歴史の世界

対抗宗教改革

対抗宗教改革は "反宗教改革"とも呼ばれる。ローマ教会側の宗教改革

宗教改革
キリスト教プロテスタントによる宗教改革に対抗する、カトリック教会内部の革新運動。また、プロテスタントに対する宗教的・政治的反撃の運動。トリエントの宗教会議、イエズス会の創設などがその具体化。各地で宗教戦争を惹起したが、並行して海外布教も進展した。

出典:反宗教改革<精選版 日本国語大辞典 - コトバンク

ということで、この改革はトリエント公会議イエズス会の創設が主な内容。

トリエント公会議

公会議とは《 ローマ‐カトリック教会で、教会全体にわたる教義、教会規律に関する事柄を討議・決定するため、教皇が全世界の枢機卿、司教、神学者などを招集して司会する会議。》。 *1

カトリック教会の宗教改革の総決算はトリエント公会議(1545―1563年)に見られる。初め教皇庁公会議の開催に消極的であったが、国内の混乱の収拾を切望したドイツ帝国皇帝カール五世の要望に屈した形で、教皇パウロ三世は開催に踏み切った。この公会議は、教会内にみられた聖職売買や贖宥符販売の禁止、種々の悪習の撤廃、司教による司祭への監督強化などをもって規則の引き締めをはかった。一方、プロテスタント運動に対しては、福音主義神学との対決姿勢を鮮明にし、「信仰のみ、聖書のみ」に対して、伝統的な「信仰と行為、聖書と聖伝」をカトリック神学として確認、表明した、また、原罪と義化の教義を確定し、さらに洗礼、堅信、聖体、ゆるし、病者の塗油、叙階、婚姻の七つの秘跡とその教義を確認した。ミサの典礼文をラテン語に統一したのもこの公会議である。また、神学校制度を制定して聖職志願者の養成に力を入れることによって教会に実のある刷新をはかろうとした。こうして、カトリック教会は教義の整備、霊的刷新、世界的拡張をもって次の時代へと向かっていった。

出典:宗教改革時代のキリスト教 | カトリック中央協議会

教義において今までの伝統を確認して認め、プロテスタントに批判された諸事を是正した。

当初はプロテスタント公会議において収拾を図ろうとしていたが、結局、溝を埋めることはできず、分裂を認めざるを得なかった。

イエズス会

イエズス会は日本史でも出てくる有名な団体だが、対抗宗教改革の一環で立ち上げられた。

イエズス会
ローマ教皇への絶対服従、神と教皇の戦士として伝道に努めることを使命として、1534年にイグナティウス=ロヨラ(スペイン人)らによって結成された修道会。[中略]1540年に教皇パウルス3世から認可を受け、対抗宗教改革の先頭に立って、活動を開始した。
 ロヨラとザビエルはスペインのバスク地方の出身で、パリに出てパリ大学に学びながら、人文主義の影響を受け、当時ヨーロッパ各地で猛威をふるうプロテスタントによる攻勢から、カトリック教会の信仰を守るには、カトリック教会自身の改革も必要であると考えるようになった。それは教皇を批判するのではなく、教皇に絶対服従する強固な信仰で実現できるという信念から、イエズス会は対抗宗教改革の実戦部隊となっていった。

出典:イエズス会<世界史の窓

海外への宣教をするだけの団体かと思ったらその他の任務もあるようだ。

会が発展するに伴ってイエズス会の活動分野は三つに絞られていった。第一は高等教育であり、ヨーロッパ各地で学校設立の願いを受けてイエズス会員は引く手あまたであった。イエズス会員は神学だけでなく古典文学にも精通していることが特徴であった。第二の活動分野は非キリスト教徒を信仰に導く宣教活動であった。第三はプロテスタントの拡大に対するカトリックの「防波堤」になることであった。イエズス会員の精力的な活動によって南ドイツやポーランドオーストリアなどのプロテスタンティズムは衰退し、カトリックが再び復興した。

出典:イエズス会 - Wikipedia

南ドイツに関してはルターが農民戦争で農民側を見捨てたという側面もある。

おまけ:イエズス会と征服活動

まずサン・フェリペ号事件について。サン・フェリペ号の乗員はイエズス会でなくフランシスコ会という別組織。

サン・フェリペ号事件
1596年(慶長元)スペイン船サン・フェリペ号が土佐国に漂着した事件。同船は同年7月フィリピンのルソンからノビスパン(メキシコ)へ向かったが,途中,暴風雨のため長宗我部(ちょうそかべ)氏領の土佐国浦戸に入港。事件は豊臣秀吉に報じられ,同船の積荷と乗組員の財産はすべて没収。乗組員のなかに,スペイン人はまずキリスト教の布教によって住民を教化し,のちに軍隊を派遣してその土地を植民地化すると吹聴した者がいたという。このため秀吉は疑念をいだき,二十六聖人の殉教の発端となった

出典:サン・フェリペ号事件/山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」 - コトバンク

イエズス会の宣教師の中には日本征服計画に関係している者が数名確認されている(書簡が残っている)。

イエズス会は《スペインやポルトガル、フランスのカトリック国王の保護を受け、その保護の下で布教を続けたが、同時に植民地の開拓にも協力した》 *2。その一環として、日本の情報を本国に提供したのだろう。