歴史の世界

最初期の騎馬民族 その6(絶頂と没落)

前回からの続き。

スキタイ王アテアス:絶頂期

ヘロドトス『歴史』で最後に言及したスキタイ王はオクタマサデスだった。前回書いたように『歴史』以降の歴史の詳細な情報は途絶える。

その後に現在で確認できる王はアテアスという名前。

アテアスは前430年頃に生まれたとされるが、オクタマサデスが連なった王族とどのような関係かは確認できていない。この王は前339年まで生きたというので、死ぬ時は90歳以上であった。

そして死ぬまで王であった。いつ王になったかは分からないが、前4世紀の長期に亘って王に君臨していたということになる。雪嶋『スキタイ 騎馬遊牧国家の歴史と考古』 *1 では前4世紀を「絶頂期」と書いている。

アテアスの死

アテアスの治世の晩年、ギリシア植民市の一つイストリア(ヒストリア)との戦争をし、苦戦した。そこでアテアスはマケドニア王フィリッポス2世に援軍を要請することにした。フィリッポス2世とはアレクサンドロス大王の父だ。

戦時中にイストリア王が亡くなったため援軍は不要となり、アテアスは約束を反故にしてマケドニア軍を追い返した。これがきっかけとなって今度はマケドニアと戦争になり、アテアスは戦死した *2

没落期

アテアス死後、スキタイは没落期に入る。

前4世紀末の王はアガロスというが、アテアスとの関係は分からない。

アガロスの名前が言及されるのは、スキタイ自体の歴史ではなく、ボスポラス王国というギリシア植民市から発展した国の歴史の登場人物の一人としてだ。

ボスポラス王国の話を少し続ける。

前4世紀末のこの国は黒海アゾフ海の間のケルチ海峡を支配し、ギリシア本土の交易により隆盛していた(スキたいとどのような関係にあったかは分からなかった)。

前4世紀後半はパリュサデスという王が統治していたが、彼の死後に権力闘争が始まった。詳細は省くが(スキタイ - Wikipedia 参照)、アロガスは敗北した側に加担していた。アロガスの言及はそれだけだ。

ちなみに、この戦いの勝者側にはサルマタイ勢力がいた。サルマタイはこの後黒海北岸を支配する勢力だ。上記の権力闘争に加担したサルマタイはクバン川流域(カフカス山脈からアゾフ海南部へ流れる川)を支配下に置いたという。

前3世紀以降ドン川の東からスキティアに侵入してきたサルマタイによって黒海北岸地方は征服されていった。また、同時代には西からケルト系ガラティア人が侵略するという事件も重なり、第二スキタイ国家は崩壊したと考えられている。

出典:雪嶋宏一/スキタイ 騎馬遊牧国家の歴史と考古/2008/雄山閣/p188

  • スキティア=黒海北岸と考えているのだが、違いがあるのかどうかは分からない。

  • ドン川はアゾフ海の北東を流れる川。サルマタイがこの地域を支配する前は(スキタイと親戚関係にある)サウロマタイという違う遊牧民がいた(ネタ元はヘロドトス『歴史』) *3 のでもともとスキタイの領地ではない。

  • 「第二スキタイ国家」というのは、黒海北岸を支配したスキ大勢力を指す。この用語がどの程度通用するのか私には分からない。
    ちなみに、「第一」は新アッシリアと同時代、「第三」については後述。

「第二スキタイ国家」の崩壊時の詳細は分からないが雪嶋氏は以下のように書いている。

黒海北岸地方がサルマタイの支配下に入っていたことを証明する史料はポリュビオスによって伝えられている。前179年にポントス(黒海周辺諸国講和条約を締結した。[中略]

ここではスキタイ王は言及されておらず、すでに黒海北岸地方における主要な勢力とはみなされていないことから、サルマタイは遅くとも前2世紀初めまでに国家北岸草原地帯の支配を確立していたことが確認できる。

出典:雪嶋氏/p191-192

軍事面についてのスキタイとサルマタイの優劣

青木建『アーリア人*4 によると、「軽装騎兵」戦術のスキタイ人が「重装騎兵」戦術のサルマタイに敗れたという趣旨のことを書いている。

2つの戦術の違いについてはp21に書いてある。

「軽装騎兵」のポイントは「騎馬による高速な機動性」「弓射によるアウトレンジ戦法」「どの方角からも射撃できる巧みな騎射技術」。これによってスキタイ人は覇権を維持していた。

「重装騎兵」のポイントは「人馬ともに重装甲」「機動性と騎射を犠牲にする代わりに刀槍での近接戦闘」。これをサルマタイ人が発明したようだ。

青木氏の説明でひとつ引っかかるのは《決定的だったのは、足で馬をコントロールする鐙の発明だったようである》というものだ。

鐙の発明についてはいろいろな議論があるようだが、私は今のところ林俊雄氏が説明している紀元後3世紀の中国が起源というものを信じている (騎馬遊牧民/世界史の窓。ネタ元は<林俊雄『スキタイと匈奴―遊牧の文明』興亡の世界史 2007初刊 講談社学術文庫 2017 p.341-343>)。

林氏の『鞍と鐙』(1996、 PDF ) という論説(?)で、あらゆる説を挙げて検討し、結論として上述の説を書いている。ただし、鐙が無くとも重装騎兵で闘うことは可能であるとも書いている。サルマタイ人の重装騎兵までは否定していないということだ。

スキタイの最期

「第二スキタイ国家」の崩壊後、スキタイ人クリミア半島に住むようになった。雪嶋氏によれば、クリミア半島西部とその西側の黒海西部沿岸地域(ドニエプル川河口からドナウ川河口辺りまで)の地域が「小スキティア地方」と呼ばれていた。つまりスキタイ人が住んでいた地域だ。そしてここで活動していたスキタイ国家を「第三スキタイ国家」と雪嶋氏は書いている(p196-197)。勢力は小さいが王はいた。

「第三スキタイ国家」の文字史料は少ないが、黒海周辺の覇権を唱えたポントス王国のミトリダテス6世(大王。在位:前132-前63年)の手を焼かせた程度の勢力ではあった(ポントス王国はボスポラス王国とは別の王国)。ただし最終的には支配下に組み込まれた。

そして紀元後は黒海周辺の小国のひとつでしかなくなった(雪嶋氏/p205)。

小スキティアに移住した後のスキタイ人は、青木氏は「定住化した」とかいているが(p33)、雪嶋氏は遊牧していたと書いている(p201)。青木氏の専門は宗教方面なので、雪嶋氏の説の方を信じよう。

クリミア半島の定住民としてのスキタイ人は紀元後3世紀まで確認できる、と青木氏は書いている(p33)。



*1:2008/雄山閣/p137

*2:雪嶋氏/p137。ネタ元はポンペイウス・トグロス『フィリッポス史』Historiarum Philippicarum、邦訳では『地中海世界史』

*3:雪嶋氏/p188

*4:講談社選書メチエ/2007/p33

最初期の騎馬民族 その5 (スキタイ人、黒海北岸支配)

前回からの続き。

黒海北岸(ウクライナ)支配の始まり:前6世紀

前6世紀、スキタイ人は本拠地を北カフカスから黒海北岸へ遷した。スキタイ人が来る前はキンメリア人がいたのだが、スキタイ人が滅亡させたという説とリュディアの王さまに敗れて姿を消したという2つの説がある (最初期の騎馬民族 その1(騎馬民族について/キンメリア人) 参照)。どちらのほうが指示されているか、私にはわからない。

スキタイが黒海北岸を支配するようになるとその地域一帯はスティキアと呼ばれるようになる。

前6世紀についての文字史料はヘロドトス『歴史』が伝えるものがほとんど全て。雪嶋宏一氏によれば、この時期のスキタイの古墳群がドニエプル川中流に濃密に分布しているとのこと *1なので、ヘロドトスの記述と合致するといっていいのだろう。

前6世紀後半、前513年頃にペルシア帝国のダレイオス1世がスキティア遠征を行なう。ヘロドトスによれば、公称70万の大軍勢を率いて攻め込んだ。しかしスキタイ側は正面から戦おうとせず、焦土作戦を以って後退し続けた。60日のあいだ一度も会戦しないままペルシア軍はあきらめて撤退した。

スキタイを取り巻く諸民族

ところで、ペルシア帝国の戦いの前、スキタイは周辺の諸民族と会合を持った。

アケメネス朝のダレイオス1世はボスポラス海峡を渡ってトラキア人を征服すると、続いて北のスキタイを征服するべく、イストロス河(現:ドナウ川)を渡った。これを聞いたスキタイは周辺の諸民族を糾合してダレイオスに当たるべきだと考え、周辺諸族に使者を送ったが、すでにタウロイ,アガテュルソイ,ネウロイ,アンドロパゴイ,メランクライノイ,ゲロノイ,ブディノイ,サウロマタイの諸族の王は会合し、対策を練っていた。スキタイの使者は「諸族が一致団結してペルシアに当たるため、スキタイに協力してほしい」と要請した。しかし、諸族の意見は二手に分かれ、スキタイに賛同したのはゲロノイ王,ブディノイ王,サウロマタイ王のみであり、その他の諸族は「スキタイの言うことは信用できない」とし、協力を断った。

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出典:スキタイ - Wikipedia (ネタ元はヘロドトス『歴史』)

これらの中には「スキタイ系」遊牧民とされる勢力がいて、そのほか、新しく東方から来た遊牧民ギリシア系農耕民などがいた。彼らのチカラ関係がどのようなものだったかは、私は詳しく調べていないが、上の説明によればペルシア軍襲来時は上下関係はそれほど開きは無かったようだ。

そして、上の図にある「農民スキタイ」や「農耕スキタイ」について。これらもヘロドトスが言及しているのだが、林氏によれば5回しか言及されておらず、ほとんど説明されていないとのこと。

黒海北岸は、スキタイが現れるよりはるか以前、新石器時代から農耕文化が栄えていた。「農耕・農民スキタイ」は、そのように黒海北岸に以前から板農耕民で、新来のスキタイに支配されることになった人々ではないであろうか。

出典:林俊雄/スキタイと匈奴 遊牧の文明(興亡の世界史)/講談社学術文庫/2017(2007年に出版されたものの文庫化)/p72

前5世紀前半(ギリシア系植民市との関係)

前5世紀に入るとスキタイ人ギリシアの植民市を支配下に入れている *2ヘロドトスによれば、スキタイの歴代の王たちがギリシア系の女性を娶っていることがみられる。また考古学的証拠からはスキタイ王がギリシア植民市でコインを発行していることが分かっている *3

スキタイ王の一人スキュレス(前5世紀、母はギリシア人女性)はギリシア文化にかぶれてギリシア植民市のオルビアに邸宅を構えて住んでいた。スキタイ人は異文化を嫌う習慣を持っていたため、異母兄弟であるオクタマサデスが反旗を翻した。スキュレスはトラキア(上図参照)へ逃げたが、オクタマサデスとトラキア王が交渉した結果、スキュレスは引き渡され斬首された。

この後、オクタマサデスが王となったのだが、『歴史』の記述はオクタマサデスの治世までで、その後しばらくのスキタイの詳細な文字情報は無くなる。

ただし、スキタイの黒海北岸支配は続いた。

ヘロドトスが生きた時代

ヘロドトスは前5世紀の人(前484年頃-前425年頃)。『歴史』は前5世紀中葉までに書かれた。この書の主題はペルシア戦争だが、情報は多岐にわたり、スキタイのことも詳述している。『歴史』の内容は神話や信じられない伝承と歴史が混ぜ合わさったようなものだが、専門家は貴重な資料として扱っている。

ヘロドトスはいろいろなところを旅しているが、上述のギリシア植民市のオルビアにも訪れ、テュムネス(市の代官または元代官。 *4 ) に直接会ってスキタイの様々な情報を教えてもらった *5



*1:雪島宏一/スキタイ 騎馬遊牧国家の歴史と考古/雄山閣/2008/p132

*2:雪嶋氏/p46

*3:雪嶋氏/p135

*4:オーナーはスキタイ王

*5:雪嶋氏/p10

最初期の騎馬民族 その4 (スキタイ人、オリエント世界に到来)

前回からの続き。

狭義(?)のスキタイ人

前々回に引用したものを再掲。

前7世紀から前3世紀にかけて黒海北岸の草原地帯を中心として成立した騎馬遊牧民族スキタイの文化。史上最古の騎馬遊牧民の文化の一つとして知られる。広義には,スキタイと同時代に北方ユーラシアにひろまった同様の騎馬遊牧民族の文化をも〈スキタイ文化〉と呼ぶ場合がある。

出典:株式会社平凡社 世界大百科事典 第2版/スキタイ文化とは - コトバンク

オリエント世界の記録で言及されている集団は前者。本来、スキタイ人といえばこっちを指す。

今回はこのスキタイ人について書いていく。

先スキタイ時代

スキタイ人がオリエント世界に現れる前の時代は先スキタイ時代と呼ばれる(前9世紀~前8世紀)。この時代区分は正確には黒海北岸・北カフカスのもので、そこはスキタイ人の本拠地だった。

先スキタイ時代のこの地域の遺跡では、東方の青銅品と極めて似ているものが出土している。すなわち、(狭義の)スキタイ人が登場する前に、(広義の)スキタイ人(東方のスキタイ系文化を持つ騎馬民族)がこの地域に到来していたことを意味する。少なくとも文化は伝播していた。

旧来は先スキタイ時代の遺跡群はキンメリア人のものだとされてきたが、現時点ではそれらとキンメリア人を結びつける確かな証拠は無いとされている。(ここらへんのことは私は全く理解していないのでこれ以上言及しない)

スキタイ人の到来

スキタイ人の最初の記録は新アッシリアが遺している。

アッシリア碑文』においてスキタイはアシュグザあるいはイシュクザーヤと記される(紀元前7世紀)。

アッシリア王エサルハドン(在位:前681年 - 前669年)は、マンナエの地(現:西北イラン)でマンナエ軍とマンナエを救援するためにやってきたアシュグザ国(スキタイ)王イシュパカーの軍を撃ち破った。その後、イシュパカーは前673年頃アッシリアによって殺される。ところがその翌年、エサルハドンは自分の娘をイシュクザーヤ(スキタイ)の王バルタトゥアに与えて結婚させ、同盟関係となる。

出典:スキタイ - Wikipedia

アッシリアスキタイ人に関する記録はここで途絶える。そしてこの後のスキタイ人の記録はヘロドトス『歴史』に頼ることになる。

ヘロドトスは前5世紀の人物でそれより前の時代の記述は、司馬遷史記』と同じように、信憑性をどの程度と考えてよいのか分からない。専門家でも重きを置く人もいればそうでない人もいるらしい。

ヘロドトスによれば、スキタイが(西)アジアを28年も支配したとしている。個人的にはハナから信じないでスルーしたいところだが、専門家は多少の差はあれども考えはするようだ。

そしてヘロドトスによれば、28年後にメディア人によって(西)アジアを追い出されて故郷に帰ったということだが、この故郷(本拠地)は、考古学に照らし合わせて北カフカスだという(雪嶋宏一『スキタイ』/p91-92, 113-127)。

ここまでの状況が、ざっくり言うと前7世紀。

(続く。)



最初期の騎馬民族 その3 (権力の階層化)

前回からの続き。

中国文明との交流/騎馬民族の形成

前9世紀半ばごろは,世界的な気候変動期にあたり,乾燥期から湿潤期への移行期間に相当する。半砂漠だったところが草原に変わり始めた。また,西アジア鉄器時代に入っていたが,草原地帯には鉄器は浸透していない。しかし,青銅器の生産においてはかなり高度に発達し,すぐれた武器や馬具の生産が可能となっていた。さらに西周時代の中国との交流も始まっていたようで,軍事力を有する騎馬遊牧民が形成されていったと考えられる。モンゴル草原で発見された大型ヘレクスル(注2)の遺跡は,まさにこのような騎馬遊牧民の発展を象徴する造営物とみなすことができよう。

注2 モンゴル高原から北方のブリャーチヤ,トゥバ,アルタイ,さらには西方の天山山中などに分布する。積石塚と方形あるいは円形などの石囲いからなり,鹿石を伴うこともある。モンゴル人は一般に「ヒルギスフール」(キルギス=クルグズ人の墓)と呼ぶが,19世紀にそれを聞いたロシア人研究者が「ヘレクスル」と表記したために,それ以来,考古学上はその名称で呼ぶようになった。ヘレクスルは,方形の石囲いが一辺200メートル,中央の積石塚の高さが5メートルに達する大きなものから,石囲いの一辺あるいは直径が10メートル前後の小さなものまである。

出典: 林 俊雄(創価大学教授)/ユーラシア草原の遊牧文明とその歴史的役割 *1

  • ヘレクスルは積石塚だが古墳といったほうが個人的にはイメージが湧く。

スキタイと言えばオリエント世界の民族と考えていたが、騎馬民族の起源(というか騎馬戦術の起源)はユーラシアステップ東部の遊牧民中国文明の交流の中で生み出された可能性に言及している。これは興味深い。

ただ、「前9世紀半ばごろ」は気になるところ。黒海北部の「先スキタイ期」が前900年頃ということなので、騎馬民族の形成の過程をどのように想定しているのかが気になる。 とりあえず、「騎馬民族の形成は前9~前8世紀に起こった」と少し広めにスパンを取れば問題は無いだろう。

いまさらだが、騎馬民族の誕生はスキタイ系文化の中で起こったということになる。林氏は直接書いてない(と思う)が、多分そうなのだろう。

ヘレクスルは積石塚で、これは日本の古墳をイメージすればいいと思う。遊牧民はもともと積石塚を造る文化を持っており(クルガンと呼ばれる)、スキタイ文化の人々が中国文明と接して従来の積石塚からヘレクスルという新しい形を創造したのだろう。

モンゴル高原:権力の階層の形成

このヘレクスルでは馬の骨が多数出土している。これは犠牲として捧げられたものだが、何かしらの祭儀が行われたのだろう。そして祭儀に参列した人数はその犠牲の数から推測することができる。

林氏が発掘調査・研究に関わったモンゴル高原のオラーン・オーシグ山の近くの高原にあるヘレクスルでは、200-300人の人々が集まった可能性があると書いている。広大な草原の中でこれほどの人数を集めることができるのはそれなりの権力者だとのこと *2

また、この遺跡には大中小の複数のヘレクスルがあり、身分の階層化が示唆されている。すでに権力構造が形成されていたのだろう *3*4

以下は年代について。

多くの馬を飼うことのできる権力者が紀元前10世紀ごろには存在していたことを立証するものである。中国の時代でいえば,西周時代の初期に当たる。ただし,これら紀元前10世紀ごろの馬には馬具がけられていない。

また,モンゴル高原遊牧民集団の文物が中国側の資料や発掘品の中にも類似品が見つかっているほか,逆に中国のものが北方高原やアルタイ地方からも出土しているので,相互の間に青銅器の交流があったことは確かである。さらにさかのぼって殷代の後半ごろ(前12世紀ごろ)から交流はあったと思われる。

出典:ユーラシア草原の遊牧文明とその歴史的役割

また、林氏が関わったものではないが、モンゴル中西部のジャルガラントにある遺跡では2千頭を下らないと思われる馬の犠牲の骨が見つかっている。これより、万単位の祭儀の参列者が想定され、林氏は《前9世紀ころ、モンゴルの草原に騎馬遊牧民のおおきな権力が生まれたことを意味するだろう》(p42)と書いている。

東から西へ

『スキタイと匈奴』の第4章(草原の古墳時代)では、古墳の傾向が東から西に伝わっていく様相を描き出している。

この章ではヘレクスルという用語が使われていないが、おそらく「ヘレクスル≒古墳」で合っているだろう。

古墳の埋葬者が全て王であるわけではないのだが、そもそも騎馬民族の王というものがどのようなものかも問題なのだ。

林氏自身は前800年前後とされるアルジャン古墳(モンゴル高原*5 は「王墓」と考えている。鉤括弧「」をつけているのは多少ためらいがあるからだ。

とりあえず、王と呼ぶかどうかは別として、首長や高貴な権力者たちの墓が東から西へと造られていった。

そしてようやく、オリエント世界の定住民たちがスキタイ人の存在を文字に遺すようになる。

(続く)



*1:林俊雄『スキタイと匈奴』の一部を要約したもの

*2:林俊雄/スキタイと匈奴 遊牧の文明(興亡の世界史)/講談社学術文庫/2017(2007年に出版されたものの文庫化)/p40-41

*3:p42

*4:セム系部族社会の形成:ユーフラテス河中流域ビシュリ山系の総合研究》に概要がある(カラー写真つき)。

*5:ロシア連邦の一部のトゥバ共和国

最初期の騎馬民族 その2 (スキタイ人の起源≒騎馬民族の起源)

前回からの続き。

今回はスキタイ人の話。

「スキタイ」という呼称について

「スキタイ」という呼称はギリシア語。ペルシア語が「サカ」が転化したものとされる。青木建『アーリア人』(p28) *1 によれば、彼らの自称も「サカ」だったらしい。

スキタイ人と同時代にサカ人という騎馬民族がいた。文化的な差異は少ないので大きく見れば同種なのだが、歴史の中では地域的・時代的な違いも考えて彼らを別の民族とみなして語られている。

キンメリア人よりも多く語られるスキタイ人

スキタイ人はキンメリア人の次に歴史に現れたとされる騎馬民族だが、キンメリア人の物的証拠がほとんど無いのに比べてスキタイ人の証拠(遺跡など)はユーラシア・ステップに広く、たくさん遺っている(オリエント世界だけではない)。

そういうわけで、最古の騎馬民族が語られる時、キンメリア人の話はほとんどされずに、スキタイ人が展開されるわけだ。

広義(?)のスキタイ

前7世紀から前3世紀にかけて黒海北岸の草原地帯を中心として成立した騎馬遊牧民族スキタイの文化。史上最古の騎馬遊牧民の文化の一つとして知られる。広義には,スキタイと同時代に北方ユーラシアにひろまった同様の騎馬遊牧民族の文化をも〈スキタイ文化〉と呼ぶ場合がある。

出典:株式会社平凡社 世界大百科事典 第2版/スキタイ文化とは - コトバンク

引用の前者の話もするが、まずは後者のスキタイ文化の話からしていく。

スキタイ文化(考古学の見地から)

林俊雄『スキタイと匈奴*2 に「スキタイ系文化」の編年表が載っている。「系」をつけたのは、黒海北部のスキタイ文化との区別した書き方。

ただし、同書では以下のようにも書いている。

ギリシア人がスキタイと呼んでいるものとペルシア人がサカ(サカイ)と呼んでいるものとは同じだとするヘロドトスの解釈は、おそらく正しいだろう。南方の定住地帯に住む人々は、北方の草原地帯に住み同じような文化を持つ騎馬遊牧民をスキタイとかサカなどと総称したのであろう。とすれば、同じ言語を話し、同じ人種に属していたかどうかとは関係なく、西は黒海北岸から東は中央アジア、さらにアルタイ、トゥバを越えてモンゴル高原に至るまで、文化的に近い騎馬遊牧民をスキタイと呼んでも間違いではなかろう。

出典:林俊雄/スキタイと匈奴 遊牧の文明(興亡の世界史)/講談社学術文庫/2017(2007年に出版されたものの文庫化)/p131

さて、編年表に話を戻す。

スキタイ系文化より600~700年早い時期、前1500年頃(小アジアヒッタイトが栄えた時代)にユーラシアステップの西からスルブナヤ文化―アンドロノヴォ文化―オクニョフ文化 *3 がある。

この次にカラスク文化が書かれているが、ユーラシアステップ東部のみらしく、その西側は空白になっている(年代は上記と下記の文化のあいだ)。

そして前9世紀中盤からスキタイ系文化が始まる。

ただし、黒海北岸地域の「先スキタイ期」は少し早く、前900年頃に始まっている。林氏の論によれば、「先スキタイ期」も大きくはスキタイ文化(またはスキタイ系文化)になるだろう。

ここでスキタイ文化の起源が黒海北岸なのではないかと思える。以前は専門もそう考えていた。しかし、1970年代からユーラシアステップ東部での遺跡調査が行われるようになり、東方起源説の証拠が多く出土するようになった。

考古学の遺物の評価・鑑定の話は私には分からないので、以下の結論の部分だけを引用する。

馬具と武器に関しては,ユーラシア草原地帯の東部と西部でほぼ同時に登場しているが,スキタイのスキタイたるゆえんである動物文様は,東部の方が(100~200年ほど)早いと言わざるを得なくなった。

初期スキタイ美術こそ,よそからの借り物でない,スキタイ独自のものである。北カフカス黒海北岸にスキタイ動物文様が出現するより以前に,南シベリアの一角に早くも初期の動物文様が現れていることから,スキタイの東方起源説が一気に有利になったのである。武器や道具は誰でも利用しようとするために,普及・伝播が早く,特定の地域,一つの文化だけに限定されることが少ない反面,直接役に立たないデザインや文様には,各文化の個性や好みが色濃く反映されているからである。

出典: 林 俊雄(創価大学教授)/ユーラシア草原の遊牧文明とその歴史的役割 *4

遺物だけみると、東部の遺物は西部より古いものが発見されていないようなのだが、それでも引用の理屈で東方起源説が有利となっているらしい。

(続く)



*1:講談社選書メチエ/2009

*2:2017/講談社学術文庫(2007年より文庫化)/p148-149

*3:たぶんオフネクOkunev文化

*4:林俊雄『スキタイと匈奴』の一部を要約したもの

最初期の騎馬民族 その1(騎馬民族について/キンメリア人)

今回は騎馬民族について。

騎馬民族について

以前にも書いたが、騎馬民族の「騎馬」は乗馬という意味の他に、騎乗で戦闘する意味も含む。

騎馬戦術を用いて農耕地帯を略奪するか、または征服、あるいはそこへ移住した多くの民族の総称。[以下略]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)/騎馬民族とは - コトバンク

  • 戦闘時の馬の利用は、騎馬が登場する前はチャリオット(二輪馬車)だった。騎馬戦術は、古代・中世では、戦闘の中で重要な要素(近世から近代にかけて火器が次々と発明されて騎馬戦術が劣勢になっていく)。

  • 女真族(後の満洲族)のように元々狩猟採集民だった民族も騎馬民族に含まれるとあるが、基本的には遊牧民騎馬民族の主流。

騎馬民族の起源:キンメリア人とスキタイ人

騎馬民族の最初期の民族として言及されるのはキンメリア人とスキタイ人だ。

文字史料として最初に登場するのはキンメリア人なのだが、この勢力の考古学的証拠(遺物)だと限定できるものがほとんど無いため、スキタイ人が最古の騎馬民族のように書かれることが多い。

スキタイ人については遺物が豊富に出土しているため、それらを使ってスキタイ人および騎馬民族の編年表が作られている。

林俊雄氏の主張では、ユーラシアステップの広範囲で、スキタイ人の文化に近いものが発見されていることから、これらをスキタイ文化と呼び、それらの文化の民族を《スキタイ人と呼んで間違いではなかろう》と書いている *1

以下では、まずキンメリア人について書き、スキタイ人については次回書くことにする。

キンメリア人

騎馬民族の最古の例はキンメリア人。ただし、キンメリア人の史料と考古学的証拠はごくわずかだ。

「キンメリア」という呼称は古代ギリシア人がつけた名で、自称は伝わっていない。最初に記録されているギリシア文献はホメロスの『オデッセイア』だが(同時代とされる)、「冥界(ハデス)への入り口を守護する人々」のような書き方で、実情を伝えていない。

他のギリシア文献だと、ヘロドトス『ヒストリアイ(歴史)』やストラボン『地理誌』があるが、ヘロドトスは前5世紀、ストラボンは前1世紀の人だ。ただし、だからといって全く当てにならない史料だと言うことではないらしい。専門家はギリシア文献と他の史料や考古学的証拠と照らし合わせる作業を行なっている。

同時代史料としてはアッシリアのものがある。アッシリアの史料で「ギミッラーヤ」と呼称される勢力を、現在ではキンメリア人と比定されている。

これによると、「前714年頃、ギミッラーヤがウラルトゥの王を破ったという情報がアッシリアにもたらされた」というのが最古の記録だ *2。ギミッラーヤは断続的にアッシリアの領地に侵入、略奪した。

当時のアッシリア及びオリエント世界の勢力は騎馬戦術を知らずチャリオットで戦ったわけだが、相当手こずったようだ (キンメリア人#アッシリア史料における「ギミッラーヤ」 - Wikipedia 参照)。

ギリシア文献によれば、キンメリア人の本拠地は黒海北部(現在のウクライナ平原あたり)とのこと。様々な異論があるが、あるが考古学的証拠から黒海北部説もあるということで、ここでは一応黒海北部ということで話をすすめる。

青木健氏によれば、キンメリア人がアッシリア及びリュディア(小アジア)に攻め込んでる隙に、スキタイ人黒海北部に侵入され、キンメリア人は小アジアに遷らざるを得なくなった。そして前630-620年代にスキタイ人にさらに追撃されて滅亡してしまった *3

滅亡のもう一つの説として、林氏によると、紀元前7世紀の終わり頃、キンメリア軍はリュディアの王アリュアッテスに敗れ、その姿をほぼ消した。(p94)

青木氏によれば、キンメリア人の古墳とされたものは「スキタイ人以前のものなら、キンメリア人の古墳だろう」という推論でしかないと書いている *4。 ただ、キンメリア人はイラン・アーリア人系の民族だっただろうと思われている。



*1:林俊雄/スキタイと匈奴 遊牧の文明(興亡の世界史)/講談社学術文庫/2017(2007年に出版されたものの文庫化)/p131

*2:キンメリア人 - Wikipedia

*3:青木健/アーリア人講談社選書メチエ/2009/p27

*4:青木氏/p26

アーリア人について その2

前回からの続き。

前回は「アーリア人」という用語が人種差別に結び付けられた話を書いたが、今回は現在の学術的用語としての「アーリア人」について書く。

学術的用語としての「アーリア人

アーリア人」という言葉をナチス・ドイツが使ったので、後世にこの言葉がタブー視されたのだが、なんとか学術的用語として残った。

マックス・ミュラーという言語学者宗教学者が「アーリア人」という言葉を産み出したことは前回書いた。この言葉は学術用語の一つとして生き残ったのだが、同時に提唱した「アーリアン学説」は否定されている。

現在、この用語は、インド=ヨーロッパ語族を話す人々の中でインド・イラン語派の言語を話した人々を指す(インド・イラン人、Indo-Iranians と呼ぶ人のほうが多いかもしれない。ヨーロッパ人は含まれない)。

インド・イラン語派 - Wikipedia》 によれば、この言葉の《原郷》はシンタシュタ文化(カスピ海の北東。前2100-1800年)と考えられている *1

そしてこの文化の遺跡で二輪の戦闘用馬車(チャリオット)が発見され、ここがチャリオットや車輪のスポークの発祥の地とも考えられている(異説あり)。

このチャリオットで文化や言語の拡大が成されたと言われる(侵略かもしれないし、交易または文化の受容かもしれない)。

シンタシュタ文化の後継の(または同文化を初期に含む)アンドロノヴォ文化は四方に広がった。

アンドロノヴォ文化から騎馬民族の誕生(キンメリア人やスキタイ人など)までの過程は分からない。言語学・考古学など各分野でも定説は無いようだ。ただし、この過程の中にアーリア人の誕生は有る。

ミタンニがイラン系と主張されることもあるようだ。ミタンニは前16世紀初頭にシリアの覇権を握った国でチャリオットを西アジアに導入した初めての勢力だ。

ミタンニがイラン系ではなくても、北方の遊牧民となんらかの接触(交易と戦闘)が有ったのだろう。そしてかれらの技術を獲得した可能性が高い。



*1:遺伝子情報によれば、この文化はインド=ヨーロッパ語族の《原郷》であるヤムナ文化系統と北ヨーロッパの縄目文土器文化(英語:Corded Ware culture、前2900~2400年)の系統の混合の系統とされる。