歴史の世界

エジプト文明:先史⑨ 「緑のサハラ」時代の終焉とエジプト文明とのつながり

前6000年頃から徐々に乾燥化が強まっていたが、前4000年頃(前3900年?)、さらに乾燥化が強まり、ここで「緑のサハラ」の時代は終わった(5.9 kiloyear event<wikipedia)。

サハラ・サヘルで生活していた多くの人々は四方に散ったが、その多くがナイル川流域に移動したと考えられている。そして彼らの持つ文化が後のエジプト文明に影響を与えた。

以下の引用はナブタ・プラヤの後期新石器時代が終わり、遺跡の連続性が途絶えた後の話についての推測。

これほどまでの文化はどこへいってしまったのであろうか。一つの可能性として、生活の拠点をナイル川下流域に移し、そこで土着の人々と融合し、セイン王朝時代の人々の祖となったというストーリーが挙げられる。その根拠は、タサ文化のチューリップ形土器(図3-5)と黒頂土器(ブラック・トップ)が、後期新石器時代の後半から、ナブタ・プラヤや近隣遺跡で出土しているからである。タサ文化は、上エジプトにおける先王朝時代の最古の文化であり、20世紀初頭に最初に発見されたタサ遺跡にちなんで名付けられた。[中略] つまり、後期新石器時代にはすでに、遊牧民ナイル川下流域での活動にウェイトを置くようになっており、その後の急激な乾燥化によって砂漠を放棄し、ナイル川に生活の場を完全に移行させたと考えられる。彼らが有する牧畜と栽培の技術、そしてリーダーを擁する社会組織が、上エジプトに先王朝時代の文化をもたらしたと考えられるのである(図3-6)。ちなみに、ファラオは両手に穀竿(ネケク)と笏杖(ヘカ)を持つ姿で表現されるが、前者は脱穀用の竿、後者は牧畜の杖である。つまりそれぞれ、ナイル川流域に住む農耕民と、砂漠を往き来する遊牧民を象徴しており、両者の融合がエジプト人のルーツであることを示しているように思われる。

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ただし、こうしたストーリーはそれを実証する明瞭な証拠がまだ薄く、今後の調査の結果を期待したい。なお、ナブタ・プラヤ遺跡をエジプト文明の巨石文化の起源とする話が散見されるが、巨石文化が継承された痕跡は後の先王朝時代には全くみられず、ピラミッドなどへの連続性はいまのところない。

出典:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p39-40

  • ピラミッドなどへの連続性はないらしい。