歴史の世界

秦代⑩:「朝廷」「朝礼」「朝貢」「冊封」

「朝廷」「朝礼」「朝貢」は秦代で始まったことではないが、これらは秦代から始まる中華帝国のシステムの一部、ということで ここで紹介する。

ネタ元は岡田英弘宮脇淳子両氏 *1。 以下は主要なもの。youtube動画を視聴すれば理解できてしまうと思うが、そこで話されていないことも書く。

「朝廷」「朝礼」の起源の話

「朝廷」「朝礼」「朝貢」がどの時代に始まったか詳しくは分からないが、宮脇氏によれば「都市=国であったころ」、つまり都市国家の時代に始まった。

余談だが、中国史において殷周時代は封建制(邑制国家、都市国家連合体制)で、領域国家に変わるのは戦国時代に入ってからと言われている。ただし春秋時代の半ばでも晋のような大国が周辺の小国を併呑していた。

さて、「朝廷」「朝礼」の話に戻す。

「朝礼」というと、学校で朝、生徒がグランドに集まって「礼!」をして、校長先生や教頭先生が話をするようなイメージでしょうか。しかし、元来は市場の開始前に行なわれるものでした。「皇帝は最大の資本家」といいましたが、皇帝はもともと市場の一番偉い人、商売を仕切る人でした。

都市の真ん中に役所があり、その前に大きな広場、庭がある。それが「朝廷」です。「朝廷」の「廷」は本来「庭」という意味なのです。そこで、市場開始の日の出前、暗い時分に全員で集まり、整列して、神様にお礼の儀式をします。それが「朝礼」です。その後、朝廷の北側にある市場で取引きが開始されます。

出典:【皇帝たちの中国史1】中国・皇帝とは何か~シナ文明と始皇帝|歴史チャンネル

これが初期の「朝廷」「朝礼」のイメージ。都市国家の長は皇帝ではなく王または諸侯。

朝礼で示される序列

「朝礼」では、皇帝直属の臣下が位に従って並びます。そのときに、「人」が「立」つ場所が「位」です。「位」という漢字は、形のとおりの意味で、一位、二位、三位というのは、本当に一、二、三……と並ぶ位置のことだったのです。「正」と「従」があり、「正一位」が最も高く、以下「従一位」「正二位」「従二位」……「正九位」「従九位」と続きます。

皇帝の一番近くに立つ人が、最も上位の人、大臣です。

出典:宮脇淳子/【皇帝たちの中国史1】中国・皇帝とは何か~シナ文明と始皇帝|歴史チャンネル

日本の朝廷もこれに倣って作られた。

下は紫禁城故宮博物館の太和殿)

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出典:【6月19日配信】皇帝たちの中国 第3回「朝貢の真実」宮脇淳子 田沼隆志【チャンネルくらら】 - YouTube

朝貢の実態

朝貢」とは、以上で説明した朝礼の場に中央政府の外部から来た者が貢ぎ物を持って参加することを言う。朝貢は国外だけではなく、国内の地方の者の参列も含む。

この朝貢は皇帝(または王、諸侯)たちにとって重要な場だった。

どのように重要だったのかを説明する前に、中国人の特性を示さなくてはならない。

一つ目。

中国人は、ひとりずつ見ると、一匹の竜のようだ。中国人はひとりなら、その場所が、研究室にしろ、試験場にしろ、とにかく人間関係を必要としない状況ならば、ひじょうにすばらしい仕事をすることができる。しかし、三人の中国人が一緒になると、つまり三匹の竜が一緒になると、たちまち一匹の豚、いや一匹の虫、いや一匹の虫にさえも及ばなくなる。なぜなら中国人のもっとも得意なのは、派閥争いと内ゲバなのだから……

出典:岡田英弘/この厄介な国、中国/ワック/2001 (『妻も敵なり』(1997/クレスト社)を改訂したもの)/p96(ただし、この文章は柏楊『醜い中国人』からの引用)

上の文章の前段として「日本人は、ひとりずつ見ると、まるで一匹の豚のようだ。しかし、三人の日本人が一緒になると、まさに一匹の竜になる」とある(三人集まらないと一人の中国人に対抗できない)。

以上のようなことは中国人だけの特徴とは思えない。イスラエルでもイタリアでも韓国でも同じようなことがお国事情として語られる。要するに、日本の団結精神のほうが世界に比べて際立っていると考えたほうがいいかもしれない。

さて話を戻して2つ目。

中国人は人的ネットワークを重要視する。外部の都市の人間と婚姻関係を結ぶことによって より強いネットワークを築いた。そして、より多くの、より遠くのネットワークを持っている人物は尊敬された。

これも中国だけの話ではないが、日本とは比べ物にならないくらい弱肉強食な中国ではネットワークの多寡は一人の人物の価値に大きく影響したのだろう。そして現代も同じ。

2つの特性を頭に入れた後に以下の引用を読んでみよう。

「朝廷」で、遠方の国からやってきたエキゾチックな服装の人々が、皇帝に珍しい品物を献上する。それは、多くの人が居並ぶ中で、皇帝の権威を高める演出として効果的です。訪問者の国が遠ければ遠いほど、立派な大国であればあるほど、持参する品物が珍しければ珍しいほどいいのです。

皇帝にとっても、ウエルカムなわけで、どんどん朝貢に来てほしい。ですから、顎足つき(あごあしつき=交通費・食事つき)なのです。一歩でもシナに入ったら、もう食べ物・飲み物、宿泊費用まで、全部、シナ側が持ってくれるというのが普通です。費用だけでなく、ふさわしい身なりをはじめ一挙手一投足を教えてくれます。

出典:宮脇氏

朝貢は皇帝自身のネットワークの広さを臣下たちに示すデモンストレーションだった。これにより臣下たちは皇帝に偉大さを感じて平伏するというわけだ。

皇帝が朝礼に参列している臣下に向かって言いたいことは「お前たちはどう思っているかしらないけれど、外部の人間はわしを最高権力者と認めておるんだぞ」 *2

もちろん それはフィクションなのだが、中国ではこのような茶番が連綿と続けられて現在も同じようなことをやっているそうだ。

朝貢する側の話

朝貢する側も、強制されてイヤイヤ行っていたわけではありません。古い時代には日本の北九州あたりの豪族が、シナ皇帝の出先機関の役人のいわれるままに朝貢したでしょう。行けば、返礼として、持参した以上のお宝がもらえます。そんな話を伝え聞いた人は「俺も行こう」と思ったでしょう。そうやって付き合いが始まり、広がっていったのです。

出典:宮脇氏

朝貢をした人物たちは上にあるように貢ぎ物以上の返礼も大変魅力なわけだが、それだけではなかった。彼らは国に帰って原住民に「返礼」を見せて、皇帝とのネットワークを持っていることを自慢できる。前近代の中国は東アジアの国々にとって比類なき大国であったので中国皇帝とつながっている人物はそれだけで重要視される。これは現代日本でも同様で、日本の総理大臣の価値のバロメーターの一つに米大統領との親密度がある。

ここで、引用にある「日本の北九州あたりの豪族」に関連した話をひとつ。これは漢委奴国王印をもらった博多港にいた豪族の酋長の話。

後漢光武帝博多港にいた豪族に金印を渡して倭の国王に仕立て上げた。当時(西暦57年)の日本は都市すら無い時代だったので、王と言っても名ばかりの酋長だったが、彼を中国商人の保護と交渉の窓口を委託した。

そしてこの王は日本列島(と言っても西日本の一部だが)における中国貿易の利権を独占した。倭人の諸勢力は貿易の旨味にあずかるために、王に冥加金を渡さなくてはならなかった。こうして王は皇帝からの返礼のみならず、日本の他地域からの冥加金を貰える利権を手にした。このようにして日本は経済が系列化して、これが日本の政治を作り上げていった。(岡田英弘/日本史の誕生/弓立社/1994/p56)

このようなことは邪馬台国卑弥呼も同様だ(長くなるのでここでは書かない)。

朝貢冊封の関係

冊封の話はおそらく秦代とは関係無い話だが、朝貢と関連が深い言葉なのでここで書く。

冊封とは、中国の皇帝が、その一族、功臣もしくは周辺諸国の君主に、王、侯などの爵位を与えて、これを藩国とすることである。冊封の冊とはその際に金印とともに与えられる冊命書、すなわち任命書のことであり、封とは藩国とすること、すなわち封建することである。

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)/冊封体制(さくほうたいせい)とは - コトバンク

  • 上の引用のネタ元は『西嶋定生著「六~八世紀の東アジア」(『岩波講座 日本歴史2』所収・1962・岩波書店)』
  • 「藩国」とは従属国のこと。
  • 起源については「国内で郡国制が採用された漢代初期から朝鮮、南越を対象として発生する」とある。

さて、朝貢冊封の関係について。

冊封国には毎年の朝貢、中国の元号・暦(正朔)を使用することなどが義務付けられ、中国から出兵を命令されることもあるが、その逆に冊封国が攻撃を受けた場合は中国に対して救援を求めることができる。

ただし、これら冊封国の義務は多くが理念的なものであり、これを逐一遵守する方がむしろ例外である。例えば、朝貢の頻度は、冊封国側の事情によってこれが左右される傾向が見られる。 正朔についても、中国向けの外交文書ではこれを遵守するが、国内向けには独自の年号・暦を使うことが多い。またこれら冊封国の違約については、中国王朝側もその他に実利的な理由がない限りは、これをわざわざ咎めるようなことをしないのが通例であった。

出典:冊封 - Wikipedia

朝貢」は貢ぎ物を差し出して返礼を受ける一連の行為。「冊封」は形式的な主従関係を結ぶ行為、と覚えればいいだろう。

上で触れた「委奴国王」は冊封されたということになる。しかし「委奴国」自体が国家というレベルに達しているかどうかすら疑問であるので、上のような義務を果たしたと考えるほうが間違っているように思う。

なお、西嶋定生氏が作った「冊封体制」という言葉についてはここでは書かない。



*1:岡田英弘宮脇淳子両氏は夫婦で、岡田氏は宮脇氏の師匠

*2:『この厄介な国、中国』p98を参照