歴史の世界

戦後直後の日本経済について② 「傾斜生産方式」の神話

前回からの続き。

「傾斜生産方式」の神話

戦時中、日本の国富と生産力の多くは戦争に注ぎ込まれた。そして国の窮乏化と悪性インフレが進んで終戦に至る。

そして、冒頭で引用したGHQによる「経済民営化」の話につながる。

「経済民営化」の諸政策とともに効果的だった政策として「傾斜生産方式」というものが挙げられている。

この政策が「効果があった」ということも、他の通説と同じように、間違いであったことが分かっている。

ここで、歴史の流れからは逸れるが、「効果があった」ことが間違いであることを書き留めておく。

とりあえず「傾斜生産方式」というものがどういうものだったかというところから話を始めよう。

1946年から 49年まで,第2次世界大戦後の経済復興のための重点生産政策として実行された産業政策の呼称。「石炭,鉄鋼超重点増産計画」という名のもとに推進された。経済復興に必要な諸物資,資材のうち石炭,鉄など,いわゆる基礎物資の供給力回復が最も急務であるという観点から,これら部門に資金,人材,資材などを重点投入する政策をとった。これにより石炭,鉄鋼の生産が大きく回復するなど一定の成果を上げたが,復興金融金庫 (のちの日本開発銀行) から大量の融資が行われ,急激なインフレーションの一因となった。このため 49年のドッジ・ライン実施により終止符を打たれた。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典/傾斜生産方式とは - コトバンク

なぜ、こんなことをやらなければならなかったかというと、アメリカが輸入を制限していたからだ。

占領初期のGHQは海外からの資源調達を厳しく制限していた。そのために石炭や鉄鋼など基幹産業が機能せず、広範囲なモノ不足と高いインフレが生じていたのだ。

GHQの経済的援助は当初はせいぜい食料への援助があったぐらいで、それも日本には自由度はなかった。[中略]

45年9月からほぼ2年間、基本的に原材料の輸入を許さないことで、日本経済は見殺し状態であった。

出典:田中氏

戦後経済は廃墟から立ち上がったと言うイメージを私自身も抱いていたが、全国の工場はほとんど残っていたわけで、あとは物資があれば、生産力は回復できたわけだ。

1946年(昭和21年)5月に第一次吉田内閣が発足する。

吉田首相がGHQに掛け合って特例として重油の輸入を認めさせました。その後も繰り返し交渉を重ねていたのですが、結局第1次吉田内閣期には実現できませんでした。それが次の片山内閣期には一気に課題が解決方向に進み、自由貿易もある程度制限はかけられていたとはいえ、許可されるようになったのですね。

出典:読書人WEB/『石橋湛山の経済政策思想』(日本評論社)刊行を機に 対談=原田泰×和田みき子(引用部は和田氏)

「傾斜生産方式」は吉田のブレーンであった有沢広巳の功績だと言われているが、実際は当時の大蔵大臣・石橋湛山だった。石橋は「この政策を成功させるために」という名目で、GHQから援助を引き出すことに成功した、というのが現在の大半のエコノミストの同意するところだ(と高橋 洋一『戦後経済史は嘘ばかり』に書いてあった)。

吉田政権がGHQとどのような交渉をして援助を勝ち取ったのかは分からない。さらにその援助も「食いつなぎ」程度でしかなかった。それでも食いつなげただけでも吉田政権あるいは石橋大臣の功績と言えるのだろう。

ちなみに余談ではあるが、有沢広巳がこの政策を自分の手柄にするために、石橋の仕事の痕跡を抹消することに腐心したことは上記のリンク先で和田氏が語っている。

「日本弱体化計画」からの方針転換 ~逆コース~

上記の引用で片山内閣期に一気に回復の目処がついたことが書いている。片山内閣は1947年(昭和22年)5月に発足した。ではこれまでに何が起こったのか?

それが、《「日本弱体化計画」からの方針転換 ~逆コース~》だ。

第一次吉田内閣に限らず、これまで日本政府に従事してきた人間たちは共産勢力の増長に危機感を持っていた。共産勢力の中にはソビエト工作員がいて日本国民を扇動した。煽られた人々の絶頂が「二・一ゼネスト」だ。

1947年(昭和22)2月1日午前零時を期し、官公労働者約260万人を中心に計画されたゼネラル・ストライキゼネスト)で、マッカーサー連合国軍最高司令官の命令で中止された。

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)/二・一ストとは - コトバンク

マッカーサーは弱体化を推し進めていたこともあり、共産勢力の動きにたいして「寛容」だった。そしてGHQの中には「容共派」といわれる組織があった。これが民政局(GS)の連中だ。「ニューディーラー」の人たちだ。

これに疑念を持ったのが、GHQ参謀第2部(G2。情報担当。諜報と検閲)のチャールズ・ウィロビーだった。彼が吉田と連携して、最終的にゼネストの中止にこぎつけた。

この流れとは別に、アメリカ本国では1947年3月に共産主義封じ込め政策 「トルーマン・ドクトリン」が発せられた。

国務省の後押しを受けたウィロビーはGSを抑え込み、勢いが衰えない共産主義社会主義勢力の抑制に回る。

これを「逆コース」という。

第二次世界大戦後の民主化政策を見直し改革に逆行しようとする政策路線。1948年(昭和23)の占領政策の転換に始まるが、系統的になるのは1951年に第3次吉田茂内閣が首相の私的諮問(しもん)機関「政令諮問委員会」の答申に従い、法体制を一変する時期以後である。[中略]労組・知識人・学生自治会などは「治安維持法の再来」と反対し、国民の間に「逆コース」と非難する風潮が高まった。同年4月、吉田首相は国会で「自衛のための戦力は合憲」と答弁、7月には保安庁法を公布、10月、警察予備隊を11万に増強し、7590名の海上警備隊を加えて保安隊を創設し、1954年には米国から「相互防衛援助協定」による軍事援助を受け、陸上自衛隊海上自衛隊航空自衛隊からなる自衛隊を発足させ、再軍備に踏み切った。

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)/逆コースとは - コトバンク

共産主義社会主義勢力が「逆コース」に対してどれほど憤ったかが察せられる文章だ(笑)。

日本経済復興の始まり

結局、アメリカは共産主義封じ込め政策のために日本を共産主義国にしないために、弱体化計画を破棄しなければならなかった。その始まりが、前述の片山内閣期だということだ。