ウェストファリア条約は三十年戦争を終わらせるための講和条約。国際条約および国際法の始まりとされた条約として重要。ウェストファリア体制については次回書く。
和平交渉開始
ウェストファリア条約は1648年に締結されるが、そのずっと前の42年に和平交渉することが決まった。
前回書いたように帝国は常に劣勢で挽回することはできなかった。同盟国のスペインに頼りきりだったが、そのスペインも43年に壊滅的な敗戦を喫していた。しかし常に勝勢のフランスは42年に宰相リシュリューが死去、43年にルイ13世も亡くなった。
44年にようやく交渉が始まり、主導権はスウェーデン宰相オクセンシェルナが獲った。しかしここで新政を始めたばかりの女王クリスティーナが宰相を退けて自ら交渉の舞台に立った。帝国はフランスとスウェーデンと個別に交渉して少しでも有利な立場を築こうとした。
ヴェストファーレン条約を構成する2つの条約のうち、オスナブリュック講和条約は、カトリック勢力を率いた神聖ローマ皇帝 フェルディナント3世と、プロテスタント勢力の主柱だったスウェーデン女王 クリスティーナの講和問題を主な内容とする。ミュンスター講和条約は、神聖ローマ皇帝と、カトリック国でありながらプロテスタント側で参戦したフランス王国との講和問題を中心とする条約である。
内容と宗教的寛容と各国について
フランスはマゼランが宰相を引き継いだが、始めのうちはごたついたらしい。フランスは帝国の皇帝の座まで狙っていたが諦めた。ただし、少し後の話になるが、ルイ13世を引き継いだルイ14世は内政に集中することができ、絶対王政を敷くことができた。
スウェーデンの方はクリスティーナがそれまでの条件から大幅に譲歩した。スウェーデンはプロテスタントだったが、彼女はカトリックに融和的であり、この条約の宗教的寛容の一助となった。
ローマ教会はこの宗教的寛容を拒絶して条約の無効を主張したが(現在でも主張してるらしい)、どの国も無視した。
三十年戦争で当時のドイツ地方の三分の二が焦土となり、人口の四分の一が死んだのですから。三十年戦争はヨーロッパ史上最大の戦争でした。この悲惨さは、二つの世界大戦が悲惨さを凌駕するまで、長く記憶されるほどです。だから、そんなバチカンの命令など誰も聞きません。
ローマ教皇の命令など誰も耳を傾けませんし、スウェーデンの〝不思議ちゃん〟こと、クリスティーナ女王の「異端の者も殺さなくて良いじゃない」という言葉の方が受け容れられます。これが「宗教的寛容」です。
出典:倉山 満. ウェストファリア体制 天才グロティウスに学ぶ「人殺し」と平和の法 (PHP新書) . 株式会社PHP研究所. Kindle 版.
三十年戦争の最後の戦争は宗教戦争というより国どうしの戦争、ヨーロッパ大戦と言ったほうがより正確だろう。
条約の内容
次の5点に要約することが出来る。
スペインは締結に加わらずに戦争を継続したことは前回書いた。
さて、最後に神聖ローマ帝国。
この条約によって、神聖ローマ帝国は実質的にドイツ全土を支配する権力としての地位を失い、ハプスブルク家はオーストリアとそのほぼ東方を領有することになった。そのため、ウェストファリア条約は「神聖ローマ帝国の死亡証明書」と言われている。
また、神聖ローマ帝国の実質的解体に伴って、ドイツの領邦はそれぞれ独立した領邦国家として認められた。これによって中世封建国家に代わって主権国家がヨーロッパの国家形態として確立したとされている。
徳川幕府が崩壊して他の藩が独立国になって、それぞれが新しい体制を模索していくようなものだ。