歴史の世界

【書評】江崎道朗・福島香織・宮脇淳子『米中ソに翻弄されたアジア史』

副題は「カンボジアで考えた日本の対アジア戦略」。
帯には「中国共産党による各国への〝共産主義浸透工作"は今なお続いている! それは日本にとって決して他人事ではない」とある。

この本の内容はカンボジアを中心とした地域研究(エリア・スタディーズ)で、最重要の論点はカンボジア(と東南アジア諸国)と中国(共産党)の関係に収束していく。

著者について

江崎道朗氏は最近は保守言論界で特に有名な方だ。安全保障面の言論を展開している。安全保障と言えば軍事と思うのが普通だが江崎氏の話は「インテリジェンス」が中心だ。ただ「インテリジェンス」について私自身が理解不足なので説明は省略する。

福島香織氏はチャイナウォッチャーとして有名。政治家のことだけでなく、庶民や村落の事情まで精通している。

宮脇淳子氏は東洋史家として有名。現代中国については最近の事情ではなく歴史を通して語っている。

著者の三人は中国に危機感を共有している。

三人とも専門分野が違うので、この本一冊で多角的な見方ができるのはお得でしょといったところ。

目次について

以下は章の紹介と説明。

第一章 歴史編 現代カンボジアを知るための東南アジア史概説/宮脇淳子
─地理に始まり、古代から現代にいたるインドシナ半島の歴史を、カンボジアに焦点を当てて解説

第二章 政治編 カンボジアの反仏独立闘争と日本/江崎道朗
─前編:日本敗戦のあと復員せず、カンボジア独立運動を助けた日本人、只熊力氏を通して反仏独立戦争を解説。 ─後編:米中ソの間で自己の権力確立だけを画策して内戦を引き起こすことになったシハヌーク国王の実態を描く。

第三章 国際関係編 中国化するカンボジアのゆくえ/福島香織
カンボジア生まれの華人工作員、周徳高のオーラル・ヒストリーに基づいて、華人視点からクメール・ルージュ中共の関係を考察。中共の革命輸出がどのようになされたのか、カンボジアだけでなく、東南アジアすべてにおいて華僑・華人がどのような役割を果たしてきたかを解説する。

第四章 鼎談編 中共の暴虐とインドシナの命運

出典:Amazonの説明より

本の内容

この本で著者たちがもっとも伝えたいことは第四章の鼎談に書いてあるので、こちらから読み始めるのがおすすめ。第四章には、お三方がそれぞれ各章のどこがポイントなのかも書いているので、第四章を読んで、その後に他の各テーマを各章で深堀りするという読み方。

さらに言えば、この本を手に取る前に、Youtube動画の宣伝番組を見ることもおすすめする。3本。

特別番組「米中ソに翻弄されたアジア史」宮脇淳子 江崎道朗 福島香織【チャンネルくらら】 - YouTube

カンボジアの反仏独立闘争と日本 宮脇淳子 江崎道朗 福島香織【チャンネルくらら】 - YouTube

中国化するカンボジアの行方 宮脇淳子 江崎道朗 福島香織【チャンネルくらら】 - YouTube

第四章(鼎談編)について

まず、第四章から。最初の方はカンボジアについて話しているが、この章の大半が中国について。

東南アジアは中国共産党が誕生する前からいろいろな理由で華人 *1 ・華僑 *2 が移り住んできて支配者層に食い込み、タイやベトナムの支配者層はチャイニーズの血が色濃いという。宮脇氏に言わせればタイやベトナムの支配者はチャイニーズで、本国に支配されたくない彼らはチャイニーズを知り尽くした上で対策を立てて立ち向かっている。さらに宮脇氏は、古代における日本建国も中国本土から逃げてきた華人たちが現地の天皇を担ぎ上げて建国したのだと言っている。

この本の副題にある「アジア戦略」についての言及はあまり無いが、東南アジアを日米豪陣営(自由主義陣営)に取り込むには、東南アジアの地域研究の他に中国本土(中共)に支配されたくない華人・華僑と手を組む必要があるということだ。

私はこの本の急所はここだと思っている。

第一章(歴史編)について

宮脇氏がカンボジアを中心とした東南アジア大陸部の通史を書いている(インドネシアなどの島嶼部については言及していない)。

ページ数が少なくて地図がほとんど無いため、前近代の歴史を理解するのは難しいかもしれない。深く理解したいのなら章末にある参考文献を読めばいい。メコン川とかメコンデルタの地名や位置などはインターネットなどで調べたほうがいい。

後半の近現代史は英仏の植民地化に始まり、ベトナム戦争の話を経てカンボジアの歴史に移行して第二章の第二次大戦後のカンボジアの話にバトンタッチする。

第二章(政治編)について

江崎氏の筆。シハヌークシアヌーク)が主人公だが、戦後にカンボジアに残った日本人 只熊力(ただくまつとむ)氏が準主人公として描いている。彼はシハヌークに請われてカンボジアに残り、シハヌークのブレーンとして働いたが、そのご袂を分かってしまった。

江崎氏が只熊氏と実際に会って資料までもらっている関係だということは上記の2つ目のYoutube動画で語っている。只隈氏を中心人物の一人として描いたことにより、日本もカンボジアに少なからず影響力を与えたことを伝えている。

しかし日本の影響力がほとんどなくなった後は共産党と中国の波が押し寄せてくる。シハヌークは途中までは国のために粘り強い外交の末に平和的に独立を達成したのだが、その後は自己の権力を守るために共産党と体を組み、最終的にポルポトの大虐殺への道を作ってしまった。

第三章(国際関係編)について

福島氏の筆。

カンボジア生まれの華人工作員、周徳高のオーラル・ヒストリーに基づいて、華人視点からクメール・ルージュ中共の関係を考察》

この章についても3つ目のYoutube動画で福島氏が説明しているので読む前に視聴することをおすすめする。

動画の中で福島氏が言っていることによれば《カンボジアでもどこでも華人が本国(中共)のために働いても、骨の髄まで利用し尽くされた後、最後はものすごい惨めな末路になる(だから早く中共には見切りをつけろ)。》

この章の主人公はそういった人生を歩んだ一人だった。そして彼のおかげもあって現在のカンボジアは中国の植民地のような状態になっている。

まとめ

三人の一致する問題点・主張点を理解するには第四章を読むのが一番わかり易いので、まずこの章を最初に読むことをおすすめする。

その後に深い理解を得るために個々のパートを読めばいい。

私の注目点・感想

本のタイトルが『米中ソに翻弄されたアジア史』なのに米ソのことについてはそれほど書いていない印象だ。三人が中国への関心が強いということもあるし、現在米中冷戦中ということもある、と思う。

中国の東南アジアに対する影響は前近代の長い歴史の中で行われてきた。中国は東南アジアを自分たちの裏庭くらに思っているかもしれないが、日本を含む自由主義陣営は全体主義中国から東南アジア諸国を引き剥がしてこちらの陣営に止め置く努力をし続けなくてはならない。そうしないと日本が全体主義に呑み込まれてしまう。

カンボジアは植民地同然の状態になっているが、オーストラリアもその一歩手前までの状態になっていた。クライブ・ハミルトン『サイレント・インベージョン』 *3 が出版されてオーストラリアの政治は急展開して今は中共の影響力を排除している最中だ。

『サイレント・インベージョン』は聞くところによると中共の手口を詳細に書かれているそうだが、『米中ソに翻弄されたアジア史』は手口についてはほどほどにして、手口によってどのような状態になるのかを書いているといっていいだろう。

副題にあるように日本の対アジア戦略を考えるのは必要なことだが、その前に日本自体が植民地化されないか不安だ。日本国内の中共の影響力の排除についても、カンボジア(そしてオーストラリア)の歴史の理解が必要だろう。

*1:現地の国籍を取得した中国人

*2:現地の国籍を取得していない中国人

*3:オーストラリアで2018年出版。日本では2020年5月に訳書『目に見えぬ侵略 中国のオーストラリア支配計画』が出版された

【書評】内藤陽介『みんな大好き陰謀論』

みんな大好き陰謀論

みんな大好き陰謀論

  • 作者:内藤 陽介
  • 発売日: 2020/07/04
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

副題は「ダマされやすい人のためのリテラシー向上入門」。

帯には以下のように書いてある。

あなたは大丈夫? 賢い人ほどダマされる!
無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう
まずは定番、ユダヤ陰謀論を叱る‼
本物の陰謀が、ここにある。
本物の教養を知っているから、真実の歴史がわかる。
倉山満氏推薦!

分かりにくいがこの本の内容はユダヤ陰謀論批判の本だ。つまり幾つかの有名な「ユダヤ陰謀説」に対して反駁する内容となっている。

インターネットで大体の知識が入手できる時代にいまだにユダヤ陰謀論なんて信じる人がいるのかと思ってしまうところだが、言論人・政治家・財界の中にも真実だと思っている人がいるらしい。

実を言えば、私も宇野正美先生の本などを読んで陰謀論信奉者のはしくれになっていた時期はあった。ただ陰謀論の本は(説得力のある部分が有るものの)概して訳の分からない方向へ話が進んでいくので、結局飽きてしまって普通の歴史の本を読むようになった。

著者について

著者の肩書は郵便学者。郵便学というのは巻末の説明では《切手等の郵便資料から国家や地域のあり方を読み解く「郵便学」を提唱し、研究・著作活動を続けている》とある。

著者はyoutube動画の政治系チャンネル『チャンネルくらら』でレギュラー出演されていて、世界情勢の歴史的背景を解説する番組を担当している。アフリカや東南アジアの小国の歴史まで丁寧に解説してくれる希少な番組だ。

出版の経緯

出版の経緯については「おわりに」で言及されている。

この本は上述の『チャンネルくらら』で企画され、まず10個程度の動画を配信して、それらの内容に加筆する形で本にする予定だったが、あまりにも動画を作りすぎたため(90個以上!)に、企画がポシャってしまった。

ところが内藤さんが有名なお笑い芸人の中田敦彦さん(オリラジ)のYoutubeチャンネル『中田敦彦氏のYoutube大学』の誤りを解説する動画を配信したことがきっかけで、お蔵入りしていた企画が日の目を見ることになった。

内藤さんが批判された内容はユダヤ以外にも多岐にわたるが、中田さんのような有名人が言及した間違った認識が世に広まることを止めようというのが、この本を出版する動機となった。ちなみに中田さんのネタ元は池上彰さんだ。この人の歴史認識もヤバいらしい。

とにかくこの本は、副題にあるように「ダマされやすい人のためのリテラシー向上入門」であり、陰謀論者ではなく普通の人向けの本ということだ。

本の内容

目次は以下の通り。

第一章 英国のEU離脱ロスチャイルドの陰謀! ?
第二章 アメリカのFRBユダヤが握っている! ?
第三章 共産主義ユダヤの思想! ?
第四章 ソ連ユダヤ人が作った! ?
第五章 コミンテルンユダヤによる世界支配の手段! ?
第六章 東欧のユダヤ人はハザール改宗ユダヤ人の末裔!?
みんな大好き陰謀論 | 内藤 陽介 |本 | 通販 | Amazonより)

各章に幾つかの陰謀説が紹介され、それらが誤りである証拠を提示している。

ただ、その証拠となる史実の説明が長いので、内容はほとんど世界史あるいはユダヤ人の歴史となっている。

ユダヤ人の歴史は迫害と差別の側面がクローズアップされており、おもわず自分がユダヤ陰謀論批判の本を読んでいることを忘れてしまう。

ユダヤ人が(主にヨーロッパで)長いあいだ迫害と差別を受けてきたことは周知のことと思うが、大虐殺のような事件が起きる前には必ずユダヤ人を悪者にしようとするデマを触れ回って扇動する人達がいる(おもに地方の聖職者たち)。

有名なデマとしていわゆる「血の中傷」を取り上げている。ここでは書かないが《血の中傷 - Wikipedia》に内容が書かれているのでそちらを参照。これ以外にも有名なデマがいくつもあるようだ。

そしてユダヤ陰謀論というのもこのデマの一部だと考えていい。ユダヤ陰謀論の中で最も有名な陰謀説に「シオン賢者の議定書」がある。これを信じている人が少なからずいるようだが、この本も反ユダヤ主義者が書いた偽書だ。この本はヒトラースターリンにも影響を与え、各国のユダヤ人の数多くの命を奪う結果をもたらした。

内藤さんはこのような史実を踏まえた上で、(陰謀論東スポのようにエンタメで楽しむだけなら良いのだが)陰謀論を真に受けた人たちがユダヤ人に被害を与える危険があることを世に訴えかけている。

私の注目点・感想

ひとつ目は、世界史におけるユダヤ人の存在。ユダヤ人はよ-論破を中心に拡散していて、金融に多くの人たちが携わっていたので世界史でたまに言及される(といっても、ユダヤ人のほとんどは農民)。中世のドイツやレコンキスタ期のスペインなど、カネが必要な時代はユダヤ人を招致し、成功して豊かになるとユダヤ人を煙たがるというのがパターンとなっている。煙たがった人々の中でデマを流すと迫害や虐殺が始まる。それでもユダヤ人はたくましく生き続け、各地で活躍して現在に至っている。

ふたつ目。陰謀論の危険性について。

既に書いたことだが、ユダヤ陰謀論が広まると、これによって現在生活しているユダヤ人たちに被害が及ぶ可能性があるということ。百歩譲って陰謀説が事実だとしてもほとんどのユダヤ人は無関係なのに、目の前にいるユダヤ人にすべての責任を負わせようとするようなアタマのおかしい人が少なからずいることを考えなければならない。

だから、このようなたぐいに興味を持った場合、鵜呑みにしたり拡散する前に史実を確かめる努力をしなければならない。インターネットがある時代の日本でならそれができる。

おまけ

この本のネタ元(?)である。

Youtube番組「きちんと学ぼう!ユダヤと世界史:ユダヤ陰謀論を叱る」の第一回がまだ視聴できる。

www.youtube.com

番組は90回以上続いたが、現在アップされている動画は20個。



「秦代/楚漢戦争」カテゴリーの主要な参考図書およびウェブサイト

「秦代/楚漢戦争」のカテゴリはこれで終わり。

以下はこのカテゴリーで利用した主な参考図書およびウェブサイト。

《鶴間和幸/中国03 ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国講談社/2004》《鶴間和幸/人間・始皇帝岩波新書/2015》

人間・始皇帝 (岩波新書)

人間・始皇帝 (岩波新書)

この2冊で基本的には十分だと思う。足りないところは研究家がウェブ上のpdfで補えば知りたいことはだいたい分かる。

岡田英弘/この厄介な国、中国/ワック/2001 (『妻も敵なり』(1997/クレスト社)を改訂したもの)

この厄介な国、中国 (WAC BUNKO)

この厄介な国、中国 (WAC BUNKO)

いわゆる「中国人論」の本。中国・中国人の起源のようなものも書いてあるのでこれを参照した。

最近の言論界で中国に批判的な中国専門家の中で石平氏福島香織氏・宮脇淳子氏は岡田氏の歴史観・中国人観はだいたい一緒だと思う(宮脇氏は岡田氏の弟子で妻)。

《佐竹靖彦/劉邦中央公論新社/2005》《佐竹靖彦/項羽中央公論新社/2010》

劉邦

劉邦

項羽

項羽

佐竹氏は中国の歴史家の論文をいくつも紹介して詳細な劉邦像・項羽像を描いている。

史記』は前漢代に書かれているので、当然劉邦の都合の良いように捏造が加えられているのだが、ここらへんをふまえて書いてあるのでたいへんありがたい。

この時代の庶民の社会を描いている点や当時の人々と現代人に通じるものに触れている点など興味深い本である。

藤田勝久/項羽と劉邦の時代

佐竹氏の本と比べると、いたって普通の歴史書という感じ。

ざっと楚漢戦争を知りたい人はこれだけ読めば十分だろう。

その他

・ウェブサイトではwikipediaをよく参考したが、それ以外でも研究者が書いたpdfがアップされているのでいくつか引用した。本よりも詳しいことが知りたい時はこれらをダウンロードして見ればけっこう分かることが多い。

宮脇淳子氏が解説しているYoutube動画チャンネルくららの「皇帝たちの中国」をいくつか引用した。



楚漢戦争㉘ まとめ その4/止

第六幕:雌雄決す

広武山での2つの出来事

広武山で項羽と劉邦が呼びかけあう。

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出典:藤田勝久/項羽と劉邦の時代/講談社選書メチエ/2006/p187

項羽は一騎打ちを要求したり、人質の父・嫁を殺すと脅したりするが劉邦は応じない。劣勢と優勢を自認している両者の言葉と応対だ。

その後、再び広武山で二人が顔を合わせたのは停戦の取り決めの場であった。劉邦は人質返還の目的で停戦を幾度か持ちかけていた。断り続けていた項羽は漢4年(前203年)8月についに協定に応じた。兵站をズタズタに引き裂かれていたこともあり時間が欲しかった。

停戦協定が結ばれて人質が返されると、劉邦はすぐさま協定を破って帰還する項羽を追いかけて攻撃した。

項羽はこれを返り討ちにするのだが、項羽と劉邦が戦闘をしている間に、韓信が配下の灌嬰に彭城に派遣しその周辺を攻め落とさせた。帰る場所さえ失った項羽垓下の戦いで敗死した(漢五年(前202年)1月)。垓下の戦いは『史記』の名シーンの一つだが、ただ単純に追撃を振り切ることができなかっただけだった。

項羽が敗死したことにより、劉邦の天下が決定し、漢帝国の時代が始まる。

功臣韓信・彭越ら「外様」の運命

垓下の戦いの時、韓信は30万の兵を持っていたが、劉邦終戦直後に韓信の軍権を奪った。劉邦は以前から韓信に対して全面的に信頼しているわけではなかった。韓信は同郷ではないということもあるが、彼の能力を恐れていたと思われる。

史記』において韓信の働きは詳細に描かれていた。有名な背水の陣はその一つに過ぎない。司馬遷韓信に同情し、謙譲を示し功績を誇らなければ天寿を全うし一族も長く存続できただろうと書いている。しかし韓信の功績はこれを許されないほど大きなものだった。彼は他の「外様」の王と同じく粛清された。

彭越も同じ道を辿る。彼も楚において遊撃戦を展開し、楚軍の兵站ネットワークを破壊するという功績を挙げている。彭越も王となったがその後、粛清されている。

その他の外様の王は帝国建国の後、順次粛清され、劉一族が空いたポストに座ることになる *1

なお、張良・陳平も外様だったが、張良は建国後に早々と要職を去り、陳平は絶えず策略を巡らせて難を逃れた。

結び:項羽劉邦になぜ負けたか

項羽劉邦に負けた理由は、簡単に言えば、政治行政の経験が無かったことだろう。

項羽は叔父の項梁が呉において決起した時に副将だったが、この時まだ20代前半だった。項梁が戦死した時、楚の為政者たちは「項羽はまだ若く経験がない」ということで項梁の跡目を継ぐことを遮られたのも当然だろう。

項羽は鉅鹿の戦いにおいて劇的な大逆転により瞬間的に天下を奪ったが、生粋の軍人である項羽は政治的采配を振るうことができず、劉邦がやったような人材の活用をすることができなかった。

劉邦は自分自身と項羽を比較して、「自分は韓信・蕭何・張良を使う事ができたが、項羽は范増すらろくに使うことができなかった」と評したのは、以上のことを端的に表した言葉だ。

劉邦も大して政治行政の経験があるわけではなかったが、運命共同体であった蕭何がその不足分を補った。そして兄貴肌な性格をもって同郷の者だけではなく外様の人々も使いこなすことができた。私個人としては、劉邦の最大の長所はこの他人を惹きつける魅力にあると思うのだが、これがどういうものなのか具体的なことは全くわからない。



楚漢戦争㉗ まとめ その3

今回は項羽政権の崩壊と劉邦の再登場。

項羽は天下を取ったはいいものの何の準備もしていなかったため、その体制は簡単に瓦解してしまった。

中華世界は再び動乱へと戻っていったが、項羽の軍門に降っていた劉邦はこの機に乗じて関中を制圧し、項羽に宣戦布告をする。

第四幕:項羽の天下とその崩壊

鴻門の会において劉邦項羽に屈服した時点で、中華世界では項羽に逆らえる勢力は無かった。

項羽の上司として懐王が存在していたが、楚国以外の勢力が懐王に従う環境は全く無かった。彼らは項羽が持つ軍事力の前に従属しているのであり、軍事力を持たない懐王の存在など関心も無かっただろう。

項羽政権

漢元年(前206年)の1月、項羽は反秦戦争の論功行賞を行い18王の分封ほか中華世界の領土を貢献した者に分け与えた。

項羽は自らを西楚覇王とし、楚・懐王を義帝として、項羽政権を築いた。

この体制は義帝からは実権を取り上げて項羽が中華全体を支配するというものだった。日本の江戸時代の体制に似ている。

ただし、楚の人口の多い地域は自らのものにしたものの、他地域は分封してしまったため、始めから大きな権力は持っていなかったといえる。

再び動乱はじまる

諸侯は4月になってから封地に赴いたが、動乱は早くも5月に始まった。

最初の反乱を起こしたのは斉の田栄。鉅鹿の戦い以前、田栄は斉国の事実上の支配者であったが、反秦戦争に参加せずに内政に努めていた。

しかし田栄に反する形で2人の田氏が参戦し、項羽は戦後にこの二人に分封するために斉を三分割した。自領を勝手に分割された田栄は兵を挙げ、取られた領地を回復した。

項羽は自分の決定に従わない田栄を討伐するために斉地に出兵したが、7月に燕で臧荼が反乱を起こし、8月にはいよいよ劉邦が動き出す。

中華世界は再び動乱に戻り、項羽による統一中国は数ヶ月で瓦解した。

第五幕:直接対決始まる

彭城の戦い

項羽が対斉戦争に集中している隙に劉邦は関中をほぼ征服して漢王国を建国した。王国の体制を確立した上で東進し、 ついに項羽との直接対決となる。劉邦は韓・魏を呑み込み、さらに趙の陳余を味方につけて、項羽都城である彭城に攻め込んだ。その総勢は56万と称した(彭城の戦い。漢二年(前205年)4月)。

項羽が斉の地で戦闘中で彭城には居なかったこともあり、劉邦軍は容易に彭城を陥落させた。あまりにも容易に成功したためか完全に軍がゆるんでしまい、帰還した項羽の数万の軍勢に攻撃されると壊滅状態に陥った。劉邦は命からがら逃げ切ったが、父親と嫁(劉太公と呂雉)を人質に取られてしまった。

陳余が項羽側に寝返っただけでなく斉の田横(田栄の死後の継承者)まで講和した。

滎陽の攻防と韓信の戦略

劉邦は関中へ戻らず、なんとか滎陽で踏みとどまった。

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出典:藤田勝久/項羽と劉邦の時代/講談社選書メチエ/2006/p164

この滎陽で劉邦は防戦一方となるのだが、ここにはちゃんとした戦略があった。この戦略に項羽はまんまと嵌ってしまうのだが、その戦略とは至って簡単なものだった。すなわち、劉邦が戦いの最前線である滎陽で交戦し項羽本隊を惹きつける。その隙に韓信ら精強部隊が北方を攻め占領していく、というものだ。この戦略はおそらく韓信が立てたもので、韓信項羽以外は敵ではないと看破し、実際その通りだった。

滎陽城は陥落し、多大な犠牲を出し、劉邦も危ういところで脱出するほどであったが、韓信の軍が駐屯する修武にたどり着いて息を吹き返す。そして項羽が滎陽城を落とした頃には韓信は趙を攻め落としていた。

劉邦は新しい兵を得て攻勢に転じ、彭越がゲリラ戦を展開して楚の兵站ネットワークを破壊して廻った。さらに韓信は燕王になっていた臧荼を兵を使わずに服属させ、そのあと斉を攻め落とした。

項羽は龍且と周蘭に20万と号する大軍を与えて斉にいる韓信軍を攻撃させたが、韓信はこれを撃破した。負けたこの大軍は項羽軍の総数に近い軍勢で、後世から見ると、これが撃破された時点で項羽の敗北が決していた(漢三年(前204年)11月)。



楚漢戦争㉖ まとめ その2

前回からの続き。

今回は項羽と劉邦がいよいよ歴史の中心人物になる時期の話。

有名な鴻門の会にも触れる。

第三幕:懐王政権と鉅鹿の戦い

懐王政権

項羽劉邦とともに項梁軍の別働隊として転戦していたが、項梁の敗死を知り拠点であった彭城へ戻った。

この時 項羽はまだ24歳か25歳の若年者で、周囲の人間は項羽が項梁の後を継ぐことができるとは思わなかった。そこで懐王は 項梁の配下であった宋義に近づいて彼の後ろ盾で権力を握った。

懐王は都を長江下流の盱台(くい)から戦いの最前線に近い彭城に遷して新しい体制を作った。そして冠軍(総司令)を宋義、副将を項羽として次の戦場に向かわせた。この戦いが鉅鹿の戦いだ。

各地の状況

鉅鹿の戦いを見る前に各地の状況について。

  • 秦・楚地域:既に書いたとおり。
  • 韓:章邯率いる秦軍の進軍に伴い、秦の勢力下に入る。
  • 魏:旧魏王室の公子だった魏咎(ぎきゅう)が魏王となっていたが、秦軍に攻め落とされた。
  • 燕:陳王の配下だった韓広が燕王となっている。
  • 斉:旧斉王室後裔の田市(でんし)が斉王となっている。ただし実権は相国の田栄。項梁と確執があり、対秦戦争には参加しなかった。
  • 趙:陳王の配下だった張耳・陳余が、趙の公子であった趙歇を王として擁立していた。

今回の鉅鹿は趙の領土。

秦軍と趙軍の動き

秦軍の章邯は項梁を敗死させた後、趙への攻撃に移った。辺境の楚東部への攻撃よりも中華の中心部である趙南部への攻撃を選択した。

二世3年(前207年)10月、章邯は大都市である邯鄲(旧趙国の首都)に入城されては長期戦になってしまうと考え、先回りして邯鄲の城壁を破壊、住民を移した。さらに秦は中央から王離将軍率いる精鋭部隊を派遣する。

張耳らは鉅鹿に籠城し、陳余は救援を募りに外へ出た。

攻撃が開始され、状況が厳しくなった張耳は何度も陳余に外からの攻撃を要請するが、陳余は「いま攻めても玉砕するだけだ」と言って動かない。

このような状況で城陥落は時間の問題となっていた。

楚軍、攻撃を開始する

11月、宋義を総大将とする楚軍は まだ黄河の南の安陽に留まっていた。宋義の戦略は鉅鹿の戦いが終わった後に、疲弊した秦軍を攻撃するというものだった。その間に斉国と同盟を結んで秦に対抗しようという長期戦略を考えていた。

副将であった項羽はこれに反抗し、宋義を斬って全権を奪い行進を開始する。

12月、項羽はついに秦軍へ攻め込む。秦軍は後方部隊も合わせて50万、項羽軍は5万程度。項羽は兵力差をものともせずに秦軍を片っ端から斬り殺していった、そのあいだ、陳余や他の援軍はその戦闘を砦から見ていた、という。

1月、王離が捕虜となる。中央から派遣された精鋭部隊は壊滅。後方を担当していた章邯は敗走したが追撃され、最終的に項羽に降伏する。

この劇的な逆転勝利は全て項羽の手柄と言って過言ではなかった。項羽が反秦勢力のトップに立ったことは言うまでもない。

別働隊の劉邦

劉邦項羽らの本隊とは別に楚の西部への攻撃を担当した。劉邦は楚地域にある秦と楚の勢力の境界にある碭郡の郡守に任命されていたが、項羽が王離軍を破るまでこの地からほとんど離れない地域で一進一退を繰り返していた。

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出典:藤田勝久/項羽と劉邦の時代/講談社選書メチエ/2006/p118

  • 前回書いたとおり、秦暦は10月を年始とすることに注意。

項羽が王離軍を撃破すると、総崩れとなった秦軍を一気に攻め込み西進した。しかし洛陽で進軍を止められると今度は武漢から秦都・咸陽を目指した。

劉邦軍は、項羽ら主力軍と比べてはるかに劣る戦力しか持っていなかったので、主要な県城の主に対して「いま降伏するなら今の地位を安堵してやる」と説得して降伏させることして、成功した。政治力(?)の勝利。

漢元年(前206年)10月 *1劉邦軍は、掃討戦をしながら咸陽へ進軍した項羽よりも早く到着すると、秦の三代目の子嬰(皇帝ではなく秦王)が劉邦に対し無条件降伏し、ここに秦は滅亡する。

「関中王」劉邦

一時的でも、関中を征服した劉邦は関中王として庶民に振る舞った。

なぜそんな振る舞いをしたのかというと理由がある。話を楚軍が鉅鹿の戦いに参戦する前まで戻す。

この時点で楚軍が関中へ攻め込むことは将軍たちは不可能だと思っていた。このような状況の中で懐王は諸将を前にして「先に関中に入った者をこの地の王とする *2 」と宣言した。懐王は手元に領土も金品も権力も持っていなかったので空約束くらいしかできなかった。この空約束を「懐王の約」という。

さて、劉邦は関中を攻め落とした。懐王の約を根拠に関中王として振る舞った。関中の三老(為政者層の者たち)を集めて自分が新しい王であることを宣言した。

有名な「法三章」(殺人・傷害・窃盗だけを罰するとした3か条の法律 *3) を宣言したのはこの時点である。ただし法三章で治まるはずもないので、実際には秦律を用いていたようだ *3

鴻門の会

さて12月になると、項羽軍が大軍を引き連れて函谷関 *4 に到着した。

劉邦は懐王の約を根拠に漢中王となったのだが項羽はこれを承知しないだろうという観測から、劉邦は函谷関で項羽の関中入りを止めた。

項羽はこれに激怒し、函谷関の防衛を撃破して進軍し劉邦への攻撃の準備に入った。このような状況で開かれたのが有名な鴻門の会だ。

鴻門の会は一言で言えば劉邦項羽の軍門に降った一連のイベントだ。『史記』にはそのように書いてはいないのだが、後の敵となる項羽の軍門に降ったということを歴史に書き残すことは憚(はばか)られたのだろう。

劉邦は「漢中王」の自称を取り消し、関中におけるすべての権限を項羽に差し出し、それまでの「無礼」を不問にしてもらった。



*1:二世皇帝・胡亥が二世3年に死んだため、『史記』では次の年の表記を「漢元年」とした。『漢書』は「髙祖元年」としているように、「この年から髙祖・劉邦の天下である」という歴史観司馬遷漢帝国の時代の人だからそうしたのは当然。

*2:先入定關中者王之

*3:法三章の宣言自体も嘘かも知れない。秦律を用いていたことは発掘した文書で分かっているという。

*4:関中への入り口

楚漢戦争㉕ まとめ その1

これまで長々と楚漢戦争について書いてきたが、今回はそのまとめを書く。(といっても複数の記事になってしまう)。

楚漢戦争の起点は定説がないようだ。このブログでは、起点は劉邦項羽に対して正式に反旗を翻した彭城の戦いとしている。

ただしこのブログでは、三国志の物語が黄巾賊の乱から話をするように、楚漢戦争を陳勝呉広の乱から話を進めている。このまとめでもこの乱から始めることにする。

暦の問題

最初に暦の問題を書いておく。ややこしいので予め理解しておく必要がある。

史記』では年の表し方は秦の始皇帝の元年(略して秦始皇元年または始皇元年)とか二世皇帝二年(二世二年)などと書かれる。ちなみに元号というものは前漢武帝代から始まった。

秦の暦は特殊で、10月が年始となる。つまり、秦始皇元年(前251年)の9月の次の月が始皇二年(前252年)10月となる *1 。このブログでは便宜的に西暦も10月を年始とする秦暦に合わせることにしている。

もうひとつ、『史記』では秦二世皇帝が二世三年(前207年)の9月に死んだ後、明くる月は「漢元年10月」としている(『漢書』では「高祖元年」という書き方をしている)。暦は秦暦を継承して、10月が年始となる。

  *   *   *

さて、それでは本題に入ろう。

第一幕:陳勝呉広の乱

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出典:浅野典夫/図解入門よくわかる高校世界史の基本と流れ/秀和システム/2005/p65

反乱の原因

まずは反乱の原因から。

陳勝呉広の乱は前209年、秦の二世皇帝元年に起こった。秦による中華統一の前221年からわずか12年しか経っていない。

つまりは始皇帝の政策に大きな問題があったから反乱が起こったと見るべきだろう。

上記の図解は政策についてまとめてある。大きな問題を2つ挙げるとすれば、不満の蓄積と防衛の問題だ。

不満の蓄積の面について。

  • 郡県制:旧六国(秦以外の国々)の有力者(旧王族・貴族)らの既得権益を剥奪して恨みを買った。
  • 造営事業:労役増加を含む大増税によって民衆の不満が高まった。

こういった不満が高まるのは百も承知だった。戦国時代の秦においてはこのような不満は法治つまり厳重な管理社会を築いて抑え込んできたが、広大な中国本土を短期間でそのような社会に変えることは不可能だ。だから武力によって鎮圧するしか無い。

そこで防衛面について。

各地の防衛を担当するのは郡だった。郡には郡守(軍の長官)を中央より派遣するのだが、兵隊は現地の庶民から徴兵した。反乱が起こった時はまず郡の軍隊が鎮圧に当たるが、対応しきれない時は中央から軍を派遣する。

しかし、陳勝呉広の乱が起こると旧六国地域の郡の軍のほとんどが、中央から派遣された官僚らを殺して反秦勢力と化した。

全国の郡の兵隊が一気に敵になることを始皇帝は想定していなかった。まあ普通はそんな事を考える必要はないのだが、そのような状況を作ったのは始皇帝の政策だった(上記参照)。

反乱の始まりと終わり

陳勝呉広は庶民だった。

二世皇帝2年(前209年)7月彼らは北方辺境の防衛をするために徴兵された。しかし、北方へ行く途中で大雨に遭って足止めを喰らい、期日中に目的地に到着することができなくなった。秦の法律は期日に到着できなかったらどんな理由であろうと斬首というものだった。

陳勝呉広はどうせ死ぬなら一花咲かせて死のうと決意し、引率の将尉を殺して徴兵された兵士を味方につけ反乱軍になった。

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出典:藤田勝久/項羽と劉邦の時代/講談社選書メチエ/2006/p83

彼ら反乱軍はかつて旧楚国の都になったこともある陳県を手中に収め、ここを都として張楚国を建国した。「張」は「大いなる」という意味で、ようするに楚国の復活を意味した(両者ともに楚人)。

陳勝呉広の成功を伝え聞いた各地の庶民は一斉に反乱を起こし、中央から派遣されてきた官僚を殺して反秦勢力と化した。ほとんど旧六国全土が反秦となった。

陳王 *2 となった陳勝は各地に兵を派遣して反乱を支援した。各地を影響下に置こうとしたのだが、派遣した配下の者たちが陳王のコントロールを離れて勝手なことをやりだしたため統率は取れなかった。

楚軍は秦都・咸陽にも出兵し都の近くまで進撃するが、将軍・章邯の軍に撃退されてしまう。ここから秦の反撃が始まる。これが9月のこと。

章邯は楚軍を押し返しながら東進し、12月 *3 には楚都・陳を攻め落とした。陳王は敗走の途中で臣下の一人に殺される。

こうして陳勝呉広の乱からはじまる張楚国はわずか半年足らずで滅亡するのだが、彼らから始まった各地の反乱勢力は健在だった。

第二幕:項羽と劉邦(と項梁)の登場

時間を少し遡って二世2年(前209年)9月。

項羽の叔父にあたる項梁が陳勝らに刺激されて決起した。

項梁はわけあって会稽郡(呉)にいたが、会稽郡守であった殷通を殺して自ら郡守となり、兵をまとめて長江を北上した。

項梁は楚の大将軍項燕の末子ということもあり、行軍するにつれて、反秦勢力が彼のもとに糾合した。

さらに二世3年(前208年)1月、項梁に陳王の使者と称する人物が訪れ、陳王が項梁を上柱国(宰相)に任命すると言ってきた。陳王は12月に殺害されているのでこの人物は偽物なのだが、この時点では情報が錯綜していたようで陳王の安否は確認できない状況だった。ともかく項梁はこれ以降、楚の上柱国を名乗ってさらなる求心力を得た。

4月、戦国四君で有名な孟嘗君のかつての領地であった薛で、項梁は各地の反秦勢力に大同団結を呼びかけて会盟を開いた(この時に劉邦も参加した)。ここで陳王の死が正式に確認されて、新しく楚国を建国する必要性が出た。

ここで会盟に駆けつけた一人である范増が「旧王族を王に立てるべきだ」と主張し、項梁がこれを認めた。王族を探すことに苦労したが、やっとのことで羊飼いに身を落としていた心という人物を見つけ出し王に据えた。これが懐王だ。

6月、新しい楚国を建国して体制を整えると攻勢に出た。項梁軍は総じて良く戦い、ジリジリとだが章邯の軍を西に押し返していった。しかし9月になると秦より大軍の増援が到着し、章邯は 慢心を見せた項梁に一気に攻め込み敗死に追い込んだ。

ここで新しい楚国が一気に壊滅の危機に見舞われる。

*1:閏月がある場合は9月の次に後9月(閏9月)が来る。

*2:本来なら楚王と呼ばれるべきだが、『史記』では「陳王」と書いてある

*3:年が変わって二世3年(前208年)