歴史の世界

道家(11)老子(戦略書としての『老子』①--『老子』は『孫子』の影響を受けている)

老子』を戦略書として読むことについては、以下の本に書いてある。

真説 - 孫子 (単行本)

真説 - 孫子 (単行本)

この本は『孫子』を戦略書として解説する本だが『老子』についても戦略書として紹介している *1

「第三章 孫子から老子へ : 中国戦略思想の完成」は『老子』について1章まるごと使っている。

この話は幾つかの記事に分けて書く。

中国における『老子』の読まれ方

老子の『道徳経』は、西洋では「哲学書」として知られている。ところが中国では戦略書〔兵書〕として見なされる事が多い。[中略] 「芸文志」の中で孫子がこの学派に分類されたことからもわかるように、[権謀学派]に分類されたことからもわかるように、『道徳経』と中国の戦略思想全体の強いつながりは、漢王朝の時代(紀元前206~220年)の頃からすでに認められていたのである。

出典:デレク・ユアン/真説 孫子中央公論新社/2016(原著は2014年出版)/p89

毛沢東は読書家で中国の古典を読み漁っていたというエピソードは有名らしいが、その毛沢東は『老子』を「兵書」として読んでいたという。

中国の戦略思想の二大伝統と『老子』の誕生

中国の戦略思想の二大伝統について、ユアン氏は『李衛公問対』から引いている(『李衛公問対』は唐代末から宋代にかけて編纂された書)。

2つの伝統とは以下の通り。

  • 張良のような「全方位の戦略アドバイザー」
  • 韓信のような「軍事戦略的な将軍」

さて、春秋末期に出現した『孫子』によって軍事戦略の方面は成熟することができた。よって「将軍」タイプの伝統の方は成熟できたということだ。その一方で「アドバイザー」の方は軍事的な傾向を残したままだ。

そこで戦略思想の新たな「パラダイム」の要求が始まっていった。2つある。

  • 非軍事的なもの。ただし完全に政治志向のものである必要はなく、少なくとも政治的な観点から人間の闘争(戦争や戦いに限定しない)を考えるものであればよかった。
  • 戦略の一般理論ではなくとも、弱者が強者に対して勝利を達成できるようにするための、特定のスキームを与えられる新しいパラダイム*2

この要求に応えたのが『老子』であり、中国の戦略思想は『老子』の編纂者たちによって完成された、とユアン氏は主張している(p123)。

ここで注意しておくべきことは、以前に何度か書いたが、ユアン氏によれば、『老子』は『孫子』に影響されて著されたということだ。

そして戦略思想上の時代の要請により、『老子』は著された、と。

(続く)



*1:この本の中では『老子』ではなく『道徳経』という名称を採用している

*2:ユアン氏/p91

道家(10)老子(「無為自然」と政治)

この記事では、『老子』に出てくる「自然」という言葉を中心にして「無為自然」とは何かを書いていく。

ソースは池田知久著「『老子』その思想を読み尽くす」の第5章 『老子』の自然思想 。

『老子』 その思想を読み尽くす (講談社学術文庫)

『老子』 その思想を読み尽くす (講談社学術文庫)

老子』の中の「自然」の意味

「無為」については直近の幾つかの記事で書いたので、ここで「自然」の意味について書く。

私たち日本人が「自然」という言葉を聞いて最初に思い浮かぶのは、人工物の少ない緑に覆われた風景を思い浮かべる *1

「自然」を副詞として使う場合(「自然と」「自然に」)、意図的ではなく、成り行きの中で事態が進行するさまを表す。つまり「おのずから(自ずから)」。

しかし、「自然」の意味の歴史を遡ると、その最初の意味するところは「みずから(自ら)」、つまり個人(自分)の意思で事態を進行させるさまを表す。

この意味は古代中国で出現した。『老子』の中に出てくる「自然」も この意味だ。

「おのずから(自ずから)」と「みずから(自ら)」

2つの言葉の意味の区別をちゃんと理解しておこう。

  • 「おのずから(自ずから)」=(成り行きで)事態が進行するさま。
  • 「みずから(自ら)」=(個人の(自分)の意思で)事態を進行させるさま。

例文。

  • 「この誤解は時が来れば自ずから解ける」 *2
  • 「自らあやまちを認める」「自ら命を絶つ」 *3

もう一度書くが『老子』の中の「自然」は後者。「自主的に」と言い換えられるだろう。

「自然」と「無為自然

「自然」

第17章。

[原文]
猷呵其貴言也、成功遂事、而百姓謂我自然。[中略]

[現代語訳]
〔統治者が〕ぼんやりとして一切の言葉を忘れてしまうならば、それが原因となって、人々は功績を挙げ事業を成し遂げる結果を得るが、しかし彼らはこれを自分たちで成し遂げたものと考えるのだ。

出典:池田知久/『老子』その思想を読み尽くす/講談社学術文庫/2017/p786-787

  • 「貴」の解釈は、他では「貴ぶ」としているところが多いが、池田氏によれば「貴」=「遺」=「忘れる、捨てる」としている。こちらのほうが意味が通じていると思う。

ここで「自然」は百姓が「自ら」成し遂げたと読み取れる。

池田氏は「自然」の意味について次のように書いている。

古代漢語の「自然」は、それが初めて誕生したばかりの時点では、文法的には「泰然」「漠然」などと同じような副詞の一つであり、「万物」「百姓」のあり方(存在様式や運動形態)を形容する言葉であって、実在的・対象的な nature を意味する名詞ではなかった。――これらのことは、今日ではほぼ学者の間の共通認識になっている。

「自然」の今ここに述べた性質、すなわち主体にとって客体である「万物」「百姓」について言う言葉として、初めて誕生したという性質は中国思想史を論ずる上で特に重要である[以下略]

出典:池田知久/『老子』その思想を読み尽くす/講談社学術文庫/2017/p662

  • 主体=行為・作用を他に及ぼすもの。 *4
  • 客体=主体の認識・行為などの対象となるもの。 *5

この百姓は農民ではなく民衆一般を指す。そして客体が百姓なら、主体は為政者となる。

無為自然

ここで第17章に戻ると

  • 主体→〔統治者が〕ぼんやりとして一切の言葉を忘れてしまう。これは「無為」を示す。
  • 客体→人々(百姓)が自ら事業を成功させる。これは「自然」を示す。

よって「無為自然」とは《為政者が「無為の政治」をすることによって、人民が自律的に行動する(そして良く治まる)》という意味になる。

「自然」と「自○」

池田氏によれば、『老子』の中の「自然」という言葉は第17章の「自然」と同じ(p674-677)。*6

また上と同様な意味を、「自」という副詞を頭に冠して「自○」という句型で表している文もある。

第57章。

原文
是以聖人之言曰、
我無爲也、而民自化。
我好靜、而民自正。
我無事、民自富。
我無欲、而民自樸。

現代語訳
こういうわけで、理想的な統治者たる聖人の言葉に次のようにある。
「わたしが人為を行わなければ、人民は自分から進んで教化され、
わたしが静けさを好むならば、人民は自分から進んで正しくなっていく。
わたしが事業を行わなければ、人民は自分から進んで裕福になり、わたしが無欲に徹するならば、人民は自分から進んで素朴に帰っていくのだ。」と。

出典:池田氏/p830-831

上の「自○」は第17章の「自然」の意味と同じだ。同様の例も幾つかあるがここには書かない(p680-683) *7



他の本に書いてある「無為自然」と全く違う意味のような気がするが、上の説明が一番理解できたのでこれを採用した。


*1:ハイキングなどで見ることができるその風景は 「手が加わっていないところなどあるのだろうか?」という話がある

*2:小学館デジタル大辞泉/自ずから(オノズカラ)とは - コトバンク

*3:小学館デジタル大辞泉/自ら(ミズカラ)とは - コトバンク

*4:主体 - Google 検索

*5:小学館デジタル大辞泉/客体(きゃくたい)とは - コトバンク

*6:池田氏は、『荘子』など同時代の書にも同様の使われ方の例を挙げている。

*7:他の書にも同様の例がある

道家(9)老子(「無為」について③--「無為」と政治)

(ブログのタイトルを変えました。「歴史の世界」→「歴史の世界を綴る」。)

保立道久氏によれば、「『老子』は、まずは「王と士の書」として読むべきものであろう」としている。 *1 *2

簡単に言えば、(大きな意味での)為政者たちの教訓・心得のような書ということ。『老子』の著者たちの為政者の理想像。

「大邦を治むるは、小鮮を烹るがごとし」

老子』の中で天下を語る章は数多いが、まずは有名な第60章から。

大邦を治むるは、小鮮を烹るが若(ごと)し。
道を以って天下に莅(のぞ)めば、其の鬼は神(しん)ならず。
其の鬼 神ならざるに非ざるなり、其の神 人を傷つけざるなり。
其の神 人を傷つけざるのみに非ざるなり、聖人も亦た傷つけざるなり。
夫(そ)れ両(ふた)つながら相い傷つけず、故に徳は交ごも焉(これ)に帰す。

読み下し文
一体、大国を統治するのは、譬えてみれば小魚を煮るようなもので、つついたりかき回したりしない。
統治を行う聖人が、道の立場に立って天下に君臨するならば、冥界の鬼神たちもこの世にたたりを下すことはない。
冥界の鬼神たちがたたりを下さないのではなく、鬼神たちの霊力がこの世の人々を傷つけることがないのである。
彼らの霊力が人々を傷つけないばかりではなく、統治する聖人もまた人々を傷つけないのだ。
このように、冥界の鬼神たちとこの世の聖人との両者ともに人々を傷つけることがない。其の結果奥深い徳(道の働き)はこもごも人々の身に集まってくるのである。

出典:池田知久/『老子』その思想を読み尽くす/講談社学術文庫/2017/p834-835

有名な「大邦を治むるは、小鮮を烹るが若(ごと)し。」

この章には「無為」という言葉は使われていないが、前々回に書いた記事 (「無為」と「有為」の境界) で書いたとおり、小さな行為は「無為」にカウントされる。

この章の「小鮮を烹る」も「無為」にカウントされる。

そして、これも前々回に書いたことだが、大きな難事に成り得ることを小事のうちに処理することが(「道」を体得した)聖人=為政者の仕事である。これがこの章の「小鮮を烹る」の意味になる。

「道を以って天下に莅(のぞ)」むというのは、結局のところ「無為」を以って天下を治めるという意味と同じ。

最後の「奥深い徳(道の働き)はこもごも人々の身に集まってくるのである」の部分は、意訳すれば「為政者が庶民に大事業を起こすことなどの面倒なこと(=有為)を押し付けなければ、庶民は日常の中で秩序(=道)にしたがって繁栄を続けることができる」となる。「徳」という字は本来「常同的ないきおいをもった善いはたらき」という意味を持っている *3

「無為の治」= 『老子』の理想の政治

老子』は「聖人」という言葉をよく用いる。その意味は「道」を体得した者。その者はほとんどの場合 為政者のことで、基本的には天下(全中国)を治める王のことを指す。

老子』が聖人(為政者)に求めるものを幾つか挙げる。

  • 聖人民衆の上に君臨しようとする場合も、必ず謙遜した言葉遣いによって民衆にへりくだり、民衆の先頭に立とうとする場合も、必ずわが身の安楽を民衆よりも後回しにする。(第66章) *4

  • 国家に置いて汚辱の地位を感受して柔弱に徹する。/国家において不吉の身分を引き受けて柔弱に徹する。(第78章) *5

  • 最善の国家の統治者は、下位の人民にただその存在が知られているだけで、君臨はするけれども統治しない君主である/統治者に充分な信実がなければ、人民の不信を買うことになる/彼のようにぼんやりとして一切の言葉を忘れてしまうならば、それが原因となって、人々は功績を挙げ事業を成し遂げる結果を得るが、しかし彼らはこれを自分たちで成し遂げたものと考えるのだ。(第17章) *6

上のような政治の仕方を浅野裕一氏氏は「無為の治」としている *7

歴史に名を残している為政者は大事業を成し遂げて称えられているが(逆の場合も少なくないが)、『老子』の為政者の理想像は徹頭徹尾裏方を務めて、他者のケツを拭くことも厭わず、名を挙げることを善しとしない。『老子』によれば、こういう者は、最終的に人々に王として押し上げられる、という。

ええー... 歴史のどこを探せば そんな事例があるのかと思うのがそれは置いておいて話を進めよう。

老子』の中の「陰陽」

老子』の「無為」は「陰陽」における「陰」ということができるだろう。一方、「大功を挙げて人民に称えられ、人々は口々に為政者の名前を口にする」というのが「陽」だ。

世間一般で言えば、「陽」が当たり前に受け入れられるが『老子』は「陰」を以って国家を統治することを理想としている。

そして『老子』曰く「正言は反するがごとし(真に正しい言葉は世間の常識とは反対のように見えるものである)」(第78章) *8



*1:保立道久/現代語訳 老子ちくま新書/2018/p13

*2:庶民が文字を読めるようになったのなんて(数千年の歴史を思えば)ここ最近のことで、読書ができる層は為政者層か聖職者か商人くらいなものだった。

*3:記事「『老子』=『道徳経』における「徳」とは何か」](http://d.hatena.ne.jp/asin/4480071458/hatena-blog-22)

*4:浅野裕一/雑学 諸子百家/ナツメ社/2007/p162

*5:池田氏/p854

*6:池田氏/p787

*7:p162、164

*8:池田氏/p853-854

道家(8)老子(「無為」について②--「無為」と儒家批判)

「無為」についての2つ目の記事。

今回は儒教批判について。

老子』が編纂された時期には世間に充分に儒教が道徳として広まっていたらしく、そのような状況で『老子』は「儒教が広まっているのに秩序が乱れ、道徳として機能していない現状」を批判している。

そして最終的に儒教は「礼」という形(マナー)ばかりに気を取られて道徳として中身のないものになっている、と主張する。儒教が『老子』が編纂された頃には既にこのように批判されていたようだ。

老子』第18章から

こういうわけで、根源の絶対的な道が失われたために、仁義などという高潔な倫理がもてはやされるようになった。
あざとい理知が出現したために、偉大なる作為などという人間の努力が唱えられるようになった。
家族の間にあった親和が消えたために、孝行や慈愛などという義務が〔要求されるようになった〕。
国家の秩序が乱れたために、節義の臣下などという立派な人物が羽振りを利かすようになったのである。

出典:池田知久/『老子』その思想を読み尽くす/講談社学術文庫/2017/p788(白文省略。一部改変)

池田氏によれば、「偉大なる作為」が「有為」に相当する(p309)。

儒教は春秋末期の天下の秩序が乱れた時に登場したので上の通りなのだが、『老子』が言いたいのはそういうことではなく、儒教は世の中に広まっているが、「道」(つまり天下の秩序)は乱れたままだ、いや 悪化している、と言っている。

第38章から

〔上徳不徳、是以有徳。
下徳不失徳、是以無〕徳。
上徳無〔爲而〕無以爲也、
上仁爲之〔而無〕以爲也、
上義爲之而有以爲也、
上禮〔爲之而莫之應也、
則〕攘臂而乃之。
故失道而后徳、
失徳而后仁、
失仁而后義、
〔失義而后禮。
夫禮者、忠信之泊也〕、而亂之首也。
〔前識者〕、道之華也、而愚之首也。
是以大丈夫居其厚、不居其泊。
居其實、〔而〕不居其華。
故去皮取此。

読み下し文
〔そもそも最上の徳は、世間的な徳とは正反対である。だからこそ真の徳がある。
下等の徳は、世間的な徳を捨てることができない。だからこそ〕、真の徳〔がないのだ〕。
その最上の徳は〔人為を〕行わず、〔また〕人為を行うねらいも持たない。
さらに、最上の仁は人為は行う〔けれども〕、人為を行うねらいは〔持たない〕。
ところが、最上の義となると人為も行い、また人為を行うねらいも持っている。
下って、最上の礼まで来ると〔人為を行うだけでなく、その礼に応えないものに対しては〕、腕まくりして突っかかっていく。
こういうわけで、根源の道が廃れたためにそれに代わって徳が現われ、
徳が廃れたためにそれに代わって仁が現われ、
〔義が廃れたために代わって礼が説かれるようになったのだ〕。
〔一体、礼というものは、人間の真心の浅薄化がもたらした産物であって〕、社会的混乱の始まりである。
〔ものごとを予見する知というものは〕、道を覆い隠すあだ華であって、人間の愚昧化の始まりである。
したがって、ひとかどの人物ともなれば、重厚な道・徳に身を置いて、浅薄な礼・知には身を置かず、
実質の備わる道・徳に安住し〔て〕、あだ華でしかない礼・知には安住しない。
だからあちらを捨ててこちらを取るのだ。

出典:池田氏/p810-811(一部改変)

ここでいう「最上の徳」「真の徳」が『老子』の徳で、「世間的な徳」「下等の徳」が儒教の徳ということだ。

さらに『老子』は孟子が唱えた「仁義礼智」が世の中の秩序(つまり「道」)が廃れていくに従って順々に生成された、としている。

さてここで「無為」の話に移る。引用した以下の部分だ。
(ここでは、現代語訳を私なりに言い換えてみる。前に引用した63章や18章も加味している。)

上徳無〔爲而〕無以爲也、
上仁爲之〔而無〕以爲也、
上義爲之而有以爲也、
上禮〔爲之而莫之應也、
則〕攘臂而乃之。

上徳は人為(つまり「有為」)を行わず、あえて人為を行う意図も無ければ必要も無い(人為=有為を否定しているのだから当然だ)。
一つ下って、上仁は人為を行うが、あえて人為を行う意図は無い(人為を行わない必要が無いわけではない)。
さらに下って、上義は人為を行うし、自ら何かをしたいという意図を持っている。
もう一つ下って、上礼(上禮)は人為を行って、これに感謝(礼)をしなければ怒りだす。

儒家の倫理が「礼」を重視して儒家における倫理の形式化・形骸化したことは以前書いたが *1、 『老子』が編纂された頃には既に形骸化が起こっていたのだろう。

「道」(≒秩序)を理解して「無為」を重視する『老子』の編纂者たちは、儒家が人為を称賛するにまで落ちたのを目の当たりにして憤っていたのかもしれない。

『老子』 その思想を読み尽くす (講談社学術文庫)

『老子』 その思想を読み尽くす (講談社学術文庫)



老子』の儒教批判の部分を読んで、『老子』の成立時期が戦国時代の中期以降ではないかと思うようになっている。


*1:春秋戦国:春秋時代孔子の登場 その4 「礼」と「孝」

道家(7)老子(「無為」について①--「無為」と「有為」の境界)

無為自然」を理解するために、今回は「無為」について理解する。

老子』のいうところの「無為(または無為自然)」は何もしないということではなく、「あるがままに生きる」と解されることが多いらしい *1

老子』を自己啓発書として読むだけなら上の解釈だけでよいのかもしれないが、ここではもう少し詳しく理解したい。

注意したいのは『老子』の編纂者たちが対象とした読者が為政者層だということだ。(記事「道家(4)老子(「道」とはなにか)」参照)

だから『老子』の「無為」「有為」の「為」は、本来は「為政者が為すこと」の意味になる。自己啓発書として読むのは『老子』の編纂者たちの意図とは違うので注意したい。

(「無為」について、簡単にまとめることができなかったので、記事を分割することにした。)

「無為」と「有為」

「無為」「不為」の思想は、それらの中で最も守備範囲の大きな、何でも有りの包括的な思想と言うことができる。包括的だと言う主な理由は、「為す」という言葉が、人間の考える・知る・言う・欲する・行う、等々のありとあらゆる人為(人間のさまざまの行為)の領域を含むものであって、その否定の形が「無為」「不為」であるからである。[中略]

ところで、老子が「有為」と言って否定する人為とは一体、どういうものを想定しているのであろうか。人間は、誰しも一切の人為を捨て去っては、生きていくことができない。[中略] 老子が否定するのは、ある許容できる質と量を越えた領域や程度の人為であろうけれども、それが『老子』の中に明示されていないために、今日我々の理解を困難にしているように感じられる。老子が許容できない「有為」だと言って否定する領域は、主として上に挙げた柔弱・不争・謙下・無学・無知などとは逆の広義の倫理、および天下・国家の統治権力を握ってそれらを統治する政治にある。また。「有為」と「無為」とを線引きする人為の程度は、通常以下の些少な人為であるか否かに置かれており、それを低く押さえれば「無為」にカウントされる、と言うことができよう。

出典:池田知久/『老子』その思想を読み尽くす/講談社学術文庫/2017/p306-307

『老子』 その思想を読み尽くす (講談社学術文庫)

『老子』 その思想を読み尽くす (講談社学術文庫)

簡単にまとめると、上の引用では「有為」とされるものをまず「領域」と「程度」に分けられる。

「領域」は「広義の倫理」と「政治」に分けられる。

「程度」は「通常以下の些少な人為」は「無為」にカウントされ、それ以上は「有為」となる。

引用部分の後を読み進めて、もう少し詳しく見ていこう。

程度の問題 = 「無為」と「有為」の境界の問題

まず先に程度の問題から片付けよう。

老子』第63章に以下の文句がある。

爲無爲。事無事。味無味、大小多少。報怨以徳。
圖難乎〔其易也、爲大乎其細也〕。
天下之難作於易、天下之大作於細。
是以聖人終不爲大、故能〔成其大。夫輕若必寡信、多易〕必多難。
是〔以聖人〕猶難之、故終於無難。

現代語訳文
一切の人為を排した無為を為し、全く無事を行い、全然、味のしない無味を味わうことを通じて根源的な道の立場を確立しながら、大であれ小であれ多であれ少であれどんな事態に立ち至ろうと、他人から怨みの仕打ちを受けることがあった場合でも徳(道の働き)でもって応ずるがよい。
徳でもって応ずるとはどういうことかと言えば、この世の中に生気する難しい事業に対しては、〔その易しい萌芽の状態〕において対策を考え、〔大きな事業に対しては、小さな前兆の段階において対策を施すのである〕。
なぜなら、天下のあらゆる難事はいずれも易しい萌芽状態から生起し、天下のあらゆる大事はいずれも小さな前兆段階から発生するからだ。こういうわけで、理想的な人物たる聖人は最後まで大きな事業を為そうとしないが、だからこそ〔大きな事業を成し遂げる〕ことができるのである。
〔一体、軽々しく安請け合いする者は、必ず信実に乏しいものであり、たやすいと甘く見ることが多い者は〕、必ず多くの困難に陥るものだ。こういう〔わけで、理想的な人物たる聖人〕でさえ事態を難しく考えて取り組むのだが、そうであればこそ彼は最後まで困難に陥らないのである。

出典:池田氏/p837-838(一部改変)

私なりに言い換えると、
「道」を体得した聖人は、大きな難事に成り得る物事を萌芽状態の時に見つけ出して処理してしまうため、大難事に取り組むことは無い。だから聖人は難事に妨げられることなく発展し続けることができ、大きな事業を成し遂げることができるのである。

そういわけで、程度の問題 、つまり 「無為」と「有為」の境界の問題について以下のようにしておこう。

大きな事業(大難事)に取り組むことを「有為」とし、大難事に成り得る物事を小事のうちに処理することは「無為」にカウントする、と池田氏は説明する(p311-313)。小事を処理する様(さま)は、傍(はた)からは「何もしていない」ように見えることだろう。

この第63章を理解すれば、大事を為して誇る者を『老子』が褒めない理由も理解できる。



道家(6)老子( 『老子』は「無」を重要視する)

最終目的は「無為自然」が何なのかを書くことだが、段階を追って書いていく。

この記事では「無」について。

老子』の「無」への言及

三十本の輻(や)を轂(こしき)に差し込んで車輪を作る。轂のなかが虚(うつ)ろになっているからこそ、輪として使えるのである。粘土をこねて焼き物を作る。なかが虚ろだからこそ、物を容れることができるのである。戸口や窓をくりぬいて部屋を作る。なかが虚ろだからこそ、部屋として使えるのである。

このように物が役立っているのは、虚ろの部分、すなわち「無」の働きがあるからである。

出典:守屋洋/世界最高の人生哲学 老子/SBクリエイティブ/2016/p94-95

上が『老子』に書いてある「無」の効用である。

しかしこの説明は「無」というより意図を持って作られた「空(空間)」であって無用どころか必用(必要)なものだ。

そんなわけで『老子』の説く「無」は人工の有用の「無」なのかと思えば、守屋氏の解説を読むとそうではなく、「無用の用」(役に立たないと思われているものが、実際は大きな役割を果たしているということ) *1 を説明しようとしているらしい。

「無用の用」は『荘子』の思想

保立道久氏によれば、「無用の用」は むしろ『荘子』の思想だそうだ。 *2荘子』の「無用の用」に言及している箇所を紹介しているウェブページがあるが (ここをクリック*3 まあたくさんある。

荘子』の「無用の用」の中の主張の一つは「馬鹿とハサミは使いよう」のように「使いみちを考えればいくらでもある。使えないと言うのは使う人が無能なのだ」。(←ヒサゴの話)。

もう一つ挙げると「ある人が無用と思う物が、別の人にとって有用だということがある」(←やしろの神木のはなし)(以上2つは上のウェブページ参照)。

ここでは やしろの神木の話を手短かに書いておく。『荘子』人間世篇から*4

斉の国のある所に櫟(くぬぎ)の大木が神木として祀られていた。そこに他所から来たある棟梁が通りかかったが、目もくれず通り過ぎてしまった。
弟子たちは棟梁に「何故あんな立派な大木をひと目でも見ないのか」と問うた。 すると棟梁は「くぬぎは舟を作れば沈んでしまうし、棺桶を作ればすぐに腐ってしまう。あんなに成長したのは無用だったからだろう」と言い返した。
その夜、棟梁の夢に神木の霊が現れて曰く「有用であろうとした木はその有用さ故に人間に切り倒されて寿命を縮めてしまった。私は人間にとって無用であることを一貫して努めてきたから、ついにそうなりきることができたのだ」。

再び『老子』の中の「無」へ

人々に否定的に捉えられいる物事でも、見方を変えれば有用だということについては『老子』は言及している(第22章)。

曲がっているからこそ生命を全うすることができる。屈しているからこそ伸びることができる。窪んでいるからこそ水を満たすことができる。古びているからこそ新しい生命を宿すことができる。所有するものが少なければ得るものが多く、所有するものが多ければたちまち惑いが生じる。

「道」を体得した人物は、ひたすら「道」を守ることによって、理想の指導者になる。

自分を是としないから、かえって人から認められる。自分を誇示しないから、かえって人から立てられる。自分の功績を誇らないから、かえって人から称えられる。自分の才能を鼻にかけないから、かえって人から尊ばれる。人と争おうとしないから、争いを仕掛けてくる者もいない。

古人も「曲なれば全(まった)し」と語っているが、まったくそのとおりである。我が身を全うして「道」に帰ろうではないか。

出典:守屋氏/p101

また「柔弱」を以て「堅強」に勝つこと*5も、「無用の用」の思想に通じているだろう。

このような思想は『老子』を戦略書として読む時、「弱者が強者を破るのに必用な実践的な方策を提案」している書だ、と戦略学者のデレク・ユアン氏は書いている(真説 孫子中央公論新社/2016(原著は2014年出版)/p92)。



*1:無用の用 - 故事ことわざ辞典

*2:保立道久/現代語訳 老子ちくま新書/2018/p355

*3:荘子に見られる「無用の用」の話

*4:守屋氏(p95-96)参照

*5:老子』七十八章

道家(5)老子(『老子』=『道徳経』における「徳」とは何か)

前回と対になる記事。

前回は「道」について書いたので、今回は「徳」について。

「徳」について

儒学でいう「道徳」の中心は「道」であるそこでは「道」が「為すべきこと」であって、「徳」はそれを担う品性という二次的な意味となり、「道徳」という言葉は「為すべきこと」=規範そのものに近い意味になる。それは「仁」であり、「礼」という外面的な規律に表現される。これに対して、老子のいう「道徳」では、「道」は、そのような規範ではなく、この世界の運動を規定する目に見えない法則・本質であり、「徳」はその本質の用(はたら)きであり、勢いである。ただ、「徳」は「道」の「用き」「勢い」であるといっても、老子は本質だけが重要だという考え方をとらない。「徳」と「道」は表裏一体となっている。[中略]

「道」は道理や法則であるが、「徳」は時間のかかる実践であり、生育であり、安定的でしかも柔軟な動きそのものである。[以下略]

出典:保立道久/現代語訳 老子ちくま新書/2018/p229

現代語訳 老子 (ちくま新書)

現代語訳 老子 (ちくま新書)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2018/08/06
  • メディア: 新書

上の著書によれば、「徳」という漢字は実際に「はたらき」「いきおい」と読む。(p230-231)

「はたらき」と言っても、ただの勢いではなく、「善いはたらき」という意味。ただし「善いはたらき」と言っても、ただの善行ではなく、「常同的ないきおいをもった善いはたらき」である。

また、「いきおい」については、「他者への影響力をもつような卓越した心」を意味する *1。周代の鼎の金文に刻された「徳」の意味は「ある家系が王権との関係を通して持っている生命力」を意味することが明らかになっている *2

さらに、著者は「徳」の漢字の意味のまとめとして、英語を使って説明している(p232)。すなわち「善」が Virtue で「徳」は Virtue + Power 。Power は単発的な力ではなく、常同的ないきおいである。

「徳」の重要性

さて、『老子』では「道」のすごさ・素晴らしさを何度となく書いているが、それらの中の「道」のはたらきの部分が「徳」となる。

老子』が為政者の教訓・心得ならば、為政者への理想は「道」であり、「徳」は『老子』の著者たちが為政者に求めるものとなる。

そういうわけだから、つかみどころのない「道」が何なのかを理解しようとするよりも、実は「徳」を理解するほうが重要なのかも知れない。



*1:これについて著者は白川静『字統』を参照している

*2:これについては小南一郎『古代中国 天命と青銅器』を参照にしている