歴史の世界

楚漢戦争㉔ 戦後の韓信の処遇

楚漢戦争後、漢帝国成立の後、韓信は粛清される。

史記』における韓信の列伝である淮陰侯列伝には以下の一文が書いてある。

項羽已破,高祖襲奪齊王軍

出典:史記/卷092 - Wikisource

  • 項羽已に破れ、高祖遅いて斉王の軍を奪う。 *1 ) 斉王は韓信のこと。

佐竹靖彦『劉邦*2 によれば、項羽との戦いの後に劉邦が少数の兵を率いて韓信の本営に突入して軍の指揮権を奪ったのだろう、という。

高祖本紀にも同様のことが書いてある。

そして佐竹氏は以下のように続けて書く。

劉邦の権力欲と状況判断能力、さらに決断力は、韓信を上まわっていた。韓信の軍を奪うことに成功した瞬間、劉邦の権力は天下に及ぶことになった。

出典:佐竹靖彦/劉邦中央公論新社/2005/p497

斉王・韓信はその抜きん出た軍才により、劉邦項羽と天下を三分できる人物だった。ただし、配下の蒯通に天下三分の計を勧められたが、韓信は悩んだ末にこれを退けたという。

劉邦韓信のことを信頼していたなったようだ。同郷の臣下への信頼度とは隔絶した差がある。上のエピソードもそうだが、滎陽を陥落された劉邦が修武に着いた途端に韓信に告げもせずに軍権を奪ったこともある *3

信頼されなかった韓信

劉邦韓信を信頼していなかった。

劉邦陣営において韓信の能力を最初に認めたのは蕭何だったことは以前書いた *4劉邦は蕭何の強い推薦によってはじめて劉邦韓信を大将軍にし、周りの反対を押し切ったのだ。

韓信軍には常に同郷の灌嬰と曹参をつけていたし、韓信が斉を鎮撫するために仮の王になることを劉邦に求めたところ、劉邦は怒りのあまり韓信軍に攻め込もうとさえした。

戦後の韓信の転落

漢帝国建国の後、韓信は斉王から楚王に転封されたまでは良かったがその後に冷遇の憂き目に遭わされる。

紀元前201年、同郷で旧友であった楚の将軍・鍾離眜を匿ったことで韓信劉邦の不興を買い、また異例の大出世に嫉妬した者が「韓信に謀反の疑いあり」と讒言したため、これに弁明するため鍾離眜に自害を促した。鍾離眜は「漢王が私を血眼に探すのは私が恐ろしいからです。次は貴公の番ですぞ」と言い残し、自ら首を撥ねた。そしてその首を持参して謁見したが、謀反の疑いありと捕縛された。韓信は「狡兎死して良狗烹られ、高鳥尽きて良弓蔵され、敵国敗れて謀臣亡ぶ。天下が定まったので、私もまた煮られるのか?」と范蠡の言葉を引いた。劉邦は謀反の疑いについては保留して、韓信を兵権を持たない淮陰侯へと降格させた。

出典:韓信 - Wikipedia

この「淮陰侯」こうが『史記』の淮陰侯列伝の由来だ。

その後、鉅鹿の郡守に任命された陳豨が反乱を起こすと、韓信長安でクーデタを起こそうと計画したが、蕭何の謀計によりあっけなく捕まって処刑された。

最期は蕭何によって捕らえられたのは皮肉な運命だ。

韓信に同情する司馬遷

藤田勝久氏は『史記』の著者である司馬遷の評価を以下のように解説している。

司馬遷は……つぎのように評価している。

もし韓信に、謙譲の精神があり、功績を誇らなければ、(周の建国で功績があった)周公旦や召公奭、太公望たちに匹敵し、後世の子孫までいけにえを供える「血食」の祭祀をつづけたであろう。これに努めず、天下がすでに定まってから反逆を謀った。宗族が殺されたのは当然ではないだろうか。

蕭何や曹参にも劣らない、最大の賛辞ということができる。たしかに韓信は、蕭何や曹参らの援助をうけており、漢王朝のブレーンとしてなら、官僚や諸侯王の一人としてとどまれたかもしれない。しかし韓信の功績は、すでにそれを許さなかったし、楚王として東方を広く領有することは危険であった。おそらく司馬遷は、こうした韓信の功績をあからさまに称賛できなかったのだろう。

一方で司馬遷は、かれの最期を嘆いている。これは韓信を非難すると言うよりも、その失脚の原因を説明しようとしたのではないだろうか。

出典:藤田勝久/項羽と劉邦の時代/講談社メチエ選書/2006/p201-202

史記』においては韓信の活躍は特に詳細に描かれている。「背水の陣」で有名な井陘(せいけい)の戦いはその一つだ。これらの韓信のエピソードは彼が兵書に通じていたことを明らかにしているが、他の古典にも通じていたのかもしれない。これらの素養を実践として活かした人物は韓信が第一で、あまりにも抜きん出た才能ゆえに危険視されて粛清されてしまった。司馬遷はその才能を惜しみ、そして哀れんだ。

ただし韓信が粛清された最大の理由は「外様」だったからだ。このことは周知の事実だが、司馬遷は当然、書くことはできなかった。



楚漢戦争㉓ 雌雄決す ── 垓下の戦い

形成は劉邦陣営に大きく傾いたが、ここから一気に勝負に向かわずに、この後しばらく戦争は続く。

以下に、雌雄が決する垓下の戦いまでを書く。

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出典:藤田勝久/項羽と劉邦の時代/講談社選書メチエ/2006/p187

広武山での直接対決

漢4年(前203年)10月 *1、 成皋において曹咎が敗北して自害したという報を聞くと、項羽は彭越との戦闘を止めて西に移動した。

劉邦陣営は成皋の東の広武山に陣して項羽と対峙して。直接対決だ。

項羽陣営は食糧に乏しいため焦っていた。彭越に兵站ルートを破壊され、食糧を焼き尽くされていたからだ。さらに韓信がいつ楚に侵攻してきてもおかしくない状況だ。劉邦陣営は当然それを熟知している。この時のエピソードが残っている

*2

漢楚両軍は長い間対峙を続け、しびれを切らした項羽は捕虜になっていた劉太公を引き出して大きな釜に湯を沸かし「父親を煮殺されたくなければ降伏しろ」と迫ったが、劉邦はかつて項羽と義兄弟の契りを結んでいたことを持ち出して「お前にとっても父親になるはずだから殺したら煮汁をくれ」とやり返した。次に項羽は「二人で一騎討ちをして決着をつけよう」と言ったが、劉邦は笑ってこれを受けなかった。そこで項羽は弩の上手い者を伏兵にして劉邦を狙撃させ、矢の1本が胸に命中した劉邦は大怪我をした。これを味方が知れば全軍が崩壊する危険があると考え、劉邦はとっさに足をさすり、「奴め、俺の指に当ておった」と言った。その後劉邦は重傷のため床に伏せたが、張良劉邦を無理に立たせて軍中を回らせ、兵士の動揺を収めた。

出典:劉邦 - Wikipedia

怪我の回復が長引いたため、しばらく大きな動きはなかった。また、この間に父・劉太公と妻・呂雉の返還するための交渉を行っている。

広武山での停戦協定

漢4年(前203年)8月、項羽陣営はあいかわらず彭越の遊撃に手を焼いて、食糧が乏しくなっていた。

劉邦陣営の父妻の返還を含む停戦協定の申し入れに項羽は一度は拒否したものの、9月には提案を受け入れた。その場所が広武山だ。

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出典:藤田氏/p183

広武山の西と東にそれぞれ劉邦項羽の陣営が対峙する。上のように両者の城の跡地が1972年の調査によって認められた。半分は黄河の水路の中にある。

両陣営の間には鴻溝という溝があった(「鴻溝」は大きな溝を意味する)。和約(停戦協定)の条件はこの鴻溝の西を劉邦の領土、東を項羽の領土とし、その上で人質の父妻を返還するというものだった。父妻が戻ってきた時、劉邦陣営は「万歳」と叫んだという。

あまりにもアバウトな領地の分割は、おそらく両者とも和約を守る気はなかったのだろう。劉邦は父妻の奪還を、項羽はなんとしても食糧を得る時間が欲しかった。収穫期が来れば項羽は息を吹き返すことができる。

和約の直後、項羽が広武山を離れると、陳平と張良劉邦に和約を破り急襲することを進言する。劉邦はこれに従って攻撃した。韓信と彭越に出兵するように命じたが、彼らは命令に従わなかったという。結局、劉邦は返り討ちにあってしまった。

破れて固陵の城に着いた劉邦張良になぜ韓信と彭越は命令に従わなかったのか聞いた。張良は二人の封地が決まっていないことを指摘して「韓信には楚地の大半を、彭越には魏地を与えることを確約すれば、両者は憂いなく戦うでしょう」。劉邦張良の策を用いて韓信と彭越を従わせることに成功したという。

この部分は『史記項羽本紀にあるが、個人的には、本当は単独の急襲をして敗北したのに、後で歴史改竄をして、敗北したのは韓信と彭越が命令を守らなかったせいとした、と思っている。あまりにも取ってつけたような進言を張良がするだろうか?

垓下の戦い

さて、項羽が敗死する最後の戦い、垓下の戦いだ。

しかし上の地図を見ると、なぜ項羽都城である彭城に戻らなかったのかという疑問が起こる。

その答えは、すでに彭城は劉邦陣営によって攻め落とされてしまったからだ。少し詳しく説明すると、斉を征服した韓信軍が楚に南下していたが、韓信は配下の灌嬰に彭城に派遣しその周辺を攻め落とさせた。

彭城より北の昌邑とその周辺も彭越により攻め落とされ、項羽の行く場所はすでに失われていた。

もはや項羽楚国の滅亡が明らかになった時、楚の大司馬周殷も寝返った。

垓下において劉邦陣営は劉邦の他に韓信・彭越・灌嬰・劉賈・周勃・その他大勢が集結し項羽軍を囲んだ。最終決戦は項羽の10万に韓信の30万が攻めかかり、項羽の敗死によって勝負が決した。

こうして楚漢戦争が終わり、劉邦が天下統一して漢帝国が建国される。

異説を考える

(佐竹靖彦『劉邦*3 によれば、「垓下の戦い」という戦闘はなく、その代わりに「陳下の戦い」があったとしているが、このことはここでは書かない。)

史記』に書かれる中国の正史においては、広武山での停戦協定(和約)の後、劉邦韓信・彭越と合して総攻撃をかけるはずだったが、両者が従わず、その理由を張良は両者の領土が未確定だったからだと言っている。そして劉邦は彼らの領土を確定して命令に従わせることに成功したという。

しかし、既に上記したことだが、張良の取って付けたような策で韓信・彭越が横に振っていた首を縦に振るだろうか?

また、停戦協定の後、項羽が彭城に戻ろうとした時には既に彭城は陥落していた。このことは韓信が停戦協定後にいち早く動いたことにならないだろうか?

このような疑問から、異説を考えてみることにした。

起点は停戦協定直後に劉邦項羽に攻めかかった時点。

劉邦軍が単独で項羽に攻めかかった

1つ目のシナリオは、本当は劉邦韓信・彭越に命令を発することなく、項羽軍に攻めかかり、そして惨敗した。その後になって両者に命令を発し、垓下の戦いで勝利した。

停戦協定直後に韓信・彭越を含めて作戦が立てられた

劉邦が惨敗したのは、項羽を引きつけるための囮だった、というシナリオ。作戦を立てたのは韓信となる。

停戦協定前に既に作戦は立てられていた

すばやい彭城陥落を見ると、このようなシナリオも考えたくなるが、考えすぎだろうか。

歴史改竄の動機は韓信

佐竹靖彦『劉邦』によれば、『史記』は高祖本紀や項羽本紀には歴史改竄が施されているが、列伝などでは史実が残っている場合がある(またはその可能性が高い)とのこと。司馬遷は改竄することに後ろめたさを感じていたのかもしれない。

私は、広武山での停戦協定から垓下の戦いまでの間の歴史は改竄されていると思っているわけだが、では、改竄の動機は何だったのだろうか?

それは韓信の功績の大きさにあると思っている。彭越も同様。

楚漢戦争全体を見渡せば、本来なら、功績の第一は韓信であり、第二は彭越にある。それなのに、劉邦の論功行賞において功績第一が蕭何、第二が曹参であった。これは韓信・彭越が「外様」であったと同時に警戒されていたということだ。そしてこの両者は漢帝国建国後に粛清されている。

停戦協定直後の戦いにおいて、韓信・彭越が劉邦の命令に従わなかったと歴史改ざんすることによって、両者に「二心あり」という印象付けをしたかったと推測する。

そして、次回は本当の功績第一である韓信について書く。




前漢帝国の歴史は既に書いている。

中国_前漢 カテゴリーの記事一覧》を参照。


*1:「漢」暦は10月を年始とする

*2:このエピソードは、楚漢戦争の物語の名場面のひとつなのだが、長くなるので、簡潔にまとめられているwikipediaの引用で済ませることにする。

*3:中央公論新社/2005

楚漢戦争㉒ 逆転劇

前回の滎陽城陥落の後からの劉邦の逆転劇を書いていく。

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出典:藤田勝久/項羽と劉邦の時代/講談社選書メチエ/2006/p164

前回、滎陽城から逃走し、成皋で戦って再び逃走したところまで書いた(以下の場所は上図を参照)。劉邦黄河を北に渡り、韓信の軍が駐屯する修武にたどり着く。

劉邦は修武に着くとすぐさま韓信の軍隊の指揮権を取り上げ自軍に編入し、韓信を趙の相国として徴兵されてない民を新たに徴兵させ、その軍で斉を討つように命令した。この時、劉邦は将軍たちを召集して配置換えを行ったという。趙の地は張耳が守ることになった。これは漢3年(前204年)の7月のこと(藤田氏/p173)。

劉邦軍の反撃

韓信軍の精鋭を得た劉邦は8月、盧綰と劉賈に2万の兵を与えて白馬津 *1 を渡らせ、彭越とともに楚軍の兵站ネットワークの破壊攻撃を繰り返した。

項羽は大司馬・曹咎(そうきゅう)に成皋を守備させて彭越討伐に出た。しかし、漢4年(前203年)10月 *2 、曹咎は城を出て交戦し敗北した。曹咎は自害し、成皋は劉邦の手に落ちた。

韓信の斉掌握

8、9月の収穫期が終わるのを待って10月に、韓信は十分な態勢を整えてから斉を侵攻する。しかしこの前に劉邦は斉と和議を結ぶために儒者の酈食其を送っている。和議は成功して斉の警戒が緩んだところに韓信は侵攻し、斉はたやすく陥落した。酈食其は斉王田広に煮殺された。

韓信、楚の大軍を破る

斉王は楚に救援を求め、11月、楚はこれに応じて司馬龍且と周蘭を派兵した。号して20万。実数はこれより少なかったとしてもこの軍勢は当時の楚軍にとって投入できる最大限の軍勢だった *3韓信はこれを撃破した。

劉邦、圧倒的優位に立つ

滎陽陥落して項羽が優勢が確固たるものになったと思いきや、韓信を中心とする活躍により劉邦が優位に立つ。そして項羽陣営は大軍勢を失い、致命的なダメージを受けてしまった。

後世から見ると、韓信と司馬龍且・周蘭の戦いが楚漢戦争の勝敗を決したということができる。

韓信以外の活躍

上記のように韓信の勝利によって劉邦が決定的に優位に立つことができたが、他にも活躍した人物がいる。何人か挙げておこう。

陳平

滎陽の陥落の前に陳平の工作によって項羽と参謀の范増を離間させたことは有名だ(范増はこの後すぐに死んだ)。劉邦はこの後も陳平に大金を与えて内部分裂工作をやらせた。この結果、項梁の挙兵から参加していた鍾離眜が項羽に疎んじられ、後のことだが、大司馬(総司令官)の周殷は先に寝返った黥布を頼って劉邦陣営についた。

佐竹氏 *4 によれば、陳平の工作のターゲットは主として項氏一族であった可能性が高いとのこと。項伯・項襄・項它らが劉邦によって諸侯に封ぜられているのは陳平の工作の結果だということだ。

彭越

彭越は彭城の戦いの後に項羽軍に敗れて黄河の北に逃げていたが、滎陽の陥落の前から南下して遊撃的に楚の領内を襲って兵站を破壊し食糧を焼き払った。項羽ら主力軍には勝てなかったがそれ以外の軍勢に勝つほどの勢力を持ち、敵の主力を避けて兵站破壊活動を繰り返した。

蕭何

項羽軍の兵站ネットワークが破壊されたのと対象的に、劉邦軍は蕭何のおかげで兵站を築き保つことができた。楚漢戦争後、蕭何は戦功第一とされた。兵站の他に、蕭何は丞相として関中の内政を全うした。



*1:上図の朝歌の南、黄河の反対側

*2:「漢」暦は10月を年始とする

*3:佐竹靖彦/劉邦中央公論新社/2005/p464

*4:佐竹靖彦/項羽中央公論新社/2010/p299

楚漢戦争㉑ 滎陽の攻防

前回書いた彭城の戦いにおいて劉邦は惨敗し、劉邦自身は辛くも彭城から逃げ切って態勢を整えようとしていた。

彭城の戦いが劉邦項羽の第一番目の直接対決とすれば、滎陽(けいよう)の戦いが第二番目の戦いとなるのだが、今回はその間の情勢について書いていく。

劉邦の敗走と黥布の寝返り

辛くも彭城を脱出した劉邦は、呂沢(呂后の兄)が駐屯していた下邑に着いて一息つくことができた。ただしここも項羽の領地内であることに変わりなく安全ではない。劉邦は西の碭郡(かつて劉邦が郡守だった地)へ行き士卒を集め、さらに西の虞へ移動したところで黥布の寝返りを画策した。

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出典:藤田勝久/項羽と劉邦の時代/講談社選書メチエ/2006/p164

黥布はどういうわけか彭城の戦いに参加しなかった *1。 このことは劉邦陣営の上層部では周知の事実であったらしく、劉邦が「誰か黥布を寝返らせることができる奴はいないのか」と問うたところ、説客の随何が進んでその役を買った。

史書が伝える随何と黥布の会見については《随何 - Wikipedia》に詳しく書いてある。このエピソードの真偽はともかく黥布は項羽から離れ劉邦陣営につくことになった。

ただし、黥布は項羽が派遣した項声・龍且の軍に大敗し、妻子すら殺されてほとんど身一つで劉邦陣営にたどり着くことになる。それでも、劉邦としては項羽陣営が多大なリソース消費をして劉邦陣営が立て直す時間を稼ぐことができた。

劉邦はさらに西に引いて滎陽(けいよう)に駐屯する。滎陽は太行山脈(黄土高原の東端)と伏牛山脈(秦嶺山脈の東端)に挟まれている華北平原の最西部にあり、ここを項羽陣営に奪取されると中原の進出が極めて困難になる。

関中で留守を預かっていた蕭何は兵籍につけていない老人や未成年者を徴発して滎陽に送った。さらに韓信も兵を集めて合流し、南方の京・索の付近で楚軍を破った *2。これにより彭城の戦いの敗戦に歯止めをかける事ができた。

戦後の勢力図

戦後、項羽と劉邦以外の勢力がどう動いたか?

  • 趙・陳余:項羽と講和する。
  • 斉・田横:項羽と講和する。ただし斉の傘下に入っていた彭越は斉を離れ黄河を北に渡って黄河の河畔で群盗生活にもどった *3
  • 楚:九江王・黥布が劉邦に寝返る。しかし楚軍に攻め込まれ黥布軍は壊滅し、黥布は身一つで劉邦陣営にたどり着く。他の楚の王たちは史書に出てこない。戦争に参加しなかったようだ。
  • 魏:彭城の戦いの前に劉邦に寝返った西魏王・魏豹が再び項羽に寝返る。西魏王に戻ったようだ。宰相を任されていた彭越はすべてを失って少ない手勢を率いて黄河の北へ逃れた。
  • 韓:戦後の韓王信についてはよく分からないが、劉邦陣営にいたようだ。
  • その他:劉邦に降伏した司馬欣、董翳(とうえい)が項羽に走った。

このように戦前とは一転して項羽の圧倒的優位になった。当面は項羽が攻勢のまま事態は進んでいく。ただし寝返った面々は形勢が変われば再び裏切るような面々なので項羽も気が抜けない状況だ。

持久戦の展開

劉邦は勢いに任せて敗戦した先の戦いを反省して持久戦に転じた。

劉邦、関中に戻る

まずその計画の一環として関中の政治の安定化を図った。

漢2年6月、漢王は櫟陽(やくよう)に帰った。そこで子の盈(えい)を太子に立て、関中にいる諸侯の子たちを櫟陽城の護衛とした。このとき章邯が守る廃丘を攻め、その周囲に堤防を築いて城郭を水攻めにしたという。ここで章邯は自殺した。[中略]

こうして関中を定めた漢王は、祠官を置いて、天地や四方、上帝、山川などの祭祀を整えた。[中略]

やがて収穫期をむかえた秋8月になって、ようやく漢王は滎陽に出動した。

出典:藤田氏/p163-164

このような国家体制の確立は蕭何をトップとして旧秦帝国の官僚たちによって為されたと思われる。漢帝国秦帝国をシステムごと継承したことは良く知られていることだ。

滎陽の攻防

持久戦の2つ目の計画は滎陽の籠城戦だ。

滎陽の地には秦帝国が関東諸国の攻撃に備えて構築した一大軍事基地があり、敖倉(ごうそう)という大倉庫群が敷設されていた。この地と滎陽城を土塀で両側を囲った甬道(ようどう)を築いて糧道を確保した。さらに黄河への甬道も築いて前線の軍事拠点とした *4 *5

滎陽の攻防で劉邦陣営は項羽軍の攻撃を良く耐え抜いたが、劉邦が戻ってきても情勢が好転するということはなかった。

別働隊、韓信

3つ目の計画は、項羽軍が滎陽陥落に集中している間に、韓信を総大将とする軍隊に北方を攻撃させるというものだ。つまりは劉邦が囮となって項羽軍本体を引きつけ、その隙に韓信が他地域を平らげるという計画。韓信軍には曹参や灌嬰等の有力武将を参加させている *6

韓信軍は9月に櫟陽を出発し、裏切った魏豹が守る西魏を攻める。西魏は滎陽の後方(西)にあり、関中との連絡を遮断できる位置にある。

韓信軍は臨晋から渡航するように見せかけて夏陽から渡航して一気に攻め入った(黄河は川幅が広く激流のため渡航可能な場所は限られている)。西魏の都・安邑は攻め落とされ魏豹は捕虜になった(地名は上の地図参照)。

漢3年(前204年)10月 *7、 趙を攻める。陳余との対決の場である井陘(せいけい)の戦いは背水の陣で有名だ (井ケイの戦い - Wikipedia 参照)。韓信の戦勝により陳余と趙王歇は斬られた。

その後、韓信は燕の臧荼に使者を派遣して帰順を求めた。臧荼はこれを承諾した(何月に帰順したかは不明)。

これによって、黄河以北は劉邦陣営の支配下に入った。

滎陽陥落

韓信軍が大躍進を遂げる一方で、劉邦のいる滎陽の攻防は芳(かんば)しくなかった。

紀元前204年、楚軍の攻撃は激しく、甬道も破壊されて漢軍の食料は日に日に窮乏してきた。ここで陳平は項羽軍に離間の計を仕掛け、項羽とその部下の范増・鍾離眜との間を裂くことに成功する。范増は軍を引退して故郷に帰る途中、怒りの余り、背中にできものを生じて死亡した。

離間の計は成功したものの、漢の食糧不足は明らかであり、将軍の紀信を劉邦の影武者に仕立てて項羽に降伏させ、その隙を狙って劉邦本人は西へ脱出した。その後、滎陽は御史大夫の周苛、樅公が守り、しばらく持ちこたえたものの、項羽によって落とされた。

西へ逃れた劉邦は関中にいる蕭何の元へ戻り、蕭何が用意した兵士を連れて滎陽を救援しようとした。しかし袁生が、真正面から戦ってもこれまでと同じことになる、南の武関から出陣して項羽をおびき寄せる方がいいと進言した。劉邦はこれに従って南の宛に入り、思惑通り項羽はそちらへ向かった。そこで項羽の後ろで彭越を策動させると、こらえ性のない項羽は再び軍を引き返して彭越を攻め、その間に、劉邦も引き返してくる項羽とまともに戦いたくないので、北に移動して成皋(現在の河南省鄭州市滎陽市)へと入った。項羽は戻ってきてこの城を囲み、劉邦は支えきれずに退却した。

出典:劉邦 - Wikipedia

ここでも劉邦は多数の犠牲を出して辛くも逃走している。こうして劉邦の弱将のイメージがついた。その一方で項羽劉邦を攻撃することに執着しているところから軍事戦略の欠如を指摘されている(劉邦側の軍事戦略は韓信が担っていた)。

彭越について。

彭越は彭城の戦い以前は劉邦に拠って魏の宰相となり、魏地の攻略を任されていたが、彭城の敗戦後に項羽陣営に全て奪われて、少ない手勢を引き連れて黄河以北へ落ち延びた。

その後の行動は詳しくは分からないが、各地を転戦する遊撃戦を展開して軍功を上げ、さらには項羽陣営の糧道を断つなどの活躍もあった。このような動きに項羽は惑わされた結果、劉邦はいくつかのピンチを逃れることができた。



*1:私の素人考えでは、元々黥布自身が項羽の配下であると認識していなかったのではないか。 もうひとつ、 黥布が分封された九江の地は彼の故郷を含んでいるのだが中国本土の中心から遠く離れた辺境で、楚の美味しい部分(北部)は全て項羽の領地となっていることに不満があったのではないか

*2:藤田勝久/項羽と劉邦の時代/講談社選書メチエ/2006/p163

*3:佐竹靖彦/項羽中央公論新社/2010/p245

*4:藤田氏/p163

*5:佐竹氏/p247

*6:佐竹靖彦/劉邦中央公論新社/2005/p436

*7:漢という元号は10月を年始とする。ここでは西暦も便宜的に連動させている

楚漢戦争⑳ 彭城の戦い

いよいよ彭城の戦い。漢王劉邦が西楚覇王項羽に宣戦布告して、楚漢戦争の本番が始まる。

ただし、楚漢戦争の始まりの時期は諸説あるようだが、このブログでは、劉邦項羽に対して宣戦布告したこの時点を楚漢戦争の起点とする。そして彭城の戦いの起点も この宣戦布告とする。

宣戦布告

秦・韓・魏それぞれの地域をほぼ制圧した劉邦が洛陽に到着したところ、新城郷の三老が劉邦に謁見して、義帝が殺された顛末を詳細に語ったという。

漢王は大いに哭(こく)すと、喪を発して3日のちに、使者を送って諸侯に告げさせた。

天下は共に義帝を立て、北面してこれに仕えた。いま項羽が、義帝を江南に放逐して殺したのは、大逆無道である。寡人は親しく喪を発し、諸侯はみな喪服を着ている。……願わくは、諸侯王に従って、楚の義帝を殺した者を撃たんことを」

出典:藤田勝久/項羽と劉邦の時代/講談社選書メチエ/2006/p156

  • 寡人とは《徳の寡 (すく) ない者の意》一人称の人代名詞。戦国時代の王や諸侯が使用していた *1が、劉邦もこれを採用した。

↑は『史記』高祖本紀による。

小さな村(郷)の三老(郷のまとめ役 *2 )が義帝殺害の詳細を何故知っていたのか とか、三老が知っていることを劉邦が何故知らないのか など、いろいろツッコミどころがあるのだが、とりあえず劉邦は義帝の弔い合戦という大義名分を使って項羽を打倒すると宣言した。

劉邦は既に項羽にて期待していたのだが、これをもって初めて劉邦項羽に正式に敵対することを宣言した。

楚漢戦争の始まりの時期は諸説あるようだが、このブログでは、劉邦項羽に対して宣戦布告したこの時点を楚漢戦争の起点とする。そして彭城の戦いの起点も この宣戦布告とする。

「56万」という勢力

史記』高祖本紀によれば、劉邦は56万の兵力をもって彭城(項羽の西楚の都)を攻めた。

本当に「56万」人もいたのか はさておき、劉邦陣営はどのような勢力だったのか?

漢中・巴蜀の直属の兵と秦(関中)・魏・韓の降兵のほかに参加した勢力は陳余の趙の勢力だけだ。

斉は交戦中、燕の臧荼や楚の項羽以外の諸侯王は日和見をきめて参戦しなかった。黥布が項羽の参戦要請を断ったことは有名だ。

彭城制圧と項羽の急襲

項羽は斉の反乱軍と戦闘中で、都・彭城を留守にしていた。ここに劉邦の大群が押し寄せ、彭城はあっけなく陥落された。

劉邦は連合軍に対して全軍の指揮を執らず、各国の軍に指揮を任せていた。また彭城制圧後、かつて秦の咸陽を制圧した時のように劉邦を諫める者もいなかったために、城内の財宝を荒らした上に城内の女性を犯し、毎日酒宴を開く有様であった。

出典:彭城の戦い - Wikipedia

項羽の急襲

斉の地で反乱軍の掃討戦に転戦していた項羽は彭城陥落の報を聞いて、すぐさま彭城に向かう。

英布の援軍もなく彭城が制圧されたことを聞いた項羽は激怒し、すぐさま斉と停戦協定を結び、3万の精鋭部隊を編成。彭城へと戻った。

連合軍に士気がない上に酒に酔っていることを知ると、項羽は夜明けと共に城の西側から攻め、城内の連合軍を打ち破り、漢軍10万人余りを殺した。連合軍が城外に出ると項羽は追撃し、さらに漢軍10万人余りが睢水に追い詰められて殺され、川の水がせき止められるほどであったという。

そのため、連合軍は散り散りになって逃走し、劉邦は途中に家族が住む沛に立ち寄るものの既に劉太公や呂雉ら家族が捕らえられ、劉盈とその姉を見つけたので馬車に乗らせて逃亡した。途中、劉邦は恐怖に駆られて馬車から子供たちを突き落として逃げようとしたものの御者の夏侯嬰に諭されて子供らと共に逃亡した。

出典:彭城の戦い - Wikipedia

劉邦の家族は故郷の沛県にとどまっていた。父親の太公と妻の呂雉(のちの呂太后)は子どもたちと別に逃げた道中で項羽軍に捉えられて人質になる。

  *   *   *

これ以降のことは次回に続く。



楚漢戦争⑲ 劉邦の躍進

前回までは項羽政権の全体を見てきたが、今回は劉邦の分封後の展開を見ていく。

劉邦の分封

巴蜀

懐王は鉅鹿の戦いの前に諸将の面前で「先に関中に入った者をこの地の王とする(先入定關中者王之)」と言った。

そして戦いが終わり、項羽が分封をしようとする矢先に懐王は項羽に「約の通りにせよ」と言ったという。

さらに、項羽とそのブレーンの范増は「巴蜀も関中である」という詭弁をつかって劉邦を漢中の王とした。また、范増は鴻門の会の時から、劉邦を天下を狙う野心のある人物として警戒していたと言う。

しかし藤田勝久氏はこのことに疑問を呈している。

問題となるのは、十八王の分封の時点で、やがて沛公が天下を取ると意識されていたかということである。もし沛公が漢王朝を立てることが予想されていれば、たしかに「漢中もまた関中である」といって追いやったという味方もできよう。しかしこの時点で、沛公は楚王の連合軍の一つであり、さらに鴻門の会のペナルティがあるとみなされたら、その封建は漢中あたりに落ち着くのではなかろうか。

出典:藤田勝久/項羽と劉邦の時代/講談社メチエ選書/2006/p144

漢中

劉邦が漢中王または漢王と呼ばれ、のちに漢帝国を建国するようになったのは巴蜀の他に漢中の地を分封されたからだ。漢中とは現代の陝西省の西南部にある漢中盆地のことであり、関中(渭水盆地)と巴蜀四川盆地)の間にある地である。

史記』留侯世家(張良の伝記)によれば、劉邦巴蜀を分封された後に、張良を通じて項伯に賄賂を贈って漢中を分封に加えることを働きかけて成功したという。

関中と漢中の間には秦嶺山脈を越えなければならず、漢中は秦人にとっても辺境の地であったが、巴蜀になると漢人がほとんどいない土地で、当時の中国文化とは別世界の土地だった。また、漢中からは漢江(漢水)を下って武漢から中原に出て情報を得ることができるが、巴蜀から中原に出るには漢中を通らなければならなかった。

個人的には、項羽は最初から劉邦を漢中王に分封して、巴蜀は「おまけ」でつけただけではないかと思っている。

項羽・范増が劉邦巴蜀だけを与えたとすれば、それは価値の無い場所を与える、もしくは価値の有るものを与えようとしないという意思であり、そのような意思のあるところに張良・項伯がいくら働きかけても価値の有る漢中を付け加えるのはおかしいのではないか。

韓信登場

漢元年(前206年)4月、劉邦は関中から王都となる南鄭に赴任した。僻地へ着くやいなや劉邦に着いてきた兵士または諸将までも逃亡が後を絶たなかった。劉邦はこのような事態に無関心を決め込んでいたが、蕭何が逃亡したという話を聞いてさすがに顔色を変えた。

数日経って蕭何が帰ってきたので、劉邦が蕭何にいなくなった理由を問いただすと、逃亡した韓信を追っていたというのだ。

この頃の漢軍では、辺境の漢中にいることを嫌って将軍や兵士の逃亡が相次いでいた。そんな中、韓信も逃亡を図り、それを知った蕭何は劉邦に何の報告もせずにこれを慌てて追い、追いつくと「今度推挙して駄目だったら、私も漢を捨てる」とまで言って説得した。ちょうど、辺境へ押し込まれたことと故郷恋しさで脱走者が相次いでいた中であったため、劉邦は蕭何まで逃亡したかと誤解し、蕭何が韓信を連れ帰ってくると強く詰問した。蕭何は「逃げたのではなく、韓信を連れ戻しに行っていただけです」と説明したが、劉邦は「他の将軍が逃げたときは追わなかったではないか。なぜ韓信だけを引き留めるのだ」と問い詰めた。これに対して、蕭何は「韓信国士無双(他に比類ない人物)であり、他の雑多な将軍とは違う。(劉邦が)この漢中にずっと留まるつもりならば韓信は必要ないが、漢中を出て天下を争おうと考えるのなら韓信は不可欠である」と劉邦に返した。これを聞いた劉邦は、韓信の才を信じて全軍を指揮する大将軍の地位を任せることにした。

出典:韓信 - Wikipedia

韓信はもともと項羽の下で働いていたが、軽く扱われていたので劉邦の下に移っていた。蕭何は上の事件より前から韓信が傑物であることを見抜いていたが、劉邦は蕭何の推挙を袖にしていた。そしてこの事件によって初めて意を決して「才を信じて全軍を指揮する大将軍の地位を任せることにした」。

ちなみに、韓王信と韓信を混同しがちなので注意が必要だ。

劉邦の関中侵攻

5月になると斉で田栄が反乱が起こし6月までに旧斉地域を掌握して斉王となる。

劉邦はこれに続く形で関中に兵を進め、8月までに3王を倒して旧秦地域をほぼ掌握する。

史記』淮陰侯列伝(韓信の列伝)によれば、関中侵攻の前に韓信が献言している。要旨は以下の通り。

蕭何の推挙により大将軍となった……韓信は、「項羽は強いがその強さは脆いものであり、特に処遇の不満が蔓延しているため東進の機会は必ず来る。劉邦項羽の逆を行えば人心を掌握できる」と説いた。また、「関中の三王は20万の兵士を犠牲にした秦の元将軍であり、人心は付いておらず関中は簡単に落ちる。劉邦の兵士たちは東に帰りたがっており、この帰郷の気持ちをうまく使えば強大な力になる」と説いた。

出典:韓信 - Wikipedia

「20万の兵士を犠牲にした」というのは、項羽が関中入りする途中で反乱を起こす予兆が見られた秦の降兵20万を坑殺(穴埋め)にしたこと。これを秦人は恨んでいるということ。

この献言は後世の評価・分析を韓信の言葉としただけかも知れないが、情勢分析と項羽と劉邦の比較評価として有効だ。生粋の軍人であり、政治行政の経験が無い項羽と、軍事力不足を政治外交力でカバーしてきた劉邦を簡潔に表している。

漢2年(前205年)11月 *1 に入ると秦の3王のうち塞王司馬欣・翟王董翳を降伏させた。さらに項羽が対斉戦争に集中している隙をついて、函谷関を出て中原に打って出た。河南王申陽(河南は魏の西部)を降伏させ、韓王鄭昌(魏の東部)を降伏させる。

漢の社稷を建てる

2月、劉邦は秦の社稷をのぞいて、漢の社稷を建てた。つまり漢王国を建国した。

社稷
中国古来の祭祀の一つ。社は土地の神,稷は穀物の神で,この両者が結合し,周代に政治的な礼の制度に取入れられ,天下の土地を祭る国家的祭祀になった。そのため国家の代名詞としても用いられる。社稷の祭りは春秋2回行われ,天の祭りである郊,祖先の祭りである宗廟 (そうびょう) と並ぶ三大祭祀の一つとして,これを主催することは長い間天子の重要な任務とされていた。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典/社稷(しゃしょく)とは - コトバンク

藤田氏によれば、社稷をのぞくということは国家の滅亡を意味する。そして同時に漢の社稷を建てたということは漢が秦の制度を継承するという意味を持つ。劉邦はそれまで楚の政治システムを使っていたが、この時期より秦のシステムを採用した。(藤田氏/p152)

ちなみに、『史記』蕭相世家では、劉邦が関中入を果たして咸陽の宮殿に入った時、《略奪に走る諸将を尻目に、蕭何はひとり秦の丞相と御史の役所に所蔵されている律令と図書を押収して保管した。そしてこの基礎のうえに、沛公は漢王となり、沛公は蕭何を丞相とした *2 》とあるが、膨大な竹簡を持ち出すこと自体が考えにくい。個人的には、この図書倉庫は蕭何によって封印されて、劉邦が関中を再び征服した時に改めて蕭何の手元に収まった、と考える。 *3

魏の攻略

3月、劉邦は魏の攻略する。この時期になっても項羽はまだ斉の反乱に手間取っていた。 まず旧魏地域の西部にある西魏を攻めて西魏王豹を降伏させ、東部の殷王司馬卬も降伏させる。旧魏地域には項羽の直轄地があったと言われるがこれがどうなったのかはよく分からない。一時的に劉邦が領有したかもしれない。

陳平の劉邦陣営の加入

陳平は劉邦を、そして漢帝国を支えた重要人物だ。

陳勝呉広の乱が勃発すると、若者らを引き連れ魏王になっていた魏咎に仕えるようになるが、進言を聞いてもらえず、周りの讒言により逃亡する。次に項羽に仕えて、謀反を起こした殷王・司馬卬を降伏させた功績で都尉となったが、司馬卬が東進してきた劉邦にあっさり降ったため、怒った項羽は殷を平定した将校を誅殺しようとした。身の危険を感じた陳平は項羽から与えられた金と印綬を返上し、そのまま再び出奔した。

出典:陳平 - Wikipedia

彭城の戦いへ

彭城の戦いは4月に開始する。この戦いについては次回書く。



*1:「漢」暦は10月が年始となる

*2:佐竹氏/劉邦/p307-308

*3:史記』に書いてある始皇帝及び戦国秦の膨大な事績はこの図書に拠っている。

楚漢戦争⑱ 項羽政権の瓦解 後編

旧秦地域

まず、劉邦巴蜀と漢中を、秦の降将3将にそれぞれ関中を3分割して分封された。しかし、8月になると、劉邦は関中を征服し、旧秦地域全土をほとんど手中に収める。

項羽は激怒するのだが、斉がすでに項羽に対して戦争をしかけているので、劉邦の征伐のために割く余裕はなかった。

漢2年に入ると、抵抗していた降将3将のうち塞王司馬欣・翟王董翳が降伏する(雍王章邯は5月に韓信に滅ぼされる)。河南王申陽(河南は魏の西部)を降伏させる。

韓王鄭昌は降伏しなかったので劉邦は韓大尉信(後の韓王信)を派遣し攻め滅ぼさせた。そして信をそのまま韓王にした(11月)。

劉邦の動向の詳細については別の記事で書く)

韓・魏

上述の柴田氏によれば、分封直後の項羽の関心は三晋南部すなわち韓・魏に集中していたとのこと。

韓には河南王と韓王が置かれた。

従来の韓王成をそのまま韓王にし、「張耳の嬖臣」申陽を河南王とした。しかし項羽は漢元年四月の諸侯就国時にも韓王成のみは就国させず、彭城まで同行させた上で侯におとし、最終的には殺害するに至った 。韓王成の殺害をきっかけに、張良は漢に身を寄せた。『史記』は、項羽が韓王成殺害後の漢元年八月に鄭昌を韓王に立てたのは 、漢の東方進出を警戒して旧韓地域を自らに近い勢力で固めることを目論んだものと評している 。

出典:柴田昇/楚漢戦争の展開過程とその帰結(上) - 愛知江南短期大学PDF

冒頭の地図では旧魏地域は西魏と殷とに分割され西魏王は魏豹、殷王は司馬卬となっている。

旧魏も西魏と殷の二国に分割された。魏豹は陳勝政権期に魏王となった魏咎の弟で、項羽に 従って入関した武将の一人、司馬卬は趙の武将の末裔で張耳らの趙国の将として活躍していた。

しかし、柴田氏によれば、旧魏領域のうち梁とその周辺地域は項羽の直轄領とされたため、西魏・殷は旧魏領域全体からすればごく限られた地域に過ぎなかった。

陳丞相世家によれば、漢の三秦平定と前後する時期に殷王司馬卬は楚に叛いている。この動きが漢と呼応したものかどうかははっきりしない。殷王司馬卬は項羽に派遣された陳平によって帰順させられているが、この殷王を漢は漢二年三月に撃ち、翌月には河内郡を置いた 。この時陳平は項羽の怒りを恐れて楚軍から逃れ漢に降ったという 。陳平は、自らが帰順させた殷が容易に漢に降ったことに対する項羽による責任追及を恐れたものと思われる。さらに同じく漢二年三月には魏王豹も漢に降っている 。

出典:柴田氏

楚地域

楚では項羽の他に3人の王が封建された。3人とも項梁が兵を上げてからの将だ。

  • 黥布:九江王 +呉芮:衡山王 +共敖:臨江王

このうち黥布(英布)のことは『史記』黥布列伝があるので詳しく分かっている。黥布は他の2王と共に、項羽に義帝を殺害するように命令されて実行したとされている。ただし斉の反乱や彭城の戦いで項羽の救援要請に対して病と称してみずから出馬せず、派兵にとどめている *1 。そして楚漢戦争の間に劉邦へ寝返っている。

呉芮(ごぜい)については楚漢戦争への参戦の記録が無いらしい。「呉芮 - Wikipedia」によれば、「時期は不明だが呉芮は項羽によって衡山王を剥奪され、番君に降格された。その後、離反して劉邦に与した」。前漢成立後、呉芮は長沙王に封建されている。

共敖についても呉芮と同様に記録が無い。「共敖 - Wikipedia」によれば、共敖は漢3年(前204年)に死亡し、子の共尉が王を継ぎ、共尉は高祖5年(紀元前202年)に漢王劉邦項羽を破った際に劉邦に降伏しなかったため、劉邦は盧綰、劉賈を派遣して共尉を撃ち、捕虜とした。 これにより、共敖は項羽陣営に属したと考えられる場合が多いが 、決め手はない。柴田氏は、共敖は楚漢戦争の動向に直接的には関係しなかったと考えている。

柴田氏は3王について以下のように書いている。

項羽が黥布以外に出兵を命じた記事が見出せないことは、項羽政権が周辺の諸国に対してそもそも強固な規制力を有しておらず、ましてや軍事動員を一方的に強要できるような存在ではなかったことを示唆する 。項羽にとっては、黥布くらいしか動員し得る可能性のある対象がおらず、しかもその黥布にも距離を置かれたのである 。

年表

漢元年(前206年)1月 項羽による18王分封。
4月 諸王が封地に就く。ただし項羽は韓王成を封地へ行かせずに彭城まで同行させた(のちに侯におとし、最終的には殺害する)。
5月 で田栄が反乱を起こす。
6月 田市が封地の膠東(斉東部)へ行く途中に田栄に殺される。田栄は斉王となる。
7月 劉邦が関中に侵攻。8月までにほぼ関中全土を手中に収める。分封された領土を合わせ、旧地域全土を領有する。
同月 臧荼、遼東王韓広を攻め滅ぼし、旧地域全土を領有する。
同月 項羽韓王成を誅殺する。
8月 項羽、鄭昌を韓王にする。

漢2年(前205年)10月 項羽、楚の3王に命令して義帝を殺害する。
同月 常山王張耳が陳余に攻められ逃走、劉邦のもとへ行く。陳余はもとの趙王趙歇を趙王に復帰させ、自分は代王になる。
11月 劉邦、秦の3王のうち塞王司馬欣・翟王董翳が降伏する。 同月 劉邦、河南王申陽(河南は魏の西部)を降伏させる。
同月 劉邦、韓王鄭昌(魏の東部)を降伏させる。旧地域は劉邦が領有する。
1月 項羽、斉を攻め、王・田栄を殺す。
2月 項羽、楚に亡命していた斉の田仮(田假)を斉王にする。
3月 田横(田栄の弟)、斉で反乱を起こす。田仮は楚に逃げたが、楚で殺される。
同月 劉邦西魏に侵略、西魏王豹は降伏する。これにより旧魏地域のうち項羽領有以外の地域は劉邦の手中に入った。
同月 劉邦、殷に侵略、殷王司馬卬は降伏する。項羽の領土がどうなったかはわからない。
4月 彭城の戦い。

彭城の戦いの直前までの情勢

楚:項羽以外の王の動向は『史記』に見られず、項羽に協力しないで中立を保ったようだ。
斉:項羽は反乱を起こした田栄を倒したが、その弟の田横が残党をまとめて反乱を再開し、交戦中。
燕:臧荼が全土を領有。
趙:陳余が事実上趙の支配者になる。
秦・魏・韓:劉邦支配下に入る。ただし項羽が領有していたはずの魏地域の領土がどうなったかが分からない。

項羽政権は発足当初から戦いが絶えなかった。そもそも中国全土を統一体とした項羽政権など無かったと考えたほうがいいようだ。項羽の思い通りになった地域は全体のほんの一部で、少し前の近しい仲間だった楚の3王ですら項羽政権を守ろうとした形跡が無い。

いっぽう、劉邦のほうは項羽に降伏してから1年数ヶ月で領有地域が一気に膨らんで、項羽打倒目前のところまで来た。