戦いにおいて、秦将王離が項羽の捕虜となり、秦将蘇角は殺され、同じく秦将の渉間は焼身自殺した。
同年4月 秦将章邯、連戦連敗の状況で中央に援軍を要請するも拒否される。 同年7月 秦将章邯・司馬欣・董翳が項羽に投降。秦帝国の崩壊は決定的となる。
同年8月 趙高、二世皇帝を自殺に追い込む。
同年9月 二世皇帝の兄の子の子嬰が秦王となる(趙高が全国を統治できない現状に合わせて、皇帝ではなく秦王を名乗るようにした)。
同年9月 秦王子嬰、趙高を刺殺。
前206年10月 子嬰、進軍してきた劉邦に投降。秦帝国滅亡。

趙高の評価

以上のように、秦帝国を滅亡させた張本人は趙高だった。二世皇帝胡亥に丸投げされた形で実権を握った趙高は公子・公主を殺し、閣僚を殺し、将軍たちには敵軍に投降された。

他人を従わせる能力も勢力も持ち合わせていなかった趙高は粛清の恐怖で従わせようとしたが、統治能力の無い彼に諫言をしただけで殺されてしまうのだから国が凋落したのは当然のことだ。

また、陳勝呉広の乱は「秦の法ではいかなる理由があろうとも期日までに到着しなければ斬首である」という法律が原因で起こったというから、趙高は閣僚から農民まで容赦が無かったということになる。

始皇帝の中華統一やその後の治世に恨みを抱いていた人々は多く存在したとは思うが、始皇帝を継承した趙高の政治はこの不満にさらなる不満を上乗せした挙げ句に爆発させた。地方の反乱に対応する閣僚まで殺してしまい、挙句の果てには自身も殺された。



*1:鶴間和幸『人間・始皇帝』(p203)によれば、秦代の宦官は「宦者」と呼ばれていた。宦官が去勢された男子に限定されたのは後漢以降のことなので、趙高が去勢された宦官(宦者)であると断定はできない。