歴史の世界

儒家(10)孟子(天命と易姓革命)

前回からの続きで今回も孟子について。

天命

天命の概念は孟子が作った言葉ではないが、孟子の思想を知る上で重要なものだ。いや孟子だけではなく、中国の思想を知る上で重要。さらには日本の思想にも影響してくる。

天とは?


天や天空を崇拝の対象とする民族は少なくないが,そのような信仰形式をもっとも古くから発達させたのは内陸アジアの遊牧民族であった。おそらくその日常生活が天体の観察と切っても切れない関係にあったからと思われる。こうして古代アジアの諸族において天そのものを神とみる観念が生じたが,やがてそこから天をもって世界に秩序を与える力の根源とする見方があらわれた。すなわち古代中国の〈天命〉や古代インドの〈リタ(天則)〉の観念がそれである。

出典:世界大百科事典 第2版/平凡社天(てん)とは - コトバンク

天の神格化の観念を中国にもたらしたのは周族(周王朝)だ。彼らは現在の関中(西安の周辺)に住んでいた牧畜民と言われているが、中央アジア遊牧民(または牧畜民)からこの思想を受容したのだろう。あるいは周族が中央アジアから流れてきたのかもしれない。西周代を通して天の観念は中国に浸透した。

中国思想と天下

中国人は古代以来近代に至るまで、終始「天」に対する信仰ないし尊崇の念を抱いていた。天は天空であるが、単に自然現象としての天空であるだけでなく、天は造物主ないし造化の根源であって、人およびその他万物を生み出し、自然界・人間界を主宰し、それらの動きはすべて天命(天の意志)に従って営まれるものと考えられた。だから、人間の住む世界全体を天下といい、それを統治する支配者は天子と称し、天子は天命に従ってその地位につき天下に君臨するものと考えた。また天は人間の生活を取り巻く自然環境の最大のものであるから、本来人間は天に順応し天との調和を図りながら生きてゆかなければならないのであるが、天はさらに上記のとおり人間界のもろもろの営みの主宰者でもあったから、人のなすべきことすなわち「人の道」は「天の道」を模範とし、要するに人は天に随順して生きるべきものと考えるのが中国の伝統的な思想であった。なお、「天下」の観念に関連して華夷(かい)思想というものがあった。漢民族独特の民族意識の現れであって、中華(華夏)という高度の文化をもった漢民族に対して、周辺の異民族を夷狄(いてき)と称して文化の低い野蛮人とみなし、夷は華の文化を仰ぎ華に服属すべきものとし、中華の文化の及ぶ限りの地域が天下であって、それが世界のすべてであると意識した。

出典:日本大百科全書(ニッポニカ)/小学館中国思想(ちゅうごくしそう)とは - コトバンク

上のような考えは もちろん中思想にも関連している。「中華の文化の及ぶ限りの地域が天下であって、それが世界のすべてであると意識した」ということだから当然といえば当然だ。

漢民族が古くからもち続けた自民族中心の思想。異民族を卑しむ立場からは〈華夷(かい)思想〉とも。初めは周辺の遊牧文化に対し,自己の農耕文化の優越を示したが,春秋戦国時代以後は礼教文化による,天子を頂点とする国家体制を最上のものと考え,夷は道からはずれた禽獣(きんじゅう)に等しいものとして,異民族を東夷・西戎・南蛮・北狄などと呼んだ。基本的にこの思想は現代まで続いている。

出典:百科事典マイペディア/平凡社中華思想(ちゅうかしそう)とは - コトバンク

「三つ子の魂百まで」という言葉があるが、中国では二千年以上も前の思想が今でも深く根付いている。

天命

さていよいよ天命の話。

天命も周族から中国に輸入された概念。『史記』周本紀に周の文王が天命を受けたことが書いてある。これが作り話だとしても、西周の三代目康王の代に作られたという大盂鼎という青銅器に刻まれた文章に「殷の諸侯や百官が酒に溺れたことが原因で天命を失い、代わりに天は周の文王に天命を授けた」という趣旨が書いてある*1

春秋時代には秦の諸侯が天命を受けた天子と称したことを始め、複数の諸侯が天子と称した。属国以外は彼らを天子とは認めていなかったが*2。天命思想は戦国時代にも受け継がれ孟子が自分の主張にこの思想を採用している。その主張が易姓革命だ。

易姓革命

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出典:浅野裕一/図解雑学 諸子百家/ナツメ社/2007/p85

易姓革命の易姓は「姓が易(か)わる」、革命「天命を革(あらた)める」という意味。別の言葉で言えば王朝交代だが、易姓革命は武力革命(放伐)による王朝交代を指し、合意の上で王朝交代することを禅譲という(ただし禅譲は、魏の曹丕後漢献帝から禅譲を受けたように、事実上は簒奪である)。

孟子が言うところによると、殷と周の間の武力革命は殷が天命を失い周が天命を授かった結果だ、ということになる。武力による覇道を否定する孟子が武力革命を肯定することに矛盾を感じるのだが、どういう理屈を展開したのだろうか?

孟子に言わせれば、仁政を施して民衆の生活を保全し、正義を守って邪悪を禁じてこそ君主なのであって、たとえ名目は天子であろうとも、残虐・無道な悪政を行う者は、もはや君主扱いする必要はない。孟子は、暴君など匹夫扱いで構わないと断言する。

したがって、暴虐な天子が君臨する場合、諸侯が兵を挙げてその王朝を打倒し、自ら新王朝を樹立したとしても、それは単に凶悪犯を処刑したに過ぎず、君主を弑逆したことにも、君位を簒奪したことにもならないのである。

かくして孟子は、天子が暴虐な場合との条件付きながら、武力による易姓革命を積極的に肯定した。もっとも湯王や武王による武力革命は、墨家をはじめとして、古代中国の思想家たちがひとしく承認するところであって、当時その是非が論争の的になっていたわけではない。ただ孟子の発言が突出して明快だったので、後世の人々から、孟子の特色として特筆されるようになったのである。

出典:浅野氏/p86

さて、『孟子』盡心(尽心)章句下には「民を貴しと為し、社稷之(これ)に次ぎ、君を軽しと為す」とある。

つまり政治にとって人民が最も大切で、次に社稷(国家の祭神)が来て、君主などは軽いと明言している。あくまで人民あっての君主であり、君主あっての人民ではないという。これは晩年弟子に語った言葉であると考えられているが、各国君主との問答でも、「君を軽しと為す」とは言わないまでも人民を重視する姿勢は孟子に一貫している。絶対の権力者であるはずの君主の地位を社会の一機能を果たす相対的な位置付けで考えるこのような言説は、自分たちの地位を守りたい君主の耳に快いはずがなかったのである。

出典:孟子 - Wikipedia

安定した中国王朝において孟子易姓革命と上のような主張は危険思想と受け取られたに違いない。秦代は焚書坑儒を行なったが、孟子の思想は宋代になるまで評価されなかった(孟子 - Wikipedia)。

しかし、上にあるように易姓革命つまり庶民に益しない天子・王朝は滅ぼして良いという考えは「古代中国の思想家たちがひとしく承認するところ」であって、現に中国史はそれを繰り返している(現在進行形)。



松本健一氏によると、天皇に姓が無いことは孟子と関係がある、という。

「孟子」の革命思想と日本―天皇家にはなぜ姓がないのか

「孟子」の革命思想と日本―天皇家にはなぜ姓がないのか

  • 作者:松本 健一
  • 出版社/メーカー: 昌平黌出版会
  • 発売日: 2014/06
  • メディア: 単行本


*1:佐藤信弥/周/中公新書/2018/p33-34

*2:佐藤氏/p178-180

儒家(9)孟子(王道思想)

前回からの続きで今回も孟子について。

王道政治

王道と覇道について。

孟子は古今の君主を「王者」と「覇者」とに、そして政道を「王道」と「覇道」とに弁別し、前者が後者よりも優れていると説いた。

孟子によれば、覇者とは武力によって借り物の仁政を行う者であり、そのため大国の武力がなければ覇者となって人民や他国を服従させることはできない。対して王者とは、徳によって本当の仁政を行う者であり、そのため小国であっても人民や他国はその徳を慕って心服するようになる。

出典:孟子#王覇 - Wikipedia

次に、孟子の説く王道政治について。

孟子は、彼の理想とする政治を実現させてくれるかもしれなかった梁の恵王に対して、

「最低限の衣食住が保証され、故人の葬儀が滞りなく整然と執り行えることが王道政治のスタート地点となる」

というようなアドバイスを授けた。

そのために必要なのは、誰もが安定して収入を得られることで、これを実現するためには教育が欠かせない、と考えていた。[中略]

生活が安定していてはじめて、心も安定するもので、心の安定には学校での教育によって「人間らしさ」「人の道」という道徳を教えることも必要だ、とも考えていた。

これが「王道政治=仁政だ」だ。

孟子が世界に波及させて全国家に採用してほしいと願った理想郷の姿、ともいえる。

出典:熊谷充晃/知っていると役立つ「東洋思想」の授業/日本実業出版社/2016/p68

上のようなことは『管子』牧民篇の一句「倉廩(そうりん)満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る」を想起させる。安定した生活がなければ教育も道徳も意味をなさないという至極ごもっともな主張だと思う。

もう一つ王道政治について。今度の引用は批判的なもの。

孟子が説く王道政治の中身は、国内に有っては苛斂誅求によって民衆の生活を脅かさず、国外に対しては侵略戦争によって民衆を殺戮しないとの一点に過ぎないことがわかる。

それでは王道政治の主張は、実現可能であったろうか。答えはもとより否である。なぜなら、孟子が操る論理には、致命的な欠陥が存在するからである。孟子が言うような君主が現れたならば、彼はたしかに国民の人気も高く、諸外国での評判も高まるかもしれない。だがそこから先に嘘がある。外から強力な軍隊が侵攻してきた場合、どんなに民衆の支持が高くとも、それで君主が国家を防衛できるわけではない。防衛の成否は、戦場での軍事力の強弱で決するのであって、人気投票の結果で決まるのではない。

また王道を実践する君主が現れたならば、世界中の民衆が彼の統治を待ち望むなどと言ってみても、他国の民衆が主権国家の枠を超えて、彼の統治下に入ったりはしない。各国の政府がそうした自体を座視・黙認するはずはなく、堰で水の流れを止めるように、強力に自国民を拘束するからである。

出典:浅野裕一/図解雑学 諸子百家/2007/p78

孟子は魏の襄王の会見の時に以下のように言ったという。

「当世の君主は好戦的で、殺人を楽しまぬ者は一人もいない。こうした中で、もし殺戮を好まない君主がいたならば、世界中の民衆は、全員が首を伸ばして、彼の統治を待ち望むに違いない。本当にそうなったときは、水が低地めがけて流れ込むように、世界中の民衆がたちまち彼に帰服します。誰もその大きな流れをふさぎ止められませんよ」(『孟子』梁恵王上篇)

出典:浅野氏/p76

つまり王道政治をすれば、血を流すことなく「世界中の民衆が帰服」する、と説教をぶったわけだ。

これに対して浅野氏は一つ前の引用で批判した。軍事を考えずに人気取りばかりの政治をしていたら国が滅ぶと。こちらもごもっともな意見だ。



儒家(8)孟子(性善説/四端説/五倫)

前回からの続きで今回も孟子について。

性善説

孟子と言えば性善説

その名の通り、人間は生まれながらにして善であるという思想(性善説)である。

当時、墨家の告子は、人の性には善もなく不善もなく、そのため文王や武王のような明君が現れると民は善を好むようになり、幽王や厲王のような暗君が現れると民は乱暴を好むようになると説き、またある人は、性が善である人もいれば不善である人もいると説いていた。これに対して孟子は、「人の性の善なるは、猶(なお)水の下(ひく)きに就くがごとし」(告子章句上)と述べ、人の性は善であり、どのような聖人も小人もその性は一様であると主張した。また、性が善でありながら人が時として不善を行うことについては、この善なる性が外物によって失われてしまうからだとした。そのため孟子は、「大人(たいじん、大徳の人の意)とは、其の赤子の心を失わざる者なり」(離婁章句下)、「学問の道は他無し、其の放心(放失してしまった心)を求むるのみ」(告子章句上)とも述べている。

その後、荀子(じゅんし)は性悪説を唱えたが、孟子性善説儒教主流派の中心概念となって多くの儒者に受け継がれた。

出典:孟子 - Wikipedia

  • 性悪説については別の記事で書く。

荀子墨家の告子など、孟子以外にも上のように考えなかった人々が多くいた。今に至るまで彼らの議論が話の種になっている。

四端説

孟子』公孫丑章句上篇によれば、孟子は、公孫丑上篇に記されている性善説の立場に立って人の性が善であることを説き、続けて仁・義・礼・智の徳(四徳)を誰もが持っている4つの心に根拠付けた。

その説くところによれば、人間には誰でも「四端(したん)」の心が存在する。「四端」とは「四つの端緒、きざし」という意味で、それは、

  • 「惻隠」(他者を見ていたたまれなく思う心)
  • 「羞悪」(不正や悪を憎む心)または「廉恥」(恥を知る心)
  • 「辞譲」(譲ってへりくだる心)
  • 「是非」(正しいこととまちがっていることを判断する能力)

の4つの道徳感情である。この四端を努力して拡充することによって、それぞれが仁・義・礼・智という人間の4つの徳に到達するというのである。

言い換えれば、

  • 「惻隠」は仁の端
  • 「羞悪」(「廉恥」)は義の端
  • 「辞譲」は礼の端
  • 「是非」は智の端

ということであり、心に兆す四徳の芽生えこそが四端である。

たとえば、幼児が井戸に落ちそうなのをみれば、どのような人であっても哀れみの心(惻隠の情)がおこってくる。これは利害損得を越えた自然の感情である[1]。

したがって、人間は学んで努力することによって自分の中にある「四端」をどんどん伸ばすべきであり、それによって人間の善性は完全に発揮できるとし、誰であっても「聖人」と呼ばれるような偉大な人物になりうる可能性が備わっていると孟子は主張する。また、この四徳を身につけるなかで養われる強い精神力が「浩然の気」であり、これを備え、徳を実践しようとする理想的な人間を称して「大丈夫」と呼んだ。

出典:四端説 - Wikipedia

性善説を前提とする説。

四端の仁・義・礼・智に信を加えて「五常」という。 五常儒教で説く基本的徳目だが、これは前漢代の董仲舒が言い出した。

五倫

中国最古の歴史書書経』舜典にはすでに「五教」の語があり、聖王の権威に託して、あるべき道徳の普遍性を追求してこれを体系化しようとする試みが確認されている。

戦国時代にあらわれた孟子においては、秩序ある社会をつくっていくためには何よりも、親や年長者に対する親愛・敬愛を忘れないということが肝要であることを説き、このような心を「孝悌」と名づけた。そして、『孟子』滕文公(とうぶんこう)上篇において、「孝悌」を基軸に、道徳的法則として「五倫」の徳の実践が重要であることを主張した[2]。

父子の親
 父と子の間は親愛の情で結ばれなくてはならない。
君臣の義
 君主と臣下は互いに慈しみの心で結ばれなくてはならない。
夫婦の別
 夫には夫の役割、妻には妻の役割があり、それぞれ異なる。
長幼の序
 年少者は年長者を敬い、したがわなければならない。
朋友の信
友はたがいに信頼の情で結ばれなくてはならない。

孟子は、以上の五徳を守ることによって社会の平穏が保たれるのであり、これら秩序を保つ人倫をしっかり教えられない人間は禽獣に等しい存在であるとした。なお、『中庸』ではこれを「五達道」と称し、君臣関係をその第一としている。

出典:五倫 - Wikipedia

これも儒教の中で道徳の基本とされ、五倫五常と並列して儒教における道徳の基本とされる。

儒家(7)孟子(仁義について)

今回は儒家の話をしようと思ったが、孟子について書くことが多くなってしまったので記事を数回に分けて書くことにする。

孟子その人について

孟子(前372?-289年)は戦国前期、小国の鄒(すう、魯の隣国)で生まれた。鄒で学団を形成して名声は鄒の外へ及び、魏恵王(在位:前370‐318)に招聘された後、何人かの王に招かれている。当時それほどの有名人だった。

ちなみに、孟母三遷や孟母断機という有名な母の話があるが作り話のようだ。孟子が子思に直接学んだと『史記孟子荀卿列伝にあるそうだが、これも年代に整合性が合っていないということだ *1。 ただし、1990年代に発見された出土文献*2より、孟子は子思の思想に影響されているとされている。

仁義について

鄒にいた孟子の名声を聞いた魏の恵王は孟子を招聘して問うた。「先生は千里の道を遠きとせずにお越しくださった。それでは我が国にどのような有益な話をしてくださるのでしょうか?」

これに孟子が返した。「王さま、どうして利益の話をする必要がありましょうか?大事なのは仁義です。」

孟子』梁恵王・上篇では、最初のジャブにいきなりカウンターをあびせて立て続けに攻撃を続けている。上の語の後には「王さまや以下の者が私利のことしか考えなかったら必ず国が滅んでしまいます。だから王さまは仁義だけのことを考えてください。」

以上は王道政治に関わる話だが、王道政治については後で書くとしてここでは仁義を先に書いておく。

仁、義の概念は日本の思想にも重要なものだと思うので。

仁について

仁は孔子が大切にしていた要素だが、『論語』を読んでもよく意味が分からない。

孟子は当時のライバル(?)だった楊朱や墨家の論と比較して仁とは何かを語っているので孔子よりは理解しやすい。

孔子は「仁」を主唱した。これは仁による仁愛のことである。そこから墨子派は「兼愛」を、楊朱派は「自愛」を強調していた。東洋における「愛」の思想の深まりだ。こういう自他の愛が相い並ぶという考え方はヨーロッパには薄い。しかし、この思想はしだいに孔子学苑の軸から離れようとしていた。

この動向を見た孟子は「楊朱・墨擢の言、天下に盈(み)つ」と嘆き、各地の王との問答を通しつつ、かれらに代わる思想の表明にとりくんだ。ここに登場してきたのが新たな「仁義」の提唱だった。

楊朱の愛は我が為にする「為我」(いが)に片寄っている。利己的な自己愛である。また墨擢(墨子)の説く「兼愛」は他者に向かってはいるが、愛する者としての「分」が曖昧になっている。これらの自愛と他愛だけでは国や人にあまねく愛は進むまい。そこには「仁」と「義」をあわせもつ仁義が必要である。そう、孟子は説いて、仁義をもって孔子の道の復活を語り抜いた。

出典:1567夜『孟子』孟子|松岡正剛の千夜千冊

墨家の語る兼愛は博愛主義つまり万人を平等に愛そうという主義。それに対して孟子は〈父を無みし君を無みする禽獣の愛なり〉(親・君主と他人の区別をつけない愛など禽獣の愛と変わらない)と厳しく批判している。他方、楊朱の愛については自己中だと。

上の引用では、仁とは「分」が曖昧になっていない愛のことだということになる。これはどういうことかと言うと、「両親に最上の愛情を注ぎ、その次に兄弟などの近親に相応の愛情をかける。知人・同僚や縁遠い人にはそれなりの愛情で応対する」というのが孟子のいうところの仁となる。分をわきまえた愛情を仁という。これは一般人の普通の感情の動きの肯定だろう。無理をして万人を愛する必要はなく、かと言って自己中な人は総スカンを食う。

このような考えは儒教の中心概念である中庸(「過不足なく偏りのない」徳 *3) と適合している。

義について

中国思想の概念。〈義は宜(ぎ)(よろし)なり〉(《中庸》など)というのが伝統的な定義。ことがらの妥当性をいう。儒教では五常(仁義礼智信)のひとつとして重視され,しばしば〈仁義〉〈礼義〉と熟して使われるが,対他的,社会的行為がある一定の準則にかなっていることをいう。

出典:義(ぎ)とは -平凡社 世界大百科事典 第2版<コトバンク

分かりにくいので「宣」を調べる。

ぎ【宜】
〘名〙 その場にあてはまって都合がよいこと。

出典:宜/諾(ウベ)とは - 精選版 日本国語大辞典<コトバンク

義が「妥当性」とか「その場にあてはまって都合がよいこと」とすると「TPOに応じて卒なく応対できるさま」のことのように思えるが、どうもそうではないらしい。孟子はもっと義に高邁な意味を込めているようだ。

例えば、人助けをして表彰された場合の常套句に「人として当然のことをしたまでです」というものがあるが、おそらくこれが義だ(と個人的に思っている)。

ネットで検索をしていた中で、義についてネガティブな解釈があったので引用しておく。

四書の一つ『中庸』にも「義は宜(よろ)しきなり」と語られています。義をただ宜しいと、非常に漠然と表現しているのです。では、いったい何を以て「宜しい」というのか、その意味を考えてみると、どうしても主観的な価値観によってしまいます。自分が「宜しい」と思うことと、人が「宜しい」と思うことは、違っていることもあります。……人によっても、時によってもその定義は違います。……こうした理由から、義の行為についての基準を設定することは絶望的です。そのことからも分かるように、義という倫理的規範は決して超歴史的で絶対的なものではなく、それはあくまでも時代という制約を受けるもので、主観的、民族的、階級的なものとしてあるのです。[中略]

義は主観主義的性格をもつ上下支配の原理であるとともに、差別を肯定する道理でもあります。[中略]

「貴々、尊々、老々、長々、義之倫成」(貴人を貴し、尊者を尊い、賢人の賢才を評し、老人を敬い、長輩にしたがうのが義の規範であります)〔『荀子』大略篇〕という定義からも分かるように、人と人との間の差別の道が義になるということを表しています。君臣、父子、夫婦、長幼、自他それぞれの道があって、その差別を肯定する道が即ち義です。[中略]

孟子は義を説いたとき、兄に従う、目上を敬うと同時に、「父子の間に仁、君臣の間に義」(尽心下)と規定しながら、これこそ「人間としての道である」と言っています。つまり義は君臣(主従)を結びつける原則であって、また君臣を離すところの原則にもなります。所詮、君臣の義を具体化するのは君臣の礼しかありえないので、そのような「貴々、尊々、……」の倫理的規範を生み出したものは、差別主義と権威主義です。

もちろん、それも階級社会の反映の一つにすぎません。義を求めることは、臣が君に忠義を尽くすのと同じように、実質的には権威に従い、伝統にも従うということにもなるのです。

出典:日本人の道徳力 - 黄文雄 - Google ブックス

  • 黄文雄氏は中国に批判的であることを留意して読む必要がある。

前近代は階級社会で差別があることが当然で各々が身分の分をわきまえることが社会秩序の基礎だった。義は「TPOに応じた振る舞いができるさま」というニュートラルな意味から黄文雄氏のような解釈もできるし、引用にあるように孟子もその方向にも解釈している。

日本人の道徳力

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  • 作者:黄 文雄
  • 出版社/メーカー: 扶桑社
  • 発売日: 2013/12/21
  • メディア: 単行本

仁義について

仁義については2つの意味が有るように思う。

まずは、「仁は人の心なり 義は人の路なり」(『孟子』告子章句上)という言葉。義は状況に適した振る舞いで、すでに決まっていることだが、仁は他人への思いやりで、感情なので決まりごとではない。

仁と義がセットになると一個の人間が「他人への思いやり(感情)を行為によって他人に示すこと」ということになる。行為というのはもちろん相手に「それが仁から発せられたもの」と分かるような行為だ(これが義)。

以上は孟子君侯に求めた仁義

もう一つは君侯と臣下の関係における仁義

論語』は「仁」を説き、それを徳目として中庸を生きることを奨める。右に走らず左に寄らず、上に阿(おもね)ず下を蔑まないようにする。

これを補うのが『孟子』である。上の者(君)が「仁」をもつなら、下の者(臣)は「義」で報いるべきだとした。孟子はこれを「仁義」というふうに重合した。この孔孟(こうもう)の両方で民が治まり、君が仁政を実施できる。古代儒学はこういうふうになっている。それが君主のとるべき王道なのである。

出典:1567夜『孟子』孟子|松岡正剛の千夜千冊

上の解釈はおそらく「仁をもって義をなす、義によって人に尽くす」(出典がわからない)がソースだと思われる。中世日本の御恩と奉公に似た関係だ。ここでは、君侯の仁に対して、臣下が道理にかなった行為をおこなうことだ。

ただし、孟子のいう「義」とは、やむをえずに従わされる外的なものではなく、あくまでも仁に対して積極的に義を行おうとするものだ。実際には「状況に対応」して義と称される行為をするのだが、孟子は理想主義なので精神論的な考え方になる。



次回も孟子が続く。
儒教は日本への影響が強いので他の思想・哲学より一段深く知っておくべきだと思う。

儒家(6)孔子の死後の状況

儒教孔子については以前に書いたので *1 、ここでは戦国時代の儒家について書く。

孔子の死後の弟子たちの動向

弟子たち及びそれらの弟子の系統は幾つかの派閥に分かれているが、ここでは大きく2つのブロックに分けて見ていこう。

以下の説明は貝塚茂樹諸子百家』をテキストにしている。

諸子百家――中国古代の思想家たち (岩波新書)

諸子百家――中国古代の思想家たち (岩波新書)

論語』の先進篇の「先進」とは孔子の門弟の中で年長組のことを指す。彼らは孔子が遊説 *2 する以前に入門していた。最年長が子路孔子と9歳しか違わない。最年少が顔淵で孔子との年の差は30。

いっぽう、「後進」(後輩組)とされる門弟は遊説後に入門してきた人たちだ。代表として子游・子夏・子張が挙げられる。子夏は魏の文侯のブレーンであった李克の師匠だ。文侯自身が子夏に師事したと言われている。彼らは老年になった孔子から「後生畏るべし」と高く評価された。

先進派と後進派

さて、先進篇には先進と後進の対比が書かれている。

孔子に入門して学問をまなび、知識を求める根本的な態度に関して、弟子たちの間にすでに孔子の在世時代からかなりの差異が現れはじめていた。孔子は晩年に門弟たちの学問の仕方を批評して「先進の礼楽におけるや野人なり、後進の礼楽におけるや君子なり、もしこれを用いんとせば、われは先進に従わん」といっている。

出典:貝塚茂樹諸子百家岩波新書/1961/p8

「野人」の意味するところは、野蛮とか粗野などのネガティブの意味ではなく、農村の庶民に近い素朴さを持っているという意味。対して「君子」は礼楽において都市に住む貴族に劣らぬ完璧さを持っているという意味で使っている。

貝塚氏は、礼(礼楽)においては後進派の方が勝っているのに孔子はなぜ「われは先進に従わん」としたのか、と問いかける。

その答えは、長年共にいた先進派への情愛を別にすると、儒教の最重要の徳目とされる仁への理解にあるという。

論語』陽貨篇で、孔子は「礼だ礼だとわわいでいるが、神にささげる玉とか弊帛の末節だけがもんだいなのではない。楽だ楽だといっても、問題は鐘太鼓の楽毅にあるのではない」といい、礼の根本にある仁の重要性を説いている。

先進派が師弟間の密接な人間的なふれあいのなかで人格をつくり上げたのに対して、人間的な魅力を十分に感得しえなかった後進派は、孔子の全人格ではなく、学者としての孔子にだけしか関心をいだかなかったといえるのである。

出典:貝塚氏/p19

上の引用の後に貝塚氏は先進派は「客観的な社会秩序である礼より、人間書く個人の主観のなかにある仁の徳自体を内省することから修行をはじめた」とし、他方 後進派については「ややもすると礼の末節にかかずらわって孝道のもとである父母にたいする尊敬心を忘れる」と評している。

精神科学派と社会科学派

孔子が亡くなり先進派も引退した後は後進派の時代になるのだが、この時代の中から曾子が先進派の思想を受け継いだ。

これ以降、貝塚氏は後進派の思想を社会科学派とし、先進派の思想を精神科学派あるいは人文学派とした。

精神科学派は曾子から 孔子の孫の子思に受け継がれ、この系統に孟子が現れる。

社会科学派には上述の子夏がいる。戦国初期に覇を唱えた魏の文侯は老年の子夏に師事し子夏の弟子の李克をブレーンにした。社会科学派の系統に荀子がいる。韓非(韓非子)と李斯は荀子の弟子とされる。李克・韓非・李斯、ともに法家の代表格だ。社会科学派から法家の代表が現れるのは興味に値する。

後進派の問題としているのは仁の徳が客観的に実現した社会秩序である礼であるが、来るべき世界はいかなるものであるかを見透し、未来社会の礼を予測しようとした。時と所が異るにしたがって、礼は変化するものと信ぜられたからである。

出典:貝塚氏/p20

儒教は先例に習うものとばかり思っていたが、上のような発想も当初からあったそうだ。『韓非子』の五蠹篇には「上古の聖人がいくら偉大だったからとは言え、現代社会で彼らの真似をしても笑い者になるだけだ」というようなことが書いてある。

これは儒家への批判と受け取れるが、このような批判の源流には社会科学派の考えがあったのかもしれない。



次回に精神科学派の孟子と社会科学派の荀子について書いていこう。


*1:儒教については「中国論② 大隈重信の『日支民族性論』 その3 儒教について」、
孔子については「春秋戦国:春秋時代⑨ 孔子の登場 その1 時代背景」を含めて連続して6つの記事を書いた。

*2:魯の卿(家老)と対立した結果、亡命しなければならなかったと言われている

戦国時代 (中国)⑧ 邑制国家から領域国家へ/遊牧民の登場

記事タイトルの通り、邑制国家から領域国家へという話と遊牧民の登場について書く。

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出典:戦国時代 (中国) - Wikipedia *1

前4世紀末の状況

前4世紀末になると、秦が巴蜀(現在の四川省あたり)を統治下に置くなど、辺境に領土を拡張して今日の中国本土(「中国本土 - Wikipedia」参照)までの広がりを見せた。

北方辺境には戎・狄さらに貉と称される人々があった。形質人類学的にかれらは中国本土の住民と同じ東アジア=モンゴロイドに属したが、前5~4世紀から、北アジアモンゴロイドに属し、のちの匈奴・東胡の祖先にあたる遊牧民が南下した。前4世紀末より、秦・趙・燕は北方に進出して長城を構築し、遊牧民と対峙した。趙武霊王はこの時、遊牧民の軍装である「胡服騎射」を採用している。中華と遊牧民に南北より圧迫された結果、戎・狄は最終的に消滅した。

出典:中国史 上/昭和堂/2016/p56(吉本道雅氏の筆)

邑制国家から領域国家へ

春秋戦国時代は邑制国家から領域国家へ変わる過渡期と言われることがあるが、これについて以下に書く。

邑制国家のおさらいと殷周の邑制国家

まず、邑制国家についておさらいする。

「邑」というのは小さな邑から大都市までを表わす語。
一定の広大な領域を支配する氏族が住む大きな邑は都邑とされ(つまり都市)それに属する村・集落は属邑と呼ばれる。
そしてこの領域(都邑と属邑)の氏族共同体を邑制国家という。
国史における「邑制国家」は世界史の「都市国家」と同じだ。

殷周は邑制国家だと言われるが、正確に言えば都市連合国家だ。
殷は殷王室とそれに服属した邑制国家(つまり都市国家)の連合体。
周は周王室と王室の子孫と王室に極めて近い集団(姜族)の国家の連合体だ。周王朝春秋時代に分裂したことを考えれば分かるように、各地の諸侯は独立性が高かった*2

領域国家のおさらいと戦国時代の領域国家

都市国家あるいは都市国家連合体の体制では、都市国家の当地領域の周りに未統治の領域があり、そこには都市国家に支配されない人々が生活していた。

これと対して、領域国家は複数の都市や集落の政治勢力を一つに併合して、支配が領域(領土)全体まで及ぶ状態を言う。原則的にその領域は一つの政体(一人の国王・皇帝)に支配されている。

戦国時代では専制君主が現れ、小さな諸侯国を滅ぼして郡や県を置いて統治した。さらに未統治の領域(山林藪沢など)が開拓されてそこで生活していた人々は追放・同化・ジェノサイドのどれかの道をたどった。

これが前4世紀末の出来事だ。

遊牧民の登場

上の引用によれば、前5~4世紀に中国史における初めての遊牧民が登場する。

文献の中の最古の遊牧民は前8世紀のキンメリア人で、すぐ後に有名なスキタイが続くそうだ(遊牧民 - Wikipediaスキタイ - Wikipedia )。

引用では中国史に現れる最初の遊牧民北アジアモンゴロイドだそうだが、匈奴の墓の中にはコーカソイドの骨もあったということで、ユーラシアの草原における東西(東欧あたりから大興安嶺山脈*3まで)の交流があったことが示されている。

話は逸れるが、始皇帝陵の建設に従事した労務者の中にヨーロッパ系の人がいたという話もある*4

*1:著作者:Bairuilong

*2:ただし前漢の諸侯国なども独立性が高いので岡田英弘氏はシナの歴代王朝は全て都市連合体だとしている

*3:満州モンゴル高原の境界の山脈

*4:兵馬俑労務者墓にヨーロッパ人の遺骨 DNA鑑定で明らかに | 中国通信社 

戦国時代 (中国)⑦ 楚・燕・趙・韓

戦国七雄のうち魏・斉・秦については書いたので、残りの楚・燕・趙・韓についてまとめて書いてみる。

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戦国七雄

出典:戦国時代 (中国) - Wikipedia *1

楚は春秋時代の晋を含む中原諸国に恐れられるほどの大国であり、戦国時代に入っても変わらず大国であった。楚恵王(前488~前429年)は蔡(安徽省寿県)(前447年)・杞(山東省安邱県)(前455)・莒(山東省莒県)(前431)を併合している*2

にもかかわらず楚が魏・斉・秦のように覇権を握れなかったのは国政改革ができなかったということらしい。

他の六国では、他国出身者を「客卿」などの要職に登用していたのに対し、楚では戦国時代を通じて令尹(れいいん、宰相)の就任者は大多数は王族であった。また、それに次ぐ司馬や莫敖(ばくごう)の位も、王族と王族から分かれた屈氏・昭氏・景氏が独占していた。

このため、王族が多すぎて下剋上がなかった楚では、氏族制がもっとも強く残有し、広大な国土と強大な国力をもちながら、君主の権力と国家の統制が弱体であった。

なかには悼王(在位、前401~前381年)のように、呉起呉子)を信任して、氏族制社会の解体を目指す国政改革を断行した王もいたが、悼王の死後、呉起は殺され、楚はふたたび氏族制に支えられた封建的な王族が散財する分裂的な状態に戻り、やがて秦に圧倒される。

出典:渡邉義浩/春秋戦国/歴史新書/2018/p108

中原に比べ人口が少なかったのも楚の弱点だったろう。*3

前334年、威王(在位:前340-329年)は越王無疆(むきょう)を攻め滅ぼし、淮河以南の広大な土地を領土にしたが、次代の懐王(前329-299年)は秦の宰相・張儀の策略にかかって王自ら捕虜になるほどの大敗を喫して壊滅的な状況に陥った。

戦国四君のひとり春申君が国の立て直しを図るが前238年に殺害された。前223年に秦によって滅ぼされる。

戦国時代の燕が注目される場面は、前284年、楽毅率いる五国連合軍が斉に大勝し王都臨淄を陥落させた頃だ。この時の王は昭王で名君だった。「隗より始めよ」で有名な郭隗を始めとして有能な人材を国外から集め、国政の立て直しを図った。楽毅が燕に仕えたのも昭王の頃からだ。

しかし、昭王が前279年に亡くなった後は時代の恵王が楽毅を追放し斉から奪取した領土を取り戻された。その後、燕は荊軻のエピソードくらいにしか登場しない。

趙が注目されたのは武霊王(在位:前326-298年)の代。

武霊王は紀元前307年、胡服騎射を取り入れる。胡服とは当時北方の遊牧民族が着ていたズボンのような服のことである。当時の中国では士大夫はゆったりした裾の長い服を着ており、戦時には戦車に乗って戦う戦士となったが、馬に乗るためにはこの服は甚だ不便であった。武霊王は北方の騎馬兵の強さに目をつけ自国にもこれを取り入れたいと考えた。その為には文明を象徴する戦車に乗る戦士であることを誇りとする部下達に、胡服を着させ、馬に直接またがる訓練を施す事が必要である。趙の国人達は強くこれに反発するが武霊王は強権的に実行させ、趙の騎馬兵は大きな威力を発揮し趙の勢力は拡大した。

出典:趙 (戦国) - Wikipedia

武霊王は次代の後継者争いの中で幽閉されて餓死したが、その後の趙は藺相如と廉頗、趙奢といった有能な家臣に支えられて秦の猛攻をなんとか防いでいた。しかし趙奢の息子の趙括は秦の名将・白起に長平の戦い(前260年)で大敗した。

紀元前375年に鄭を滅ぼしたものの、戦国時代の韓は七雄の中では最弱であり、常に西の秦からの侵攻に怯えていた。しかし申不害(? - 紀元前337年)を宰相に抜擢した釐侯の治世は国内も安定し、最盛期を築けた。次代宣恵王が紀元前323年に初めて王を名乗ったものの、申不害の死後は再び秦の侵攻に悩まされた。 そのような事態を憂慮した公子韓非はこの国を強くする方法を『韓非子』に著述した。しかし韓非の言説は母国では受け入れられず、皮肉なことに秦の始皇帝により実行され、韓を滅ぼす力となった。また韓は鄭国を送って秦に灌漑事業を行わせ、国力を疲弊させようとしたが発覚した。この工事で作られた水路はのちに鄭国渠と呼ばれ、中国古代3大水利施設の一つとなり、これもまた皮肉にも秦を豊かにさせる結果となった。

紀元前230年、首都新鄭を失陥し、六国の中で最も早く滅亡すると、秦は潁川郡と呼び改め統治下に置いた。

出典:韓 (戦国) - Wikipedia

  • 申不害は法家の一人に数えられ、彼のものと言われる「形名参同術」*4は『韓非子』に採用されている。



*1:著作者:Philg88

*2:国史 上/昭和堂/2016/p48(吉本道雅氏の筆)

*3:華中・華南の人口が増加するのは南宋以降

*4:形名参同(ケイメイサンドウ)とは - コトバンク参照