歴史の世界

エジプト文明:先王朝時代③ ナカダ文化Ⅱ期後半(前3650-3300年) 前編

前回、Ⅰ期~Ⅱ期前半のあいだで、各集落で内部の発展と階層の分化が起こったことをやった。

今回はⅡ期後半。この時期は各集落間の格差が生じ、大型集落が中小の規模の集落をコントロールするまでになった。

集落間の格差

農耕・牧畜の安定的な生業基盤に支えられたナカダ文化は、この時期に文化・社会のさらなる発展を遂げる。まず集落では、長方形の家屋が新たに出現する。また建材として日乾レンガが使用されはじめる。さらに大きな変化として挙げられるのが、大型集落の出現である。つまりナカダⅡ期後半から、集落の規模に格差が生まれ、これまでと同様な小規模集落の他に、それをはるかに凌ぐ大型集落が誕生する。大型集落は、その規模や想定される人口から、ナカダⅡ期後半には都市ともよべる集落であったとされる。

出典:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p48

ということで、Ⅱ期後半のメインイベントは、集落間の格差と大型集落の出現。Ⅰ期~Ⅱ期前半(前4000-3650年)では、集落の中で、集落の規模に関わりなく、社会階層の分化が起こった。これがⅡ期後半になると集落間の格差が起こるようになる、ということだ。

しかし、この本のヒエラコンポリス遺跡の説明を読むとこの集落は、すでにⅠ期末には大型化をしていた。ナカダもⅡ期後半より前に大型化していたかもしれない。

さて、集落の規模は、各集落内の墓地の個数が参考になる。

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出典:高宮いづみ/エジプト文明の誕生/同成社/2003/p108

上の図はⅠ期からⅢ期までの墓地の検出個数。

超大型集落はヒエラコンポリスとナカダに限られる(ただし、Ⅲ期になるとアビドス(アビュドス)がこれに加わる)。高宮の本(p113)によると、これに次ぐ大型集落はアムラー、アッバディーヤ、バッラース。

これらの集落はすべてナカダ(集落)の周辺の上エジプト南部の集落で、北部およびデルタ地区が発展するのはⅢ期以降となる。

大型集落にはエリート層が出現する。エリート層は、支配者層とか特権階級、エスタブリッシュメントと言い換えられるかもしれない。血統によって、つまり一部の家系によって独占される。彼らがエジプト独自の政治・行政の基盤を作り上げていった。

彼らは地元の集落だけでなく、周辺の中小集落もコントロールするようになる。

地域統合の始まり

この時期はまだ文字が無いので、考古学的証拠つまり遺物から推測しなければならない。

その証拠となる遺物は波状把手土器(波状把手付土器、Wavy handled jar)だ。

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Naqada II–III 3650–2960 B.C.

出典:Wavy ledge handled jar/Museum of Fine Arts, Boston

この波状把手土器が「中小規模の集落」のステイタス・シンボルになる。

[ナカダⅡ期半ば]以降、王朝時代まで支配者のシンボルとして継続する棍棒象牙製品の副葬が、分析対象となった中・小規模の墓地ではほとんど途絶し、地域的なヴァリエーションも消失して、ステイタス・シンボルが波状取っ手土器に一律化してしまう。波状把手土器は、元来パレスチナ産の土器の模倣品であり、ナカダⅡ期中葉頃からエジプトで模倣生産が行われるようになるが、王朝時代に明瞭なシンボルとしての意味はしられていない。したがって、この時期に、各集落で自由に選択したわけではなく、かつ王朝時代に明瞭な支配者としての意味をもたないステイタス・シンボルが、中・小集落の支配者たちに普及したと考えられる。[中略]

中・小集落において支配者のステイタス・シンボルが一律化した一方、大型集落では伝統的なステイタスシンボルも継続していたことは、この頃進行した集落間の階層化と密接な関係がある。葬制における分家機から、この頃、大型集落でのみエリート層が発達したことが明らかになっており、それには大型集落が小型集落を政治的な支配下に置き、集落間に階層が生じた事情がともなっていた。そして、おそらく大型集落を中心とする政体の地域的な統合にともなって、ステイタス・シンボルがエリートたちにコントロールされるようになったのではないだろうか。当時のエジプトでは、波状把手土器の原型となったパレスチナ土器について知識をもつ人物は限られており、ラピスラズリの分布は、上エジプト南部の大型集落に居住するエリートたちが、北方からの交易品にアクセスする機会が多かったことを示している。パレスチナ土器を入手する機会がある大型集落のエリートたちが波状把手土器の生産をコントロールすれば、容易にステイタス・シンボルを支配できたであろうし、この頃から顕著になった従属の専門家組織は、それを可能にしたであろう。ここに、舶来品の模造品分配を通じて、地域における社会階層を制御しようとする、当時のエリートたちの戦略を見ることができるように思われる。

出典:高宮氏/p213-214

「従属の専門家組織」とは土器を作る職人集団のこと(後述)。

各地の墓地を調査すると大型集落の支配者層の墓地は安定的に一部の家系が連続していたが、中小規模の集落はそうではなかった(高宮氏/p139-141)。大型集落のコントロールの結果かもしれない。

職業集団の出現と大量消費社会の到来

上記のように土器をつくる従属の専門家組織が存在した。彼らはエリート層に庇護を受けていた。通年、食糧生産に従事せずに専ら土器などの製品をつくる専業職人は、エリート層の求めるモノをつくりその見返りに食料を得なければならなかった。エジプトの職業集団の出現はこのように始まったが、他地域に同じような減少があったのかもしれない。近代の音楽家や経済学者などが貴族の庇護の下に活動をしていたことが思い起こされる。

土器に関して言えば上述の波状把手土器以外に、工芸品としての装飾土器の発達や粗製土器の規格化が見られる。粗製土器は地域性が消失して規格化される。大型集落の職業集団の製品が各地に供給されたようだ。

また石製容器についても、材質の硬・軟を問わず、多様な石材を用いて様々な器形が数多く制作されるようになる。銅製品はそれまでのたたき技法に鋳造技法が新たに加わり、斧や短剣などの道具や装身具などが生産され、銅製品の使用がより一般的になる。

出典:馬場氏/p48

馬場氏は「エジプトではこの時期に大量先産大量消費社会が到来したのであり、それは経済活動が大きく変容したことを物語っている」と書いている(p49)。

交易

Ⅰ期~Ⅱ期前半までの交易はあまり活発とは言えなかったが、Ⅱ期後半になると活発化してくる。とりわけ境界を接しているヌビア勢力(ヌビアAグループ)とは活発化し、ヌビアでは多くのエジプト産の製品が出土する。地中海東岸からはパレスチナの土器とレバノンの木材が輸入された。しかし、それより遠方の西アジアアフガニスタンラピスラズリ以外はほとんど無い。

この頃は中距離交易ができる貿易組織はあったが、遠距離は中継交易をしていたらしい。そして交易組織は上エジプト南部の大型集落のエリートの支配下にあった。(高宮氏/p173)

家屋と墓

家屋は長方形のつくりで、建材は日乾レンガを使うようになった。

墓にも支配者層のものは日乾レンガが使われた。厚葬はバダリ文化(あるいはそれ以前)からの上エジプトの伝統だが、以前よりも墓の面積が広がり、土器などの威信材の数も増えた。

この厚葬の伝統がエリート層が職業集団をかかえた原因のひとつであった。



次回=後編に続く


エジプト文明:先王朝時代② ナカダ文化Ⅰ期~Ⅱ期前半(前4000-3650年)

ナカダ文化は先王朝時代の中核。先王朝時代の本体と言ったほうがいいかもしれない。先王朝時代は他にはバダリ文化とマアディ・ブト文化を含むがこれらの文化はナカダ文化の付属物に過ぎない。先王朝時代については記事「エジプト文明:先王朝時代について 」で、少し詳しく書いた。

ナカダ文化は約千年続くが、この時代の中でエジプトは、定住がほとんど見られない状態から統一王国になるまでが含まれている。

さて、以上のようにナカダ文化は千年のうちに激変するのだが、「エジプト考古学の父」と称されるイギリス考古学者のフリンダース・ピートリーにより、3つの時代に分けられた。現在ではこの区分に改良が重ねられてⅠ~Ⅲ期とこれらの区分のなかでさらに細かい区分が加えられている。

このブログでは、馬場匡浩氏の説明に従い、Ⅰ期~Ⅱ期前半、Ⅱ期後半、Ⅲ期に時代を分けることにする*1

そしてこの記事では最初のⅠ期~Ⅱ期前半についてやる。

ナカダ遺跡の位置

ナカダ文化の標識遺跡がナカダ遺跡。ナイル川が「フ」の字に曲がっている位置にある。

ナカダ文化の発祥の地はこのナカダからアビドス付近*2

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出典:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p33

ナカダは初期の金石併用文化の小さな集落だったが、時が経ち、エジプトの最古の都市の一つにまで発展した。

なぜ、このナカダが発展したのか? 魅力的な仮説がある。

ナカダ遺跡の対岸には、東部砂漠を貫いて紅海まで続く大きな涸れ谷ワディ・ハママートが存在する。ここを通って、東部砂漠の鉱物資源、また紅海沿岸を伝ってシナイ半島または南方のアフリカ大陸からエキゾチックな物資が集約された可能性がある。特に、王朝時代に入るとここは「黄金の街:ヌブト」と呼ばれていたことから、東部砂漠またはアフリカからもたらされた金の集積地として先王朝時代から機能していたのだろう。

出典:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p47-48

東部砂漠の鉱物資源については以下の図がある。

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出典:高宮いづみ/古代エジプト文明社会の形成/京都大学学術出版/2006/p16

生業

初期は先行のバダリ文化と変わらなかった。つまり、農耕・牧畜で、漁撈と狩猟採集で補完していた。

しかしこの時期に着実に進展した。

より農耕牧畜に依存した生業基盤を築き、エンマーコムギや六条オオムギ、アマの出土量は増加する。その他、豆や根菜といった野生植物、それにナツメヤシやイチジク、ドームヤシなどの果実も新たに加わり、より豊かな食生活であったようだ。動物では、引き続いてヒツジ、ヤギ、ブタ、ウシの家畜が主に飼育されていた一方で、野生動物の骨の出土量が減ることから、この時期、狩猟から家畜へノソ遺存が大きくシフトしたと考えられる。なお、魚骨の出土はこれまでと同様に多く、ナイル川での漁猟も主な生業活動の一つであった。

道具・工芸

土器

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Ovoid Naqada I (Amratian) black-topped terracotta vase, (c. 3800-3500 BC).

出典:Naqada black top - Amratian culture - Wikipedia

ナカダ文化の土器は、通常手ごねおよび紐作りで成形されるが、ナカダⅡ期頃から、口縁部付近の整形に回転台が用いられるようになった。また、ヒエラコンポリス遺跡からは窯が出土しており、ナカダⅠ期のうちから窯を用いた焼成が行われていたことが知られる。

出典:高宮いづみ/エジプト文明の誕生/同成社/2003/p80-81

この本によれば、ナカダ文化の土器は日用のためのものと精製のものに分かれる。集落址から出土する日用の土器は粗雑な作りのままだが、精製土器はⅠ期の頃に専門化、規格化が始まった。

石器

石器は、Ⅰ期は比較的小型の剥片を主体とした石器群が作られたが、Ⅱ期からは専門化が始まって大型の規則的な石刃を制作する技術が見られる。

その他の遺物

ナカダ文化の土器や石器以外の遺物は、前4千年紀の諸文化のなかでももっとも豊かである。櫛、ヘアピン、腕輪、ビーズなどの装身具、パレットや顔料などの化粧用具、歯牙・骨角製あるいは石製の護符、石製容器、銅製品、粘土製あるいは象牙製の人形など、生業活動に直結しない多様な品々が、とくに墓から豊富に出土している。比較的安定した定住生活と発展しつつある階級化社会のなかで、盛んに奢侈品が製作されるようになった結果であろう。

出典:高宮氏/p83

化粧用パレットの話。エジプトでは先史時代でも化粧をしていたようだが、化粧以外でも、強い陽光から目を保護するために顔料を目の下(まわり?)に塗っていたらしい(アイシャドウ)。また虫よけや宗教的な意味をこめて塗ってたという話もある。パレットの素材はスレート(粘板岩)。

王朝時代以前から、エジプトの人々は化粧にも高い関心を持っていた。前5000年紀から、墓には死者の遺体とともに化粧用のパレットが納められていて、これはアイシャドウなどの化粧品をすりつぶすために用いられた道具であった。青もしくは緑色のクジャク石、黒い色の方鉛鉱、赤い色の赤鉄鉱などが、古くから使われた化粧用の顔料である。これらの石をパレットですりつぶし、水や油を混ぜて、目の周りに塗布した。化粧用の顔料と思われる鉱物は、先王朝時代から墓に副葬品として納められていた。

出典:高宮いづみ/古代エジプト文明社会社会の形成/京都大学学術出版会/2006/p108

社会階層の分化

社会階層の分化については墓を見れば分かるらしい。

墓の埋葬方法自体は先行のバダリ分化とさほど変わらないのが、墓の大きさや副葬品の数にばらつきが生じたと言う。これはつまり、階層の二分化を表している。

この時代(Ⅰ~Ⅱ期前半)は、この文化内のどの地域においても二分化が見られた。時代が下るにしたがってその分化が大きくなった。

しかしⅡ期後半からは地域間の大小の格差が広がるにつれ、また違う複雑化が始まる。しかしこの話は次回にやろう(高宮氏/2003/p130-137)。

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出典:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p47

交易

さて、墓から出土する副葬品から、この時代の物質文化が豊かになったことがわかるが、これらの物品の中にはエジプトでは産出しない物が含まれている。

それらは交易で得られるものだが、2つの素材に関する引用をする。

これら工芸品に用いられる素材のなかで、長距離の交換・交易を示すものがある。それが、黒曜石とラピスラズリだ。これらはエジプトでは採取できない鉱物であり、その起源はおのずと遠方となる。黒曜石は、古くからアナトリア(トルコ)が原産として名を馳せており、それにより西アジアとの関連が示唆されていたが、近年の分析により、ナカダ分化出土の資料はどれもエチオピア東部またはイエメンが原産地であることが判明した。なお、下エジプトの黒曜石は従来どおりアナトリア産とされる。ラピスラズリについては、4,000km離れたアフガニスタンのバダクシャン地方の鉱脈がエジプトから最も近い産地であることから、西アジアを経由して入ってきたとされる。

出典:馬場氏/p46

エチオピア東部またはイエメン産の黒曜石に関しては、上述のワディ・ハママート経由かもしれないが、ヌビア勢力との交流を示すものかもしれない。ヌビアとの交流では、ヌビアにエジプト産の物品がたくさん出土する一方で、エジプトにヌビア産の物品がほとんど出土していない(高宮氏(2003)/p148)、鉱物資源など遺物として遺らないものと交換していたようだ。



*1:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p43

*2:高宮いづみ/エジプト文明の誕生/同成社/2003/p77

エジプト文明:先王朝時代① バダリ文化

場所

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出典:Absolute Egyptology - Egypt before the Pharaohs

中部エジプトのバダリ遺跡(El Badari)を中心とする。

時期

馬場匡浩氏によれば*1、前4400-4000年頃。

生活様式

生活の基盤は農耕・牧畜で、漁撈と狩猟採集で補完していた。

農耕は六条オオムギ、エンマーコムギ、マメと亜麻の栽培、家畜はヤギ、ヒツジ、ウシを飼っていた。ウシ以外は西アジア由来のものだ。これらは下エジプトから流入されたものとされている。

農耕・牧畜が主体になっているのだが、恒久的な住居の址は見つかっていないという。

墓については、比較的手厚く埋葬するというのが特徴だ。低位砂漠の縁辺部に集団墓地を形成した。どのように手厚いのかと言うと、マットや獣皮に包んで、多数の副葬品と共に埋葬した。副葬品は、人間や動物の像や石製のパレットや獣骨製の櫛や腕輪などが発見されている。このような埋葬の仕方をしたのはこの文化が最古だと言う。

また、エジプトで初めて独立した墓地が造営された。これがこの時期から社会階層の分化が始まったと言われる証拠となっている。

土器

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出典:Absolute Egyptology - Egypt before the Pharaohs

土器はこの時期より前の文化に比べると、より精巧なものとなっている。

バダリ文化の土器は、しばしば器面が櫛状の工具を用いて削って整形されており、波状の凹凸が生じている点が顕著な特徴である。[中略]胎土にはナイル沖積土を用い、ときに藁が混和されているが、概して緻密である。器面には鉄分を含む赤褐色の化粧土がかけられ、平坦に仕上げられたり、ていねいに研磨された。

出典:高宮いづみ/古代エジプト文明社会の形成/京都大学学術出版会/2006/p59

貿易

富裕層が副葬していた遺物には、凍石製や銅製のビーズ、紅海産の二枚貝トルコ石などが含まれる。これらは、彼らの生活圏であるナイル川流域では手に入らないものだ。銅とトルコ石シナイ半島であり、バダリ文化ではすでに遠距離の交換・交流があったようだ。

出典:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p43

紅海産の二枚貝は東部砂漠を横切るワディ・ハンママートという涸れ谷(ワディは涸れ谷の意)を通って輸入されたのかもしれない。ワディ・ハンママートには散発的なバダリ文化の遺物が出土するという。

ナブタ・プラヤとの関係

このことについては、記事「エジプト文明:先史⑨ 「緑のサハラ」時代の終焉とエジプト文明のつながり」に書いた。

まとめ

バダリ文化は社会階層の文化と金属の登場により金石併用文化に移行した、エジプトで初めての文化である。

この文化は次のナカダ文化に受け継がれる。



*1:古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p42

エジプト文明:先王朝時代について

先王朝時代

先王朝時代(エジプト先王朝時代)とはエジプト文明の基層となる文化の形成期のこと。

エジプト文明の基層となる文化」とはナカダ文化のことで、この時代の中心はナカダ文化の発展と拡大となる。

ただし、ナカダ文化の先行文化とされるバダリ文化も先王朝時代に入る。

この時代の年代と登場する文化

ナカダ文化以外の文化だと同時代のマアディ・ブト文化、先行文化のバダリ文化。これは馬場氏の本による*1。各文化は別の記事で書く。

馬場氏以外の説だとバダリ文化を入れずナカダ文化から始める説と、農耕・牧畜がはじまる説つまりファイユーム文化から始める説がある。これ以外でもあるかもしれないが省略。

年代については、馬場氏の本によれば、前4400-前3000年。前4400年はバダリ文化の始まり。前3000年は王朝時代の始まり(第1王朝・初期王朝時代の始まり)。

時代区分

古代エジプト史の時代区分では以下のようになる。

  • 新石器時代(?~前4400年)
  • 先王朝時代(前4400~前3000)
  • 初期王朝時代(前3000年~)

先王朝時代は考古学では金石併用時代から初期青銅時代。金石併用時代chalcolithicとは「人類が初めて金属として銅を発見し,石器とともにこれを利器として使用していた時期」*2

この時代に起こったこと

  • 金属加工(冶金)の出現
  • 社会階層の分化
  • 西アジアやヌビアなどとの交流

特に重要なことは2番目の社会階層の分化だ。新石器時代は巨石建造物などが出始めて共同作業とそれを監督するリーダーシップの登場が指摘されているが副葬品がなく、階層化もされていなかった。これが先王朝時代に階層ができて急速に発展し、末期に王が出現し、エジプトがとういつされて初期王朝時代になる。

最後に

先王朝時代より前も含めて、前五千年紀はゆっくりとしたペースで文化が変化していたが、前四千年紀は農耕・牧畜の定着を皮切りに急速に変化していった。そして千年弱の時間の中で原始時代と言われる社会から文明社会へと変わった。

次回から先王朝時代の文化を書いていこう。

エジプト文明:先史⑭ メリムデ文化

場所

メリムデ遺跡はナイル・デルタの西端、低位砂漠との境界にある現在名ワルダーンという村の近くにある。耕地拡張のため大半が破壊されてしまったと言う。

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出典:Merimde Beni Salama site in Delta is larger than was thought \Ahram Online 9 Apr 2015

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出典:Absolute Egyptology - Egypt before the Pharaohs

時期

馬場匡浩氏によれば*1、前5000-4100年頃。ファイユーム文化とほぼ並行して存在した。

文化

発掘の結果、5層の文化堆積が確認された。

第Ⅰ層はファイユーム文化と極めて似ており、西アジアとの接触があったことを示している。

第Ⅱ層は、骨製の銛、貝製の釣針、石斧などの存在から、アフリカ起源が推測されている。第Ⅰ層と違い、土器が複雑な器形など手の込(こ)んだものになってきた。石器も石刃・剥片の頻度が低くなり、両面加工石器が普及する。その中には鋸歯状の刃部を持つ穀物の刈り取りに使用したと思われる大型の鎌刃が現れた。

第Ⅲ-Ⅴ層では遺跡が拡張されている。地面を浅く掘り窪める家屋(竪穴式住居)が現れる。土器は器面がやや研磨されたものが現れるようになり、わずかだが彩文装飾も認められる。石器は大型の両面加工石器が主流になり、基部に抉(えぐ)りの入った(かえしのある)石鏃も発掘されている。

メリムデ文化の生業はファイユーム文化と基本的に同じ。ただし、次第に貯蔵穴が大きくなるため農耕の重要性が増していったと考えられる。ファイユーム文化は農耕・牧畜は狩猟・採集・漁撈を補完するほどのものだったが、メリムデ文化は、こちらが生活の基盤となった。

メリムデはナイル河の増水システムを利用した農耕が行われた最古の遺跡であるが、生業は農耕と牧畜を基盤としながらも、野生植物の採集、野生動物の狩猟および漁撈にも大きく依存していたと推測される。

出典:高宮いづみ/古代エジプト文明社会の形成/京都大学学術出版会/2006/p51

ファイユーム文化との違いは上述した家屋の他には墓と人物像がある。

多くの墓が発見されている。特徴としては、墓は住居からさほど離れていない場所に作られ、頭を南東に置き、顔を東に向けた屈葬。副葬品はほとんどない。

人物像は下の写真のようなものが発掘されている。どのような意味を持っているのかは分からない。

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出典:Absolute Egyptology - Egypt before the Pharaohs

(この節は高宮氏の本を参照。p47-51)

*1:古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p62

エジプト文明:先史⑬ ファイユーム文化

エジプトにおける農耕・牧畜を有する最古の文化はファイユーム文化だ。この文化は西アジア由来のものとされている。

ファイユーム文化は「ファイユームA文化、Faiyum A culture」と表されることがあるが同義だ。

現在のファイユーム低地

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出典:Nile River and delta from orbit - ナイル川デルタ - Wikipedia

・縦の緑の線の左にある横になったハート形の緑がファイユーム低地。ナイル川からおよそ30km。

上の航空写真は現在の様子。現在も緑に覆われている。エジプトのデルタ地帯に次ぐ穀倉地帯。低地(盆地)の北部にはカルーン湖があるが、現在は塩湖になっている。

エジプト中部のアシュート(Asyut)堰でナイル川からユースフ水路(Bahr Yussef)で水を引いている。ユースフ水路はナイル川のすぐ西隣を平行して走り、上エジプトの用水路として利用され、ファイユーム低地の手前で分岐した水路はカイロまでつながっている。

先史時代のファイユーム低地

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出典:高宮いづみ/古代エジプト文明社会の形成/京都大学学術出版会/2006/p16

  • 「ハトヌブ」という地点から分岐した支流がファイユーム低地そしてカルーン(Qarun)湖に流れ込んでいる。現在のユースフ水路は昔は当時は支流だった。

  • 古代の鉱物の話は別の機会にやる。

遺跡は現在の湖水面よりはるかに高い場所にあるのだ。その理由は、カルーン湖の水位変動という古環境にある。湖はナイル川とつながっているため、降雨量の増減による川の水位と地下水位に大きく影響を受け、これまで水位変動を繰り返してきた。現在のカルーン湖の水位は海抜-45mときわめて低いが、ファイユーム文化の時期は海抜+15mと水位がとても高く、その湖畔で人々は生活していたため、標高の高い場所に形成されたのだ。

出典:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p60

以下は、カルーン湖の水位の変遷

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the lake level during the Neolithic

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in Dynastic times

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in 1925

出典:Ancient Egyptian Mummies, Statues, Burial Practices and Artefacts 1*1

ファイユーム文化の生活様式

終末期旧石器時代にカルーニアン(カルーン)文化と呼ばれる文化があったが、ファイユーム文化との間に1000年以上もの断絶があり、2つの文化に継続性は無いとされている。*2

ファイユーム文化は下エジプトにおける最初期の新石器文化ということで本格的なものではなかったようだ。

ファイユーム文化の生業は、家畜動物と栽培植物が新たにレパートリーに加わったものの、そのほかは終末期旧石器時代のカルーン文化と大きく変わらないようである。したがって、ファイユーム文化は、狩猟・採集・漁撈に農耕・牧畜が付加され、生業が多様化したことが特徴であるが、本格的な生産経済に基盤を置く文化ではなかったかもしれない。ファイユームは地理的には、砂漠内のオアシスあるいは水たまりに近いとはいえ、カルーン湖の水位はナイル河と連動して変化していたらしく、この頃に王朝時代のような晩秋から冬にかけて麦類の栽培を行う農耕パターンが定着した蓋然性が高いであろう。

出典:高宮いづみ/エジプト文明の誕生/同成社/2003/p45

上の本によれば(p41-45)、エンマー小麦六条大麦二条大麦および亜麻が栽培されていた。

所蔵穴は合計150基を超え*3、鎌刃・石斧・石臼・石皿などの農具や調理器具の石器が数多く発見され、織物のための紡錘車・骨製の針や土器も発見されている。磨製石器もあり、新石器文化の道具は一通り揃っているようだ。ただし、新石器文化の要素の一つの巨大建造物は発見されていない。

その一方で石器は剥片石器群(剥片インダストリー)が道具の90%以上を占めている。磨製石器は少ないということらしい。

食料に関して。野生動物(ガゼル、ハーテビースト(ウシ科)、カバ、ワニ、カメなど)や魚類(ナマズ、ナイル・パーチなど)が検出されている。あとは野生か家畜か判断できないウシとブタの骨も検出されている。

集落について。集落址は3つのタイプが発見されている。

  1. 標高の高い場所、絶対に冠水しない場所に貯蔵穴のある大型の集落。
  2. 狩猟や漁猟のための湖の近くの大型の集落。季節的に冠水する場所。
  3. 一人が数日程度滞在するキャンプ。

これは初期の新石器文化ではよくある生活様式だ。

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出典:Absolute Egyptology - Egypt before the Pharaohs

時期

高宮氏(2003/p41)によれば、前5230年頃から約1千年、馬場氏によれば、前5500-4300年。

馬場氏はp62で「ヤギとヒツジはファイユーム文化が最古」としているが、p35では、前6000年に家畜されたヒツジとヤギがナブタ・プラヤで飼われていたとしている。食い違いだと思うのだが、これに対する説明は見当たらない。

ネットでエジプトおよび北アフリカにおける最古のヒツジ・ヤギの家畜の年代は多くの説があるらしい。馬場氏はナブタ・プラヤとファイユーム文化で全く違う文献を参考にしているのでこのような食い違いが発生したのだろう(ただそうだとしても読者が混乱しないように出版前に処置してほしかった)。

*1:著作者:Caton-Thompson E., Gardner E.(The Desert Fayum, Royal Anthropological Institute of Great Britain and Ireland, London, 1934) 

*2:近藤二郎/エジプトの考古学/同成社/1997/p43

*3:馬場氏(2017)によれば、300基ほど発見されている

エジプト文明:先史⑫ ナイル川流域がサハラ・サヘルより文化的に遅れていた

エジプト文明が誕生したのはナイル川河流域だが、北アフリカでこの地が常時文化的にリードしてきたわけではなかった。

最終的には、サハラ・サヘルから流入した遊牧中心の文化と西アジアからの農耕・牧畜=定住文化が統合されて文明が誕生することになる。

この記事で、文明誕生以前のナイル川流域の状況を中心に書いてみよう。

エジプト国内の新石器文化は、最初にナイル川西方のオアシスおよび低地において開花し、後にナイル川流域地方に伝播していったことだけは動かしがたい事実である。

現在までのところ、ナイル川流域の終末期旧石器文化の遺跡で、ナブタを除くと新石器分化段階への連続的な移行を示す遺跡は残念ながら発見されていない。

出典:近藤二郎/エジプトの考古学/同成社/1997/p43

サハラ・サヘルではウシの家畜化や土器の発明、穀物の集約的(集中的、選択的)採取など新石器化が進んだが、ナイル川流域が新石器化したのは農耕・牧畜の技術が西アジアから流入してきてからのことだ。

つまり、元々ナイル川流域に住んでいた人々の文化は停滞していた。言い方を変えれば、それまでの文化で安定した生活を遅れていたので変える必要はなかった。このような状況下での文化の発展は激動のサハラ・サヘルのそれに比べて遅れたのだろう。

最終氷期が終わり(12000年前)、湿潤化が始まった後でもサハラ・サヘルは比較的小さな乾燥期があって、その地域の人々はその天候の変化の対応に追われていたが、ナイル川流域の人々はあまり影響を受けなかったのだろう。

ナイル河畔の遺跡では、砂漠地帯よりももっと水産資源に依存した生活が営まれていた。たとえば、カルトゥーム中石器文化の遺跡ザッガイでは、動物遺存体が比較的よく残っており、そのなかでも魚類、ほ乳類および貝殻の骨が優勢で、鳥類とは虫類が少数含まれていたという。植物遺存体はほとんど残っていなかったが、人骨に含まれるストロンチウム含有量の分析と、植物食糧の処理に用いられたと思われる粉砕具の存在から、貝類と植物が重要な食糧であったことが推測されている。

ナイル河流域における豊富な水産資源は、終末期旧石器時代の狩猟・採集を基盤とする生業の人々にも、ある程度定住的な生活を可能にしたようである。ナイル河流域のザッガイ遺跡では、各季節ごとに利用できる資源が存在すること、遺跡の規模が大きいこと、用具が豊富であること、および埋葬の存在にもとづいて、安定した集落の存在が指摘されており、おそらくカルトゥーム遺跡においても定住的な生活が営まれていたであろう。

出典:高宮いづみ/エジプト文明の誕生/同成社/2003/p26

高宮氏によれば、終末期石器時代(湿潤期)のナイル川流域の遺跡は中流(現在のスーダン中部)に多数の遺跡が形成されていたが、下流は散発的にしか発見されていない(同著p26)。下流に遺跡が少ない理由は書かれていないが、デルタの沖積土の下に未発見の遺跡があるかもしれない、としている(p37)。

農耕・牧畜が始まらなかった理由

ナイル川河流域の農耕・牧畜の出現はファイユーム文化の前5500年以降である。そしてそれらは西アジアから流入してきた。農耕・牧畜は西アジアでは前8000年頃には開始されていた。

そもそもナイル川河流域は豊富な水と耕作地(沖積地)に恵まれ、潜在的に農耕・牧畜にきわめて適した場所であるが、なぜその導入が2,000年以上も遅れたのだろうか。これについて、K.A.バードが、いくつかの理由を指摘している。まず、後に栽培・家畜化されるようになる野生の植、動物がエジプトにはもともと存在しないこと。次に、エジプトと西アジアの接点であるレヴァントでも、農耕・牧畜の出現は紀元前6000年紀以降であり、また農耕に適さない乾燥地帯であるシナイ半島が自然の障壁となって、その流入を拒んだこと。そして、水と沖積地が豊かなナイル川下流域は、狩猟・採集民にとって恵まれた環境であったため、農耕・牧畜を取り入れる必要性に迫られなかったこと、などである。

出典:馬場匡浩/古代エジプトに学ぶ/六一書房/2017/p61