歴史の世界

「文明の海洋史観」と「勤勉革命」と「ガラパゴス化」

「文明の生態史観」が古典として読みつがれ、「文明の〇〇史観」という本がいくつも出るようになった。そのうちの一つが川勝平太『文明の海洋史観』。

この本の中で「勤勉革命」が紹介されている。以下に書く当ブログの記事は「勤勉革命」のほうがメインとなる。ちなみに、「勤勉革命」を提唱したのは歴史人口学者の速水融氏だ。

勤勉革命とは?

勤勉革命」という言葉の生みの親、速水融氏本人の説明。

同じころ[近世]、ユーラシア大陸の西端では、産業上の大変革が起きていた。産業革命(Industrial Revolution)である。[中略] それらは西ヨーロッパ諸国に伝播し、世界は大きく変動したのである。[中略]

江戸期に「経済社会」化が進んでいたことも明白な事実である。では何によってこれはもたらされたのか。「産業革命(Industrial Revolution)」ではなく、「勤勉革命(IndustriousRevolution)」によって江戸期の発展は生じた、というのが筆者の主張である。

近世において農業の労働のあり方は大きく変容した。徐々に形成されていった市場に適合するなかで、それまでの隷属的性格を持った労働が家族労働(小農化)へと変わっていった。筆者の観察では、信州の諏訪地方では、城下町を中心として同心円状に、一年にほぼ二〇〇メートルの速さで小農化が進み、一八世紀の後半には全領域が小農化した。農業と市場が結びつくことで、農産物の利益を農民自らが手にできるようになり、市場販売を目的とする生産が世帯単位で自発的になされるようになったのである。これが、すなわち「勤勉革命」である。とくにこの「革命」は、耕地拡大が限界に達し、生産量増大が、もっぱら投下労働量の増大によってもたらされるようになった時期(地域ごとに違いはあるが、ほぼ一八世紀)により深化を遂げることになる。この「勤勉」が、江戸時代を通じて農村から都市へも広がり、とりわけ明治維新以降に、経済発展と工業化を支える労働倫理となった。ただし、この「勤勉」さは、一定の社会経済的条件の下で生じたものだとも言え、決して永遠不変の日本人の「国民性」とは言えない。それは現在失われつつあるとさえ言い得る、ここ三〇〇―四〇〇年間の特徴なのである。

出典:『機』2011年3月号:「勤勉革命」による江戸時代 速水 融 | 藤原書店オフィシャルサイト

産業革命勤勉革命は平行進化しており、日本が西欧文明が日本に到達した時に直ちに近代化できたのは、近世において準備ができていたからだと。この考え方は梅棹氏と同じだ。梅棹氏の主張を実証したといったほうがいいかもしれない。

勤勉革命が起こった理由とその後

以下の説明は基本的に川勝平太『文明の海洋史観』を参考にしている。

歴史的背景

世界史における中世はイスラム世界の全盛だった。彼らは陸路・海路両方とも開拓を行なったが、ここでは海路の話のみをしよう。

ムスリム商人は東進を続け、インド海を抜けて東南アジアに達した。彼らが東シナ海・日本にまで達しなかったのは、東南アジアに行けば中国産品は手に入ったし、日本産品はそもそも直接取引きするほどの物は無かった。

また、海洋中国人(華僑や広州人など)や日本人も東南アジアでの取引に熱中した結果、東南アジアは世界の商業の中心地の一つとなった。西欧の大航海時代が始まると彼らはムスリム商人との競争に打ち勝ち、商業ルートを奪うことになる。

産業革命勤勉革命が同時期に起こった

そして、近世から近代に変わる直前に産業革命が起こる(産業革命が起こったから時代が変わった)。西欧も、日本と同じく、東南アジアに提供できる産品がなかったので銀が流出する一方だった。これを打開すべく、彼らは産業革命を起こした。これと同じ理由で、日本は勤勉革命を起こしたわけだ。

ただし、その後が違う。西欧は産業革命で獲得した生産力を背景にインドに木綿製品を売りつけるまでになった。これにとどまらずに、西欧は東南アジアを「市場の中心」から「生産の中心」に変貌させた。プランテーション化だ(のちにお茶の輸入超過のため、アヘン戦争が起こった)。

これに対して、日本はと言うと「鎖国」だ。実際は海外と取引はしているものの、金銀銅の流出を避けるために過度の取引制限をやっていた。そして輸入していた産品を国内生産し始めた。木綿・砂糖・茶など *1

また川勝氏によれば、西日本は海洋的性格を持ち、東日本は陸地的性格を持つ *2豊臣秀吉による大陸侵略失敗のこともあり、東日本の徳川政権は海外との接触は消極的だった。

勤勉革命のデメリット

勤勉革命産業革命の違い

勤勉革命とは畜力(資本)を人力(労働)に代替して生産性の向上を図る、資本節約・労働集約型の生産革命である。つまり、18-19世紀にイングランドで興った産業革命(工業化)が機械(資本)の使用を通じて生産性の向上を図る資本集約・労働節約型の生産革命であったのとは対照的に、同時期の日本では資本(家畜)を労働に代替するという産業革命とは逆の方向に進展していたのである。

出典:勤勉革命 - Wikipedia

産業革命により西欧では資本家の力が増し、彼らは貴族と婚姻により結びついて為政者層を形成した。その一方で、労働者・農民は重要性が減り、彼らと為政者層との格差は開く一方だった。

これと対象的に、日本の勤勉革命では勤勉に労働した農民・労働者の重要性・地位が向上した。さらには、農民・労働者のトップである豪農・豪商は西欧の資本家のように為政者層になる道は選ばなかった。そして為政者層であるはずの武士階級は貧困に明け暮れ、年を越すにも苦労する有様だった。世界史から見ると異常だ。

そして、西欧の力が日本にまで押し寄せる幕末になると武士階級は自壊し、明治維新が起こる。江戸時代の為政者層は世界の激動に対応できなかった。下層武士階級であった薩長土肥の人材が国難を救ったのは奇跡といったほうがいい。

このような状況を見ると、勤勉革命産業革命は対等だとは思えない。

話は明治維新で終わらない。

大東亜戦争においても下士官以下の勤勉によって戦線は保たれていたが、彼らが戦死していくにつれ戦局は悪化の一途をたどり、大日本帝国は滅亡した。

勤勉革命のせいで、為政者層が無能でもやっていけるという土壌が日本に出来上がってしまった。平時ならそれでいいが、異常事態が起こった時、為政者層は無能をさらけ出す。

下層の主張が通ってしまった結果が「ガラパゴス化

以下は池田信夫氏の記事(木村英紀『ものつくり敗戦―「匠の呪縛」が日本を衰退させる』の書評)

この平和な時代[江戸時代]に、日本の人口は1000万人から3000万人以上に激増した。その過剰人口を消化するために起こったのが、労働集約的な技術で生産性を上げる勤勉革命だった。本書は、日本の「ものつくり」が国際競争に敗れた原因を勤勉革命エートスに求める。タコツボ的で非効率な組織を統合しないで、果てしなく残業して根回しを繰り返す結果、製品は各部門の主張を雑多に取り入れたガラケーのような部分最適の集合体になる。

他方、数百の都市国家が激しい戦争を繰り返していた西洋では、都市の限られた人口を資本で補い、労働節約的な技術を開発する産業革命が起こった。もっとも重要なのは軍事技術であり、戦争に勝つという目的に最適化してシステム化する必要があった。このため西洋の工場は早くから「軍隊化」し、交換可能な労働者で大量生産する脱熟練化(de-skilling)が起こった。

これに対して日本では「現場」が重視され、労働者の企業特殊的な熟練を受け継ぐ伝統が続いてきた。ここで大事なのは製品としての「もの」の品質だから、生産システム全体を効率化する発想はなく、ソフトウェアは軽視される。[以下略]

出典:勤勉革命の呪縛 – アゴラ

日本では、「現場」が勤勉に働くために一種の権力を持ち、その権力によって経営者に対抗することができる。一方、欧米では、「システム化」「脱熟練化」により、「現場」の抵抗を最小限にすることができた。

この違いが、欧米の企業と日本企業のグローバル化の命運を分けている理由の一つとなっている。このことは、日米決戦で負けた理由にもなっている。

日本では、国家でも企業においても、「現場」(下層)からの主張が通ってしまう結果、トップ(上層)を含む組織全体が内向き指向になってしまう。その結果が「ガラパゴス化」であり、これはグローバルの波がおとずれた時に押し流されてしまった。



*1:梅棹忠夫編/文明の生態史観はいま/中公叢書/2001/p112

*2:川勝平太/文明の海洋史観/中央公論社/1997/p193-194