ナカダ文化は先王朝時代の中核。先王朝時代の本体と言ったほうがいいかもしれない。先王朝時代は他にはバダリ文化とマアディ・ブト文化を含むがこれらの文化はナカダ文化の付属物に過ぎない。先王朝時代については記事「エジプト文明:先王朝時代について 」で、少し詳しく書いた。
ナカダ文化は約千年続くが、この時代の中でエジプトは、定住がほとんど見られない状態から統一王国になるまでが含まれている。
さて、以上のようにナカダ文化は千年のうちに激変するのだが、「エジプト考古学の父」と称されるイギリス考古学者のフリンダース・ピートリーにより、3つの時代に分けられた。現在ではこの区分に改良が重ねられてⅠ~Ⅲ期とこれらの区分のなかでさらに細かい区分が加えられている。
このブログでは、馬場匡浩氏の説明に従い、Ⅰ期~Ⅱ期前半、Ⅱ期後半、Ⅲ期に時代を分けることにする*1。
そしてこの記事では最初のⅠ期~Ⅱ期前半についてやる。
ナカダ遺跡の位置
ナカダ文化の標識遺跡がナカダ遺跡。ナイル川が「フ」の字に曲がっている位置にある。
ナカダ文化の発祥の地はこのナカダからアビドス付近*2。
出典:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p33
ナカダは初期の金石併用文化の小さな集落だったが、時が経ち、エジプトの最古の都市の一つにまで発展した。
なぜ、このナカダが発展したのか? 魅力的な仮説がある。
ナカダ遺跡の対岸には、東部砂漠を貫いて紅海まで続く大きな涸れ谷ワディ・ハママートが存在する。ここを通って、東部砂漠の鉱物資源、また紅海沿岸を伝ってシナイ半島または南方のアフリカ大陸からエキゾチックな物資が集約された可能性がある。特に、王朝時代に入るとここは「黄金の街:ヌブト」と呼ばれていたことから、東部砂漠またはアフリカからもたらされた金の集積地として先王朝時代から機能していたのだろう。
出典:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p47-48
東部砂漠の鉱物資源については以下の図がある。
生業
初期は先行のバダリ文化と変わらなかった。つまり、農耕・牧畜で、漁撈と狩猟採集で補完していた。
しかしこの時期に着実に進展した。
より農耕牧畜に依存した生業基盤を築き、エンマーコムギや六条オオムギ、アマの出土量は増加する。その他、豆や根菜といった野生植物、それにナツメヤシやイチジク、ドームヤシなどの果実も新たに加わり、より豊かな食生活であったようだ。動物では、引き続いてヒツジ、ヤギ、ブタ、ウシの家畜が主に飼育されていた一方で、野生動物の骨の出土量が減ることから、この時期、狩猟から家畜へノソ遺存が大きくシフトしたと考えられる。なお、魚骨の出土はこれまでと同様に多く、ナイル川での漁猟も主な生業活動の一つであった。
道具・工芸
土器
Ovoid Naqada I (Amratian) black-topped terracotta vase, (c. 3800-3500 BC).
ナカダ文化の土器は、通常手ごねおよび紐作りで成形されるが、ナカダⅡ期頃から、口縁部付近の整形に回転台が用いられるようになった。また、ヒエラコンポリス遺跡からは窯が出土しており、ナカダⅠ期のうちから窯を用いた焼成が行われていたことが知られる。
この本によれば、ナカダ文化の土器は日用のためのものと精製のものに分かれる。集落址から出土する日用の土器は粗雑な作りのままだが、精製土器はⅠ期の頃に専門化、規格化が始まった。
石器
石器は、Ⅰ期は比較的小型の剥片を主体とした石器群が作られたが、Ⅱ期からは専門化が始まって大型の規則的な石刃を制作する技術が見られる。
その他の遺物
ナカダ文化の土器や石器以外の遺物は、前4千年紀の諸文化のなかでももっとも豊かである。櫛、ヘアピン、腕輪、ビーズなどの装身具、パレットや顔料などの化粧用具、歯牙・骨角製あるいは石製の護符、石製容器、銅製品、粘土製あるいは象牙製の人形など、生業活動に直結しない多様な品々が、とくに墓から豊富に出土している。比較的安定した定住生活と発展しつつある階級化社会のなかで、盛んに奢侈品が製作されるようになった結果であろう。
出典:高宮氏/p83
化粧用パレットの話。エジプトでは先史時代でも化粧をしていたようだが、化粧以外でも、強い陽光から目を保護するために顔料を目の下(まわり?)に塗っていたらしい(アイシャドウ)。また虫よけや宗教的な意味をこめて塗ってたという話もある。パレットの素材はスレート(粘板岩)。
王朝時代以前から、エジプトの人々は化粧にも高い関心を持っていた。前5000年紀から、墓には死者の遺体とともに化粧用のパレットが納められていて、これはアイシャドウなどの化粧品をすりつぶすために用いられた道具であった。青もしくは緑色のクジャク石、黒い色の方鉛鉱、赤い色の赤鉄鉱などが、古くから使われた化粧用の顔料である。これらの石をパレットですりつぶし、水や油を混ぜて、目の周りに塗布した。化粧用の顔料と思われる鉱物は、先王朝時代から墓に副葬品として納められていた。
社会階層の分化
社会階層の分化については墓を見れば分かるらしい。
墓の埋葬方法自体は先行のバダリ分化とさほど変わらないのが、墓の大きさや副葬品の数にばらつきが生じたと言う。これはつまり、階層の二分化を表している。
この時代(Ⅰ~Ⅱ期前半)は、この文化内のどの地域においても二分化が見られた。時代が下るにしたがってその分化が大きくなった。
しかしⅡ期後半からは地域間の大小の格差が広がるにつれ、また違う複雑化が始まる。しかしこの話は次回にやろう(高宮氏/2003/p130-137)。
出典:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p47
交易
さて、墓から出土する副葬品から、この時代の物質文化が豊かになったことがわかるが、これらの物品の中にはエジプトでは産出しない物が含まれている。
それらは交易で得られるものだが、2つの素材に関する引用をする。
これら工芸品に用いられる素材のなかで、長距離の交換・交易を示すものがある。それが、黒曜石とラピスラズリだ。これらはエジプトでは採取できない鉱物であり、その起源はおのずと遠方となる。黒曜石は、古くからアナトリア(トルコ)が原産として名を馳せており、それにより西アジアとの関連が示唆されていたが、近年の分析により、ナカダ分化出土の資料はどれもエチオピア東部またはイエメンが原産地であることが判明した。なお、下エジプトの黒曜石は従来どおりアナトリア産とされる。ラピスラズリについては、4,000km離れたアフガニスタンのバダクシャン地方の鉱脈がエジプトから最も近い産地であることから、西アジアを経由して入ってきたとされる。
出典:馬場氏/p46
エチオピア東部またはイエメン産の黒曜石に関しては、上述のワディ・ハママート経由かもしれないが、ヌビア勢力との交流を示すものかもしれない。ヌビアとの交流では、ヌビアにエジプト産の物品がたくさん出土する一方で、エジプトにヌビア産の物品がほとんど出土していない(高宮氏(2003)/p148)、鉱物資源など遺物として遺らないものと交換していたようだ。