前回からの続き。
スキタイ王アテアス:絶頂期
ヘロドトス『歴史』で最後に言及したスキタイ王はオクタマサデスだった。前回書いたように『歴史』以降の歴史の詳細な情報は途絶える。
その後に現在で確認できる王はアテアスという名前。
アテアスは前430年頃に生まれたとされるが、オクタマサデスが連なった王族とどのような関係かは確認できていない。この王は前339年まで生きたというので、死ぬ時は90歳以上であった。
そして死ぬまで王であった。いつ王になったかは分からないが、前4世紀の長期に亘って王に君臨していたということになる。雪嶋『スキタイ 騎馬遊牧国家の歴史と考古』 *1 では前4世紀を「絶頂期」と書いている。
アテアスの死
アテアスの治世の晩年、ギリシア植民市の一つイストリア(ヒストリア)との戦争をし、苦戦した。そこでアテアスはマケドニア王フィリッポス2世に援軍を要請することにした。フィリッポス2世とはアレクサンドロス大王の父だ。
戦時中にイストリア王が亡くなったため援軍は不要となり、アテアスは約束を反故にしてマケドニア軍を追い返した。これがきっかけとなって今度はマケドニアと戦争になり、アテアスは戦死した *2 。
没落期
アテアス死後、スキタイは没落期に入る。
前4世紀末の王はアガロスというが、アテアスとの関係は分からない。
アガロスの名前が言及されるのは、スキタイ自体の歴史ではなく、ボスポラス王国というギリシア植民市から発展した国の歴史の登場人物の一人としてだ。
ボスポラス王国の話を少し続ける。
前4世紀末のこの国は黒海とアゾフ海の間のケルチ海峡を支配し、ギリシア本土の交易により隆盛していた(スキたいとどのような関係にあったかは分からなかった)。
前4世紀後半はパリュサデスという王が統治していたが、彼の死後に権力闘争が始まった。詳細は省くが(スキタイ - Wikipedia 参照)、アロガスは敗北した側に加担していた。アロガスの言及はそれだけだ。
ちなみに、この戦いの勝者側にはサルマタイ勢力がいた。サルマタイはこの後黒海北岸を支配する勢力だ。上記の権力闘争に加担したサルマタイはクバン川流域(カフカス山脈からアゾフ海南部へ流れる川)を支配下に置いたという。
前3世紀以降ドン川の東からスキティアに侵入してきたサルマタイによって黒海北岸地方は征服されていった。また、同時代には西からケルト系ガラティア人が侵略するという事件も重なり、第二スキタイ国家は崩壊したと考えられている。
出典:雪嶋宏一/スキタイ 騎馬遊牧国家の歴史と考古/2008/雄山閣/p188
スキティア=黒海北岸と考えているのだが、違いがあるのかどうかは分からない。
ドン川はアゾフ海の北東を流れる川。サルマタイがこの地域を支配する前は(スキタイと親戚関係にある)サウロマタイという違う遊牧民がいた(ネタ元はヘロドトス『歴史』) *3 のでもともとスキタイの領地ではない。
「第二スキタイ国家」というのは、黒海北岸を支配したスキ大勢力を指す。この用語がどの程度通用するのか私には分からない。
ちなみに、「第一」は新アッシリアと同時代、「第三」については後述。
「第二スキタイ国家」の崩壊時の詳細は分からないが雪嶋氏は以下のように書いている。
黒海北岸地方がサルマタイの支配下に入っていたことを証明する史料はポリュビオスによって伝えられている。前179年にポントス(黒海)周辺諸国が講和条約を締結した。[中略]
ここではスキタイ王は言及されておらず、すでに黒海北岸地方における主要な勢力とはみなされていないことから、サルマタイは遅くとも前2世紀初めまでに国家北岸草原地帯の支配を確立していたことが確認できる。
出典:雪嶋氏/p191-192
軍事面についてのスキタイとサルマタイの優劣
青木建『アーリア人』 *4 によると、「軽装騎兵」戦術のスキタイ人が「重装騎兵」戦術のサルマタイに敗れたという趣旨のことを書いている。
2つの戦術の違いについてはp21に書いてある。
「軽装騎兵」のポイントは「騎馬による高速な機動性」「弓射によるアウトレンジ戦法」「どの方角からも射撃できる巧みな騎射技術」。これによってスキタイ人は覇権を維持していた。
「重装騎兵」のポイントは「人馬ともに重装甲」「機動性と騎射を犠牲にする代わりに刀槍での近接戦闘」。これをサルマタイ人が発明したようだ。
青木氏の説明でひとつ引っかかるのは《決定的だったのは、足で馬をコントロールする鐙の発明だったようである》というものだ。
鐙の発明についてはいろいろな議論があるようだが、私は今のところ林俊雄氏が説明している紀元後3世紀の中国が起源というものを信じている (騎馬遊牧民/世界史の窓。ネタ元は<林俊雄『スキタイと匈奴―遊牧の文明』興亡の世界史 2007初刊 講談社学術文庫 2017 p.341-343>)。
林氏の『鞍と鐙』(1996、 PDF ) という論説(?)で、あらゆる説を挙げて検討し、結論として上述の説を書いている。ただし、鐙が無くとも重装騎兵で闘うことは可能であるとも書いている。サルマタイ人の重装騎兵までは否定していないということだ。
スキタイの最期
「第二スキタイ国家」の崩壊後、スキタイ人はクリミア半島に住むようになった。雪嶋氏によれば、クリミア半島西部とその西側の黒海西部沿岸地域(ドニエプル川河口からドナウ川河口辺りまで)の地域が「小スキティア地方」と呼ばれていた。つまりスキタイ人が住んでいた地域だ。そしてここで活動していたスキタイ国家を「第三スキタイ国家」と雪嶋氏は書いている(p196-197)。勢力は小さいが王はいた。
「第三スキタイ国家」の文字史料は少ないが、黒海周辺の覇権を唱えたポントス王国のミトリダテス6世(大王。在位:前132-前63年)の手を焼かせた程度の勢力ではあった(ポントス王国はボスポラス王国とは別の王国)。ただし最終的には支配下に組み込まれた。
そして紀元後は黒海周辺の小国のひとつでしかなくなった(雪嶋氏/p205)。
小スキティアに移住した後のスキタイ人は、青木氏は「定住化した」とかいているが(p33)、雪嶋氏は遊牧していたと書いている(p201)。青木氏の専門は宗教方面なので、雪嶋氏の説の方を信じよう。
クリミア半島の定住民としてのスキタイ人は紀元後3世紀まで確認できる、と青木氏は書いている(p33)。