歴史の世界

戦後直後の日本経済について④ ドッジ・ラインという失敗

前回からの続き。

復興金融金庫とインフレ

前回に貼り付けた引用を再掲。

終戦後の経済復興策として1946年12月に第1次吉田内閣が傾斜生産方式を閣議決定した。[中略]それを賄う目的で1947年1月に復興金融金庫が設立された。

復興金融金庫の融資資金は復興金融債権(以下、復金債)の発行により調達された。しかし、その債権の多くが日本銀行の引き受けるところとなった。これにより市場に供給する貨幣の量が拡大してその価値が下がることとなり、インフレーションが引き起こされた。これが復金インフレである。

出典:復金インフレ - Wikipedia

傾斜生産方式という政策がアメリカから物資援助を引き出すための政治的駆け引きだったことは以前に書いた。そして復興金融債権(復金債)も、どうやらその一環だったようだ。

高橋洋一氏は、復金債が傾斜生産方式の生産拡大に寄与しなかったことを記した後に以下のように書いている。

[復金債が] 意味 が あっ た のは、「 お金 を ばらまい た」 こと でし た。 政府 が 個別 の 産業 を ターゲット に し て お金 を ばらまい ても ほとんど 効果 は あり ませ ん が、 市場 全体 に お金 を 供給 する こと は 経済 を 活性化 さ せ ます。

お金 が 出回れ ば 多く の 人 が 商売 を し たく なり ます。 物 不足 で、 つくれ ば すぐ に 売れる 時代 です から、 企業 は どんどん 設備投資 を しよ う と し ます。

そういう 意味 では、 日銀 が 復 金 債 を 買い取っ て お金 を 市場 に 供給 し た のは 悪い 政策 では なかっ た と 思い ます。

出典:高橋 洋一. 戦後経済史は嘘ばかり 日本の未来を読み解く正しい視点 PHP新書 (pp. 29-30). 株式会社PHP研究所. Kindle Edition.

日本は戦前から経済大国だったので、物資と資金があれば経済は復活できる。石橋はこの問題に真正面から取り組んだ。彼の経済政策は彼が大蔵大臣を退いた後でも継承されたことは前回書いたが、これにより実質経済成長は二桁の伸びを見せた *1

この結果は石橋の政策のみのものではない。世界史の大きな流れとしては米ソ対立という大きな流れの中で日本経済復興が語られるわけだ。しかしこのチャンスを日本が適切につかむことができたのは石橋の適切な政策があってのことである(世界情勢によって起こるチャンスを適切に捕らえられないのが今の日本だ)。

日本の景気回復傾向を潰したドッジ・ライン

以上のように石橋の経済政策(それを継承した片山政権下も含む)は、一定の成功を見せていた。これに水をかけたのがドッジ・ラインと呼ばれる緊縮財政方針だ。

この時のインフレは物不足によるものなのだが片山政権とGHQ、そしてアメリカ本国は復金債を出しすぎがインフレ原因であると考えた。

このインフレの違いを当時の人々がどれだけ見極めていたかは疑問の余地がある。つまり、当時の人達は「財政均衡(≒緊縮財政)が政権が目指す方針」と思っていたからだ。これはGHQアメリカ本国もそのように思っていた(現在のマクロ経済学によればこれは誤りなのだが、日本の財務省はいまだにこれを「絶対正義」だと主張している)。

もっとも、 当時 は マクロ 経済学 が まだ ほとんど できあがっ て おら ず、 国民経済 計算 も きちんと でき て い ませ ん でし た ので、 仕方 の ない 面 も あり まし た。   現在 の マクロ 経済学 から さかのぼっ て 当時 を 見 た「 後知恵」 では あり ます が、 緊縮財政 は 間違っ た 政策 でし た。 現在 の 知見 に 基づい て 政策 を 打つ ので あれ ば、 緊縮財政 はやら なかっ た はず です。

出典:高橋 洋一. 戦後経済史は嘘ばかり 日本の未来を読み解く正しい視点 PHP新書 (p. 47). 株式会社PHP研究所. Kindle Edition.

そして前述のとおり、ドッジ・ラインは財政均衡政策を採用した。

ジョセフ・ドッジが提案した政策は全てダメだったわけではない。GHQが拒否していた自由経済を認めたり、1ドル360円の単一為替レートの設定は後の日本の経済成長に大きく寄与した。

しかし、この条件と引き換えに日本政府は超均衡予算を飲まされた。赤字予算から黒字予算になったわけだが、それは市場のカネが極端に少なくなることを意味する。そしてそれは当然の結果、不況を招いた。

当時のインフレは物不足によるものなのだから、石橋の経済政策方針を継続していれば設備投資により供給が需要に追いついてインフレは解消されていた(時間はかかったが)。これを途絶させたのがドッジ・ラインだ。ドッジ・ラインによる不況をドッジ不況と呼ぶ。

ドッジ・ラインに対して高い評価をしている人がいれば、現在のマクロ経済学を知らないのだと思えばいい。

朝鮮特需

ドッジ不況、それだけでなく戦後直後の不況を一気に解消させたのが朝鮮特需だ。

こうした状況を一気に変えたのが朝鮮戦争(1950~1953年)の勃発である。

米国は朝鮮半島に大量の物資を供給する必要に迫られ、好むと好まざるとにかかわらず日本は米軍の後方支援拠点となった。日本企業には空前の注文が殺到した[中略]

1951年から1953年の3年間で10億ドルを上回る発注が日本企業に出されたが、1ドル=360円で換算すると日本円で約3600億円となり、これは日本の年間輸出総額に匹敵する水準であった。また、当時のGDPは4兆円程度なので、1年あたりの発注金額はGDPの3%に相当する。単純比較はできないが、今の状況に当てはめると年間16兆円もの注文を受けた計算となる。

日本経済にとってこれが神風となり、1951年の名目GDPは前年比でなんと38%という驚異的な成長を実現し、日本経済は一気に息を吹き返した。

出典:加谷珪一/日本の高度経済成長は“偶然”という歴史的事実…朝鮮戦争なければ東南アジア並みの国

これでドッジの緊縮政策はなし崩し的に消えてしまった。

1954年12月からは神武景気と呼ばれる好景気が起こる。ここから高度経済成長期が始まる。ちなみに高度経済成長の最大の要因は、高橋洋一氏によれば円安(1ドル=360円)とのこと。



*1:田中秀臣氏/第2章緊縮財政の呪縛 - 第10節葬り去られた戦後復興