歴史の世界

エジプト文明:先史⑪ ナイル川下流域 -- エジプト文明の舞台

北東アフリカの砂漠を貫くナイル川。アフリカ大陸の乾燥期に他の川や湖が干上がってもナイル川は干上がることはなかった。

ナイル川下流

ナイル川については「ナイル川wikipedia」に詳しく書いてある。

このページによれば、ナイル川の源流はヴィクトリア湖ではなく、その湖の源流のブルンジ共和国にあるという。ブルンジから河口までは直線で3800km。

ナイル川下流域と呼ばれる地域は、エジプト南部のアスワン(アスワンハイダムがある所)から河口まで、直線で約800km(東京から下関が直線でそのくらい)。

ナイル川下流域はナイル河谷とナイルデルタに分けることができる。これらをそれぞれ上エジプト、下エジプトという。

ナイル河谷(上エジプト)

ナイル河谷(ナイル渓谷 Nile Valley)はその名のとおり、ナイル川が長い年月をかけて台地の断層を侵食して形成した谷、河川侵食谷だ。両岸には高く聳える崖があり、高いところでは300mを越える*1。ただし東岸は絶壁である所が多い*2

断面図

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上エジプト、エジプト河谷の断面図(Butzer 1976:fig 1)

出典:高宮いづみ/古代エジプト文明社会の形成/京都大学学術出版会/2006/p11

地形模式図

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出典:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p16

上記2つの本に頼って、上エジプトの地理を見ていこう。

ナイル河谷は高校地理で習う河岸段丘になってる。

ナイル川:数千年の間で川筋が変わり、川の水量(流量)が変わっているため、河岸段丘や自然堤防ができている。

②沖積地:農耕の場。肥沃な土はエジプト文明を支え続けた。1年に定期的に増水→冠水する。冠水は不必要なものは流し、新しい沃土をもたらした。断面図にあるように襞(ひだ)状の隆起(自然堤防、高さ1~3m)がナイル川に平行してあり、増水時にも冠水しない微高地に人々は集落をつくった(しかし、度重なる堆積作用や現在の家屋により遺跡の検出例は乏しい)。

③低位砂漠:沖積地の外側の河岸段丘。2~3m高いため、冠水することは稀。幅は平均1~2kmだが、場所によって大きく異なる。沖積地との境界に墓地や神殿など数多くの遺跡が発見されている。人々はこの低位砂漠を利用しつつも沖積地に生活基盤を置いていた。

④涸れ谷:高位砂漠の雨水の侵食によってできた谷。大型の涸れ谷の河口付近は土砂が堆積して舌状地が形成されている。このような場所にも大規模な遺跡が見つかっている。

⑤高位砂漠:低位砂漠との境界は急崖になっていて、ナイル河谷の住人の視界を制限している。高位砂漠では主だった遺跡は検出されていない。

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上エジプトの景観
テーベ西岸からナイル河方向を望む。砂漠の緑にあるのは、ラメセウム(ラメセスⅡ世の葬祭殿。筆者撮影)

出典:古代エジプト文明社会の形成/口絵i

ナイルデルタ(Nile Delta・下エジプト)

ナイルデルタは巨大な三角州。カイロを少し下ったところから始まる。長い年月の中で堆積と侵食を繰り返してきた。その結果、大小の支流とゲジラ(島)と呼ばれる高地が形成された。高地の頂部には墓地が置かれ、集落は低い場所に形成された。遺跡は後世の堆積によって埋もれ、現在の地表の下4~6mで発見される。

ナイル河谷は砂漠気候だが、デルタ地帯は地中海性気候に属する(エジプトで砂漠気候でないのはデルタ地帯だけ)。

非常に肥沃な土地で、河川だけではなく豊富な沼沢地も存在する。現在もエジプト第一の穀倉地帯でウシの放牧も見られる。エジプト総人口8千万人の半数がここに住む。デルタ地帯の中から見えるのは緑で覆われた景観で砂漠は見えず、ナイル河谷とは全く違う。

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出典:Nile Delta Facts | Sciencing

ナイル川とデルタ地帯

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出典:Nile River and delta from orbit - ナイル川デルタ - Wikipedia

中央辺りのハート型の緑の部分はファイユーム低地。ファイユーム低地はファイユーム文化のところで書く。

緑の部分の陸地以外は砂漠。

ナイル川は生命線

ナイル川は、水量の増減はあるものの一年中涸れることなくエジプトに豊かな水をもたらし、同時に肥沃な土壌を運んでくれる。エジプト人の生活圏は、砂漠のオアシスを除いてはナイル渓谷とデルタに限られ、まさにナイルが生命線であり、唯一の恵みなのだ。

また、毎年おこるナイル川の増水もエジプトに大きな恩恵を与えた。水源地域ではモンスーンの影響で雨期に大量の雨が振り、それによりエジプトでは夏から秋にかけて川の水位が上昇し、ナイル渓谷とデルタの沖積地を冠水させた。この増水は「氾濫」や「洪水」などともよばれるが、だが実際は、それからイメージされる激しく危険な水位の変化ではない。7月頃からじわじわと水位が上がって川幅が広がり、9月をピークに徐々に水が退いていき、11月頃に元の水位に戻るという数ヶ月をかけたゆったりとした変化なのである。エジプト人にとってはまさに自然の恩恵であり、増水後にもたらされた水分と養分をたっぷり含んだ沃土(沖積土)を利用して容易に農耕ができ、滞留してできた湿地で漁猟や狩猟も行なうことができた。また、増水は土地を洗い流してくれるので、塩害や疫病を防いでくれたのだ。

出典:古代エジプトを学ぶ/p13-14

上の説明に加えて、ナイル川は交通としても利用されていた。砂漠と冠水した陸路は利用できず、交通の面においても生命線だった。

河口からアスワンの第一急流までの間は古来より交通路として非常に重要な地位を占めてきた。古代エジプト文明の時代より、エジプト人はナイル河畔に居住していた。特に第一急流までの間は河川交通によって密接に結ばれており、河口からここまでが「エジプト」として認識される部分であった。[中略]

冬季においては季節風を利用し、帆掛舟により、川を遡行することができた。

出典:ナイル川wikipedia



エジプト文明:先史⑩ 「緑のサハラ」時代/まとめ

この記事で「緑のサハラ」は終わりなので、まとめることにしよう。

「緑のサハラ」の始まり

およそ12000年前に最終氷期が終わり、サハラ・サヘルは湿潤化した。より正確に言えば、砂漠が縮小してサバンナが拡大した。

サバンナには湖ができ、狩猟採集民や遊牧民(非定住の牧畜民)がオアシスとして活用した。湖の中には乾季になると干上がるか極度に水の量が減るものもあった。また地表の近くに地下水が流れる場所も井戸を掘るなどして活用された。

土器の始まり

現段階での最古の土器は西アフリカ・マリ中部にあるオウンジョウゴウ ( Ounjougou ) のもの。1万1400年前(前9400年)という「緑のサハラ」が始まって間もない時期に早くも土器が登場した。

オウンジョウゴウ では土器と共に矢じり(鏃)も発掘された。発掘者(かつ研究者)によれば、新しい時代に対応するためにこの2つが発明された。

ウシの家畜化

遅くとも前5500年にはウシは家畜化されていた。ナブタ・プラヤでは野生牛オーロックスの骨が大量に発掘されているが、これらの骨は、おそらく家畜種になる前の馴化された野生種の骨なのだろう。生物学的(?)に野生種から家畜種に変わるには長い時間がかかったのだろう。

ウシは主に血や乳を調理に利用するために飼われた。食肉は犠牲にするときなどに限られた。

可食植物の集約的採取と栽培について

ナブタ・プラヤの家屋の周りには穀物ソルガム・ミレット)が貯蔵されている大きな穴がいくつもあった。

古代の人たちは野生の穀物を集約的に(集中して、選別して)採取していた。しかし不純物(?)を全く混入させずに選別することは難しいので栽培の可能性も主張されている。

サハラ・サヘルにおける経済

どうして集約的採取が必要だったのか?

まず第一の目的は、食物の狩猟・採集が難しい乾季を乗り切るためだが、その次の目的として物々交換の商品としてだ。物々交換における穀物は「商品貨幣」と呼ばれる。

「Ounjougou<wikipedia英語版」によれば、前9500-6750年の間にこのような「経済」が行われていたという。

ナブタ・プラヤでは年に一度、多くの集団が集まったようだが、これは経済活動の一環でもあったのだろう。

社会の高度化

ナブタ・プラヤにおける後期新石器時代に巨大な石の建築物が造られるようになった。このようなものを造るには協業が不可欠である。また、それを監督するリーダーがいたと言われている。この巨石建造物もリーダーの権力の誇示の現れなのかもしれない。

大人数が集まるところではまとめ役が必要であり、経済活動が行われれば争いごとの調停役が必要となる。秩序を構築するために、まとめ役・調停役に権威・権力が集中しリーダーの資格が与えられる。

ナブタ・プラヤで強いリーダーが生まれたのは、サハラ・サヘルの乾燥化が強まる過程で食糧資源が豊富なナイル川流域に近い場所だからかもしれない。つまりこの場所がナイル川とサハラ・サヘルの経済をつなぐ取引所であった可能性がある。

ちなみに、新石器時代においては比較的 平等な社会で、階級ができるのは後のことになる。

社会発達はナイル川流域より早かった

エジプト国内の新石器文化は、最初にナイル川西方のオアシスおよび低地において開花し、後にナイル川流域地方に伝播していったことだけは動かしがたい事実である。

現在までのところ、ナイル川流域の終末期旧石器文化の遺跡で、ナブタを除くと新石器分化段階への連続的な移行を示す遺跡は残念ながら発見されていない。

出典:近藤二郎/エジプトの考古学/同成社/1997/p43

まとめ

エジプト文明の食糧事情はその誕生以降、西アジア由来の穀物と家畜が支えた。このことから、文化文明も全て西アジア由来だと思われるかもしれない。私はそうだった。

しかし、旧石器時代から新石器時代に変わったのはナイル川流域よりもサハラ・サヘルの方が先で、「緑のサハラ」時代が終わってその文化はナイル川流入した。

ファラオは両手に穀竿(ネケク)と笏杖(ヘカ)を持つ姿で表現されるが、前者は脱穀用の竿、後者は牧畜の杖である。つまりそれぞれ、ナイル川流域に住む農耕民と、砂漠を往き来する遊牧民を象徴しており、両者の融合がエジプト人のルーツであることを示しているように思われる。

出典:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p39-40

エジプト文明ではウシは最も重要な家畜とされ、ウシ信仰もあり神話でも多く登場する。王家ではウシを飼う施設があった。




エジプト文明:先史⑨ 「緑のサハラ」時代の終焉とエジプト文明とのつながり

前6000年頃から徐々に乾燥化が強まっていたが、前4000年頃(前3900年?)、さらに乾燥化が強まり、ここで「緑のサハラ」の時代は終わった(5.9 kiloyear event<wikipedia)。

サハラ・サヘルで生活していた多くの人々は四方に散ったが、その多くがナイル川流域に移動したと考えられている。そして彼らの持つ文化が後のエジプト文明に影響を与えた。

以下の引用はナブタ・プラヤの後期新石器時代が終わり、遺跡の連続性が途絶えた後の話についての推測。

これほどまでの文化はどこへいってしまったのであろうか。一つの可能性として、生活の拠点をナイル川下流域に移し、そこで土着の人々と融合し、セイン王朝時代の人々の祖となったというストーリーが挙げられる。その根拠は、タサ文化のチューリップ形土器(図3-5)と黒頂土器(ブラック・トップ)が、後期新石器時代の後半から、ナブタ・プラヤや近隣遺跡で出土しているからである。タサ文化は、上エジプトにおける先王朝時代の最古の文化であり、20世紀初頭に最初に発見されたタサ遺跡にちなんで名付けられた。[中略] つまり、後期新石器時代にはすでに、遊牧民ナイル川下流域での活動にウェイトを置くようになっており、その後の急激な乾燥化によって砂漠を放棄し、ナイル川に生活の場を完全に移行させたと考えられる。彼らが有する牧畜と栽培の技術、そしてリーダーを擁する社会組織が、上エジプトに先王朝時代の文化をもたらしたと考えられるのである(図3-6)。ちなみに、ファラオは両手に穀竿(ネケク)と笏杖(ヘカ)を持つ姿で表現されるが、前者は脱穀用の竿、後者は牧畜の杖である。つまりそれぞれ、ナイル川流域に住む農耕民と、砂漠を往き来する遊牧民を象徴しており、両者の融合がエジプト人のルーツであることを示しているように思われる。

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ただし、こうしたストーリーはそれを実証する明瞭な証拠がまだ薄く、今後の調査の結果を期待したい。なお、ナブタ・プラヤ遺跡をエジプト文明の巨石文化の起源とする話が散見されるが、巨石文化が継承された痕跡は後の先王朝時代には全くみられず、ピラミッドなどへの連続性はいまのところない。

出典:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p39-40

  • ピラミッドなどへの連続性はないらしい。

エジプト文明:先史⑧ ナブタ・プラヤ 後編

前回からの続き。

引き続き、以下の2つを参考文献とする。

後期新石器時代

馬場氏によれば、後期新石器時代は紀元前5400-4400年。

このころの特徴は巨石文化の始まりだ。この巨石文化がナブタ・プラヤがエジプト文明の起源の一番の要因かもしれない。

祠堂(巨石の建築物)

上述の2つの参考文献を元に簡単に説明してみる(詳細はウェブサイト「ナブタ・プラヤ」 参照)。

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出典:牛の形に彫刻された岩の写真<ウェブサイト「ナブタ・プラヤ」

構造を説明するとまず、直径6m、深さ3mの穴を彫り、岩盤の卓上岩を整形し、その上にナブタ・シルト(泥のような砂屑)で埋めて、その上に彫刻された岩を入れて、またシルトで埋め、その上に複数の岩(埋めた場所の目印か?)を置いている。

彫刻された岩は重さが4トンもあり、ウシの形に整形され真北を向くように埋められている。

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出典:彫刻された岩<ウェブサイト「ナブタ・プラヤ」

岩の他に人骨が埋められているのではないか(つまりこれは墓なのではないか)と思われたが、人骨を含む他のものは無かった。

この巨石の建築物(?)が何なのかは謎のままだが、分かることもある。

いずれにせよ、巨石を動かし、整形して構造物を造る社会がすでに存在していたことに驚かされる。これは明らかに個人を超えた作業であり、集団の協業がない限りなし得ない。そこには、協業的活動を支持・統括するいリーダーの存在があったにちがいない。ここに複雑化社会の萌芽がみてとれ、そして、リーダーを中心とした社会の紐帯を強化したのは、石塚の例にみる信仰の存在が大きかったと考えられるのである。

出典:馬場氏/p38

石塚

引用にある石塚について。

当時の遊牧民にとって雨は最大の恵みであったが、そのための雨乞または祭祀といった信仰も芽生えていたようだ。この時代のナブタ・プラヤでは、砂岩の岩で覆われた石塚が少なくとも13ヵ所で確認された。石塚の内部は人工物(ゴミ)が堆積し、その下には動物が埋葬されていた。ヒツジやヤギも見つかったが、ほぼ完全なかたちの仔牛の骨もあった。また人骨を埋葬した石塚もあった。遊牧民にとって、ウシは「歩く貯蔵庫」といわれるほど貴重な財産であり、祭祀や儀礼以外に殺して肉を食すことはめったにない。こうしたことから発掘者は、これら石塚は、雨乞のための生け贄、または雨に対する祝宴と雨の神への献納として築かれたという。雨期にナブタ・プラヤに遊牧民が集まり、一年に一度の祝宴や祭祀がここで執り行われていたのであり、この時期すでに自然に対する信仰があったようだ。

出典:馬場氏/p37

信仰・宗教はバラバラに生活している牧畜民(遊牧民)を一ヶ所に集う力を持っている。彼らは雨乞や祝宴を開いて紐帯を強化する。

これらの牧畜民の集団どうしの結びつきは、互助の働きや経済・情報のネットワーク形成などに重要なものだ。

そしてこの集団が大きくなり、リーダーを生みだし、巨大な建築物を造るまでになった。

このリーダーがこの集団を「支配」したかどうかは分からなかった。

カレンダー・サークル

もう一つ、有名なものがある。

まず注目されるのが、小高い丘の上につくられた環状列石だ(図3-3)。これは、直径4m弱の円形状に砂岩の平板を立てたもので、対を成す大きめの平板が4組、十字状に配置されている。そのうち、2組はほぼ正確に南北を指し、もう2組は北から東に70度ぶれた位置に置かれている。この赤ちゃんストーンヘンジを「カレンダー・サークル」と発掘者のウェンドルフはよぶが、その理由は、70度の指す方向が夏至日の太陽の日の出の位置を指すからという。つまりこれは日時計なのだ。雨による恵みを求めてナブタ・プラヤに訪れる遊牧民にとって、雨期の到来を告げる夏至を予測することはなによりも重要だったのだ。

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出典:馬場氏/p36

これが文明の誕生よりも前に、正確な科学的知識が存在していた証拠となっている。これはナブタ・プラヤの魅力の一つとなっている。

エジプト文明:先史⑦ ナブタ・プラヤ 前編

ナブタ・プラヤ遺跡(Nabta Playa)は、「緑のサハラ」時代のサハラ・サヘルにおける最も有名な遺跡だ。後世のエジプト文明の起源とも言われているが、確実な証拠はない。

「緑のサハラ」については、記事「エジプト文明:先史① 緑のサハラ 」参照。

主な参考文献

馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017

第3章の「エジプト文明の起源(新石器時代)」がナブタ・プラヤに当てられている。

ナブタ・プラヤを扱う日本語の書物は数少なく、その中でもこの本はおそらく最新のものだと思う。

冒頭の「はじめに」によれば、著者の馬場氏は有名なエジプト考古学者の吉村作治氏のお弟子さん(?)だそうだ。

ナブタ・プラヤ|Nabta Playa|人類歴史年表

非常に詳しく描かれているウェブサイト。参考文献もしっかり書いてあり。図表や写真も豊富。

ナブタ・プラヤの現在と過去

ナブタ・プラヤは現在のエジプト南部、スーダンとの国境の近く、ナイル川から西へ約100kmの地点の砂漠にある盆地にある。

上で紹介したウェブサイトの「ナブタ・プラヤ」の「はじめに」には、現在の砂丘と盆地の写真が貼られている。

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第8章で言及した地名を含むサハラ砂漠とエジプトの地図

出典:ブライアン・フェイガン/古代文明と気候大変動/河出書房新社/2005(原著は2004年出版)/p209

現在は年間降水量1mm未満だが、「緑のサハラ」時代にはこの大きな盆地(プラヤ)は季節的な湖となった。湖畔には植物が繁茂し、乾季になっても井戸を掘れば水が確保できた。この湖畔があった場所に沿って遺跡が遺っている。

ナブタ・プラヤの人々は、秋から春の間ここで生活し、夏の雨期は他の場所に移動した。夏が終わった頃、湖畔に繁茂した植物を採取し、それを貯蔵して冬以降の食糧として備蓄した。冬は乾期となるため、深く大きな井戸を掘って水を確保していた。井戸はサハラ砂漠で最古の例である。

出典:馬場氏/p32

ウェブサイト「ナブタ・プラヤ」の第Ⅱ部第1章「三つの地域」に遺跡の分布図がある。

初期の住居跡

ナブタ・プラヤの歴史については、ウェブサイト「ナブタ・プラヤ」の第Ⅰ部 「第一章 歴史」で簡潔に書かれている。

正確な年代については様々な説がある。

12000年前に最終氷期が終わり、北アフリカは「緑のサハラ」の時代に入る。そして湿潤化したナブタ・プラヤに人々が集まってくる。

前8800年頃から人々が住んでいる形跡が出始める。

ウシや土器については前回、前々回でやった。

旧石器時代は雨風を避けるために洞窟や岩陰を住居(の代わり?)にしていたが、ナブタ・プラヤでは簡単ながら家屋を造っていた(家屋の起源についてはしらべていない)。

床は30cmほど掘り下げ、壁と天井は、湖畔に自生するタマリスクやアカシアの灌木を骨組みにして、葦やマットで覆って作られていたようだ。家屋の形状は楕円や円形であるが、なかには長さ7mのものも存在する(図3-2)。床面には土器が埋め込まれ、また中心軸に沿って炉址が設けられていた。[中略]

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図3-2ナブタ・プラヤの家屋復元図

家屋の周辺には貯蔵穴が多く見つかっており、ソルガムやミレットなどの雑穀を主に貯蔵していた。石皿と磨り石も多く出土していることから、雑穀は挽いて粉にして、お粥のように食されていたようだ。

出典:馬場氏/p34

馬場氏はソルガムの栽培についても言及している。

形態的には野生種であるものの、栽培されていた可能性が指摘されている。なぜなら、貯蔵穴にはソルガムのみが入れられており、それだけを選別して採取することが難しいからである。つまり、ソルガムの種を撒いて意図的に育てていたのだ。

出典:馬場氏/p34

ナトゥーフ文化の生活環境にかなり似ている(ナトゥーフ文化はepipaleolithic(終末期旧石器時代))。日本の縄文時代にも似ているかもしれない。

ナブタ・プラヤの「新石器時代」について

この地域の歴史については新石器時代から話が始まることが多い。それより前の文化(旧石器文化以前)は、無いか無視できるレベルということらしい。

新石器の定義には一般的に、農耕と牧畜、土器と磨製石器、そして定住が挙げられるが、ナブタ・プラヤ遺跡では、ウシの牧畜、土器の製作しか当てはまらない。農耕はソルガム栽培の可能性にとどまり、定住も通年ではなく、雨期の夏はここから移動していたとされる。[中略]ただやはり、遊牧民でありつつも、土器を作り、集約的な食物採取を行い、家屋を造って比較的長く一ヶ所に留まる生活様式は、北東アフリカのそれまでの旧石器文化とは大きく異なる。ナブタ・プラヤは、完全なる新石器化への過渡期の遺跡なのだ。

出典:馬場氏/p35

定住と非定住の文化は根本的に違うと思うが、非定住民の完全なる新石器がどのようなものなのかが分からない。

前期新石器文化と中期新石器文化

上の二つの文献では、前期(初期)新石器文化の始まりの年代は異なるが、中期新石器時代の年代はだいたい前6000年、前5900年と近い年代におまっている。

前6000年までに出揃ったもの。

  • ウシの家畜化(遅くとも前5500年頃には確実に家畜化されていた)。
  • 土器の制作。
  • 井戸を掘る。
  • 家屋を造る。
  • ソルガムの栽培と乾期をやり過ごすための貯蔵。

そして前6000年以降になると、西アジアからナイル川を通ってヒツジ・ヤギの家畜技術が導入された。「ウシとは違い、ヒツジとヤギは主に食肉用として持ち込まれた」(馬場氏/p36)、とある。ただしこれらの家畜が普及するのは、ナブタ・プラヤを含むサハラ・サヘル、ナイル川流域両方とも前五千年紀後半以降らしい。

もう一つ重要なこととして、宗教関連のことがある。

前5900年頃には、周辺の各地から集まった遊牧民たちが、物々交換や情報交換や冠婚葬祭の儀式を行うようになり(マルヴィル:1998年)、ナブタ・プラヤはこの地域のための、一つの大きな 「集会場(祭儀場)」 とされるまでに育っていきます。実はこの 「祭儀場」 の存在が、この砂漠の「僻地における、意外なほどの文化の発展の、大きな原因の一つだと、考えられるのですが、それについては後で詳しく触れます。

出典:ウェブサイト「ナブタ・プラヤ」

これについて著者は「 文化の発展の、大きな原因の一つ」に「集団の拡大効果」 を挙げている。つまり、文字システムの無い時代には情報を多くの人々で共有することによって、文化の保存、伝播、普及、そして各地の文化を土台とした技術や文化様式の発明が為されることを主張している。

西アジアのギョベクリ テペも宗教的な建築物で集会場だと言われているが、上のような役割を持っていたとも思われている。

馬場氏によれば(p34)、この時代(前6000-5500年)は「前時代に比べ乾燥化が進」んでいた時代ということで、ナイル川流域からの物資を求めて、西のサハラ・サヘルから多くの牧畜民が訪れたのかもしれない。

(以下次回)

エジプト文明:先史⑥ 土器の出現

土器が初めて作られた場所は日本を含む東アジアだが、二番目はアフリカ、サハラ・サヘルだそうだ。

この記事はサハラ・サヘルにおける土器の誕生とその後の話(日本・東アジアの土器については別の機会にやろう)。

アフリカ最古の土器(西アフリカ・マリ)

サハラ・サヘルの最古の土器は西アフリカで発見されたもの。

ジュネーブ大学のエリック・ヒュイセコム教授率いる、28カ国から集まった50人の国際チームが、アフリカのマリ中部で1万1400年前の土器を発掘した。これまで発見されたアフリカの土器の中でも最古のものという。

発掘場所はユネスコ世界遺産に登録されているバンディアガラ断崖の近く、オウンジョウゴウ ( Ounjougou ) 。人類の進化と気候の変化との関係についての新理論につながる発掘でもある。

2002〜2004年に発掘された地層から、6個の土器のかけらが発掘された。それらは最低1万1400年前のものという。これまで発掘された最古の土器は、中東およびサハラ東部から出土したもので、9000〜1万年前のものだ。

出典:アフリカ最古の土器を発見 2007-02-04 - SWI swissinfo.ch

1万1400年前(前9400年)といえば、最終氷期の終わり=完新世の始まり=「緑のサハラ」の始まりの時期の直後だ。

このニュース記事のインタビューに答えたエリック・ヒュイセコム(Eric Huysecom)氏によれば、土器はまさに気候変動によって起こった発明だと指摘している。

さらにヒュイセコム氏は興味深いことを言っている。土器と同じ時期に矢じりも発明された、さらにはその状況は東アジアも同様だと。

さらに今回の発掘で解明したのは、土器の発明と矢じりの発明が同時代に起こったということだ。矢じりで草原のウサギや鳥を獲ったのだという。西部アフリカと同じ年代の土器と矢じりがシベリア、中国、日本の3点を結ぶトライアングル地帯でも発掘されている。「アフリカとアジアの2つの地域で、ほぼ同時に土器と矢じりが発明され、しかも同じような気候であったということが重要なのです。というのも、人類は気候の変化にどのように対応するのかということが、これで分かるからです」とヒュイセコム教授は説明する。

出典:前掲記事

  • 先史の石で作った矢じりは細石器microlithに分類され、中石器時代または終末期旧石器時代(Epipaleolithic)の特徴の一つ。

ただし、東アジアでの最古の土器出現の時期は氷河期の最中であった*1 *2

リビアの遺跡による調理用土器の例

今週のオンライン版に掲載される論文によれば、かつて緑のサバンナであったサハラでは、1万200年も昔の新石器時代人が野生の穀物や多葉植物、水生植物を土器で調理していたという。

人類史の中で、土器は約1万6,000年前の東アジアと、約1万2,000年前の北アフリカの2回にわたって互いに無関係に発明されたと考えられている。その土器について、牛乳などの動物産品の加工に利用されたことを示す証拠は存在するが、植物の料理で果たした役割は知られていなかった。

Richard Evershedたちは、リビアサハラのTakarkoriおよびUan Afuda遺跡から出土した合計110個の土器片を調べた。土器に残されている脂質付着物の炭素同位体比を分析した結果、その土器は、多葉植物、種子、穀物、および水生植物など、周辺の湖沼およびサバンナで採集された多様な植物の加工に利用されていたことが示された。

その土器は、この地域での植物の栽培化および農業に4000年以上先行することが分かった。研究チームは、前期完新世の狩猟採集民が当時の緑のサハラに存在した穀物などの野生植物によって食事の必要を充足させる上で、今回の知見によって想定された植物加工技術が極めて重要であった可能性があると結論付けている。

出典:植物の加熱調理には1万年の歴史がある | Nature Plants | Nature Research

ナブタ・プラヤにおける貯蔵用その他の例

エジプトにおける土器の最古の例はナブタ・プラヤだそうだ。

ウェブサイト『ナブタ・プラヤ|Nabta Playa|人類歴史年表』の「第Ⅱ部・第三章・(四)土器」によれば、最古のもので前8200年の土器片とのこと。

以下は別の参考図書からの引用。

在地の粘土を用い、全てお椀のかたちに作られている。外面全体には櫛目文様が施されており、縄文土器のような雰囲気を醸し出している。この装飾は同時代のスーダンの土器と類似しており、文化的つながりがあったことを示唆する。前期新石器時代の土器には煤(すす)の付着が一切みられないため、調理用ではなく、貯蔵・運搬または儀礼用の容器として用いられたとされる。

出典:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p34

  • この本でのナブタ・プラヤにおける前期新石器時代の年代は、紀元前7050~6700年。学者によって年代が変わるので参考程度で。

家屋の床面に埋め込まれた大きな土器の中には野生の雑穀(ミレットやソルガム)を貯蔵した。

ナイル河流域への普及について

ナイル河流域で普遍的に使用されるのは前6千年紀後半だそうだ*3。この普及はサハラからではなく、北方の(西アジア由来の)ファイユーム文化からかもしれない。

エジプト文明:先史⑤ アフリカにおけるウシの家畜化

以前は農耕・家畜ともに西アジアから流入してきたとされていたが、ウシに関してはアフリカで独自に家畜化されたとする説が出てきた。

この記事ではウシの家畜化と牧畜の状況・環境・その後について書く。

家畜と家畜化

家畜とは「人間の生活に利用する目的で、野生動物から遺伝的に改良した動物をいう」*1

次に家畜化について。

動物の家畜化(かちくか)あるいは植物の栽培化(さいばいか、英: domestication)とは、動物あるいは植物の集団が選択過程を通して、人間に有益な特徴を際立たせるよう遺伝子レベルで変化させられる過程である。この過程では動物の表現型発現および遺伝子型における変化が起きるため、動物を人間の存在に慣らす単純な過程である調教とは異なる。生物の多様性に関する条約では、「飼育種又は栽培種」とは、「人がその必要を満たすため進化の過程に影響を与えた種」とされている[1]。したがって、家畜化・栽培化の決定的な特徴は人為選択である。人間は、食品あるいは価値の高い商品(羊毛、綿、絹など)の生産や様々な種類の労働の補助(交通、保護、戦争など)、科学研究、ペットあるいは観賞植物として単純に楽しむためなど様々な理由でこれらの生物集団を制御下に置き世話をしてきた。

出典:家畜化<wikipedia

  • 英語では家畜化も栽培化も domestication。
  • 人に都合がいいように進化させるので、人為選択または人為淘汰である。
  • 家畜化されると進化するので、種も変わる。

ウシの家畜化について

一般的にウシは、家畜牛のことをさす*2

ウシの祖先はオーロックスaurochsで、ユーラシアとアフリカで生息していた。オーロックスは絶滅している。

一般的には、西アジアとインドで独自に家畜化されたと言われているが、アフリカでも独自に家畜化されたという説もある(後述)。

アフリカのウシの家畜化

ウシの家畜化については、記事「アフリカ大陸の農業の起源について」の節「ウシの家畜化」で書いたことがあるが、ここでは別の引用をしよう。

アフリカ大陸最古の確実な家畜化された牛の例は、アルジェリアのカペレッティから出土した例で、前7~6千年紀に年代づけられるが、これをやや控えめに見積もってか、従来家畜化も西アジアから導入されたという説が主流を占めてきた。

しかし、アフリカ大陸北東部における牛の家畜化が、今から9000年くらい前、すなわち西アジアにおける家畜化に匹敵するくらい古くに始まっていたという説が、1980年代にウェンドルフらから提示された(Wendorf et al. 1984)。西アジアにおける牛の家畜化は前6千年紀に年代づけられるので、この説は、アフリカ大陸において独自に家畜化が始まったことを意味する点でも重要である。

その根拠は、ナブタ・プラヤやビール・キセイバなどのサハラ砂漠東部の遺跡において、少数ながらいまから9000年前よりもはやくから今から5000年前頃まで連続的に大型の牛科動物の骨が出土することであった。断片的な資料から牛の種類を特定するのは困難であるが、さまざまな可能性を検討した結果、野生の牛(Bos primigenius)もしくは家畜化された牛(Bos primigenius f. taurus)であろうと推測されている。いずれの遺跡においても出土数が少なく、形態的特徴からは野生種か家畜種か判別できないために、こうした資料は牛の家畜化を確証するものではないと、この説に否定的な研究者も少なくない。

しかしながら、肯定的な研究者たちは当時の環境を重視する。この頃のサハラ砂漠東部は、現在よりも湿潤であったとはいえ、少なくとも2日に1回は飲み水を必要とする牛にとって、十分な環境ではなかった。実際、これらの遺跡において出土する他の動物骨は、野ウサギ、ガゼル、オリックスなどの乾燥に強い動物に限られる。野生の牛が独自に到達しにくい場所に形成された遺跡からつねに牛の骨が出土することは、その牛の移動に人間が関与したことを示す可能性が高いという。[中略]

もしもウェンドルフらが推測したように、砂漠から出土した牛の骨が家畜化された牛のものであり、その牛が人間によって西部砂漠に連れてこられたものならば、それより古い段階に、牛が自然に生息していたどこかの地域で馴化されていたことになる。砂漠の遺跡との直接の関係は明らかでないものの、ナイル河流域では、すでに後期旧石器時代完新世より前の時代――引用者注]から人びとが牛を重視していたようであり、牛の家畜化がさらに古くまでさかのぼるかもしれない(高橋 1999 a;b)。

出典:出典:高宮いづみ/エジプト文明の誕生(世界の考古学⑭)/同成社/2003/p35-36

  • 「cattle<wikipedia英語版」によれば、西アジアでの家畜化は10500年前に遡るという説を紹介している。

家畜化する前の状態のウシの生息地を人間がどのようにコントロールしたのかが分からない。狩猟採集民の集団が三方から弧を描いて野生の牛(オーロックス)の群を追い立てて一方向に向かわせたのだろうか。

また、家畜化はアフリカ独自で行われたが、去勢などの技術や犠牲にするなどの文化的側面その他のいくつかは西アジアのものを取入れたかもしれない。

家畜化と気候変動を関連付ける説もある。前6000年頃に比較的短い乾燥期が訪れたが、この時期に家畜化が行われたという*3。野生の牛はもともと人間が近づいても攻撃することを露わにしなければ警戒しない特性を持ち、さらに気候が乾燥した環境の中で水源から離れようとしなかった。こうした状況で狩猟採集民は容易にコントロールできた、というシナリオ。遅くとも前5500年頃には確実に家畜化されていたという。

ちなみに、「saharan rock art<wikipedia英語版」によれば、7200年前(前5200年)より前からサハラ・サヘル地帯に牧畜の風景の絵が出現しはじめた。

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Photo credit: africanrockart.org

ウシの利用

ウシはその肉を食べるためというよりも血と乳を飲食するために飼われていた。ある本には遊牧民(牧畜民)にとってのウシは「歩く貯蔵庫」と言われるほどの貴重な財産としている*4

牛が雌雄同数の子牛を産むのは、生物学的に避けられない事実であり、牧畜民のもとには繁殖に必要な数を大幅に上回る頭数のオスが生まれた。オスの子牛は殺されるか、去勢されて太らされ、牛乳が不足した場合に備えて肉の供給源として飼育された。こうした余剰分はきわめて貴重な社会的手段であり、妻を娶るために払われ、社会の絆を固め、儀式的な義務をはたすためにも利用された。したがって、それは富と自尊心、社会的名声、そして遠隔地の野営地にクラス人びととの家族的および個人的な関係を象徴していたのである。雄牛は精力的な指導者の象徴であり、重要な族長の象徴となった。

出典:ブライアン・フェイガン/古代文明と気候大変動/河出書房新社/2005(原著は2004年出版)/p222

文明成立以降のウシ

すこし、文明成立以降の話をする。

以上にいくつか引用したように、ウシは信仰の対象であり、富・強い指導者の象徴だった。

サハラ・サヘルの牧畜民の一部が「緑のサハラ」時代以降にナイル川流域に移住したため、上のような文化がエジプト文明に溶け込んだ。

宗教に関しては、神話の中に取入れられた。ブログ『現在位置を確認します。』の記事「丑年+古代エジプト というわけで古代エジプトの牛の話。」によれば、雄牛は「基本的に、気高さや雄雄しさの象徴。」、雌牛は「基本的に、母性や愛の象徴。」となっているという。

古代エジプト人はオシリス、ハトホル信仰を通して雄牛(ハピ、ギリシャ名ではアピス)を聖牛として崇め、第一王朝時代(紀元前2900年ごろ)には「ハピの走り」と呼ばれる行事が行われていた[36]。創造神プタハの化身としてアピス牛信仰は古代エジプトに根を下ろし、ラムセス2世の時代にはアピス牛のための地下墳墓セラペウムが建設された[36]。聖牛の特徴とされる全身が黒く、額に白い菱形の模様を持つウシが生まれると生涯神殿で手厚い世話を受け、死んだ時には国中が喪に服した。

出典:ウシ<wikipedia

もうひとつ、「富・強い指導者の象徴」について。

王朝時代に入ってからのウシの利用は、一般の農民は農作業などの役畜としてだった一方で、王家は領地にウシを飼う施設を設けて飼育していた*5

また王が描かれているパレットや壁画では王の腰に雄牛の尾が着けられている。これが王の象徴・証(あかし)らしい。詳しくは「ナルメルのパレット(3) 牡牛の試練 ( 人類学と考古学 ) - オルタナティブを考えるブログ - Yahoo!ブログ」を参照。

牧畜民のネットワーク

再び文明成立前に話を戻す。

前5000年(7000年前)になると再びサハラ・サヘルは湿潤になり、牧畜民の生活可能な空間が広がった。

これだけ遠距離に散らばっても、牧畜民が使っていた道具は驚くほど似ており、そのなかには精巧なつくりのやじりや、斧や丸のみなど木の加工用の道具のほか、家畜の乳を入れておく椀型の壺もあった。これは驚くべきことではない。氷河時代にシベリアやアラスカにいた狩人と同様、これらの人びとも技術より情報を頼りにしていたのであり、牧草地や水がどこで見つかるかといった知識と、何キロも離れた場所にいる何百もの独立した牧畜民の野営地を結ぶ社会的なネットワークに依存していたからだ。サハラでは今日でも、同じような社会的な絆が結ばれている。

出典:ブライアン氏/p221

このことについてはのちのユーラシア北部(中央ユーラシア)の遊牧民にも当てはまる。



何でもかんでも気候変動に関連付けるのは馬鹿げていると思う人が少なくないと思うが、まあ、可能性のひとつだ。または気候変動が主要因でなくてもマイナーな要因の一つになるかもしれない。

*1:家畜/日本大百科全書(ニッポニカ) - コトバンク

*2:ウシ<wikipediaウシとは - コトバンク 

*3:ブライアン・フェイガン/古代文明と気候大変動/河出書房新社/2005(原著は2004年出版)/p219

*4:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p37

*5:高宮いづみ/古代エジプト文明社会の形成/京都大学学術出版会/2006/p80