ルネサンスの発祥の地はイタリア北部。商業発達を背景に文芸のパトロンとなる。
ルネサンス北部
イタリア北部は、十字軍の頃から東方貿易(東地中海諸勢力との貿易)で栄えていた。世界史の地図だと14~15世紀のイタリア北部は神聖ローマ帝国の領土とされていることが多いので名目上はそうなのだろうが、実際は各地の有力勢力が実権を握って独立していた。
神聖ローマ帝国はドイツに注力していたのでイタリアには断続的な干渉をする程度だった。皇帝フリードリヒ2世(在位:1220-1250)の軍事的干渉からイタリア戦争(1494~)までは軍事的干渉は無かった。
フィレンツェとメディチ家
フィレンツェはイタリア北部の中でも有力な共和国だった。この地がルネサンスの発信源とされる。有名な銀行家のメディチ家は15世紀初めから有力な政治家となるが、中葉になるといよいよ実権を握る。
メディチ家は、ジョヴァンニ・ディ・ビッチ(1360年 - 1429年)の代に銀行業で大きな成功を収める。メディチ銀行はローマやヴェネツィアへ支店網を広げ、1410年にはローマ教皇庁会計院の財務管理者となり、教皇庁の金融業務で優位な立場を得て、莫大な収益を手にすることに成功した。[中略]
ジョヴァンニの息子コジモ(1389年 - 1464年、コジモ・イル・ヴェッキオ)は政敵によって一時追放されるが、1434年にフィレンツェに帰還し、政府の実権を握る(1434年から一時期を除き、1737年までのメディチ家の支配体制の基礎が確立する)。自らの派閥が常に多数を占めるように公職選挙制度を操作し、事実上の支配者(シニョリーア)としてフィレンツェ共和国を統治した。家業の銀行業も隆盛を極め、支店網はイタリア各地の他、ロンドン・ジュネーヴ・アヴィニョン・ブルッヘなどへ拡大した。メディチ家はイタリアだけでなくヨーロッパでも有数の大富豪となった。
東方から複式簿記や銀行為替などの知識をいち早く導入し、海上保険業や両替業などもこなしていた。 *1
ルネサンスのパトロンとして有名なのはコジモとロレンツォ。ロレンツォはダ=ヴィンチ(1452~1519)やミケランジェロ(1475~1564)のパトロン。コジモの代には東ローマ帝国が滅亡(1453)した時に多くの学者を保護した。彼らはギリシア哲学などの古典哲学の発展に寄与した。
1453年はイタリア北部にも大きな危機感を与え、政争に明け暮れていた諸国は1454年に和約を結び(ローディの和)、約1世紀の休戦をもたらした。 *2
ただし、上の引用ではメディチ家の支配が1737年まで続くとあるが、メディチ家がルネサンスのパトロンとして機能していたのはロレンツォが1492年に死去するまでだ。彼の息子ピエロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチが後を継いだが才が無く、反メディチ家に打倒されてしまった。これによりフィレンツェはルネサンスの牽引する役目を果たせなくなった。
もう一つのパトロン代表格、ローマ教皇
この時期のローマ教皇は「ルネサンス教皇」と呼ばれることがある。「世俗化された教皇たち」とされ、キリスト教の教義の伸展には寄与せず、文芸のパトロンなどの世俗的な行動のみ注目される。
公会議主義の終焉から宗教改革直前まで(15世紀後半から16世紀初頭まで)に活躍した教皇の中には、ニコラウス5世のように教会改革に尽力した教皇もいるが事績が目立たない。親族優遇人事(ネポティズム)・聖職売買・政治的陰謀・女性問題等々の世俗的な挿話の方が有名で、「よくて軍人、悪ければ暴君」(G・バラクロウ『中世教皇史』)という評価となっている。
またローマを拠点として教皇領の保全に注力し、ユリウス2世のようにそのためには武力抗争も辞さずという教皇がいる。再編された教皇庁において人文主義者(ポッジョ・ブラッチョリーニやプラーティナなど)を盛んに登用。また掌璽院を独立させ、急増する贖宥状と聖職売買からの収入管理にあたらせた。ルネサンスは古典古代を理想とする以上多神教的要素を内在し、厳密なカトリシズムの観点からは異教的で挑戦的なものであったが、ルネサンス教皇はこれを排斥せず現実的な対処をした。ローマ以外の都市における都市貴族=実質的な都市支配者がパトロンとしてルネサンス活動を支援したように、ローマに於いては都市支配者=教皇がルネサンス活動に資金援助をした。また「祖国イタリア」という意識がダンテやマキアヴェリの活動によって形成されて行く中で、教皇は中世的な「普遍的な精神界のリーダー」というよりは「イタリア精神の代表者」、「統一されたイタリアの支配者」という観念の下「ナショナリズム的教皇」となっていく。
15世紀末から始まるイタリア戦争の間でもローマの文芸は華やいでいて、フィレンツェが衰退した後もルネサンスの隆盛を牽引していた。
たが、ローマ教皇領は財政難に苦しむことになる。教皇レオ10世(ロレンツォの次男)はサン・ピエトロ大聖堂の改修の目的でドイツで贖宥状(免罪符)を発売した。これに反発して現れたのがルターの『九十五ヶ条の論題』であり、そこから宗教改革が始まる。 *3
1527年、神聖ローマ皇帝カール5世の派遣した軍隊によるローマの劫略によってローマが破壊された *4。これによりルネサンスの勢いが消滅したわけではないが、この後も戦乱は続いて弱まっていった。