歴史の世界

エジプト文明:中王国時代③ 第12王朝 その1 王朝交代と初代王アメンエムハト1世

王朝交代

前回も書いたが、第11王朝の最後の王はメンチュヘテプ4世という。彼の治世についてほとんど何も分かっていないが、彼の宰相(の一人?)がアメンエムハトという名だということは分かっている。

エジプトの宮廷には常に何人かの実力者がおり、メンチュホテプ4世の短い治世においても最も影響力があったのは、「エリートの一員」で「市長」、「宰相」、「王のための労働監督官」で王の寵臣でもあるアメンエムハトだった。彼の初期の経歴について知らせてくれるのは、主として東部砂漠の奥深く、ワディ・ハンママートのシルト岩採掘場の岩壁ニ刻まれた四つの銘文である。メンチュホテプ4世2年、アメンエムハトは遠征隊を率いて、王の石棺のための貴重な黒緑色の石材ブロックを切り出して持ち帰った。アメンエムハトはこの企てすべてについて、異常なほど詳細にわたる記録を採石場に確実に残るようにし、この任務の成功がもっぱら彼自身の力によることを示したのである。

出典:トビー・ウィルキンソン/図説 古代エジプト人物列伝/悠書館/2014(原著は2007年出版)/p125-126

このアメンエムハトが第12王朝の初代王アメンエムハト1世と同一人物だと考えられている。ただし決定的な証拠は無い。

初代王アメンエムハト1世

アメンエムハト1世が主役の王朝交代劇がどのようなものかは分かっていないが、さほど混乱もなかったようだ。

王は先王朝が行った四方への遠征を継続させながら国内の平和を維持し、さらに王独自の業績を持って後世の繁栄を導いた。

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アメンエムハト1世のレリーフ

出典:アメンエムハト1世 - Wikipedia

  • アメンエムハト1世の葬祭殿より発掘された。

業績①王都遷移

アメンエムハト1世は、王都をテーベからイチ・タウイと命名された場所に移した。現在この場所は分かっていないが、ファイユーム地方の近くのナイル河谷のリシュトにピラミッドを建造したので、王都はその付近にあったと考えられている。

上下エジプトの境に王都を建造して、両者をにらみを効かせるためだったと考えられている。王都イチ・タウイの名は「二つの土地の征服者」という意味を持っている。

業績②ピラミッド建造

古王国時代後半のピラミッドを真似て建造した。今では砂山のようになっている。(Pyramid of Amenemhet I - Wikipedia 参照)

業績③外征と「支配者の壁」

アメンエムハト1世は、ヌビアやアジア(パレスチナ)に外征したようだが、注目すべきものの一つに「支配者の壁」というものがある。

古王国後期以来、エジプトは北東部国境で、「砂上に住む者たち」という形の厄介な問題に絶えず悩まされてきた。シナイ半島パレスチナ南部に住む彼ら半遊牧部族民はエジプトの隊商を定期的に襲撃しており、それによって中断していた。第6王朝のウェニが率いた遠征のように、ときおりおこなわれる軍事遠征は、エジプトの支配を重ねて主張するには役立っていたが、今では脅威の性格が変わっていた。ナイル・デルタの肥沃な農地は、より過酷な環境のレヴァントからあの同じ部族民を惹きつけ、絶え間なく流入させていたのである。もし今後も歯止めがかからなければ、異民族の大規模なエジプト移住によって、国内の安定が脅かされることになる。そこでアメンエムハトは、「支配者の壁」として知られる大規模な防御要塞線を、エジプト北東部国境の全域に建設するよう命じた。この防衛線は200年間にわたってその目的を果たし、「二つの国土」が異国の過度の影響から比較的安全でいられるよう守り続けることとなる。

出典:ウィルキンソン氏/p127-128

業績④共同統治(と暗殺)

アメンエムハト1世の最大の業績は、共同統治のシステムを導入したことで、この制度は第12王朝のあいだ生きつづけた。治世20年目に、息子のセンウセレト1世を共同統治のとして王位につけ、自分が殺害されるまでの10年間、親子で王位を共有した。この間、若きセンウセレトは東西の国境を維持し、南方への伸長をつづけるなど主に軍事を担当した。

出典:ピーター・クレイトン/古代エジプトファラオ歴代誌/創元社/1999(原著は1994年出版)/p100

アメンエムハト1世の最期は、上のように暗殺で終わる。

『アメンエムハト1世の教訓』は王の暗殺後に書かれた文学作品に王が暗殺された場面が生々しく書いてある。これが本当かどうかは分からないが、後世の人々は王が暗殺されたことは事実と認識されていただろう。

この暗殺によって、図らずも共同統治システムの優秀さが発揮された。息子のセンウセレト1世は西方砂漠の遠征から急遽王都に戻り、混乱を直ちに治めることができた。

共同統治は第12王朝のあいだ存続して、平和と繁栄の一助となった。

正当性を主張するための文学『ネフェルティの予言』

「アメンエムハト1世または第12王朝は、先王朝を受け継ぐべき正当性を持っていない」と思っていた人々もいたようだ。アメンエムハト1世は、彼に反発する諸勢力を艦隊を使って討伐したようだが*1、これとは別に正当性を主張したものがある。

それが『ネフェルティの予言』という政治文学作品であった。

第1中間期の内戦と無政府状態古代エジプト人の心に大きな襲撃を与え、それだけにこの混乱を克服した新しい王朝に対して、「救世主(メシア)」(それは政治的メシアであるが)によって救済されたのであるという見方を生み出したことは容易に想像できよう。この作品はこうした風潮を利用して、第11王朝による国家統一事業を無視し、新しい第12王朝の祖アメンエムハト1世こそこのメシアであるとして、その地位を正当化しようとしたものである。

出典:杉勇 , 屋形禎亮 (翻訳)/エジプト神話集成 /ちくま学芸文庫/2016(『筑摩世界文学大系 1 古代オリエント集』(1978年)の「エジプト」の章を文庫化したもの)/p608-609

この本によれば、作品ができた時期はアメンエムハト1世が即位して間もなくであるとされている。

この作品の要旨はwikipediaに簡潔に書いてある。

『ネフェルティの予言』は、遥か昔の古王国時代に第12王朝の創設者アメンエムハト1世が救済者として現れることが予言されていたと記す事後予言の体裁を取る物語である。全体は三部で構成され、第1部では物語の舞台としてのスネフェル王の宮廷で、ネフェルティが予言を語るに至った経緯を語る。第2部では(古王国から見て)将来に訪れる混乱と無秩序の時代が描写され、その悲惨さが述べられる。第3部で、南方よりきたアメニ(アメンエムハト1世)が秩序を確立し、国土を救済される様が予言されるというものである。

出典:エジプト中王国 - Wikipedia

この作品内では、アメンエムハトが「支配者の壁」を建造することまで予言されている。

スターリンの国内向けプロパガンダのようだが、スターリンとは違い、平和と繁栄の礎を築いた王であったようだ。