歴史の世界

楚漢戦争㉗ まとめ その3

今回は項羽政権の崩壊と劉邦の再登場。

項羽は天下を取ったはいいものの何の準備もしていなかったため、その体制は簡単に瓦解してしまった。

中華世界は再び動乱へと戻っていったが、項羽の軍門に降っていた劉邦はこの機に乗じて関中を制圧し、項羽に宣戦布告をする。

第四幕:項羽の天下とその崩壊

鴻門の会において劉邦項羽に屈服した時点で、中華世界では項羽に逆らえる勢力は無かった。

項羽の上司として懐王が存在していたが、楚国以外の勢力が懐王に従う環境は全く無かった。彼らは項羽が持つ軍事力の前に従属しているのであり、軍事力を持たない懐王の存在など関心も無かっただろう。

項羽政権

漢元年(前206年)の1月、項羽は反秦戦争の論功行賞を行い18王の分封ほか中華世界の領土を貢献した者に分け与えた。

項羽は自らを西楚覇王とし、楚・懐王を義帝として、項羽政権を築いた。

この体制は義帝からは実権を取り上げて項羽が中華全体を支配するというものだった。日本の江戸時代の体制に似ている。

ただし、楚の人口の多い地域は自らのものにしたものの、他地域は分封してしまったため、始めから大きな権力は持っていなかったといえる。

再び動乱はじまる

諸侯は4月になってから封地に赴いたが、動乱は早くも5月に始まった。

最初の反乱を起こしたのは斉の田栄。鉅鹿の戦い以前、田栄は斉国の事実上の支配者であったが、反秦戦争に参加せずに内政に努めていた。

しかし田栄に反する形で2人の田氏が参戦し、項羽は戦後にこの二人に分封するために斉を三分割した。自領を勝手に分割された田栄は兵を挙げ、取られた領地を回復した。

項羽は自分の決定に従わない田栄を討伐するために斉地に出兵したが、7月に燕で臧荼が反乱を起こし、8月にはいよいよ劉邦が動き出す。

中華世界は再び動乱に戻り、項羽による統一中国は数ヶ月で瓦解した。

第五幕:直接対決始まる

彭城の戦い

項羽が対斉戦争に集中している隙に劉邦は関中をほぼ征服して漢王国を建国した。王国の体制を確立した上で東進し、 ついに項羽との直接対決となる。劉邦は韓・魏を呑み込み、さらに趙の陳余を味方につけて、項羽都城である彭城に攻め込んだ。その総勢は56万と称した(彭城の戦い。漢二年(前205年)4月)。

項羽が斉の地で戦闘中で彭城には居なかったこともあり、劉邦軍は容易に彭城を陥落させた。あまりにも容易に成功したためか完全に軍がゆるんでしまい、帰還した項羽の数万の軍勢に攻撃されると壊滅状態に陥った。劉邦は命からがら逃げ切ったが、父親と嫁(劉太公と呂雉)を人質に取られてしまった。

陳余が項羽側に寝返っただけでなく斉の田横(田栄の死後の継承者)まで講和した。

滎陽の攻防と韓信の戦略

劉邦は関中へ戻らず、なんとか滎陽で踏みとどまった。

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出典:藤田勝久/項羽と劉邦の時代/講談社選書メチエ/2006/p164

この滎陽で劉邦は防戦一方となるのだが、ここにはちゃんとした戦略があった。この戦略に項羽はまんまと嵌ってしまうのだが、その戦略とは至って簡単なものだった。すなわち、劉邦が戦いの最前線である滎陽で交戦し項羽本隊を惹きつける。その隙に韓信ら精強部隊が北方を攻め占領していく、というものだ。この戦略はおそらく韓信が立てたもので、韓信項羽以外は敵ではないと看破し、実際その通りだった。

滎陽城は陥落し、多大な犠牲を出し、劉邦も危ういところで脱出するほどであったが、韓信の軍が駐屯する修武にたどり着いて息を吹き返す。そして項羽が滎陽城を落とした頃には韓信は趙を攻め落としていた。

劉邦は新しい兵を得て攻勢に転じ、彭越がゲリラ戦を展開して楚の兵站ネットワークを破壊して廻った。さらに韓信は燕王になっていた臧荼を兵を使わずに服属させ、そのあと斉を攻め落とした。

項羽は龍且と周蘭に20万と号する大軍を与えて斉にいる韓信軍を攻撃させたが、韓信はこれを撃破した。負けたこの大軍は項羽軍の総数に近い軍勢で、後世から見ると、これが撃破された時点で項羽の敗北が決していた(漢三年(前204年)11月)。