歴史の世界

春秋時代⑥ 呉と越

前6世紀末になると春秋時代もいよいよ終わりに近づく。

この頃、晋の内部では権力争いが繰り広げられ、その間隙をついて楚は北侵を度々するのだが、その楚も呉からの度々の攻撃に手を焼くようになった。

楚が脅威では無くなり、晋が頼りにならなくなる状況で、晋による覇者体制は崩壊する*1

これと入れ替わるように、春秋時代末期は、呉と越の時代になる。

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春秋時代の諸国

出典:春秋時代 - Wikipedia

呉と闔閭と夫差

闔閭より前の史実はよく分からない。

昭王 (楚) - Wikipedia」によれば、昭王(在位:前516-489年)の代には「東方の呉による連年の侵攻に悩まされるようになった」とある。

この頃の呉の君主は呉王・闔閭(前514-496年)だ。闔閭は前506年の柏挙の戦いで楚の王都である郢を陥落するほどの大勝をした。しかし闔閭は前496年の越との戦いで負傷し、これが元で死去した。

父・闔閭を継いだ夫差(前495-473年)は前494年に越を攻め大勝し先代の雪辱を果たし、越を属国とした。この後、夫差は中原の方へ関心を向け、覇者になることを目指した。前482年、諸侯を集めて会盟を開いていた時、越が呉に攻め込んで太子・友を捕虜としたが、その後、処刑した。

この4年後(前473年)、呉は越に滅ぼされる。

越と句践

南方の長江流域の百越に属する民族を主体に建設されたと言われる(越 - Wikipedia )。

越が歴史に登場してくるのは允常(?-前496年)の頃で、呉が楚に侵攻している隙に呉に侵攻を繰り返していたようだ。

越と呉の抗争は以上の通り。呉を滅ぼしたのが、允常を継いだ句践(前496-465年)だ。呉滅亡の後、句践は諸侯を集めて会盟を行い覇を唱えた。

ただしその後の記録がほとんど残っていない。句践の代より既に越の衰退は始めっていたとあるようだが、詳しい越の歴史は分からないままだ。

戦国時代に入り、越は前333年、楚の威王により滅ぼされた。

時代の変化の過渡期

冒頭で書いたように晋による覇者体制が崩れ、晋だけでなく、他の諸侯国の内部でも、上級貴族による権力争いが頻発していた。春秋時代を通して有った秩序が崩壊し始めた頃、呉越の活躍が突如として現れた。言い方は悪いが、呉越の活躍は横綱大関不在の場所での平幕優勝レベルの話だったのかもしれない。



呉越の戦いの物語は大変魅力的で、幾つもの小説になっている。この物語より、臥薪嘗胆や呉越同舟、「会稽の恥を雪ぐ」などの故事が残っている。「狡兎死して走狗烹られ、高鳥尽きて良弓蔵(かく)る」は韓信の言葉だと思ったが、韓信の元ネタは越の軍人であった范蠡のセリフだった。

物語の登場人物も魅力的だ。呉の伍子胥孫武、越の范蠡と傾国の美女・西施。西施の描き方は作家の腕の見せ所だろう。

ただし、この物語から史実部分だけを抽出すると、歴史として語ることが少ない。


*1:前506年の召陵の会・皐鼬の盟以降、諸侯は会盟を行わなくなった

春秋時代⑤ 楚と秦

前回は晋の文公、前々回は斉の桓公について書いた。この二人は春秋五覇に数えられている。

今回は、春秋五覇のうち、楚の荘王と秦の穆公(繆公)について書く。

ちなみに、春秋五覇に挙げられている宋の襄公については前々回に簡単に書いた。

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春秋時代の諸国

出典:春秋時代 - Wikipedia

前置き

覇者については「春秋時代② 覇者とはなにか/「五覇」とはなにか」で書いた。

落合淳思『古代中国の虚像と実像』*1によれば、覇者の「覇」は本来は「伯」であり、「諸侯の長」を意味していた。覇者の本来の意味は、中原(西周の領域≒華北)の「諸侯の長」であり、周王朝のお墨付きが必要であり、そして(形式上であれ)勤王・尊王の諸侯でなければならなかった。

本来の覇者に当てはまるのは五覇の内では斉桓公と晋文公の二人で、文公の後、覇者の地位は晋の君主に世襲された(上の記事参照)。

ただし後世の識者が五覇を「春秋時代に軍事的に強かったベスト5」くらいの意味で考えていたらしく、この意味での五覇に複数の識者が名を挙げたのは8人だった。この8人の中には斉桓公と晋文公が含まれ、本来の覇者になろうとしてなれなかった宋の襄公も、何故か含まれている。

以下に楚と秦について書いていく

楚と荘王

楚については周原甲骨に言及されている。周原甲骨とは西周王朝誕生前後の周原(関中、渭河流域)で銘記された甲骨文字のことだ。つまり、楚は周王朝には初期の頃から認知されていた。そして西周第4代・昭王の南征の標的のひとつに楚が挙げられている。

西周後半では楚の君主が作成させたとされる青銅器が出土している。青銅器には「楚公」と銘記されているが、周王朝が認めたのか自称したのかは分からない。

春秋時代に入って、『史記』楚世家によれば、楚の君主の熊徹(在位:前741-前690年)が周王朝に楚公として認めるように頼んだが拒否されたため王を称するようになったという(武王 (楚) - Wikipedia )。

武王の頃には既に中原(黄河流域)への北侵をしていた(その前は分からない)。

武王から3代後が成王(斉の桓公、宋の襄公、晋の文公と同時代人だった)。

成王の2代後が荘王となる。

荘王について簡単にまとめられた文章を引用する。

荘王は、陳の内乱に乗じて一時併合し、鄭を攻めて陳とともに属国化した。前597年、鄭の支援に晋が大軍を送ると、荘王は邲の戦いで晋を大破した。これ以降、晋は、秦・斉との抗争もあって、その影響力を失っていく。勢いに乗った楚は、中原諸侯への影響力を確実に拡大し、楚と晋の間で揺れ動く鄭だけでなく、一貫して楚に対抗してきた宋・魯・衛・陳など中原の主要国をその影響下に収めていった。

出典:渡邉義浩/春秋戦国/歴史新書/2018/p52

陳の内乱とは夏徴舒の乱のこと。「夏徴舒 - Wikipedia」参照。

「楚と晋の間で揺れ動く鄭」について。鄭は北の晋と南の楚に挟まれて戦場になりやすかった。一方につけば他方に攻められるのだが、晋と楚のそれぞれの国で御家騒動やら後継者争いがあり、また君主の力量も代わるので両者の優劣が何度となく逆転する中、鄭は一方を裏切って他方につくことを繰り返さなければならなかった。*2

さて、前597年の邲の戦いで晋を大破したことで、覇権は晋から楚に移った。この状態は荘王が死ぬまでは続いたが、次の代で楚の覇権は終わる。

前591年、荘王が薨去する。子の共王は、楚の盟下にある許が鄭に攻められるので、鄭を討ち、これを降した。これに対して、前575年、晋の厲公は衛・斉・魯・を従えて鄭を攻撃、鄭が楚に助けを求めて、楚と晋による鄢陵の戦いが行われた。楚は晋に破れたが、晋の厲公も増長して殺される。それでも、厲公ののち即位した晋の悼公は賢者を任用し、中原の秩序を維持した。しかし、その死後、晋も楚と同様に混乱が続き、そうしたなか、呉・越が台頭するのである。

出典:渡邉氏/p52

秦と穆公(繆公)

西周後半期の金文(出土した青銅器に刻銘された文)で、虎臣(こしん)すなわち周王の近衛兵にあたる集団のひとつとして「秦夷」「戍(じゅ)秦人」という名称がみられ、これより秦が近衛兵を供給する役割を負わされていたことが分かる。(佐藤信弥/周/中公新書/2016/p189-181)

秦の故地は関中の西の甘粛省あたりで、おそらく遊牧か牧畜を中心とした生活をしていた集団だった。周王朝に服属していたが、中原の文化の外にあったのだろう。

それが周の東遷(西周の滅亡)により、秦は空白化した関中平原に入り、諸侯として自立し、中原の文化を受容した*3。ただし何時 周王朝に認められたのかは分からない。

金文で秦と周王朝の交渉が認められる最古のものは「秦公及(および)王姫鐘」の銘文で、春秋時代前半の憲公(前715-704)の時期のもので、憲公の子の出子とその母「王姫」(周王朝から嫁いだ姫姓の女性)が制作したものとされる。*4

さて、穆公の話に移る(穆公は繆公とも書かれる)。

穆公は在位前659-621年の時代の人で、晋の文公を君主の座に就かせた人物だ。

穆公は晋文公が亡くなった直後(前627年)に中原に侵攻したが、文公の後継の襄公に大敗した(殽の戦い)。前624年に再び晋と戦って戦勝したものの(王官の戦い)、それ以上中原に執着することはしなかった(後代の話になるが、秦では早世する君主が続き、そのことも秦がなかなか興隆できず中原の覇権をかけた戦いに参与できなったという事情もあるようだ*5 )。

穆公の代の宰相は百里奚(ひゃくり けい)で、穆公と同等に重要人物だ。

両者の下、秦は周辺の小国を次々と服属させ、西の果てに位置する未開の小国に過ぎなかった秦を大国晋にも匹敵する一大強国へと育て上げた((康公 (秦) - Wikipedia)。

渡邉義浩氏は穆公(繆公)を「西戎の覇者」と評している(渡邉義浩/春秋戦国/歴史新書/2018/p54、57)



*1:講談社現代新書/2009/p74

*2:穆公 (鄭) - Wikipedia 参照

*3:佐藤氏/p181

*4:国史 上/昭和堂/2016/p45(吉本道雅氏の筆)

*5:康公 (秦) - Wikipedia

春秋時代④ 晋の文公/晋による覇者体制

前回、楚の成王が宋の襄公を破ったことまで書いた。

今回は晋の文公の話を書こう。

文公は、前回書いた楚の成王を打ち負かして覇者になった。

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春秋時代の諸国

出典:春秋時代 - Wikipedia

晋の文公

晋の起源は、西周第2代成王の弟・唐叔虞が成王に封建されたことに始まる。

晋と周王朝西周後期の頃には すでに親密であった。西周の厲王が畿内の大貴族に攻められて逃げた先が晋で、幽王の死後、平王を戴いて携王を討ち倒したのは晋・文侯だった(文「公」とは別人)。西周代後期と春秋時代初期の周王朝と晋の動きを見ると、晋が大国であると認められていたことが分かる。

文公が即位するまでに晋ではお家騒動があり、太子だった文公(重耳)は亡命しなくてはならなかった。重耳の苦難の逃亡生活から即位までの物語は『史記』晋世家に詳しく書かれている。この物語は小説『重耳』(宮城谷昌光著)が有名だ。

重耳(上) (講談社文庫)

重耳(上) (講談社文庫)

宋の襄公が楚の成王に敗北した翌年に死去したことは前回書いたが、襄公を継いだ成公は楚成王と和睦した(前636年)。しかし、前634年、宋が楚との講和を破棄したため、前633年、楚・陳・蔡・鄭・許が宋を包囲した。前632年、晋の文公が曹・衛を攻撃すると、宋の包囲は解けた。

晋の文公を覇者として認められた契機となったことで有名な城濮の戦い(前632年)はこの後に起こるのだが、「城濮の戦い - Wikipedia」を読むと、この戦い以前の晋の外交により楚の劣勢が決していたようだ。

戦後、鄭の領域内にある践土という場所で王宮を作り、ここに周の襄王を招いて、諸侯と会盟した。襄王は文公に侯伯すなわち覇者を任命した。この任命は西周後期の冊命儀礼に準じる儀礼をもって行われた。これは周王朝の権威と晋の勤王を表すパフォーマンスだった。(佐藤信弥/周/中公新書/2016/p163)

晋による覇者体制

文公は覇者体制を確立し、その任務と権益は世襲され、前506年まで続いた。

以下のように、佐藤氏は吉本道雄氏の「覇者体制」の見解を紹介している。

晋による覇者体制について、吉本氏は主に『左伝』の記述にもとづいて以下のように解説する。

会盟は晋と同盟諸侯国との協議の場であった。その開催の目的は、同盟の維持・更新、同盟離反国への共同制裁、同盟国同士の交戦の禁止、や他国からの亡命者受け入れの禁止など同盟内の平和維持、同盟外からの攻撃に対する共同防衛、同盟国における内紛の調停、同盟国の災害の援助などを協議決定することにあり、基本的に同盟及び同盟国の保全を目的として行われるものであった。

斉の桓公の覇権が洛邑より東に偏っていたのに対し、晋の覇権は晋国自体が西方に位置していることから、洛邑を中心とする中原全体に及んでいる。ただし当方の斉は早々に晋の覇権から離脱し、晋よりさらに西方の秦にも覇権が及んでいない。城濮の戦いで矛を交えた楚は無論覇権の範囲外である。

そして同盟国には、会盟の参加、軍役など会盟での決定事項の履行、勤王、そして晋への朝聘(ちょうへい)・貢納といった義務が課された。

出典:佐藤信弥/周/中公新書/2016/p164-165

朝聘とは要するにご機嫌伺いに晋へ赴けということ。晋への貢納が重いことは「春秋戦国:春秋時代② 覇者とはなにか/「五覇」とはなにか#覇者体制:覇者と同盟の実態」で触れた。

斉や秦など自立できるほどの大国は晋の影響下に入ることを拒否したが、中小諸侯国は体制に入会しなければ「覇者体制連合軍」に攻め滅ぼされるので、選択肢は無い。

しかし中小諸侯国は体制に入っていれば攻め滅ぼされる恐れは無くなるというわけでもなかった。晋の国内で御家騒動が起これば、すかさず楚が中小諸国に襲いかかってきたし、楚で荘王のような傑物が現れるとまた攻め込んできた。晋の覇者体制が続いていた時期も、中小国は楚の支配下に入らなければならなかったことも複数回あったようだ。さらには、ひらせたかお氏によれば、晋自体が近隣の小国を滅ぼして領土を拡大していた*1

吉本氏によれば、前597年に楚の荘王が邲の戦いにおいて晋を大敗させたが、前589年に鞌で斉を、前575年に鄢陵の戦いで楚を破った。(中国史 上/昭和堂/2016/p46)

渡邉義浩氏は邲の戦いによって覇権は晋から楚へ移ったとしているように、晋による覇者体制が前506年まで「なにごともなく続いた」わけではない。

前546年に弭兵の会が催された。晋・楚の間で和議がなった。これにより仮想敵国が無くなり同盟の存在意義が喪失した。これを起因として国家間秩序の弛緩と共に、各国国内の秩序も不安定化した。

前506年に、蔡が楚の侵攻を受け、救援を要請すると、晋を盟主とする召陵の会・皐鼬の盟が為された。しかし軍事行動は起こさなかった(同年、楚は呉と戦って大敗した--柏挙の戦い)。これ以降 会盟は開かれず、同盟から諸侯たちが次々と離脱し、「覇者体制」は崩壊した。

年表

前632年 城濮の戦い。晋文公の連合軍が楚成王の連合軍を破る。戦勝後、践土(現在の河南省新郷市原陽県)で会盟を行い、この場で周襄王より侯伯すなわち覇者に任じられた。文公以後、覇者の地位は晋の君主に世襲されることになる。
前597年 楚の荘王が邲の戦いにおいて晋を大敗させる。
前575年 晋が鄢陵の戦いで楚を破る。
前546年 弭兵の会。
前506年 蔡が楚の侵攻を受け、救援を要請すると、晋を盟主とする召陵の会・皐鼬の盟が為された。しかし軍事行動は起こさなかった。これより先、覇者体制は崩壊していく。
同年 柏挙の戦い。楚は呉と戦って大敗した。

*1:世界歴史大系 中国史1/山川出版社/p237(ひらせたかお氏の筆) 

春秋時代③ 斉の桓公/宋の襄公/楚の成王

さて、歴史の流れを書いていこう。

今回から覇者の時代について書いていく。トップバッターは斉の桓公だ。

前回書いたように、本来の「覇者」の意味は「諸侯の長」であり、同盟国諸国のリーダーの意味だった。しかし後に「覇者」は単に軍事的に強い者を意味するようになったので「五覇」と呼ばれる諸侯は春秋時代における「軍事的に強い者ベスト5」くらいの意味でしかない。

本来の「覇者」は斉の桓公、晋の文公を意味する。

最後に年表を付けた。

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春秋時代の諸国

出典:春秋時代 - Wikipedia

斉の桓公

斉国は古く、太公望呂尚が封建されたことから始まるとされる。姜姓呂氏。

『左伝』(春秋左氏伝)によれば、前701年に悪曹(おそう)の盟がおこなわれ、この地で斉・衛・鄭・宋が同盟を結んだ。この頃の斉の君主は僖公で、「小伯(小覇)」と呼ばれた鄭・荘公と同時代の人物だ。

また、『国語』鄭語では「斉の荘公と僖公はそこで小伯となった」とある。斉・荘公は僖公の先代のこと。つまり、この2人は鄭の荘公と同じ時期に小伯と呼ばれていたようだ。(以上、佐藤信弥/周/中公新書/2016/p152-153)

斉は桓公代の宰相・管仲の富国強兵政策により大国になったというイメージがあるが、その前から有力諸侯の一つだったようだ。

ちなみに、僖公は第13代で桓公は第16代。そして僖公は桓公の父だ。桓公の先代・先々代に御家騒動があった(桓公 (斉) - Wikipedia 参照)。

桓公が覇者となったのは、前679年の鄄の会でのことだった。斉・宋・陳・衛・鄭が鄄で会を行ったのは、南の楚からの北侵に苦しめられた諸侯たちが集まって同盟を結ぶためだった。ここで桓公は同盟の長(伯=覇)となった。同盟が結ばれた後も楚の北侵は行われたが、同盟は機能したようで、桓公の覇者の地位は保たれた。

桓公の覇者としての絶頂期は、前651年の葵丘の盟の時であった。

『左伝』僖公9年によれば、《(周)王は宰孔を派遣して斉侯に胙(ひもろぎ)を下賜させた。〔宰孔が〕言うには、「天使は文王・武王への祭祀を執り行われ、私(わたくし)孔に、伯舅〔斉侯〕へと胙を下賜させたのである」》。

「胙」とは祭祀に使われた供物(肉)のことで、これを与えることで、周王は周の領域内の諸侯を統括する役割を桓公に代行させた、とされている。*1

桓公はこの胙を受け取った。周王を尊重して、夷狄を討つという姿が「尊王攘夷」の語源らしい。

ただし、「尊王攘夷」について吉本道雅氏は次のように説明する。

桓公は後世から「尊王攘夷」の理想的覇者とされるが、王朝と頻繁な交渉をもつようになったのは、ようやく前655年以降のことであり、それも王太子鄭(周襄王。前651~前619)の請援を景気とするものであった。斉の覇権は洛陽以東に限定されており、王朝に対してはむしろ不干渉を基調とし、もっぱら淮水流域への進出を図った。

出典:中国史 上/昭和堂/p43(吉本道雅氏の筆)

淮水流域は楚と取り合っていた地域のこと。

桓公の死後(前643年)、斉国内で後継争いが起こり、覇者は桓公の一代限りで終わった。

「宋襄の仁」:宋の襄公と楚の成王

桓公の死後、覇者になろうとした人物が、「宋襄の仁」で有名な宋の襄公だ。

紀元前639年、宋国内の盂という場所で会を開いた。そこには宋の同盟国以外に楚とその同盟国も招待した。会合を襄公が主催することを快く思わなかった成王は襄公を拉致して宋を荒らし回った。これに対して宋や同盟国は成王をなだめることしかできず、襄公はその後釈放されたものの、襄公の面子を潰されたと同時に宋と楚の力量がはっきりと示された。

しかし、それでも襄公は諦めずに、汚名返上しようと楚に攻撃を仕掛ける。これを泓水の戦いという(前638年)。この戦いは中量級と重量級の戦いのようなもので、宋は楚に ものの見事に蹴散らされたようだ。

「宋襄の仁」とはこの時のエピソードだ。「左伝」によると、宰相が「まともに戦えば勝ち目はありません。楚軍が川を渡りきって陣を完成する前に攻撃しましょう」と進言した時、襄公が「君子は人が困っているときに更に困らせるようなことはしないものだ」と言ってこれを退けたという*2。ただし、落合淳思氏によれば、宋と楚の軍事力の差を指摘した後、「軍議の内容が公表されるはずもない。楚は黄河流域の諸国から野蛮視されていたが、その楚が勝ったため、後にこじつけた話が作られたのであろう」*3

吉本氏によれば、「前632年、楚は斉・宋以外の中原諸国を制圧していた」*4とある。中原諸国は以前に斉・桓公と同盟していた諸国のことだと思われる。

当時の楚の成王はこれほどの勢力を誇っていたが、覇者とみなされないのは、落合氏が書いているように「黄河流域の諸国から野蛮視されていた」からであろう。ちなみに宋の襄公は「五覇」の一人に挙げられている。

年表

前771年 周・幽王死去(西周滅亡)。
前771年 幽王の死後、平王が立つ(東周の始まり)。
前770年 携王立つ(二王並立)。
前750年 携王、晋文侯に殺害される(二王並立終わる)。
前739年 晋で昭侯(文侯の次代)が殺害され、晋の周王室における影響力を失う。鄭荘公が権力を独占する。
前707年 繻葛の戦い。鄭荘公が平王らを撃退する。後世の歴史家が荘公を「小覇」と呼んだ。
前701年 悪曹(おそう)の盟。斉・衛・鄭・宋が同盟を結ぶ。『国語』鄭語では この頃の斉の君主 僖公は小覇と呼ばれ、さらにその先代の荘公も小覇と呼ばれていた。
前701年 鄭荘公死去。次代より鄭は衰退する。
前679年 鄄の会。斉・宋・陳・衛・鄭が鄄で会する。斉桓公が初めて覇者と呼ばれるようになる。
前643年 桓公死去。斉で後継争いが始まり、斉の覇者は一代限りで終わる。
前639年 盂の会。宋の襄公が国内の盂で会合を開く。会を快く思っていなかった成王が襄公を拉致して、国内を荒らし回るという鼓動に出た。
前638年 泓水の戦い。宋襄公を盟主とする連合軍が楚成王に敗れる。襄公は敗戦後、翌年死去。



*1:佐藤氏/p158

*2:泓水の戦い - Wikipedia

*3:落合淳思/古代中国の虚像と実像/講談社現代新書/2009/p71

*4:p43

春秋時代② 覇者とはなにか/「五覇」とはなにか

前回、鄭荘公が小覇と呼ばれたことを書いたが、その次世代に当たる頃、斉の桓公が覇者と呼ばれるようになった。これが覇者の幕開けになる。

今回は歴史の流れに入る前に、覇者とは何かについて書いていこう。

覇者とはなにか

春秋時代には周王の政治的権力は衰え、それに代わって一部の諸侯が強大化し、同盟会議(会盟)を通して中小諸侯を支配するようになった。多数の中小諸侯を支配した大諸侯を「覇者」と呼ぶ。

「覇」という文字は、西周次代には月の満ち欠けを表していたが、春秋時代以降にはその意味では使われなくなり、代わりに同音の「伯」(「覇」は、古くは「伯」と同じ発音であった)の意味として用いられるようになった。「覇者」は「伯者」と同じ意味であり、諸侯の長を指す。

後に、「覇者」は単に軍事的に強い者を意味するように成り、さらに現代ではスポーツの勝者などにも使われるが、これらは意味が転じた用法である。

出典:落合淳思/古代中国の虚像と実像/講談社現代新書/2009/p74

どうして同盟が必要だったのか?それは共通の敵がいたからだ。楚である。

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春秋時代の諸国

出典:春秋時代 - Wikipedia

楚は西周の支配領域の外にあった勢力で、春秋時代に入ってから中原*1に進出していた。

これ対して諸侯たちが結束するために同盟が必要だった。

米ソ冷戦時代を思い起こして、ソ連と「楚」、アメリカと覇者、NATOと同盟を結びつければ、イメージしやすいだろう。

これに周王朝が覇者と認めることによって本来の「諸侯の長」としての覇者が成立する。そういうわけで、形の上だけでも勤王・尊王でなければならなかった。

この意味では征夷大将軍のイメージに近いかもしれない。

「五覇」とはなにか

「五覇」という言葉が初めて現れるのは、『孟子』である。しかし『孟子』には「五覇」がどの諸侯を指すのか書いていないので後世の史書などに幾つかのヴァリエーションができてしまい、落合氏によれば、五覇候補は8人いるとのことだ。

8人とは、斉桓公、晋文公、宋襄公、秦穆公、楚荘王、呉闔閭、呉夫差、越句践。

結局のところ、これらは「単に軍事的に強い者」を並べただけで、本来の意味の「多数の中小諸侯を支配した大諸侯」の意味ではない。「五覇」は「春秋時代に軍事的に強かったベスト5」くらいの意味しか無い。

それでは本来の意味での覇者は何人いたのだろう?

斉の桓公と晋の文公だけを指して「二伯」とする用語がある。どうしても覇者を数えたければ、「春秋の五覇」ではなく、「春秋の二伯」の方がよいだろう。

さらに言えば、晋の文公の子孫は、文公が確立した覇者の地位を継承しているが、覇者として挙げられていない。晋の文公以下、……合計11人にわたり、覇者として多くの諸侯を支配していた。

したがって、より厳密に春秋時代の覇者を数えると、斉の桓公に晋の11君をあわせた12人ということになる。

出典:落合氏/p81

周王朝は、斉桓公には葵丘の盟(前651年)で、晋文公には践土の会(前632年)に覇者であることを認めた*2

覇者体制:覇者と同盟の実態

山川出版社の『世界史(B)用語集』] をみると、「覇者」を次のように解説している。

覇者⑨ 春秋時代に「尊王攘夷」を掲げて、諸侯の同盟(会盟)を指導した有力諸侯のこと。

しかし、覇者の支配体制は、「指導」というような生易しいものではなかった。当時の同盟は、自由参加ではなく強制であり、離脱すると覇者により処罰された。

夏に公(魯の僖公)は、斉侯(斉の桓公)・宋公(宋の桓公)・陳(陳の宣公)・衛侯(衛の文公)・曹伯(曹の昭公)と鄭を攻撃した。諸侯が鄭を攻撃したのは、首止の盟(前年に行われた会盟)から逃げ帰ったからである。(『春秋』[中略] )

この例では、覇者である斉の桓公が主催する同盟会議から鄭が離脱したため、桓公から懲罰的な攻撃を受けている。また、鄭への攻撃に参加した魯・宋・陳・衛・曹についても、斉によって強制動員されたものである。

このように、覇者が中小諸侯を会盟に強制参加させて支配する体制のことを、「覇者体制」と呼ぶ。

出典:落合氏/p76-77

中小諸侯は覇者への貢納も義務付けれていて、諸侯たちはその重さに難儀したとのこと。この見返りとして、楚(またはその他の夷狄)からの攻撃に対しては、同盟国が迎撃することになっていた。

まあ、ヤ○ザの世界と同じだろう。ヤ○ザの世界でも脱会したりミカジメ料を払わない組は制裁を受ける。

尊王攘夷」についても、支配体制のために周王室の伝統的権威を利用しただけで、覇者が唱えたものでなく、後代の人がつけたスローガンだ、と落合氏は書いている(p76)。

史記』で英雄のように描かれていた覇者の実態はヤ○ザの親分のようなものだったという話。




ちなみに、現代の国際社会もヤ○ザの世界と変わりないようだ。国際法などがあっても「世界政府」なんて無いのだから刑罰を与えることができない。アメリカが世界の警察だというフィクションがあるが、アメリカが自身の国益にならないことをやるわけがない。やったら有権者を激怒させ、政権がたおれるだろう。

アメリカもえげつないことをやっているようだが、中国やロシアと比べたら だいぶマシなんだろうと思う。


*1:「中原」は時代により領域が異なるが、ここでは西周の支配領域であった華北を指す

*2:それぞれ、「春秋時代③ 斉の桓公/宋の襄公/楚の成王」と「春秋時代④ 晋の文公/晋による覇者体制」参照

春秋時代① 東遷/鄭の「小覇」

春秋時代と言えば、「春秋五覇」つまり「覇者の時代」だが、それに行き着くまでの前段階がある。滅亡から「覇者の時代」に行くつくまでに周王朝の「東遷」と鄭国の活躍(?)がある。

この記事では以上の2つを書き、次回から「覇者の時代」に移ろう。

東遷

周王朝の王都が鎬京(西安)から洛邑(洛陽)へ遷ったことを東遷と呼ぶ。

幽王の死後から以下に話す東遷までの混乱のおかげで周王室の権威・権力が失墜して中華の支配秩序が崩壊した。これより春秋時代に入るわけだ。つまり「西周」という時代はここで終わったという意味で「滅亡した」と言っている。ただし周王室自体は滅亡していなかった。

東遷まで顛末については諸説あって定まっていないが、ここでは『概説 中国史 上』*1から吉本道雅氏の説を基本にして書いていく。*2の第3章第2節「東遷は紀元前770年か」で詳しく紹介している。))

西周の滅亡直前に話を戻す。

西周 最後の王となる幽王が廃太子を行い、伯服(伯盤)を太子に立て、廃太子された宜臼(後の平王)は 同じく廃后された母・申后と共に申へ亡命した。申は申后の実家である。

史記』周本紀によれば、申后の父・申侯が犬戎と組んで幽王を攻め滅ぼしたとしているが、『繋年』(清華大学蔵戦国竹簡の一部)によれば、王室の跡目争いと犬戎の襲撃は別物だとしている。事実がどちらかは分からないが、いずれにしろ犬戎の襲撃により西周は滅亡した。

幽王の死後、申の地で宜臼が王に即位したが、虢公翰(畿内の大諸侯の一人)が王子余臣を王に立てた。携の地で即位したため携王と呼ばれる。

二王並立の中で、有力者である晋の文侯と鄭の武公が平王側についた。そして晋文侯が携王を討滅して周王室のお家騒動は終結した(ただし権威・権力はほぼゼロまで失墜した)。

しかし晋文侯の次の昭侯が殺され、今度は晋で御家騒動が起こった。晋侯がいなくなり、残った鄭公(鄭伯?)(武公の次代の荘公)が周王朝の権力を独占することとなる。

そして荘公は平王を鄭国の影響下にある王城(洛邑、洛陽)に遷した。

以上が東遷の顛末だ。

東遷後の周王朝の力量

平王は鄭荘公と虢公を卿士に任じて周王朝の再建を目指したが、平王の次代・桓王は鄭荘公と揉めて蔡、衛、陳と連合して鄭を攻撃したが撃退されてしまった(繻葛の戦い)*3

以上のように周王室の軍事力は皆無に近い状況でなぜ滅亡しなかったのかが不思議なくらいだが、春秋時代の各地の諸侯らは王室に少しばかりの権威を認めていたようだ。

(ある国が王室を滅亡させるとそのことが宣戦布告の大義名分になるので誰もやらなかっただけかもしれない。)

鄭の「小覇」:鄭荘公の強勢

鄭の初代は桓公という。桓公は宣王(幽王の先代)の同母弟(諱は友)で、幽王の代では司徒を勤めたという。桓公畿内に所領を与えられたのが鄭である。しかし周王室の没落を承けて現在の河南省新鄭市(鄭州市の一部)*4に東遷した。以後、この場所が鄭とよばれる。つまり鄭は(畿内の所領を持つ諸侯ではなく)諸侯国になった。

上で書いたように、荘公が繻葛の戦いの戦いで桓王が率いる軍を撃破するほどの強勢を誇った。後世の学者はこのさまを「小覇」と呼び、荘公を覇者のさきがけの存在とみなした。

しかし荘公の死後、鄭においても後継争いが起こって衰退していく。

佐藤信弥/周/中公新書/2016/p147-153 参照)

群雄割拠の時代へ

佐藤信弥『周』では繻葛の戦いまでの顛末で虢公についても書いている(p150-151)。虢は文王の弟虢仲・虢叔兄弟を始祖として畿内の有力者*5であり続けた。繻葛の戦いでも虢など畿内の有力者側が蔡、衛、陳の諸侯国を指揮する地位にあった。これは彼らが西周末まで それだけの権力を持っていたことの名残りといっていいかもしれない。しかしこの名残りも この戦いで消滅する。

周王朝の威光を笠に着て威張っていた虢のような畿内の有力者たちは早々に滅び、いよいよ弱肉強食の諸侯(国)が独自に動き出さなければいけない時代に突入する。



*1:昭和堂/2016/p39-40

*2:諸説については佐藤信弥氏が『中国古代史研究の最前線』((星海社/2018

*3:桓王 (周) - Wikipedia

*4:鄭は戦国時代まで存続した。「鄭州」という名はその名残りだろう。ただし「鄭州 - Wikipedia」によれば、「鄭州」という名がずっと使われていたということでもないようだ

*5:畿内の諸侯。『周』では邦君・諸正と書いている

春秋戦国時代とは/時代区分/資料について

春秋戦国時代/東周

前回で少し書いたが、ここでは少し詳しく書いていこう。

国史における春秋戦国時代西周代と秦代の間の時代。西周滅亡と秦帝国誕生(中華統一)の間の時代。

周王朝西周代後半より徐々に軍事力を失っていたが、最後の王・幽王が継承争いを起こしたため一気に全ての権力が崩壊した。周王朝はその後も存続するが、それまでの支配体制が崩壊したことをもって、西周が滅亡したとされている。

西周」「東周」というのは、東周の王都が鎬京(西周の王都)の東・洛邑(洛陽)に遷ったため、幽王までを西周と呼び、幽王の次の王・平王以降から東周と呼ぶことになっている。「西周」という用語は時代区分としても使われる一方で、「東周」は時代区分としてほとんど使われない。東周が存続した時代は春秋戦国時代という用語が使われる。こちらのほうが群雄割拠の様相をより正確に表しているからだ。「東周」など周王朝の存在すら知られていない程度の存在しかない。

春秋戦国時代の中の時代区分

春秋戦国時代は大きく2つに分かれる。「春秋時代」と「戦国時代」。

春秋時代:周王室の権威・権力の喪失後、諸侯国が覇権を争った時代。といっても周王室が まだ存続し、ほんの少しではあるが権威を持っていた(諸侯国が認めていた)ので、諸侯国の中の大国は統一を追求するよりも覇権を握った上で秩序を作ることを求めた(現代のアメリカのような位置を求めた)。また西周代の支配領域の外にあった楚・呉・越が勢力争いに加わってきたため、中華統一の時期はさらに遠のいた。

戦国時代:大国晋が魏・趙・韓に分裂し、「戦国七雄」と呼ばれる大国が相争う時代。春秋時代の秩序が色あせて弱肉強食むきだしの時代へ突入した。この中で秦が最後に中華統一を果たし、春秋戦国時代が幕を閉じる。

資料について

春秋戦国時代の研究者はどのような資料を扱うのか?

春秋時代の資料

春秋時代の主な資料は『春秋』と『春秋左氏伝』。

『春秋』は諸侯国・魯国の年次記録。信頼性は高いが年表のように簡素なもので、大雑把なことしかわからない。

いっぽう、『春秋左氏伝』は『春秋』に解説をつけたものだが、『春秋』の記述範囲を越えて各諸侯のことも詳しく書かれていて、研究者は重用しているようだ。。しかし、戦国時代前半期に作られたもので(『春秋』が書かれてから100年以上経っている)、しかもフィクションが混じっていて信頼性は『春秋』に劣る。*1

佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』(星海社/2018/p140-141)によれば、殷周代や戦国時代のような出土文献(甲骨文字・金文・竹簡など)が伝世文献(『春秋』『春秋左氏伝』のような受け継がれた文献)で作られた歴史に影響を及ぼすほどのものはないとのこと。

上の2つの伝世文献以外では『国語』が挙げられる。『国語』は春秋期の国別に説話を集めた文献。*2

もう一つは『竹書紀年』。戦国時代の魏国の年次記録。「竹書紀年 - Wikipedia」によれば、「西晋の279年に現在の河南省にあった魏の襄王の墓を盗掘した際に大量の文字を記した竹簡が出土し、整理した中の一つがこの本である」とのこと。

戦国時代の資料

戦国時代には、『春秋』『春秋左氏伝』ほどの信頼できる資料は無いとのこと。主に『史記』に頼っているようだ。

ひらせたかお氏によれば*3史記の記述を補う資料の第一のものとして『竹書紀年』を挙げている。

佐藤氏は出土文献を読まずに戦国時代は語れないとしている。戦国時代についての出土文献は竹簡(竹に書かれた書)と帛書(布に書かれた書)に書かれたものが墓から発見されたものだ。上述した本の第4章「統一帝国へ」の第1節と2節に詳しく紹介されている。これらの文献は諸子百家の書が主流だ。

落合氏によれば、「戦国時代の文献のなかで、内容が当時のものとして比較的信頼できるのは、『論語』『孟子』『荀子』『韓非子』である」。



次回から春秋時代の歴史に入る。


*1:以上、落合淳思『古代中国の虚像と実像』(講談社現代新書/2009/p60-62)参照

*2:佐藤氏/p141

*3:世界歴史大系 中国史1/山川出版社/p276