歴史の世界

道家(6)老子( 『老子』は「無」を重要視する)

最終目的は「無為自然」が何なのかを書くことだが、段階を追って書いていく。

この記事では「無」について。

老子』の「無」への言及

三十本の輻(や)を轂(こしき)に差し込んで車輪を作る。轂のなかが虚(うつ)ろになっているからこそ、輪として使えるのである。粘土をこねて焼き物を作る。なかが虚ろだからこそ、物を容れることができるのである。戸口や窓をくりぬいて部屋を作る。なかが虚ろだからこそ、部屋として使えるのである。

このように物が役立っているのは、虚ろの部分、すなわち「無」の働きがあるからである。

出典:守屋洋/世界最高の人生哲学 老子/SBクリエイティブ/2016/p94-95

上が『老子』に書いてある「無」の効用である。

しかしこの説明は「無」というより意図を持って作られた「空(空間)」であって無用どころか必用(必要)なものだ。

そんなわけで『老子』の説く「無」は人工の有用の「無」なのかと思えば、守屋氏の解説を読むとそうではなく、「無用の用」(役に立たないと思われているものが、実際は大きな役割を果たしているということ) *1 を説明しようとしているらしい。

「無用の用」は『荘子』の思想

保立道久氏によれば、「無用の用」は むしろ『荘子』の思想だそうだ。 *2荘子』の「無用の用」に言及している箇所を紹介しているウェブページがあるが (ここをクリック*3 まあたくさんある。

荘子』の「無用の用」の中の主張の一つは「馬鹿とハサミは使いよう」のように「使いみちを考えればいくらでもある。使えないと言うのは使う人が無能なのだ」。(←ヒサゴの話)。

もう一つ挙げると「ある人が無用と思う物が、別の人にとって有用だということがある」(←やしろの神木のはなし)(以上2つは上のウェブページ参照)。

ここでは やしろの神木の話を手短かに書いておく。『荘子』人間世篇から*4

斉の国のある所に櫟(くぬぎ)の大木が神木として祀られていた。そこに他所から来たある棟梁が通りかかったが、目もくれず通り過ぎてしまった。
弟子たちは棟梁に「何故あんな立派な大木をひと目でも見ないのか」と問うた。 すると棟梁は「くぬぎは舟を作れば沈んでしまうし、棺桶を作ればすぐに腐ってしまう。あんなに成長したのは無用だったからだろう」と言い返した。
その夜、棟梁の夢に神木の霊が現れて曰く「有用であろうとした木はその有用さ故に人間に切り倒されて寿命を縮めてしまった。私は人間にとって無用であることを一貫して努めてきたから、ついにそうなりきることができたのだ」。

再び『老子』の中の「無」へ

人々に否定的に捉えられいる物事でも、見方を変えれば有用だということについては『老子』は言及している(第22章)。

曲がっているからこそ生命を全うすることができる。屈しているからこそ伸びることができる。窪んでいるからこそ水を満たすことができる。古びているからこそ新しい生命を宿すことができる。所有するものが少なければ得るものが多く、所有するものが多ければたちまち惑いが生じる。

「道」を体得した人物は、ひたすら「道」を守ることによって、理想の指導者になる。

自分を是としないから、かえって人から認められる。自分を誇示しないから、かえって人から立てられる。自分の功績を誇らないから、かえって人から称えられる。自分の才能を鼻にかけないから、かえって人から尊ばれる。人と争おうとしないから、争いを仕掛けてくる者もいない。

古人も「曲なれば全(まった)し」と語っているが、まったくそのとおりである。我が身を全うして「道」に帰ろうではないか。

出典:守屋氏/p101

また「柔弱」を以て「堅強」に勝つこと*5も、「無用の用」の思想に通じているだろう。

このような思想は『老子』を戦略書として読む時、「弱者が強者を破るのに必用な実践的な方策を提案」している書だ、と戦略学者のデレク・ユアン氏は書いている(真説 孫子中央公論新社/2016(原著は2014年出版)/p92)。



*1:無用の用 - 故事ことわざ辞典

*2:保立道久/現代語訳 老子ちくま新書/2018/p355

*3:荘子に見られる「無用の用」の話

*4:守屋氏(p95-96)参照

*5:老子』七十八章