歴史の世界

中国文明:先史⑫ 新石器時代 その10 後期新石器時代 その5 龍山文化/山東龍山文化

龍山文化(前2500-前2000年)は黄河中流域・下流域の文化。

大きくは中原龍山文化中流域)と山東龍山文化下流域)に分けられる。

龍山文化の特徴といえば、土器(=陶器)の「黒陶」(後述)だが、より重要なのは社会の変化、すなわち分業化や階層化などのほうにある。

龍山文化」という呼称について

龍山文化 - Wikipedia」によれば、龍山文化は「黒陶が発達したことから黒陶文化」とも呼ばれ、「中原龍山文化(河南龍山文化と陝西龍山文化)および山東龍山文化に分かれている」。

黄河文明 - Wikipedia」によれば、中原龍山文化は「陝西龍山文化・晋南予西龍山文化・河南龍山文化」に分かれる、とある。他にもバリエーションがあるようだ。

さらに陝西龍山文化の中に「客省庄(客省荘)二期(西安渭河流域)」文化や「陶寺(山西省西部)」文化が、河南龍山文化には「後崗(後岡)二期(河南省北部安陽市)」文化と「王湾三期(河南省西部洛陽市)」文化がある。

これらの細分化された文化の土器(中国では陶器と呼ぶ)を見るとその種類に大きな差異(類型)があり、生活様式の差異も大きいようだ。これらの文化は仰韶文化から発展した文化で、龍山文化の影響は陶寺文化を除けば表面的なもののようだ。

結局のところ、「中原龍山文化」という呼称は、中原(黄河中流域)における(本家の)山東龍山文化に併行する時代(龍山文化期、龍山時代)の文化群の総称だという意味しかない、と思われる。

山東龍山文化

山東龍山文化龍山文化の発祥地。本家本元の龍山文化。「典型的竜山文化」という呼称もある。

山東省を中心に広がる文化で、大汶口文化を継承している。

本やネットで「龍山文化」として書かれている説明の大部分が山東龍山文化に限られた特徴なので注意が必要だ。

土器

まず、土器の話から。

龍山文化の土器といえば「黒陶」だが、もう一つ「灰陶(かいとう)」も一般的で、この2つが龍山文化の特徴となっている。

黒陶(精製土器)・灰陶(粗製土器)とも龍山文化期よりも前から(新石器時代後期から)一般的になっているが、龍山文化期より灰陶の大量生産と黒陶の精製技術の向上が見られる。華北平原では ろくろの使用が一般化していた。の専業・分業化が進んだと言えるだろう。(小澤正人・谷豊信・西江清高/中国の考古学/同成社/p104-105(小澤氏の筆) )

階層化

階層化の問題は中国本土の社会全体の変化に関わってくる。

山東龍山文化の階層化は墓の副葬品によって判断することができる。これは大汶口文化より受け継がれた慣習だ。

ただし、大汶口文化では最下層(一般階層)の墓に日用土器が副葬されているのに対して、山東龍山文化ではこれが見られず、酒器と供膳具で構成されている。これは儀礼が変化したことを示している。

f:id:rekisi2100:20181203141351p:plain

出典:宮本一夫/中国の歴史01 神話から歴史へ(神話時代・夏王朝)/講談社/2005年/p275

これらの副葬の慣習が殷周社会に受け継がれていく(ただし土器ではなく青銅器)。注目すべきことに、これらの慣習は二里頭・二里岡文化の母胎となった河南龍山文化には見られない。(宮本氏/p276)

集落

集落群の変化

集落または集落群(後述)についても階層化と同様に社会の変化の一つとして重要だ。

大汶口文化から山東龍山文化への移行期つまり前3000年紀の中頃に、囲壁集落(城址集落。城壁に囲まれた集落)が数多く建設され「集落規模が数段階に区分されるような階層化した集落群が出現した」。

前3000年紀の後半に入ると、「集落遺跡数は大幅に増大するが、集落群の数はむしろ減少傾向となる」。つまり「1集落群内の遺跡数は2~3倍にも増大し、単位地域の人口が著しく増加したことが示唆される」。

大規模な集落群では5つもの階層が見られるが、小規模な集落群では3階層程度だ。このことは書く集落群内に階層的秩序があったことを示唆する。

(以上は、「世界歴史体系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003/p45(西江清高氏の筆)」参照)

戦争の激化

集落群の変化は、戦争の激化の現れである。

山東龍山文化期には、鏃である磨製石鏃や骨鏃はともに大型化あるいは重量化していく。鏃の重さが重くなるということは、鏃を放つ弓の力が増すということを条件に貫通力が増すという機能変化を果たし、これが単なる狩猟用というよりは、武器としての機能変化と捉えられるのが一般的である。山東龍山文化の大型化や重量化は、武器としての機能進化であると捉えることができるだろう。

出典:宮本氏/p256



中国文明:先史⑪ 新石器時代 その9 後期新石器時代 その4 屈家嶺文化/石家河文化

今回は長江中流域の文化について書く。

屈家嶺文化(前3000年紀前半)

大渓文化を継承して栄えた文化。

この文化のあいだに、農作物の生産向上と人口増加を背景に分業化が進んだ。陶器においては、伝統的な彩文土器から 轆轤(ろくろ)を使用して定形化と量産化が見られる*1。紡錘においては、すでに大渓文化より始まっていたが、より小型化した紡錘車が出現して、より紡径の小さい糸を生産することができ、目の細い布をおることができるようになった*2

ただし階層化に関しては、同時代の大汶口文化(黄河下流域)や良渚文化(長江下流域)に比べて進行が遅かったようだ。墓地の遺物を見ると階層化は明確と言えるほどではなかったようだ*3

石家河文化(前3000年紀後半)

屈家嶺文化を継承して起こる。

石家河文化段階の玉器は、山東龍山文化や良渚文化の文様意匠やシンボリズムの影響を受けたものであり、この地域独自の玉器生産を行っている。したがって、石家河文化段階になって初めて固有の玉器を必要とする社会に達したことを注目すべきである。

出典:宮本氏/p172

首長墓もこの頃になってようやく登場する(p171)。

標式遺跡である石家河遺跡の囲壁内部の鄧家湾で5000点に及ぶ人物や動物を象(かたど)った土製品が、三房湾では数万個とも数十万個ともいわれる膨大な数の紅陶杯が狭い範囲から出土している。

紅陶杯は飲酒と関係する祭祀用器とも考えられ、これらの土製品を用いて、この地で大勢が参集して規模の大きな祭祀儀礼がとりおこなわれていたことを強く示唆している。人物や動物をかたどった土製品は、石家河文化の他の多くの遺跡でも出土していて、その流布の状況は石家河文化の江漢平原に、石家河を中心として系列化された祭祀システムががいきわたっていたことをうかがわせる。

出典:世界歴史体系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003/p48(西江清高氏の筆)

江漢平原は、長江と漢江による堆積作用によって形成される沖積平野。複数の河川が縦横に流れ、300余りの湖が散見し、長江中下流平原の一部となる。(江漢平原 - Wikipedia

f:id:rekisi2100:20181130212008p:plain

出典:宮本氏/p168

f:id:rekisi2100:20181130212140p:plain

出典:宮本氏/p171

囲壁集落

長江中流域の中心集落に見られる囲壁は、先にも指摘したようにもともと集落周囲における水稲農耕と関わったであろう環濠と、その関連水利施設の副産物として生まれたことが推測される。江漢平原の囲壁集落が、華北と比べても早くに出現した背景には、そうした水郷的環境への適応と、初期の水稲耕作の発展に結びついた水利の問題があったのではないだろうか。やがて屈家嶺文化期の前3000年紀に入るころから、大量の酒器や家畜のブタの骨の出土に示唆されるような稲作を主体とした経済の更なる進展を背景として、社会的環境の変化が著しくなり、防御を主たる目的とした高大な城壁がつくられるようになったと考えられる。

出典:西江氏/p48-49



*1:徐朝龍/長江文明の発見/角川選書/1998/p89

*2:劉煒・趙春青・秦文生/図説 中国文明史 1 先史 文明の胎動/創元社/2006(原著は2001年出版)/p143-144

*3:宮本一夫/中国の歴史01 神話から歴史へ(神話時代・夏王朝)/講談社/2005年/p161-162

中国文明:先史⑩ 新石器時代 その8 後期新石器時代 その3 良渚文化

前回は玉器について書いた。

今回書く良渚文化はこの玉器が階層化の道具となる。

良渚文化は長江下流域に興った文化で時代は前3300-2200年(諸説あり)。後期新石器時代の手前から中国最古の王朝誕生の手前まで。

時代区分

  • 前期:3300-3100BC
  • 中期:3100-2900BC
  • 後期前半:2900-2600BC
  • 後期後半:2600-2300(2200)BC*1

良渚文化の生産力

良渚文化は長江下流域の太湖周辺に興るのだが、それ以前は崧沢文化があった。良渚文化が興るまでに農業も階層化もある程度 発達していたが、良渚文化でその両方がさらに発達した。

最温暖期のピークが過ぎて冷涼化が始まり、海水準が低下に向かった崧沢文化以降、太湖周辺の湖沼面積は減少し、平原には以前より安定した可耕地が広がった。この時期に、鋤耕から犂耕へという技術的転換を伴いながら、長江下流域の稲作農耕はさらに発展した。崧沢文化期から良渚文化期へと遺跡数は急増し、人口の膨張と社会の複雑化が示唆されている。

出典:世界歴史体系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003/p49(西江清高氏の筆)

宮本一夫*2によれば、鋤耕から犂耕に変わったのは崧沢文化の時代だ。つまりそれまで石鏟(せきさん、スコップのようなもの)から石犂(せきり)で耕耘(こううん)する時代に変わった。良渚文化に入るとさらに多種の農具が登場・普及して農作物増産に寄与した。さらに肉類においてシカなどの野生動物からブタなどの家畜へと割合が激変する。

中村慎一氏*3はこの頃に、草鞋山で行われていたような天水田に近いものではなく、本格的な灌漑水田の集約農業*4がはじまったのではないかと考えている。

階層化を表す墓地

階層を表す墓地は、前期に墳丘墓(大きなマウンド)として現れた。(宮本氏/p150)

中期になると、方形の周溝によって区画された神聖な空間で祭祀が行われた祭壇と合体した墳丘墓が現れる(同/p278)。この墳丘墓は従来型のものに比べて副葬品が多いことから、首長クラスのものと考えられている。(p151)

良渚文化の中心地

良渚文化前期・中期の中心地は良渚文化遺跡群にあると考えられている。この地の中心部に約30万平方メートル、厚さ約10メートルの土台(基壇)がある(現在は莫角山と呼ばれている)。この土台にさらに3つの高まりがある。(西江氏/p50)

これら3つの土台の間には大型の版築建物基壇や最大が直径60センチメートルに及ぶ柱穴からなる建物遺構が確認されている。建物遺構が具体的にどのように構築されていたかは不明であるが、祭祀空間あるいは人々が集会して組織的な団結を誓い合うような場であった可能性が高い。こうした祭祀的建造物を中心に、その周りに独立した墳丘墓が取り囲んでいる。

出典:宮本氏/p153

f:id:rekisi2100:20181126114019j:plain
良渚古城模型,陈列于良渚博物院。

出典:良渚遗址 - wikipedia(中文) *5

四角い囲いは「囲壁」で2007年にようやく全部の囲壁が確認できた*6

中国では「城」は(日本の城の意味とは違い)、万里の長城のような壁(城壁)のことを指すので、「良渚古城」とは囲壁に囲まれたふるい集落を意味する。

中心の土台を築くだけでも相当な労働力が必要なはずで、このような点からもこの地域の人口密度と階層化がうかがえる。

ただし、良渚遺跡群一帯の首長が良渚文化圏の全体を支配していたわけではなかったらしい。

f:id:rekisi2100:20181126132531p:plain

出典:宮本氏/p155

上の図のように幾つかのグループが存在している。今井晃樹氏は中期は良渚遺跡群が優勢であったが、後期は寺墩の勢力に覇権が移ったとしている。しかし中村慎一氏は全時期を通じて良渚勢が盟主的な存在であると主張している。

いずれにしろ、全域を支配するほどの権力は存在しなかった。

玉器

玉器とは何かについては前記事で書いた。

良渚文化の玉器としては、鉞、琮、璧の三種がもっとも顕著であった。鉞は武威の象徴であり、儀仗用の玉器とされる。また良渚文化で出現した琮は、方柱形の器身の中央に円孔を貫通させ、上下端を円筒状に加工して方柱の四隅に浮彫りや細線で神面を描いたもので、祭祀の場で中心的役割をになった道具と思われる。璧は、円孔をうがった円盤状の玉器で、日月の象徴に関わる祭器ともいわれ、時期が降って春秋時代や漢代においても装飾性をましてさかんに用いられた。これら三種のほかに、櫛飾りの冠状飾、三叉器、各種の動物形といった特徴ある装飾品を加えた多様な玉器が、首長層の墓と思われる各地の墳丘墓に集中的に服装された。良渚文化の社会には玉器の制作を掌握した権力者が存在しており、その中心的存在から各地の首長層へと玉器が分配されたことが推測されている。玉器が祭祀の中核をになう道具として確率されるとともに、政治的秩序を維持する道具として極めて重要な役割をはたしていた。

f:id:rekisi2100:20181126153545p:plain
9 琮(江蘇 寺墩) 10 冠状飾(浙江 反山) 11 琮(浙江 反山) 12 鉞(江蘇 寺墩) 13 璧(江蘇 草鞋山)
〔出典〕『中国玉器全集』1 原始社会、中国美術分類全集、華北美術出版社、1992年より。

出典:西江氏/p54*7

  • 儀仗とは儀礼のために用いられる武器・武具のこと。*8

玉琮は角のとれた直方体をしていて中心部分が円柱状に刳(く)り抜かれいる。この中空部分を通して、天の神と地の神を繋ぎ、神が入る「依り代」の役割が考えられている。神の「依り代」として玉琮には、神人獣面像が精巧に刻まれているのである。神人は月神、獣面像は太陽神と考えられ、それらの横に配置されている鳥はもともとイヌワシであり、神の使いと考えられている。

また玉璧は、神が統治する世界観や右中間を示すものであると考えられる。首長はこのような玉器を持つことにより神との交信が可能になり、神の威を借りて集団を支配し、自らの地位を維持することができる。

出典:宮本氏/p277

  • 琮の直方体より中心部分を円柱状にくり抜くような作りは、「天は円く、地は方形であるという古代中国の宇宙観」、つまり「天円地方」を表している。*9

神との交信(交渉)権を独占して統治するというシステムは洋の東西を問わない。メソポタミア文明でもエジプト文明でも似たようなことが起こっている。

もちろん神の力だけに頼るのではなく、軍事力も持っていたのだろう。軍事力の象徴が鉞となる。

宮本氏によれば、地域で覇権を有する首長が直方体の完全な琮を下位の首長に分割して与えて同盟関係を築き、下位の首長はさらに支配地域の内部の者に分有したと考えている。(p156)

f:id:rekisi2100:20181127144001p:plain

出典:宮本氏/p156

このやり方はエジプト文明にもある。エジプトの場合は琮の役目を果たすのは「波状把手土器」というものだが*10

良渚文化の崩壊について

前3000年紀の後半から前2000年紀の前後にかけて、かつて隆盛を誇った長江下流域の良渚文化、中流域の石家河文化、四川成都平原の宝墩文化、華北東部の山東龍山文化、漢中平原の客省荘第二期文化などがあいついで衰退し、数千年にわたって継承発展してきた地域的文化の伝統と、地域的社会の基礎は大きく動揺した。良渚文化が崩壊した太湖周辺では、前2000年紀に入ると馬橋文化が登場するが、良渚文化と馬橋文化は文化的に連続したものではなく、また良渚文化期に成立していた大きな地域統合は再生されていない。馬橋文化では、狩猟・漁撈の比重がふたたび高まり、良渚文化に比べて稲作農耕が後退したとされるが、そうした状況は、良渚文化の週末に太湖周辺で大きな環境の変動があったことを暗示している。

出典:西江氏/p56

他の地域も後続する文化も前の文化を継承しなかったか、ほんの一部だけ継承した程度だった。

西江氏は、このような大規模な変化を考慮して「地球規模における環境変化が、東アジア中緯度地帯のこの地域に強い影響を与えていたと推測せざるをえないであろう」としている(p57)。

「地球規模における環境変化」とは、おそらく「4.2 kiloyear event*11」のことを指しているのだろう。これは4200年前(前2200年)前後の寒冷化のことだ。エジプト古王国、アッカド王国などがこの時期に崩壊している。

揚子江デルタを襲った4200年前の急激な気候寒冷化と世界最古の稲作文明の関係(2018)』という研究発表の概要のようなものがネット上にあったが、この研究結果によれば、おそらく中国本土でもこの時期に寒冷化は起こったであろうことが示唆されている。

宮本氏は上の寒冷化と合わせて、大規模な洪水があったのではないか としている。良渚文化の包含層の上には厚い沖積層が覆う調査事例が幾つかみられるそうだ(宮本氏/p157)。「洪水」説は有力な説だそうだ。

中村慎一氏は上の「洪水」説に反対している*12。良渚文化層と洪水層の間に別の文化層*13があるという。中村氏の文化崩壊の原因は「権の源泉としての玉器を製作するための玉材が枯渇したことが大きな要因であった」、終焉時期は前2500年頃としている。

殷周への影響

長江下流域に起源する太陽神が、山東龍山文化や石家河文化へと精神文化的に共有されていく背景には、この段階の良渚文化を中心とする精神基盤の拡散を認めないわけにはいかない。すでに述べたように良渚文化の玉琮や玉璧は、首長による神政権力を示すものであった。新石器時代終末期の龍山文化後期に、玉琮や玉璧が黄河中流域や光が上流域へ広がり、それぞれの地域で自家生産されていくのは、単なる玉器の模倣というよりは、玉器に秘められた神政権力といったイデオロギー装置をそれらの地域で必要としたということではあるまいか。

殷周青銅器の基本的な文様である饕餮文(とうてつもん)の原形が、林巳奈夫氏によって良渚文化の獣面文であることが指摘されてひさしいが、意匠とともに玉琮など玉器文化の黄河中流域・上流域への拡散は、玉琮や玉璧に秘められた神政権力という精神基盤を新石器時代終末期に黄河中流域が新たに吸収し、二里頭文化遺構に開花するという現象として理解したい。

出典:宮本氏/p279ー280



*1:中村慎一/良渚遺跡群研究の新展開/平成27年3月(pdf)ただし、中村氏自身の良渚文化終焉の時期は2500BCとしている。後述

*2:中国の歴史01 神話から歴史へ(神話時代・夏王朝)/講談社/2005年/p147-149

*3:前掲書/p149で紹介されている

*4:原始的な農業形態では、天水農業や根栽農耕、略奪的な焼畑農業など粗放的な農業が中心であるが、やがて経済が発展すると生産性を高めるために灌漑施設、農業機械、生産・出荷施設、化学肥料(金肥)、農薬の使用、農業従事者の雇用(過去においては奴隷も含まれる)などが資本を注入して行われるようになる。こうして労働力や資本力を集中的に投下する農業形態を集約農業という。集約農業 - Wikipedia

*5:猫猫的日记本 - 自己的作品

*6:中村慎一/良渚遺跡群研究の新展開/平成27年3月(pdf

*7:図は元の一部

*8:儀仗 - Wikipedia

*9:天円地方 - Wikipedia

*10:エジプト文明:先王朝時代③ ナカダ文化Ⅱ期後半(前3650-3300年)前編>地域統合の始まり

*11:4.2 kiloyear event - Wikipedia英語版 

*12:前述した論文

*13:銭山漾 /広富林文化層

中国文明:先史⑨ 新石器時代 その7 後期新石器時代 その2 (ステータスシンボルとしての)玉器

今回は長江下流域で興った良渚文化について書こう…と思ったが、「玉器/玉(ぎょく)」について書く。

玉器は良渚文化の階層を表す遺物なのだが、これの説明をするのに1ページをかけてやろうと思う。

私の書きたい以上のことが「玉について」というネット記事に書いてあったが、この記事ではもっと初歩的なことに限って書いていこう。

玉器の素材の玉(ぎょく)について

玉器の素材である「玉」とは、今日に至るまで珍重されている鉱物(または石)の一つである。

玉は「軟玉」と「硬玉」に2種類に分かれるが、広義的にはトルコ石などの希少な石に対しても使われることがあるようだ。ここでは前述の2種類について書いていこう。

軟玉

軟玉はネフライト(nephrite)、角閃石とも言われる鉱物。硬度が低いため加工・細工がしやすい。

中国の先史時代における産地については、おそらく遼河西部、長江下流域、山東半島が考えられる*1

中国では後述する硬玉の鉱床が無いので、先史時代の玉といえば もっぱら軟玉のことを指す。「ネフライト - Wikipedia」によれば、軟玉と硬玉の区別は18世紀になってからのことだという。

f:id:rekisi2100:20181123104241j:plain:w300
良渚文化の玉琮。

出典:ソウ (玉器) - Wikipedia*2

硬玉

硬玉はジェダイト(jadeite)、ヒスイ輝石とも言われる鉱物。軟玉よりも硬度が高い。

日本の先史の装飾品として使われたヒスイ(翡翠)の鉱物。勾玉が有名。ちなみに、上のwikipediaの記事によれば、日本では軟玉・硬玉合わせて「ヒスイ」と総称されていた。

日本の先史時代および古代に、中国にヒスイを輸出したのではないかと思ったが、そのような記述を読んだことがない。

f:id:rekisi2100:20181123103640j:plain:w300
古墳時代の勾玉(東京国立博物館

出典:勾玉 - Wikipedia*3

「玉」と「王」という漢字の起源は違う!

「玉/⺩」という漢字の意味・成り立ち・読み方・画数・部首を学習」によれば、「玉」は「「3つの美しいたまを縦に紐(ひも)で通した」状態を表す象形文字。(リンク先には図解があるので参照のこと)

私は「⺩」を「おうへん」とばかり思っていたが「たまへん」と呼ぶこともあり、実は後者のほうが正しいそうだ。

杉村一郎氏*4が「たまへん」の代表例を幾つか挙げているが、そのうちのひとつだけ引用しよう。

「班」は「玉」を「刀=りっとう」で2つに切った形で、分け与える意。配るときは順番や序列にのっとることから、グループ編成の「班」と用いる。2つに分けるのは「割り符」の意味合いがあるよう。

出典:【杉村一郎の教育漢字考】(30)同じ形だった玉と王の漢字 - 産経WEST

いっぽう、「王」のほうは、「古代中国で、支配の象徴として用いられたまさかり」を表す象形文字だ。「玉」とは全く語源(?)が違う。

前述の杉村氏の記事によれば、金文(周代の書体)と篆文(戦国、秦)では、「玉」のことを「王」と書いていたようだ。

玉の効用

現代でも玉はお守り(魔除け?)としての効用があるとされている*5後漢の許慎の『説文解字』では「玉,石之美者,有五德」(玉は美石であり五徳を持つ)とあるが、この五徳の一つに「かどがあっても滑らかで人を傷つけないことは潔」と有る*6ので、これが魔除けの意味かもしれない。

また中国史においては、不老不死の仙薬(玉を砕いた粉末。玉屑 ぎょくせつ)として服用された。また、遺体につけて防腐の効果を期待した。これについては金縷玉衣が有名だが、貴族の遺体の目や鼻穴に玉を詰めるようなこともあったようだ*7。五徳の一つの「温潤な光沢は仁」が防腐の意味が込められているのかもしれない。

さて、これらの効用よりも数段重要な効果は、玉が威信財(すなわちステータスシンボル)であるということだ。玉を保持していることでその人が高位の人だと判断できた。そしてその源流は先史時代にまで遡るのだ。

玉器について

ここで、ようやく玉器の話に入る。

初期の玉器はおもに装身具や小型の工具として用いられたが、やがて前4000年紀以降急速に進んだ地域的社会の複雑化と統合に関連して祭祀の体系が整備されてくると、玉器は儀礼の道具としてあるいは首長層の権威を象徴する威信財として、特別の格式を与えられ、極めてさかんになった。このような時代を玉器時代と呼ぶ人がいるほどに、玉器は重要な社会的意義をもつことになるのである。

出典:世界歴史体系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003/p53(西江清高氏の筆)

おそらく支配者層が稀少な鉱床を独占して、宗教的な価値と威信材としての価値を高めたのだろう。

次回に書く良渚文化では、玉器が歴史の中心となる。



中国文明:先史⑧ 新石器時代 その6 後期新石器時代 その1 大汶口文化

後期新石器時代(前3000-2000年)は、東アジア最古の王朝の誕生の準備段階だ。誕生前夜。

また考古学から見れば、文明は、国家誕生の前に、この時期に始まっていたという主張もある。

この記事では大汶口文化ついて書いていく(ほとんど階層化の話)。

後期新石器時代の動向

前3000年紀に入ると、農耕社会の基盤が確率しつつあった華北や長江流域の諸地域では、地域的社会の規模がいっそう膨張するとともに、地域的社会内部の階層化が進行し、首長層が確立された。前4000年紀の紅山文化でいち早くみられたように、多くの場合かれら首長層はおおがかりな祭祀施設を造営して、固有の祭祀システムを整え、それを通じてしだいに地域の統合へと向かった。

一方、新石器時代後期の前3000年紀を中心に、種々の文化要素の共有からうかがわれる地域間の交流はさらに広がりをみせた。たとえば、長城地帯西部の内蒙古中南部と東部の遼西との相互関係、山東地区と長江中流域・下流域との相互関係、長江下流域の良渚文化の要素が華南にまで波及する中国大陸東南部の地域間関係などが生まれ、さらにそれらの関係圏をこえた、より広くゆるやかな交流も認められた。そうした地域間の交流は、一方では、地域間の緊張関係をも増幅していったと考えられる。

出典:世界歴史体系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003/p42(西江清高氏の筆)

階層化については紅山文化にみられるように、その起源は中期新石器時代にある。これが中国本土全体に広がるのが後期新石器時代である。

前回の記事「中国文明:先史⑦ 新石器時代 その5 中期新石器時代 後編」で触れたように、紅山文化が後世の中国の諸文化に影響を与えたかもしれない。つまり紅山文化で「いち早くみられた」階層化の文化が後の中国本土の階層化の起源であるかもしれないのだが、このことについて現在どのように議論されているかは私にはよく分からない。

分かっていることは、中国本土の階層化は大汶口文化に繋がっているということだ。すなわち、大汶口文化→龍山文化→二里頭文化→王朝誕生と言った具合。大汶口文化と紅山文化の階層化の関係は注目点の一つと言えるだろう。分かり次第追記しよう。ちなみに、この2つの文化は同時期に始まったようだ。

また、引用にあるように、以前よりも地域交流が盛んになって、その流れの中で階層化の流れも拡大していったようだ。

大汶口文化の時代区分

さて、大汶口文化について。ここでは宮本氏(2005)*1の説明に頼って書いていこう。

この文化の期間は前4200-2600年で、大きく3つに区分される。

  • 前期:前4200-3500年
  • 中期:前3500-3000年
  • 後期:前3000-2600年*2

墓葬構造と階層化

大汶口文化の墓地の分析より、階層化の変遷が認められる。

前期は等質的な社会から階層格差が小さいながらも広がりつつあることが伺える。前期後半になると特殊な墓葬構造が検出されるようになり、階層がより明瞭になる。(宮本氏/p134-136)

中期後半には、墓壙の大きさの区別が生まれてくる。さらに後期だと、墓壙の大きい墓群と小さい墓群とに場所が分かれるようになる(p136、p270)。墓の大きさは、墓穴を掘る労働力を考えればわかるように、被葬者の社会的身分の高さを表している。墓群の区別されていることは、「家系単位で、階層差が生前から決まっていた可能性がある」(p271)。

墓葬構造について引用。

f:id:rekisi2100:20181122065105p:plain:w200

墓葬構造にこれまでの土壙墓といった地中に墓壙(ぼこう、墓穴)を掘って直接死体を埋めるものだけでなく、木棺に安置して埋める木棺墓が出現する。その上に、単なる土壙でなく地下に木質の部屋であるいわゆる木槨が作られ、その木槨の中に木棺が配置される木槨墓が出現するのである。大汶口文化後期の大汶口遺跡25号墓などがそれにあたる。木棺や木槨に不可分な二層台という墓葬構造は、すでに大汶口文化前期後半の大汶口遺跡2005号墓に認められる。

出典:宮本氏/p133-134(太字は引用者)

副葬品と階層化

次に副葬品について。

大汶口文化の墓に副葬される土器の器種は、一般に鼎、壺、豆(高坏)といった煮沸具、貯蔵具、供膳具といった日常生活に用いる土器の器種が基本となっている。こうした日用品に加えて、さらに盃、鬹、盉あるいは尊といった土器が加わる場合がある。鬹・盉は液体を注ぐ土器であり、杯は液体を飲む器である。

一般にこのような器種は酒器として考えられており、酒を飲む道具と考えられている。また、大型の尊は、酒を醸造したり酒を蓄える酒甕であると想像されている。

これらを酒器とした場合、これらの土器は特殊な土器であり、日常生活には必要とされないハレの場での儀式などに用いられるものである。いわば今日の正月に用意されるお屠蘇の道具のようなものである。

このような特殊な土器は副葬品としてはすべての墓に副葬されるわけではなく、むしろ階層上位者に伴う場合が多い。このことは、墓葬の大きさを労働投下量という意味から被葬者の階層的な高さを表すものとして見た場合、あるいは副葬品の多さ少なさが被葬者の階層の上下を示すものとして見た場合、図表125に示すように副葬土器の器種構成も階層差に応じて異なっているのである。

f:id:rekisi2100:20181122091229p:plain:w500

鼎・壺・豆(高坏)は一般庶民墓の副葬土器であり、これらの器種に加えて更に杯が副葬土器に加わるものが、一般庶民よりさらに上位階層に位置づけられる。さらにこれらの器種に鬹あるいは盉といった酒器が加わる、最上位階層者に対応しているのである。

身分秩序と土器の器種構成が対応しており、それは単に副葬土器が多いという話ではなく、特殊な土器を身分秩序に応じて副葬することが可能であるという社会規範や社会秩序があることを示している。しかもその特殊な土器が酒器であることは、祭儀と関係する道具を特権階層のみが持つことを許されることを意味している。

まさにこうした身分秩序を祭儀道具から規制することこそが、儀礼というものが社会秩序を維持するための精神的規範として機能していたことを物語っているのである。

出典:宮本氏/p272-273

おそらく祭祀の後の宴会の時に酒を振る舞ったのだろう。副葬品の位置づけから想像されることは、祭祀儀礼と酒醸造はエリート層が独占したということ。

このようなことは古代エジプトの歴史でも同じ現象が起こっている(古代エジプト学者の馬場匡浩氏の主張。詳しくは記事「エジプト文明:先王朝時代④ ナカダ文化Ⅱ期後半(前3650-3300年)後編#ビールと支配」参照)。

また、大汶口文化で成立した階層秩序とそれに相関した副葬品構成は、続く山東龍山文化期においても維持される(多少の変化はある)(p274)。さらにこの構成は殷周社会で儀礼の要となった青銅彝器(いき)*3の基本的な器種構成をなしていることに注目しなければならない(p275-276)。

最後にもう一つ興味深い事項を。

上位階層の墓において酒甕である大口尊の口縁部付近に何らかの記号のようなものが刻まれていることがあるという。宮本氏は、首長と思われる墓のみに記されたこの記号を一集団を象徴するエンブレムのようなものではないかとと推測している(後の殷代の青銅器には、族記号と呼ばれる氏族の標識が見られる)。(p273-274)

  *   *   *

氏族の宗廟*4において首長が祭祀を行い、その後に酒と犠牲の肉を下位の者たちに振る舞って結束を深めた光景が思い浮かぶ。



*1:宮本一夫/中国の歴史01 神話から歴史へ(神話時代・夏王朝)/講談社/2005年/第五章(社会の組織と階層化)と第九章(犠牲と宗教祭祀)

*2:大モン口文化 - Wikipedia」では早期・中期・晩期

*3:宗廟に備える神聖な器を総称して彝器(いき)という。「中国の青銅器 - Wikipedia」参照。

*4:中国において、氏族が先祖に対する祭祀を行う廟のこと。宗廟 - Wikipedia

中国文明:先史⑦ 新石器時代 その5 中期新石器時代 後編

前回からの続き。

集落の特質

黄河・長江両流域

黄河・長江両流域においての集落の特徴。

集落は環壕(環濠)*1に囲まれていた。主に野獣から集落の成員と家畜を守るためだ。

集落内は一定の規制が守られていた。諸問題はリーダー及び長老などにより決定されていたと思われるが、彼らと一般成員の間に峻別されるほどの差は無い、つまり階層社会というよりも平等社会だった。

階層の兆候が見られるようになるのは中期新石器時代の末期からである。

遼河流域西部:紅山文化

遼河流域西部の紅山文化では上の流域より先に階層分化の兆候が現れる。

まずこの地域固有の墓として積石塚(つみいしづか)がある。この墓は明確な階層分化を表すとされている。またこの地域に属する牛河梁遺跡では玉器を副葬されている積石塚が多く発見されている。玉器は宗教的な意味合いが込められているとのこと。被葬者が(経済的な優位性を示すと言うよりは宗教的権威者であったことを示している*2

さらに紅山文化では集落内の階層化だけではなく、集落間の階層もあったようだ。

牛河梁遺跡群では、積石塚が分布する範囲の北部中央付近の山の斜面から「女神廟」と呼ばれる祭祀用建造物が発見されている。ここでは細長い土坑の中に、壁体と共に動物や人物像の塑像が発見されている。とくに大きな女性の塑像は、この祭祀用建物を「女神廟」と呼ばせた理由にもなっている。「女神廟」と複数の積石塚がセットとなって牛河梁遺跡群が、紅山文化社会の中心的な集落群となっているのである。

すなわち宗教的な裏付けをもって社会的に突出した個人が排出しただけでなく、集落構造においても中心的な存在が出現しているのである。宗教的権威者の墓葬と「女神廟」に見られるような祭祀センター的な存在として牛河梁遺跡が存在し、しかも他集落との集落間格差が出現しているのである。

しかし、その段階の社会構造は、決して世襲による首長制社会に達していたわけではなく、宗教的な行為における個人的な権威者が社会を束ねていたのではないだろうか。

出典:宮本一夫/中国の歴史01 神話から歴史へ(神話時代・夏王朝)/講談社/2005年/p189

「女神廟」に見られるような祭祀センター的な存在とはギョベクリ・テペを想起させる興味深い話だ。

この地域で集落間格差が明確に確立する時期は、二里頭文化が栄える時期である夏家店下層文化になってからとのこと。(p189)

紅山文化をネット検索すると「紅山文化と中国北方文明の起源について(pdf)」*3という論文(?)があるのだが、この論文の筆者の徐子峰氏によれば、玉器の組み合わせや巨大な女神廟・積石塚・祭壇の出現は原始崇拝から原始宗教の段階の移行を示し、さらにこれらの建造の労働力の総量を考えれば、「個別の氏族や集落を超えた上位の社会組織や何らかの文化共同体」があった、もしくは、「事実上、国家的な職能が作用していた」としている。

また、稲端耕一郎氏(2017)は、これらの現象は長城以北の勢力が草原を通って西アジアの文化文明を伝達した証ではないかとしている*4

さらにwikipediaから牛河梁遺跡に関する興味深い仮説を引用しておこう。

2015年1月に合衆国科学アカデミー紀要に発表された中国科学院のXiaoping Yang、合衆国ニューメキシコ大学のLouis A. Scuderiと彼らの共同研究者による内モンゴル自治区東部の渾善達克砂丘地帯の堆積物の検討によれば、従来は過去100万年にわたって砂漠であったと考えられていた同地帯は12,000年前頃から4000年前頃までは豊かな水資源に恵まれており、深い湖沼群や森林が存在したが、約4,200年前頃から始まった気候変動により砂漠化した[10]。このために約4,000年前頃から紅山文化の人々が南方へ移住し、のちの中国文化へと発達した可能性が指摘されている[11]。

[10] Groundwater sapping as the cause of irreversible desertification of Hunshandake Sandy Lands, Inner Mongolia, northern China 合衆国科学アカデミー紀要
[11]New Thoughts on the Impact of Climate Change in Neolithic China Archaeology誌解説記事

出典:紅山文化#遼河文明 - Wikipedia

紅山文化#玉石と精神文化、牛河梁遺跡 - Wikipedia」によれば、牛河梁遺跡を中心とする一帯を「首長国」「王国」と呼ぶ研究者がいるようだ。

また、wikipediaに「遼河文明」というページがあるのだが、上のような事象をもって文明としているようだ。

ただし、「紅山文化 - Wikipedia」の冒頭には、紅山文化は前2900年に終わるとしている。他のネットのサイトでも終わりの時期は前2900年になっている。

西江*5によれば、紅山文化は前3000年に終わり、後継の小河沿文化は紅山文化の特殊な建造物などは継承されなかったという。

また、宮本氏*6によれば、小河沿文化は家畜・牧畜の比重を高めた「牧畜型農耕社会」に変容したとしている。

農業と社会の変遷

ここで宮本一夫氏が下の本で何度も繰り返して書いていることを引用しよう。

すでに述べたように、農耕の開始期とは決して生産性においては高いものが期待できる段階ではなく、あるいは農耕が始まったからといって、すぐに安定した食糧生産が可能になったわけでもない。まさしく農耕の発生とは、更新世から完新世への移行期における、一定の環境域の周縁部における新たな人類の環境適応でしか無かったのである。

出典:宮本一夫/中国の歴史01 神話から歴史へ(神話時代・夏王朝)/講談社/2005年/p173

農耕の開始期には、森林で狩猟採集だけで満腹になれた集落もあれば、森林と草原の境界で両方の食料資源を享受できた集落もある。上の「一定の環境域の周縁部」では、狩猟採集だけでは腹を満たすことができないので苦肉の策として植物栽培を始めた。最初は家庭菜園か内職に近い感覚だったのかもしれない。

少し話がそれるが、「一定の環境域の周縁部」で新しいことが起こるというのは、「人類の誕生」の時もそうだし*7、近代ヨーロッパの誕生もそうだった*8

抽象的な意味では「歴史は繰り返される」と言えなくもない。

さて、話を戻そう。農業と社会の変遷のはなし。

おそらく、初期の農耕に従事した人たちは女性である。これはもともと野生穀物の収穫が女性の主たる仕事であったことの延長であり、栽培化の過程にも女性ならではの細やかさと忍耐強さが必要であったに違いない。

そしてまた、種籾を翌年に遺さないといけないという食料の保存は、すでにそれだけでリスクをもった社会であり、そうしたリスクを集団内で治めまとめる組織的なまとまりが必要であったのである。なにしろ気候不順に際して、種籾を残しながら飢饉の飢えをしのぐのは大変困難であり、集団として統制がとれていなければ、簡単に消費され、さらに集団が瓦解し死滅してしまうからである。

出典:宮本氏/p173

狩猟採集が生業の主力だった時代は種籾の重要性に無理解な人々が多かったに違いない。そのような環境の中では種籾が食われてしまうようなことが多くあったことだろう。

しかし気候変動が起き環境が温暖湿潤化した前6000年以降*9は上のようなリスクは大幅に軽減されたことだろう。栽培植物は飢饉によって途絶されるリスクも軽減され、順調に人類の望む方向に進化した(つまり改良された)だろう。

こうした中で栽培植物の増産と安定的な生産量を背景に、いよいよ本格的な農耕が始められることになった。すなわち「土木作業や狩猟を得意とする男性も、農耕という生産活動に共同して組織的に労働を投下していく段階に」入ってきた*10

黄河流域の畑作(アワ・キビ)農耕では男性は土起こしやその他土木作業を行い*11、長江下流域でも男性が力仕事である犂耕を行ったと思われる*12

こうして、粗放農業から集約農業へ移行が始まって さらに農業が発展していった。

農業の発展は生産高の増加を意味するのだが、増加の幅は各人、各集落において一様ではなく、ここに格差が生じる。この格差は社会階層と集落間の階層を生むことになる。ただし、明確に階層化されるのは後期新石器時代に入ってからのことになる。



*1:黄河は環壕、長江は環濠。水堀をめぐらせた場合に環濠と書き、空堀をめぐらせた場合に環壕と書いて区別することがある。

*2:宮本一夫/中国の歴史01 神話から歴史へ(神話時代・夏王朝)/講談社/2005年/p187-188

*3:2006年に書かれたものの邦訳らしい

*4:出土遺物から見た中国の文明/潮新書/p22-23

*5:世界歴史体系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003/p33、39(西江清高氏の筆)

*6:中国の歴史01 神話から歴史へ(神話時代・夏王朝)/講談社/2005年/第七章 牧畜型農耕社会の出現

*7:人類最古の祖先は疎林から別の疎林へ地面を歩くために二足歩行を始めた。定説ではないかもしれない。

*8:アジアに清・ムガールオスマン帝国という強大な国がある端にヨーロッパがあったのだが、大陸ではなく海に出て大航海時代を経て、アメリカ大陸で金・銀と肥沃な農地を「発見」し、そこから搾り取ったカネをうまく利用した英仏が中心となって近代ヨーロッパを築いた。

*9:前回の記事参照

*10:宮本氏/p174

*11:石鏟(せきさん、スコップのようなもの)が墓に副葬されている(宮本氏/p117)

*12:崧沢文化(前3900-前3200年)の三期(おそらく晩期か末期)に石犂(せきり)が出現する(宮本氏/p147-148)

中国文明:先史⑥ 新石器時代 その4 中期新石器時代 前編

中期新石器時代(前5000-前3000年)。

前5000-前3000年(7000-5000年前)の気候は温暖湿潤だった。農耕地帯は温暖化のおかげで拡散した。

完新世の気候最温暖期(ヒプシサーマル)

完新世の気候最温暖期 - Wikipedia」によれば、前5000-前3000年の期間の温暖化は地球規模のものだった。この事象が起こったメカニズムも分かっている(wikipedia参照)。

中国の先史ではこのイベントは かなりの影響があった(後述)。

同時代の西アジアやエジプトの先史では あまり取り上げられていない。ただし、この時期の末期に両地域で文明が誕生しているので何らかの影響はあったのかもしれない*1。その他の地域についてもよく分からない。

ちなみに、ヒプシサーマル(hypsithermal)のサーマルは温度、ヒプシは高いの意味。

農耕地帯の拡散

f:id:rekisi2100:20181115230053p:plain:w600

出典:世界歴史体系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003/p36

  • 左下の数字は「前3000~前2000年」ではなく、「前5000~3000年」のような気がするのだが、どうだろう?
f:id:rekisi2100:20181113095355p:plain:w500
前4000年文化圏分布*2
  • 仰韶文化は中期新石器時代の中心となる文化。仰韶文化の中心部の黄河中流域は後に文明の中心部になる地域だ。歴史の順に言うと仰韶文化(前5000-前3500年)→龍山文化(前3500-2000年)→二里頭文化(前2000年、文明の誕生)。この地域は後に「中原(ちゅうげん)」と呼ばれる。

長江中・下流域では安定して農耕集落が広がっていくが、これは気候の最適化だけではなく、技術の進歩もあったようだ。

以下の引用では、長江下流江蘇省にある高郵龍虬荘遺跡を例に挙げて説明している。

同遺跡で出土した炭化米は、遺跡が存続した期間内に徐々に大粒化する傾向を示しており、段階的に品種の改良が進められたことも明らかになっている。稲作農耕はイネ栽培化初期の粗放な形のまま拡大したのではなく、水田の造成、品種の改良、農具の改良、およびそれらを可能にする集団の組織化とともに拡張されていったと考えられるのである。徐々に進行したであろう水田造成など稲作に伴う環境の改変は、長江中・下流域において、いわゆる江南地方の原初の景観を形成することになったであろう。

出典:西江氏(世界歴史体系 中国史1)/p41

水田の造成が行われるようになるの中で灌漑をするようになったのだろう。華北においても灌漑農法は中期新石器時代の内に始められたのだろう(文献では確認できなかったが)。

稲作の初期の風景

少し話はそれるが初期の稲作農耕の風景について話をする。

上の西江氏の引用で「段階的に品種の改良が進められたことも明らかになっている」とある。初期農耕が発見される遺跡では農具がほとんど検出されないらしいが、これに対して初期農耕がどのようなものだったか仮説を立てている人がいる。以前の記事「先史:中国における農耕の起源について」で触れた本田進一郎氏である。

本田氏は上述の記事で紹介した倉田のり氏の珠江流域起源説を支持した上で、農耕は湿原で行われ、舟を使っていたとする。

「無意識の選択」(品種改良)により、初期農耕のイネは脱粒しやすいもので、脱穀時はイネの穂を棒でたたいたり、手で扱(こ)いだり(しごいたり)して収穫することから始まったと思われる(栽培化の前の野生イネの脱穀も同じ)。だから特殊な農具は必要なかった。

稲作に舟を使っていたという推測は環濠が水利の意味を持っていたということから伺える*3

「穂摘具で収穫するようになったのはかなりあとで、穂摘具を使用するようになってから、非脱粒性の形質が強く選択されるようになった」。穂摘具などの収穫道具が検出される用になるのは超高下流域では崧澤文化(6,000年前)以降、中流域では屈家嶺文化(4,500年前)以降だ。

以上は本田氏の説だ。詳しくは本田氏のブログ記事「イネの起源2 2018年4月11日:Origin of Oryza sativa – 農業と本のブログ」を参照。



*1:メソポタミア文明のカテゴリーエジプト文明のカテゴリー参照

*2:Eastern China blank relief map - File:Eastern China blank relief map.svg - Wikimedia Commons」の地図を使用。
wikipediaの諸文化のページと『世界歴史体系 中国史1』(p33)を参考にした。
私見!中国人(漢民族)の歴史 ( 歴史 ) - とりとめなき飲み屋 - Yahoo!ブログ」というブログ記事も参考になった。

*3:西江氏(世界歴史体系 中国史1)/p40